司馬遼太郎「空海の風景」の風景(その5)
最澄も渡唐を目指す
二十歳の若さで官僧となった最澄ですが、当時の仏教に疑問を感じ、比叡山にこもりました(空海の風景の風景その4・参照)。一方、比叡山を都の鬼門として重要視した官僚たちは、最澄の私寺を官寺に指定し、彼を天皇の待僧に任命します。新しい仏教として興味を覚えた「天台教学」を学ぶために入唐することを決意した最澄は、奈良六宗の学匠たちにその必要性を訴えますが・・・
最澄の人柄について
最澄について司馬さんは以下のように述べています。
「最澄は空海に比べ、ぎらつくような独創性に欠けるところがあった。が、物事の本質を見抜く聡明さにおいては同時代の僧たちから卓越しており、見ぬいた以上はそれを追及する執拗さと勇気を多量にもっていたかに思える」
「最澄の生涯をみて、極端な言い方がゆるされるなら、かれは教団の形成というもっとも世俗的なしごとをしたわりには・・・・・・およそ世俗の機才にとぼしかった。そのくせ、かれは世俗の棟梁である国王から手厚い庇護をうけ、大官たちがすすんでかれのために便宜をはからい、かれが何か希望を持っていることがわかると、世俗のほうから進んで走り寄ってくるというぐあいになるのである。・・・・・・」
上に引用させていただいたのはおかざき真理さんのマンガ「阿・吽」に登場する最澄の姿です。天台宗の「一隅を照らす運動」の啓発ポスターとしても採用されています。司馬さんの語る最澄のイメージと重なるでしょうか?
最澄の思想
最澄が比叡山にこもった理由として奈良仏教への不信感がありました。
「『わが国の諸宗は論を主としている』というのは、最澄の奈良六宗に対する痛烈な不満であった。あれは論であって宗教ではないのではないか、ただし東大寺の華厳宗はこの批判からのぞく。その他の宗は仏教のくせに仏説である経を主にしておらず、それを従とし論を主としている。」
そんな時に出会ったのが「法華経」でした。
「零こそ宇宙そのものであり、偉大なるものであり、極大なるものであり、同時に極小なるものである、という。すべての世界現象は零のなかに満ちみち、しかもたがいに精巧に関連しあって組み合わせられている。さらにいえばその極小なるものの中に極大という全宇宙がふくまれ、そこに一大統一があるというのである。しかもこの経はインド的性格ともいうべき哲学理論におちこむことなく、おのおのの構造を説きつつも仏陀をもって永遠の宗教的生命であると賛美し、その讃仰の姿勢のなかに、『論』の奈良仏教がもたなかった宗教性をもっている。」
出典:Wikimedia Commons、紙本著色法華経絵巻 残闕、Kamakura period (1185-1333)
https://commons.wikimedia.org/wiki/File:Lotus_Sutra_emaki_(Kyoto_National_Museum).jpg
上には法華経の物語を描いた法華経絵巻の写真を引用しました。こちらは釈迦がお経を聴く菩薩の頭をなでて法華経を説きひろめることを託す場面とのことです。
「さらにいっそうに宗教的であることは、仏陀の偉大さと恩寵を説くについては宝石のようにきらびやかな詩的修辞をつかい、感性をもってその世をひとびとにさとらしめるだけでなく、比喩や挿話をもって神話的世界に誘いこむという点で、ひとびとを恍惚たらしめる。」
そして、最澄も入唐を決意しました。
「最澄がこの経に魅かれ、この経を所依の経典とする教学が中国にあることを知ったのは、かれが華厳経の注釈書を読んでいたときであったらしい。注釈書とは『大乗起信論義記』である。そこに天台をもって指南とする、という意味のことが書かれているが、この一句が最澄の心に火を点じた。・・・・・・天台教学に関する典籍はわずかしか日本につたわっていなかった。・・・・・・かれが渡唐したいとおもったのは、このときであった。」
出典:Dokudami, CC BY-SA 4.0 https://creativecommons.org/licenses/by-sa/4.0, via Wikimedia Commons
https://commons.wikimedia.org/wiki/File:Daikouzi%C3%B8.jpg
「大乗起信論義記」には天台教学を大成した天台大師智顗による止観の方法についての記述もありました。上には四国八十八か所霊場の第67番札所大興寺が所蔵する天台大師坐像の写真を引用させていただきます。
桓武天皇が即位
「最澄は、時代の人であったろう。かれの運命は、かれが得度した翌年に桓武天皇が即位し、いわば大帝の時代がはじまったことで―――当時の最澄自身は気づかなかったろうが―――大きく基礎がつくられたといっていい。」
出典:http://www.d1.dion.ne.jp/~oo14/kanmutennou.jpg, Public domain, via Wikimedia Commons
https://commons.wikimedia.org/wiki/File:Emperor_Kammu.jpg
桓武天皇(山部王)は陽の当らない門流の王族に生まれ、官僚として仕えていましたが、藤原氏などの助力で思いがけず父が天皇となるとその後を継ぎ45歳で即位します。門流の低さへの劣等感の裏返しもあり、新しい王朝の創始者になるという意識が強かったようです。上に引用させていただいた肖像画からもそのような気概が感じられるでしょうか。
鬼門にあった比叡山
「最澄の幸福のひとつは、世間では無名の山にすぎなかった日枝(比叡)の山が、平安遷都によってにわかに国家経営の上での形而上的な神秘的役割をもつにいたるということである『あの山は、都の鬼門(北東)の方角にあたるのではないか』と、山城に遷都するにあたって、桓武天皇とその側近が、さわいだ。・・・・・・」
下には明治時代の京都方面から見た比叡山の写真を引用します。北東にそびえる比叡山は平安京からも目立つ存在でした。
出典:中村弥左衛門 編『京都の山水』,便利堂,明36.4. 国立国会図書館デジタルコレクション https://dl.ndl.go.jp/pid/765587 (参照 2024-10-28、一部抜粋)
https://dl.ndl.go.jp/pid/765587/1/9
「桓武は、小黒麻呂の案内でこの山に登った。最澄が私的に建てた比叡山寺もみた。その本尊である薬師如来も拝した。さらには最澄を近くに召してその新仏教の構想もきいたであろう。」
注)小黒麻呂は藤原北家(贈太政大臣)房前の孫
ご本尊の薬師如来ではありませんが、上にはこちらも伝教大師最澄作と伝わる「釈迦如来立像」の写真を引用させていただきました。ここではまだ一乗止観院とも呼ばれたまだ小さなお堂のなかで、桓武天皇が最澄に親しく話しかけるシーンを想像してみます。
内供奉十禅師(ないぐぶじゅうぜんじ)に
「山城盆地に新京の造営がすすみ、延暦十五年に大極殿ができるのだが、その翌年に、最澄の私寺である比叡山寺がおどろくべきことに官寺になった。・・・・・・それだけではなかった。最澄自身が宮廷に召され、内供奉十禅師のひとりに加えられるのである。・・・・・・きのうまで山林の草堂で世を捨てたように経典解釈の研鑽をしていた野の僧としては信じがたいような身の変わりようであった。」
上には京都と比叡山延暦寺をむすぶ主要道にあった雲母坂(きららざか)の写真を引用させていただきました。内供奉十禅師となっても「最澄はなお山林に身を置くとかたちをとって」いたとのこと。桓武天皇などに呼ばれて何度もこちらの坂を往復する姿をイメージしてみましょう。
天台教学の講演
最澄には次々と庇護者が現れます。この頃、藤原小黒麻呂にかわって最澄の庇護者になっていたのは和気広世(わけのひろよ)でした。
「つぎつぎにそのような者が、この時期の最澄も前に出てくる。最澄はそういう権勢家にとり入ることに長けていたなどということはおおよそその性格から考えがたいことだが、逆に考えれば、世の長者といわれるひとびとにこの人物は庇護の気持をおこさせる何かをもっていたのかもしれない。無私な志になにやら偏執するようにして熱中している姿が、一面、印象としてすずやかであってもどこか脆げでもあるということが、長者たちの庇護の思いをそそるのかもしれない。」
なお、和気広世の父・和気清麻呂は僧の弓削道鏡が天皇即位すること阻止した人として知られ、その後、平安京の造営大夫としても活躍しました。上には岡山県和気町にある和気神社の和気清麻呂像の写真を引用しました。
出典:by Reggaeman, CC BY-SA 3.0 http://creativecommons.org/licenses/by-sa/3.0/, via Wikimedia Commons
https://commons.wikimedia.org/wiki/File:Wake_no_Kiyomaro_statue.JPG
最澄から天台の教学を聴かされ、唐に行ってその全貌を知りたいという希望を打ちあけられた和気広世は、まずはその必要性を訴えるために「天台三大部(法華玄義・法華文句・摩訶止観)」の講演会を開きます。行われた場所は和気氏の私寺であった「高尾山寺」、講師はもちろん最澄でした。
下には近年の高雄山寺(現・神護寺)の山門付近の写真を引用しました。この講義は4月から5か月に渡って続けられたとのこと。新緑の中を引きしまった表情で講演に向かう最澄の姿を想像してみましょう。一方、聴講者で最澄よりもはるかに先輩である「奈良六宗の代表的な学匠十余人」は苦々しい表情でこちらを登っていたかもしれません。
出典:写真AC、神護寺
https://www.photo-ac.com/main/detail/26921182&title=%E7%A5%9E%E8%AD%B7%E5%AF%BA
「講演がおわると、すかさずそれを嘉賞するという勅諚(天皇の命令)が出た。これを広世が、聴衆である奈良六宗の学匠につたえ、恐懼せしめた。」
学匠の代表である善議という老僧に感想をとりまとめるように依頼しますが
「勅諚が出てしまっている以上・・・・・・結局これを讃嘆するほかなかった。」
とのこと。善議は以下のような回答をしました。
「ひそかに天台の玄疏を見ますに、釈迦一代の教えがそこに総括され、その教えの趣を顕すのに漏らすところがありませぬ。その説くところの妙理の甚深さは、七箇の七寺、六宗の学生のいまだ聞かざりしところであります。われらはこれを聞くよき運にめぐりあい、歓喜にたえませず、あえて表を上(たてまつ)り、感謝する次第でございます。」
「かれらはくやしさを噛みころして、微笑していたにちがいない。やがて最澄の後半生はかれら奈良六宗の復讐的な反撃のために暗いものになってゆくのだが、その因のひとつは、この最澄にとって幸福すぎる事態がつくった。」
とあります。
一方の空海は
この頃の空海はといえばまだ無名の放浪僧でした。勤操をはじめ奈良仏教の学僧たちと親しかった彼の耳には、天皇の威を借りて天台教学の講義を行ったとして最澄への不満の言葉が入ってきました。
下にはおかざき真理さんの「阿・吽」の表紙の写真を引用させていただきました。「一隅を照らす運動」のポスターにも掲載された最澄(左)に対して、空海(右)は鋭い目をしています。
こちらの表情から以下の空海の姿をイメージしてみましょう。
「ただし最澄をめぐるこの事象については、奈良の学匠たちとは別な観察と感情をもった。それは、より深刻といえる、あるいは別な悪感情といえるものであったかもしれない。(最澄とは、そういうやつなのか)と、自分とおなじこの新人のめぐまれ方に対し、ひとには洩らしがたいほどのなにごとかをこのとき鬱懐したかと思われる。・・・・・・空海は後年、最澄に対してつねにとげを用意した。お人好しの並みな性格ではとうてい為しがたいような最澄に対する悪意の拒絶や、痛烈な皮肉、さらには公的な論文において最澄の教学を低く格付けするなどの、いわばあくのつよい仕打ちもやってのけた。それらの尋常ならざることどもは、このときの鬱懐が最初の発条(ばね)になったにちがいない。」
旅行などの情報
比叡山延暦寺
現在の根本中堂の場所に最澄がつくった「一乗止観院(いちじょうしかんいん)」という草庵が「延暦寺」のはじまりです。今では東塔や西塔、横川の3つのエリアに分かれ計150の堂宇が点在しています。
東塔にある根本中堂は建物が国宝に、廻廊は国の重要文化財に指定されている比叡山でもメインの観光スポットです。ご本尊前で1200年灯り続ける「不滅の法灯」もお見逃しなく。西塔には最澄作と伝わる釈迦如来をご本尊とする釈迦堂があります。こちらは織田信長の比叡山焼き討ち後に、豊臣秀吉が大津の園城寺から移築した、山内では最古の鎌倉時代の建物です(下に写真を引用)。
出典:写真AC、比叡山延暦寺 釈迦堂
https://www.photo-ac.com/main/detail/27667078?title=%E6%AF%94%E5%8F%A1%E5%B1%B1%E5%BB%B6%E6%9A%A6%E5%AF%BA%E3%80%80%E9%87%88%E8%BF%A6%E5%A0%82
また、横川には慈覚大師(円仁)が創建した横川中堂を中心として、おみくじの創始者ともいわれる慈恵大師(良源)の住居跡・元三大師堂などがあります。
基本情報
【住所】滋賀県大津市坂本本町4220
【アクセス】ロープウェイ比叡山頂駅から比叡山シャトルバスを利用
【参考URL】https://www.hieizan.or.jp/
高尾山神護寺
和気清麻呂が建立し、息子の広世が最澄を招請して天台三大部の講義を行ったお寺です。のちに唐から帰国した空海が本拠地としたことから日本仏教にとって重要な寺院とされてきました。金堂では本尊の国宝・薬師如来立像や重文の日光・月光菩薩立像、毘沙門堂では重文・毘沙門天立像などを参拝できます。
こちらは高雄山の中腹に位置するため、紅葉がきれいなスポットとしても有名です。上には公式SNSより金堂から撮影した境内の写真を引用させていただきました。また、境内の最奥の展望広場からは錦雲峡の絶景を望めます。広場では「厄除かわらけ」も実施しているので挑戦してみてはいかがでしょうか。
基本情報
【住所】京都府京都市右京区梅ケ畑高雄町5
【電話】075-861-1769
【参考URL】http://www.jingoji.or.jp/