司馬遼太郎「空海の風景」の風景(その8)
真言密教の正嫡に即位
空海はサンスクリット語などを学ぶかたわら、多くの文人たちとも交流を持ち、評判を高めていきます。そして、密教の第一人者である恵果和尚のもとを訪れると、恵果は一目で空海の能力を悟り、法統を譲ると宣言しました。弟子でもない日本人がいきなり恵果門人の筆頭になることに対して、弟子たちは不満をもち、ひと悶着ありますが・・・・・・
長安の喧噪
遣唐使正使の葛野麻呂たちが帰国すると、空海は宣陽坊という官宅から西明寺に移ります。当時、世界的な国際都市であった長安では、橘逸勢が「胡人。―――」といったように多様な民族が暮らしていました(空海の風景の風景その7.参照)。「空海の風景」からその一場面を抜粋してみます。
「・・・・・・かれの住む西明寺のある延康坊は右京で、喧噪のちまたである西市にちかい。遠く西域から荷を運んできた商隊が駱駝の背の荷を解く場所もまた西市であり、ペルシアうまれの少女が露店で人をあつめて舞踏をしてみせるのもこの西市であった。・・・・・・胡旋女、胡旋女、心は弦に応じ、手は鼓に応ず、廻雪飄々、転蓬の如く舞ふ。左旋、右転、疲るるを知らず、と白楽天は歎じ、元稹はその舞うさまを『回風乱舞、空に当って散ず』と詠み、李端はその容姿を『肌膚は玉の如く、鼻は錐の如し』と表現した。・・・・・・」
上にはその胡旋舞の動画を引用させていただきました。
「空海おそらく群衆にまじり、伸びあがって、紅暈(こううん)の軽巾をまとった娘たちの舞いを見たであろう。」
長安での数ヵ月
「『それならば、青竜寺に住む恵果和尚がよろしかろう。―――』という助言を、空海は何度も受けたにちがいない。」
「長安城中、純密の正系を伝える者は恵果しかいなかった。」
下にはその恵果和尚の画像を引用しました。
出典:国立文化財機構所蔵品統合検索システム、真言八祖像のうち 恵果
https://colbase.nich.go.jp/collection_items/narahaku/797-7?locale=ja
ところが空海は
「長安に入ってから五ヵ月ちかく、そして西明寺に居を定めてから三ヵ月というあいだ、恵果とは没交渉に自分を置く。」
とあります。
「すぐ趨(ゆ)けば軽んじられると思ったのであろうか。」
その間の空海は、長安の多くの文士たちと交わって文名を上げていきました。また、空海の仏教や密教への造詣の深さは西明寺の僧から恵果にも伝わっていただろうと司馬さんはいいます。
恵果和尚について
恵果和尚は長安の青龍寺に住み、千人もの門人を抱えていました。密教には精神原理を説く「金剛頂教」系と物質原理を説く「大日経」系の2つの体系がありますが、恵果はその両方を受け継いでいます。彼の主な師は「金剛頂教」系を受けた不空三蔵という快僧でした(下に肖像画の写真を引用させていただきました)。
出典: Wikimedia Commons,Portrait of Amoghavajra, 14 century, National Museum, Tokyo
https://commons.wikimedia.org/wiki/File:Portrait_of_Amoghavajra,_14_century,_National_Museum,_Tokyo.jpg
不空三蔵は呪術師としての能力が高く、玄宗皇帝などの歴代皇帝の前で派手な演出をすることにより密教の地位を上げたとも述べられています。
一方の恵果は、空海の残した文章(恵果和尚之碑文)によると、温和な人柄で物欲についても淡白だったとかかれています。能力はありましたが、当時主流であった道教に対抗したり、宮廷に工作したりすることが苦手だったため、不空の時代に比べて密教は「退潮気味であった」ようです。
青龍寺へ
しかもそのころの恵果は病気勝ちで、前年には病床に高弟をよんで遺言を残そうとしたとの話も伝わっていました。長安での自分の評判が高くなり、機が熟したと感じた空海は西明寺の友人に付き添われて恵果のもとに参じます。
出典:Kcx36, CC BY-SA 4.0 https://creativecommons.org/licenses/by-sa/4.0, via Wikimedia Commons
https://commons.wikimedia.org/wiki/File:%E9%9D%92%E9%BE%99%E5%AF%BA%E9%81%97%E5%9D%80%E5%85%AC%E5%9B%AD-%E4%B8%9C%E9%97%A8.jpg
上には恵果が本拠地とした青龍寺(青龍寺遺蹟公園)の東門の写真を引用しました。周辺には
「見世物小屋や酒場などもあり、市民が群れてごたごたした界隈であったかと思える。」
とあります。
ここでは、こちらの写真に空海たちの姿を置いて、当時の様子をイメージしてみましょう。
「志明や談勝(空海の友人)らは空海を挟みつつ、その雑踏を分けて青龍寺の門に入ったにちがいない」
恵果との対面
「御請来目録(しょうらいもくろく)」によると
「恵果は空海を見るなり、笑を含んで嬉歓したというのである。
『和尚、乍(たちま)チ、笑ヲ含ミ、嬉歓シテ曰ク、我、先(まへ)ヨリ汝ノ来ルヲ待ツヤ久シ。今日相見ル、大好シ、大好シ』
恵果があわれなほどによろこぶさまが目に見えるようである。『大好(タアハオ)』というのは、おそらくこの当時の口語であったものを、空海が文中にはさんんだにちがいなく、このため、恵果の音声まできこえてくるようである。」
出典:国立文化財機構所蔵品統合検索システム、高野大師行状絵巻(模本)の一部を拡大
https://colbase.nich.go.jp/collection_item_images/tnm/A-6912?locale=ja
「恵果はさらにいう。自分は寿命が竭(つ)きなんとしている(恵果はこの年の暮に病没する)。しかしながら付法(法を伝えること)に人が無かった。さっそくあなたに伝えたい(必ズ須ク速カニ、香花ヲ弁シテ灌頂壇二入ルベシ)・・・・・・と恵果は全身でよろこびを示し、きわめて異例なことに、初対面の空海に対し、どうやら何の試問もおこなわず、すぐさまあなたにすべてを伝えてしまおう、と言い放ってしまっているのである。」
恵果からいきなり法統を譲るといわれた時、空海本人は少し驚きつつも案外平然としていたかもしれません。上には恵果から教えを受ける空海の姿を「高野大師行状絵巻(模本)」から引用させていただきました。
弟子たちの不満
「恵果の空海に対する厚遇は、異常というほかない。・・・・・・恵果は空海を教えることがなかった。伝法の期間、口伝の必要なところは口伝を授け、印契その他動作が必要なところはその所作を教えただけで、密教そのものの思想をいちいち教えたわけでなく、すべて空海が独学してきたものを追認しただけである。」
このような異常な事態に、長年恵果の下で修業してきた弟子たちから不満が起こるのはやむを得ないことでした。
「『かれは何者であるか』と、長安の密教僧として重い地位にある玉堂寺の珍賀などは大いに不満とした。というより、千人の門人の不満を、玉堂寺の珍賀は代表したのであろう。・・・・・・恵果和尚よ、かれはあなたの弟子ではないじゃありませんか、まず弟子として教えなさい、教えもせずに真言の正嫡とされるのはどういうことです、といった」
とのこと。
出典:国立文化財機構所蔵品統合検索システム、高野大師行状絵巻(模本)の一部を拡大
https://colbase.nich.go.jp/collection_item_images/tnm/A-6912?locale=ja
珍賀のエピソードは「御遺告」に採録されていて、続きは以下のように記されています。
「珍賀は夢を見た。恵果に苦情を言いに行った夜、夢に仏法の外護神である四天王があらわれ、珍賀をぶったり蹴ったりして、その足の下に踏みくだいてしまったらしい。」
上にはその夢の場面を描いた絵巻の一部を引用させていただきました。四天王が武器で珍賀(中央にうずくまっている人物)を痛めつけているシーンです。
「翌日朝、人変わりがしたように自分の邪を悔い、恵果の門人たちを説いてまわって、師匠が正しかった、空海が正嫡の座につくことは正しい、それをさえぎろうとしたわしが間違っていた、わしは罪を恐れている、皆もふたたび不平の声を上げるな、と言い、一同をおどろかした」
とあります。
伝法灌頂を受ける
「空海が恵果にはじめて会ったのは、繰りかえすようだが、五月である。あるいは下旬であった。恵果がすぐ来いというので、一時、居を青竜寺に移した。伝法の儀式は、はやくもその翌六月におこなわれているのである。日付もはっきりしている。六月十三日に胎蔵界の灌頂をうけた。七月上旬には金剛界の灌頂をうけて、両部の伝法をことごとく了えた。しかも八月十日には、密教世界の王位ともいうべき阿闍梨(あじゃり)の位をさずける伝法灌頂を恵果は空海に対して行ったのである。」
出典:国立文化財機構所蔵品統合検索システム、高野大師行状絵巻(模本)、「大師御入壇事」の二枚を連結
https://colbase.nich.go.jp/collection_item_images/tnm/A-6912?locale=ja
上には「高野大師行状絵巻」から灌頂儀式の図を引用させていただきました。弘法大師の図絵を比較した論文(注)によると行列後方の天蓋をかけられている人物は恵果和尚で、空海はこちらには描かれていません。ちなみに他の絵巻(井上家旧蔵弘法大師伝絵巻など)では空海は恵果のさらに後方に配され、また別の本(板本高野大師行状図画十巻)では恵果と空海が列の最後を歩く姿が描かれているとのことです。
注)宮次男.井上家旧蔵弘法大師伝絵巻について.国立文化財機構東京文化財研究所.1964-10-30.美術研究232号.p191.https://tobunken.repo.nii.ac.jp/records/6770.(参照2024-11-13).
恵果から法統を譲られることになった空海には、しなければならないことがたくさんありました。
「大日経のなかに出ている梵字の象徴としての真意、あるいは印契、三摩耶、真言などについては、わからず、それを恵果はたちどころに応えて空海というあたらしい器にそそぎ入れた。」
以下の絵巻は恵果から印契を教えてもらっている場面と思われます。
出典:国立文化財機構所蔵品統合検索システム、高野大師行状絵巻(模本)の一部を抜粋
https://colbase.nich.go.jp/collection_item_images/tnm/A-6912?locale=ja
ほかにも「御遺告」にはこの時期に空海がしていたことが詳細にかかれています。
「灌頂を受けつつも、両部の秘密(象徴)をことごとく学び、あわせて根本経典など二百余巻を読み、さらに経に関する議論(新訳のもの)を読んだ。それも、漢訳本と原文とを合存―――対照―――せしめつつ読んだ、というのである。・・・・・・おそらく、かれは不眠不休であったにちがいない。・・・・・・」
密教の法具や経典収集に奔走
密教にはたくさんの道具が必要ですが、それらに見合うお金を恵果に払って調製してもらいます。そのためには莫大な資金が必要でした。
「空海は不足分を自分で補って行ったにちがいなく、頼む檀越もなく、おそらく心細かったであろう。」
注)檀越(だんおち)とは寺に布施をする信者や檀家のこと
「御請来目録」によると
「恵果がさずけたもののうち、曼荼羅は五種類二十三幅ある。それに密教各祖の絵像が五種類十五幅を加え、これらをあらたに絵師に描かしめねばならない。恵果の豪華なところは、これらを描かせるのに、長安における第一等のひとびとを用いたことであった。・・・・・・」
下には空海が請来した曼荼羅(根本曼荼羅)を複製した東寺の両界曼荼羅の写真を引用させてただきました。
出典:東寺真言宗公式サイト、真言宗の教え
https://www.tojishingonshu.org/about.html
「密具には、金属製品が多い。五鈷、三鈷、独鈷、鈴、輪宝、羯磨、金剛橛、金剛盤、灑水器といったようなものであり、これらの密具や法具は空海が入唐してはじめて見たものばかりであった。恵果はこれらの調製についても、宮廷の技芸員とでもいうべき鋳(いもの)博士の揚忠信などにたのんでつくらせた。・・・・・・」
出典:東寺真言宗公式サイト、真言宗の教え
https://www.tojishingonshu.org/about.html
上に引用したのは、空海が請来したとされる五鈷杵、本五鈷鈴、金剛盤の写真を引用させていただきました。空海はこのような高価な品々を自費で調達したため、20年分の留学費を使い切ってしまいます。
恵果逝く
「空海に自分のすべてを与えてしまった恵果は、そのあと、文字どおりぬけがらのようになった四ヵ月後に死ぬ。」
「御請来目録」によると恵果は空海に以下のような言葉を残しています。
「今、此の土の縁、尽きぬ。久しく住すること能はず。・・・・・・わづかに汝が来れるを見て、命の足らざることを恐れたり。今、則ち授法のあるあり。経像の功(しごと)、畢(をは)んぬ。早く郷国に帰りて以って国家に奉り、天下に流布し蒼生の福を増せ」
出典:空海『[新請来経等目録]』,建治3 [1277]. 国立国会図書館デジタルコレクション https://dl.ndl.go.jp/pid/2532122 (参照 2024-11-13、一部抜粋)
https://dl.ndl.go.jp/pid/2532122/1/14
上には1277年に高野山で出版された「御請来目録」の写真を引用しました。「今此土」~「蒼生福」までが「空海の風景」に引用されています。
恵果が「早く国へ帰れ」といっていることについては、以下のように記されています。
「ひょっとすると、一面、恵果はふところ具合を察し、この若者にはこれ以上の滞在はむりだろうと憐れんでのことだったのかもしれない。恵果はそういう人柄の人物だったようである。」
五筆和尚のこと
空海が帰国を考えているときに日本から高階真人遠成を大使とした遣唐使節がやってきます。空海は高階遠成を訪問した際、
「自分と逸勢の長安における業績がいかに充実したものであるか、規定どおりに二十年滞在してもこれ以上に成果を伸ばすことは期待できない。むしろ帰国して、この業績を早く母国に伝えるほうが急務である、といったにちがいない。」
とあります。
高階遠成を通じて唐の皇帝からも帰国の許可を得た空海や逸勢は、約二年間滞在した唐を去ることになりました。
出典:出典:国立文化財機構所蔵品統合検索システム、高野大師行状絵巻(模本)の一部を抜粋
https://colbase.nich.go.jp/collection_item_images/tnm/A-6912?locale=ja
「空海の風景」では、唐・長安でのエピソードの一つとして「五筆和尚の由来(もしくは伝説)」について触れています。上には「高野大師行状絵巻」からその場面を描いた部分を引用させていただきました。
「唐の宮殿の皇帝の御座所に近い一室、というのが、設定である。そこに王羲之が書いた二間の部屋がある。そのうちの一間が破損したため、修理され、この時期、壁が白いままになっていた。・・・・・・―――皇帝、勅ヲ下し、大師ヲシテ之ヲ書カシム。・・・・・・これを承け、宮殿に入り、筆を両手それぞれに持ち、また口にくわえ、さらに両足でそれぞれ保ち、一気に五行の書を書きあげた。そのあと一字だけ書き残したのに気づき、磨った墨汁を大盆にたたえ、その盆をもちあげてそのまま壁面にそそぐと、自然に「樹」という一字が筆勢たくましくあらわれ出た、という。皇帝が感嘆し、五筆和尚の称号をさずけた・・・・・・」
旅行などの情報
青龍寺
青龍寺は空海が密教の法統を譲り受けた恵果和尚が住んでいた官寺です。唐代には多くの僧がこちらで学んでいましたが、その後廃れ、1982年の発掘調査でその遺構が発見されました。現在は日本から寄贈された恵果・空海記念堂や空海記念碑なども建てられ、四国八十八箇所霊場の0番札所にもなっています(下に引用したのは「空海真言密教八祖誕生」の像)。
出典:写真AC、青龍寺の空海真言密教誕生像
https://www.photo-ac.com/main/detail/2335869?title=%E9%9D%92%E9%BE%8D%E5%AF%BA%E3%81%AE%E7%A9%BA%E6%B5%B7%E7%9C%9F%E8%A8%80%E5%AF%86%E6%95%99%E8%AA%95%E7%94%9F%E5%83%8F
長安には西遊記でおなじみの玄奘三蔵ゆかりの「大雁塔」や始皇帝陵の周辺につくられた「秦始皇兵馬俑博物館」などの観光スポットがあるので、空海の史跡とあわせて巡るのもよいでしょう。また、西安では名物のロージャーモー(中華風ハンバーガー)やラーメンの原型の一つとされる刀削麺などのグルメもご堪能ください。
基本情報
【住所】陝西省西安市雁塔区西影路鉄炉廟村北
【アクセス】西安地下鉄3号線・青龍寺駅から徒歩約5分
【参考URL】https://www.jtb.co.jp/kaigai_guide/china/people’s_republic_of_china/SIA/119755/index.html