司馬遼太郎「空海の風景」の風景(その3)
四国での修行
前回(空海の風景の風景その2・参照)、一沙門から「虚空蔵求聞持法」を授かった空海は近畿一帯で修行をしますが思うような結果を得られません。そこで彼が次の行場として選んだのは故郷の四国でした。空海は大滝嶽・室戸岬と移動しながら修行し、あるとき衝撃的な体験をします。今回は司馬さんの取材時のエピソードも交えながら大学退学後の空海の姿を追って行きましょう。
四国へ渡る
「『いずれか、山林をもとめよ』という一沙門の教示にしたがって奈良の大学を出てゆくとき、性格によっては北方の艱難な自然を求めるであろう。たとえば越の立山は神霊のやどる山としてすでに知られた名山であったし、出羽の羽黒山にあっては厳峭に怪奇の霧が湧いているということも奈良あたりではすでに知られていた。しかし空海はゆかなかった。かれがおそらく北方の寒色にとざされた世界に孤影を沈めてゆくというぐあいの、物悲しさをともなった詩的趣味はもたなかったというのは、空海を知るうえで存外大事なことかもしれない。・・・・・・かれは決して北海の氷山に立つ人ではなくあくまでも暖流に似つかわしい人であった。」
上には「修験 羽黒山秋の峰」という映画の予告編動画を引用させていただきました。1分40秒ぐらいに登場するのが司馬さんのいう「怪奇の霧」でしょうか。
「やはり四国に渡ろう」と決意した空海は
「阿国大滝嶽に躋(のぼ)り攀(よ)ぢ
土州室戸崎に勤念す」
と「三教指帰」に記されています。
「三教指帰」と「御遺告」で空海が地名を上げている行場は大滝嶽と室戸崎の二ヵ所だけとのこと。
「十九歳の空海が四国に渡ってこの二ヵ所で修法をしたのはたしかであろう。」
とあります。
大滝嶽にて
「奇しき山はないか」
四国に渡った空海は土地の者に尋ねながら行場を探します。
「奇しきは大滝嶽こそ」
という情報を得た空海は、現在の阿南市西にある大滝嶽を目指しました。
出典:写真AC、太龍寺
https://www.photo-ac.com/main/detail/28634774&title=%E5%A4%AA%E9%BE%8D%E5%AF%BA
上には現在は四国八十八か所霊場の二十一番札所となっている太龍寺の舎心嶽(=大滝嶽)の写真を引用します。空海が100日間の修法をしたという山頂部には「求聞持修行大師像」が建立されていて、周辺の絶景を楽しんでいるようにも見えます。
室戸へのみちのり(星越峠)
空海は「大滝嶽」で一通りの修行をした後、さらに険しい場所を求めます。それは古くから「土佐は鬼国に候」と恐れられた土佐の尖端にある室戸岬でした。「空海の風景」では取材旅行時、司馬さんの乗ったタクシーの運転手・宮本富太郎老との会話なども挿入されています。ここでは昭和40年代に時代を移して、司馬さんからみた四国の風景を追ってみましょう。
「空海の風景」の記述によると徳島方面から現在の国道55号線をメインに室戸に向かったようです。太龍寺を経由したとすると、グーグルマップでのルートは以下のようになります。
「空海は、いまの徳島市域あたりから南下したように思われる。いまの阿南市までの道はたいらかで労がすくない。・・・・・・阿波の国中をくだってこの椿まで来れば冬でもにわかに気温が高くなる。」
宮本氏「奇態(けったい)な所だすやろ」
「老運転手は、この椿村をすぎたとき、毛糸のセーターをぬいだ。椿村から海を離れて山中に入り、星越という峠を上下するのだが、気温は厳密にはこの峠で境になっているらしく、峠をこえると季節はまだ冬ながらのぼせるほど温かくなった。」
上には近年の星越峠の写真を引用させていただきました。現在は下に星越トンネルが設けられているため利用する人はあまりいないようです。こちらの細い道を司馬さんはタクシーで通り抜けていきました。
室戸へのみちのり(日和佐の浦)
宮本氏「お大師さんのころ、人里はこの日和佐まででしたやろか」
「日和佐の浦は山と断崖にかこまれて、わずかに砂洲がひろがっている。そのきわどい平地に、潮風にさらされた低い屋根の陣かが密集し、目分量でざっと千戸ばかりあるかと思われた。十九歳の空海のころにも何戸か蜑の苫屋(とまや)があったに相違なく、浜では塩を焼くけむりが立っていたであろう。浜に出ると、港が小島を一つ抱いている。・・・・・・空海は山中からこの浦におりてきたとき、全身の毛穴が一時にひろがるような、安堵する思いをしたにちがいない。」
出典:美波町役場公式FACEBOOK、美波町 #日和佐 #四国の道 #大岩 #ハイキング #ウォーキング #トレイルランニング
https://www.facebook.com/photo.php?fbid=1454826904657641&id=129572253849786&set=a.129631753843836
上に引用させていただいたのは美波町(平成18年に日和佐町と由岐町が合併)にあるハイキングコースの「大岩」から撮影した写真です。司馬さんは写真の中央部に写る浜辺(大浜海岸)の周辺でタクシーから降ろしてもらい、しばらく小島(立島)を眺めていたかもしれません。
室戸へのみちのり(医王山薬王寺)
「日和佐に入ると、医王山薬王寺はちょうど縁日であった。石段を一段のぼるごとに一枚ずつ一円アルミ硬貨をおとしてゆく。齢の数だけおとすのだというが、異様な光景であった。・・・・・・日本史上もっとも形而上的な思考を持ち、それを一分のくるいもなく論理化する構成力に長けた観念主義者が、その歿後千二百年を経てなおこれらの人の群れを石段の上へひきあげつづけているのは空海の何がそうさせるのかということになれば、どうにも筆者が感じている空海像がこの浦の黄土色の砂の上から舞い上がり、乱気流のかなたで激しく変形してゆくような恐れをおさえきれない。・・・・・・」
出典:iPhone修理/カスタマイズパーツ販売…, CC BY 3.0
https://creativecommons.org/licenses/by/3.0, via Wikimedia Commonshttps://commons.wikimedia.org/wiki/File:%E5%BE%B3%E5%B3%B6%E7%9C%8C%E6%B5%B7%E9%83%A8%E9%83%A1%E7%BE%8E%E6%B3%A2%E7%94%BA_-_panoramio_(12).jpg
司馬さんが立ち寄った医王山薬王寺には女厄坂33段・男厄坂42段・還暦(男女)厄坂61段があり、厄落としのために一円玉を置いていく風習は今でも残っています。
室戸へのみちのり(日和佐からの山道)
「行旅の道すじは、日和佐からふたたび山中へ入ってしまう。地図で測ると、日和佐から室戸の最御埼まで六十キロとすこしにすぎないが、空海のころは二十日以上はかかったのではないかとおもえる。この若者は鎌と斧をたえず使って道をきりひらいて行ったのではあるまいか。海辺には食糧が多く、山中にあってはわずかに木の実を採ったり草を摘んだりする以外に飢えをしのぐことができない。ときに山頂から地勢を案じ、入江がありそうだと見れば何日もかかって海岸へ出たのではないかと思える。」
上には高知県安芸郡東洋町「ゴロゴロ休憩所」付近のストリートビューを引用させていただきました。海に面した断崖が延々と続いているのは空海の頃と同様と思われます。
「宍喰・野根からむこうは、いまでこそ海岸を道路が通っているが、当然ながら空海のころは道路がなく、二十五キロにわたる海岸は断崖の連続であり、激浪が黒い地の骨を洗ってとどろきつづけていた。・・・・・・しかも海岸でなく山中をさまよっていたはずのこの若者の形相というものはどうだったであろう。それを思うと、ふとそのころの空海がいまなお山中を歩きまわっているのではないかという妄念が湧いた。」
室戸岬に到着
「かれが室戸の尖端にせまり、ついに最御埼の岩盤に立ったときは、もはや天空にいる思いがしたであろう。この海底から隆起している鉄さび色の大岩盤は風にさらされてまろやかな背をもち、わずかに矮小な樹木の群れが岩を装飾しているにしてもそれらは逆毛立つように地を這っているにすぎず、まわりは天と水であり、それに配するに地の骨といったふうに、天地の三要素が純粋に露呈している抽象的世界のようでもある。」
出典:武市佐市郎 著『土佐の史蹟名勝』,日新館,昭12. 国立国会図書館デジタルコレクション https://dl.ndl.go.jp/pid/1172787 (参照 2024-10-24、一部抜粋)
https://dl.ndl.go.jp/pid/1172787/1/15
上には約1400万年前、マグマが地層に貫入してできたとされるビシャゴ岩(毘砂姑厳)の昭和初期の写真を引用しました。空海が居住した「御厨人窟(みくろど)」にも近くにあるので、空海や司馬さんも同様の景色を見ていたのではないでしょうか。
室戸岬での修行
「さらに露骨にいえば十九歳の空海は、文明の成熟の遅れた風土に存在しがちな巫人能力(超自然的な力に感応しやすい能力)を持っていたかと思われる。」
そして夜になると「岩の霊がにわかにそそり立ってかれをおどしたり」、「樹木の霊が炬(ひ)のような目をひらいてかれに迫ろうとしたり」、「峰そのものが黒いつばさをひろげて虚空に舞い立つというようなこともあったであろう」
そして「求聞持法」以外の密教をまだ知らなかった空海は
「ただひたすらに『求聞持法』に説かれている肉体と精神の所作によって山河の諸霊とたたかっていた」
とあります。
出典:Motokoka, CC BY-SA 4.0 https://creativecommons.org/licenses/by-sa/4.0, via Wikimedia Commons
https://commons.wikimedia.org/wiki/File:Mikurodo_cave,_Muroto_city_01.jpg
そして、
「やがて空海は風雨から身をまもるための洞窟を発見するにいたった。洞窟は断崖に左右二つうがたれており、奥は深い。むかって左は洞の天井から地下水の滲み出ることがややしげく、むかって右は洞内が乾いている。空海がこの洞窟をみつけたとき、『何者かが、自分を手厚くもてなしている』という実感があったのではないか」
上には空海が居住したと伝えられる御厨人窟(みくろど、左)と神明窟(しんめいくつ、右)の写真を引用しました。
出典:Dokudami, CC BY-SA 3.0 https://creativecommons.org/licenses/by-sa/3.0, via Wikimedia Commons
https://commons.wikimedia.org/wiki/File:Mikurodo%C9%A8.jpg
続いて空海が修行中に住居とした「御厨人窟」内からの写真も引用させていただきます。
「そのなかに入って洞口をみると、あたかも窓のようであり、窓いっぱいにうつっている外景といえば水平線に劃(画)された天と水しかない。・・・・・・空海をその後の空海たらしめるために重大であるのは、明星であった。天にあった明星がたしかに動いた。みるみる洞窟に近づき、洞内にとびこみ、やがてすさまじい衝撃とともに空海の口中に入ってしまった。」
釈迦仏教から密教へ
ここで再び司馬さんの取材のシーンとなります(中公新書・文庫版五章)。
「この章を書くほんの三時間ばかり前、私は大阪の肥後橋の食堂で、野菜をすりつぶしてカツレツ風に揚げたというあまり見なれない食べものを皿にのせ、すこしずつ切っては食っていたのだが、それとは何の脈絡もなく、不意に孔雀を見たいとおもい、立ってしまった。」
「孔雀さえ見れば、インドの何事かがわかるかもしれない」
と考えた司馬さんは大阪市内の天王寺動物園に向かいます。そこで待っていたのは下のような美しいインドクジャクでした(現在はインドクジャクは飼育していません)。
出典:写真AC、羽を広げた孔雀
https://www.photo-ac.com/main/detail/26032307&title=%E7%BE%BD%E3%82%92%E5%BA%83%E3%81%92%E3%81%9F%E5%AD%94%E9%9B%80
「孔雀は、悪食である。体が大きく、そのため多量の蛋白質をとる。毒蛇、毒蜘蛛なども容赦なく食ってしまうことに、ドラビダ人たちは仰天し、超能力をもった存在として偉大さを感じた。そこに『咒』が発生した。・・・・・・」
*注)ドラビダ人はインドの先住民のひとつ
さらに先住民を征服したアーリア人は抽象的な思考が得意な民族でした。かれらは孔雀のもつ「解毒性」を抽象化し、孔雀のような恰好をして印を結び、マントラを唱えることにより蛇や蜘蛛の毒はおろか、貪ることや怒ること、愚かしいことといった「精神の毒」も消滅できると考えます。そしてさらに「解毒性」をもつ孔雀は神格化され「孔雀明王」が成立したと司馬さんはいいます。
下には東京国立博物館が所蔵する孔雀明王の写真を引用させていただきました。
真言は「オン マユラ キランデイ ソワカ」とのことです。
出典:Tokyo National Museum, Public domain, via Wikimedia Commons
https://commons.wikimedia.org/wiki/File:Kujaku_Myoo.jpg
空海はインドの商人と同様、商利の追求を否定とした釈迦仏教でなく現世利益を肯定する「密教」に惹かれていきます。
「『われわれは釈迦では救われない。それどころか、釈迦はわれわれを委縮させるのみだ』と、公言するダイヤモンド商人もいたであろう」
「虚空蔵求聞持法」や「孔雀明王の呪法」などの「雑密(雑部密教)」といわれる密教の断片は、大日如来という「絶対的虚構」を設定することによって「純密(純粋密教)」として体系化されていきました。
後にそのことを知った空海は
「『純粋密教は釈迦教の一大発展形態ではないか』と、楽天的にそう考えるようになった。」
とあります。
旅行などの情報
大滝嶽
大滝嶽は南舎心嶽ともよばれ、空海が四国に渡って修行を開始した場所です。四国八十八か所霊場二十一番札所太龍寺の奥の院にあり、行場の山頂部には大師像が建立されています。札所のある太龍寺太龍寺ロープウェイ駅から南舎心嶽までは20分ほどの道のりですが、舗装されていない場所もあるので動きやすい服装や靴をご利用ください。
また、上に引用させていただいたようにロープウェイ周辺からの紅葉の景色も見事です。ほかにも桜やあじさいなど季節ごとの見どころもあるので、太龍寺ロープウェイのインスタグラムなどをチェックしてみてください。
基本情報
【住所】徳島県那賀郡那賀町和食郷字田野76
【アクセス】JR牟岐線桑野駅からバスに乗りかえ、那賀町和食東で下車(徒歩10分)
【参考URL】http://www.shikoku-cable.co.jp/tairyuji/
御厨人窟と神明窟
「御厨人窟」は室戸滞在中の空海が住み、悟りを開いた場所と伝えられ、中には五所神社があります。また、一説によると御厨人窟から見える空と海に感銘を受け「空海」と名乗ったことです。なお、隣接する「神明窟」は主に修行場所として使われていました。
上に引用させていただいた室戸市役所の公式動画のように、室戸岬には「乱礁遊歩道」という2.6kmほどの散策路が整備されています。周辺には空海開基とされる「最御崎寺」や「空海目洗いの池」といったゆかりのスポットがあり、「ビシャゴ岩」や「エボシ岩」といったスポットでは自然のパワーを感じられるでしょう。
基本情報
【住所】高知県室戸市室戸岬町3225-2
【アクセス】高知東部交通バス岬ホテル前で下車(徒歩3分)
【参考URL】https://www.muroto-kankou.com/search_spot/nature/s_17/