司馬遼太郎「空海の風景」の風景(その10)
不空に倣う
京に上れとの勅令が下り、空海は高雄山寺に移りました。また、唐で「五筆和尚」と呼ばれた空海のもとに嵯峨天皇から揮毫の依頼があり、その後、二人との親交が生まれます。「薬子の変」で世情が不安定になると、空海は恵果の師・不空に倣って鎮護国家の修法を行うことを上奏、これを機に朝廷での空海の存在が大きくなっていきました。
高雄山へ
「七月、和泉国は、あぶられるように暑かった。槙尾山は名のとおり槙の木こそ多いが、他はほとんどが闊葉樹でおおわれている。・・・・・・この真夏の槙尾山において、空海の身に変化がおこった。太政官から和泉の国司に対し、空海をして京にのぼらしめよ、という官符がくだったのである。」
注)闊葉樹(かつようじゅ)=広葉樹の旧称
下には緑につつまれた施福寺(旧槙尾山寺)の写真を引用しました。ここでは和泉の国司の使者が空海に対し、その旨を伝えている場面を想像してみます。「あぶられるように暑かった」とのことですから、やってきた使者も額に汗をにじませていたかもしれません。
出典:写真AC、施福寺
https://www.photo-ac.com/main/detail/29698023&title=%E6%96%BD%E7%A6%8F%E5%AF%BA
また、奈良仏教の高僧たちは、高雄山寺を空海の寺にするために積極的に動いたといいます。
「空海を都にのぼらせて叡山の最澄をおさえさせるには地の利を得させねばならず、地勢からみて都の東北にある叡山に匹敵する山といえば、都の西北にある高雄山が最適ということでもあったろう・・・・・・」
以下には都と高雄山寺(神護寺)、比叡山の位置関係がわかる地図を引用させていただきました。
「京よりの道は周山街道とよばれるが、空海のこの時代には、そういう街道名はなかった。道も、人の足で踏みならした程度のこみちだったにちがいない。京からの道は、高雄に近づくにつれて尾根道になってゆく。その尾根からいったん清滝川の清流に降り、流れの岩と岩にかかった丸太橋を踏んでむかいの尾根の脚にたどりつく。その尾根が、高尾山である。高雄山寺は、山ぜんたいを境内としていた。」
上には高雄山寺近くの周山街道のストリートビューを引用させていただきました。空海の頃に比べて道路は広くなり舗装されましたが、現在も緑が多く、当時の様子をイメージできそうです。
最澄からの依頼
高雄山寺は桓武天皇から勅令を受けた最澄が、日本ではじめての灌頂を行った場所でした(空海の風景の風景その9・参照)。和気氏の私寺であった高雄山寺は当時、最澄に任されていましたが、空海に対し敵意を持っていない最澄はよろこんで空海にゆずったとのことです。
そして、高雄山寺に移ってすぐのころに空海のもとに、最澄の弟子・経珍が使いとしてやって来ます。用件は唐から持ち帰った経の一部を貸してほしいとのことでした。
「経珍は、高雄の山中に入った。清滝川を渉るのに、しぶきで濡れた岩を踏まねばならない。そのあと八月の楓の下の山みちを登ってゆく。全山の青い楓と、空海の山房に近づいてゆく経珍の姿は絵巻物のかっこうな画題のようにおもえるが、この情景が絵になったことはない」
下には明治時代の「都名所図会」のなかから高雄山の部分を引用させていただきました。こちらの絵が「全山の青い楓」でおおわれていることを想像し、その間の小径に師最澄の思いを伝えようと息を切らせながら登ってゆく経珍の姿を置いてみましょう。
出典:国際日本文化研究センター公式サイト、都名所図会、高雄山神護寺
https://www.nichibun.ac.jp/ja/
最澄が借用を依頼してきた経典は以下のようなものでした(長いので先頭の三つのみを引用します)。
「大日経略摂念誦随行法一巻、大毘盧遮那成仏神変加地経略示す七支念誦行法一巻、大日経供養儀式一巻・・・・・・」
下には御請来目録の写しの写真を引用しました。左頁の三番目と四番目の資料が上に抜粋した経典の先頭二つにあたります。
出典:空海 [編]『[新請來經等目録]』,[慶長年間]. 国立国会図書館デジタルコレクション https://dl.ndl.go.jp/pid/2532136 (参照 2024-11-21、一部抜粋)https://dl.ndl.go.jp/pid/2532136/1/9
最澄は手紙の署名に「下僧最澄」とへりくだるなど、空海が思い描く傲岸なイメージとは違うようでした。また、
「なりゆきとはいえ、勅命による灌頂の主催までやってしまったことは最澄のいわば大恥であったが、しかしこの男の篤実な性格がそれに堪えただけでなく、あらためて組織的密教を学びなおそうとしている。」
ともあります。
ところが
「密教の伝達は師承によらねばならず書物に拠ってはいけないということがインド以来の伝統」
ということをまもってきた空海からすると
「(この男は、文字で密教を知ろうと企てているのか)と、空海はそういう最澄こそ、狡猾の徒とおもったであろう。」
経珍の訪問時、空海が請来した経典の多くは京に提出済みであり、
「『残念なことですが、それらはいま自分の手元にないのです』と、ことわったであろう。・・・・・・」
空海と最澄の書簡をとおしての最初のやりとりは、このように「ひどく拍子ぬけするような結末」だったかもしれないといいます。
嵯峨天皇について
空海が唐から帰国したとき、既に桓武天皇はこの世に亡く、平城天皇が即位していました。ところが平城天皇は極度の神経疲労により三年で退位し、嵯峨天皇があとを継ぎます。
出典:国立文化財機構所蔵品統合検索システム、嵯峨天皇御像(模本)
https://colbase.nich.go.jp/collection_items/tnm/A-9236?locale=ja
詩文や書画を好んだ嵯峨天皇(上に肖像画を引用)は、唐での空海の噂を耳にしたことでしょう。
「大唐の皇帝が空海の書の才を珍重し、五筆和尚とまで尊称しただけでなく、かつて王羲之が書いた宮中の一室の壁に揮毫させるのに、わざわざ倭国の空海をえらび、それをさせた」
天皇は京に上った空海に対し、世説新語(後漢末から東晉末までの著名人のエピソードをまとめた書物)から抜粋した文章を屏風に書くように依頼します。
空海が献上した屏風の文字を目にした嵯峨天皇はそれを満足気に眺めたことでしょう。
一方でその当時、抜き差しならない事態が嵯峨天皇の頭を悩ませていました。
薬子の変
嵯峨天皇が悩まされていたのは実の兄である平城上皇のふるまいでした。奈良に転居した平城上皇は退位したことを後悔し、「太上皇の詔」を出すなど権力をふるい始めます。天皇と上皇の両方から相反する詔勅が出るという異常な事態は「二所朝廷」と呼ばれ人心を惑わせました。
平城上皇に対し寛容にふるまっていた嵯峨天皇ですが、上皇から「―――奈良に遷都せよ」という勅令が出るや否や反撃に出ます。具体的には征夷大将軍として活躍した坂上田村麻呂などを「造営使」に任命し奈良に派遣、上皇たちが東国に逃れるのを防ぐために各関所の守りを固めました。
出典:国立文化財機構所蔵品統合検索システム、嵯峨天皇御影(模本)
https://colbase.nich.go.jp/collection_items/tnm/A-9190?locale=ja
結局、脱出をあきらめた上皇は剃髪して投降し、薬子が毒をのむことにより事件は幕を閉じました。上に引用したのも嵯峨天皇の御影ですが、空海に書を求めるところで引用した絵像よりも表情が厳しく、政治家としての嵯峨天皇をイメージすることができます。
不空三蔵について
「空海は、直接の師匠である恵果よりも、恵果の師匠である不空を尊崇したにおいがある。においどころか、―――大師は不空のうまれかわりである。という信仰がのちに弟子たちのあいだで伝承された。」
不空(空海の風景の風景その8・参照)の生まれ変わり説について、「神皇正統記」では空海の誕生日が不空の命日と一致していることをもってその根拠の一つとしています。
「弘法は母懐胎のはじめ、夢に天竺の僧来りて宿をかり給ひけりとぞ。宝亀年甲寅六月十五日に誕生、此日、唐の大暦九年六月十五日にあたれり。不空三蔵入滅す」
出典:ColBase: 国立博物館所蔵品統合検索システム (Integrated Collections Database of the National Museums, Japan), CC BY 4.0 https://creativecommons.org/licenses/by/4.0, via Wikimedia Commons、奈良国立博物館所蔵『真言八祖像』のうち金剛智の像。鎌倉時代の作。
https://commons.wikimedia.org/wiki/File:Eight_Patriarchs_of_the_Shingon_Sect_of_Buddhism,_Vajrabodhi_(Nara_National_Museum).jpg
不空三蔵は北インドのバラモン階級に生まれ、長安でインド僧の金剛智(上に肖像を引用)から密教を学びました。金剛智の遺言に従ってセイロンやインドに渡って法を修めたのち、三代の皇帝(玄宗・粛宗・代宗) に灌頂を授けます。
当時、唐の宮廷では道教が盛んでしたが、不空は密教を広めるためにさまざまなパフォーマンスをやってのけます。たとえば、
「密教もまた護国の思想であるとし、安禄山ノ乱がおこったときに不空は壇にのぼり、反乱軍を鎮圧する修法をおこなって大いに験をみせ、玄宗を感動させたこともある。」
とのことです。
安禄山の乱における不空の活躍
ここで、時をすこしもどして、空海が手本とする不空の行動を「空海の風景」から追ってみます。特に「安禄山(あんろくざん)の乱」が起きたときの不空の活躍は怪人的でした。
「玄宗が七十を越えてから、安禄山の乱がおこった。胡人出身の節度使安禄山が玄宗とその寵姫楊貴妃にとり入り、やがて反乱をおこしてついに長安を陥落させ、一時的ながら大燕という国をたてて皇帝になる」
下にはその安禄山の肖像画を引用しました。
出典:w:ja:File:An Lu Shan.jpeg, Public domain, via Wikimedia Commons
https://commons.wikimedia.org/wiki/File:An_Lu_Shan.jpeg
「かれは安禄山の大軍が関内にせまりつつあるという危険な時期、以下はいかにも不空らしい強靭な筋肉質を感じさせる行動だが、いそぎ長安に駆けもどり、都内の大興善寺に入って、密教独特の壇をきずいた。その壇において、かれの密教的呪術のかぎりをつくして玄宗皇帝のために逆賊調伏の大祈祷をおこなった。その功験は、安禄山の熾んな戦勢に対して苦戦している武官たちのあいだで熱狂的に信じられた。・・・・・・」
出典:User Zhuwq on zh.wikipedia, Public domain, via Wikimedia Commons
https://commons.wikimedia.org/wiki/File:Tang_XianZong.jpg
上には玄宗皇帝の像を引用させていただきます。
「玄宗は楊貴妃とともに長安をのがれ、兵士たちにせまられて貴妃に死をあたえる」
窮地に陥った玄宗皇帝でしたが、不空の祈祷による験のおかげか、
「安禄山は長安をおとし入れてほどなく眼病にかかり、さらに悪性の疽にもかかったうえ、そのなすことが狂暴になった。たとえば自分の長子慶緒を排除して寵妃の生んだ子を太子にしようとしたため、慶緒は不安におもい、長安を占領した翌年、父の安禄山を殺してしまった。・・・・・・」
とのことです。
鎮護国家の修法を行う
時代は戻すと、空海は玄宗皇帝の役を平城上皇に、楊貴妃の役を薬子にあてはめ「薬子の変」と「安禄山の乱」とが似ていることに注目します。
「空海はこれを安禄山の乱と見、不空と同じことをした。空海は、事件を始末する詔勅が出てからすぐ、『沙門空海、言ス。・・・・・・伏シテ望ムラクハ国家ノ為ニ』修法をしたい、という上表文をたてまつっているのである。」
出典:醍醐寺公式サイト、五大堂壁画(仁王経曼荼羅)
https://www.daigoji.or.jp/grounds/kamidaigo.html
修法に用いるお経は空海が唐から持ち帰った「仁王経」や「守護国界主経」、「仏母明王経」などでした。上には空海の孫弟子にあたる理源大師聖宝が開いた醍醐寺の「仁王経曼荼羅」の写真を引用させていただきました。ここでは、こちらのような曼荼羅のもとで空海やその弟子たちが読経するシーンをイメージしてみましょう。
「嵯峨天皇はこの空海の企画とそれについての上表文によほど感動したらしく、とりあえずの費用として綿一百屯の下賜があり、あわせて嵯峨が得意とするところの七言八句の詩一首を空海にあたえ、自分の感動をつたえた」
とあります。
修法は西暦810年(弘仁元年)の秋に開始されます。そのころ、高雄山では上に引用させていただいたような美しい紅葉が見られたかもしれません。
修法のために
「山門ヲ閉ズルニ、六箇年ヲ限ル」
と誓った空海ですが、翌年には山城国・乙訓(おとくに)寺の別当として赴任します。
旅行などの情報
大覚寺
嵯峨天皇の離宮として建立されたのを前身とし、嵯峨天皇の孫であたる恒寂入道親王が開山しました。空海がこちらで修法を行ったとされ、境内には空海が勧請したと伝わる五社明神が祀られています。また、寺の東側には日本最古の人工の庭池とされる大沢の池が広がり、約1kmの散策路では竹林や梅林、石仏群やもみじロードの景色を堪能できるでしょう。
また、中秋の名月の時期には「観月の夕べ」というイベントが開催されます。こちらのイベントは嵯峨天皇が文化人や貴族たちとともに大沢池に舟を浮かべて遊んだことにちなんでいるとのこと。上に引用させていただいた写真のように、リアルな月と水面に映り込んだ月との競演を楽しんでみてはいかがでしょうか。
基本情報
【住所】京都府京都市右京区嵯峨大沢町4
【アクセス】 京都バス・大覚寺で下車
【参考URL】https://www.daikakuji.or.jp/