司馬遼太郎「空海の風景」の風景(その11)
最澄との交流と決裂
空海の住む乙訓寺を最澄が訪れ、密教についての教えを乞います。空海が高雄山寺に移ると、最澄も山内に滞在し灌頂も受けますが、文字のみで密教を理解しようとする最澄の態度に空海は不満を募らせていきました。そして、比叡山から空海のもとに出奔した最澄の弟子・泰範をめぐるやりとりで二人は決裂することになります。
乙訓(おとくに)寺へ
空海に対し、乙訓寺に移れとの太政官符が出ました。
「『件(くだん)の僧は山城国高雄山寺に住んでいるが、その処は不便である。だから同国乙訓寺に任せしめる』というのがこの人事異動の理由だが、高尾山という土地のなにがどのように不便なのか。・・・・・・不便、というのは、嵯峨にとって不便だったにちがいない。」
「山城の国は、平安京がおかれた山城盆地が大きく、それより南にさがった乙訓の地というのは、弟国という謂でその地形が察せられるように、野は、西に山がせまり、東は桂川でさえぎられているために、狭く小さい。」
下には乙訓寺と京都市中心部(平安京)との位置関係がわかる地図を引用させていただきます。
乙訓寺は桓武天皇から謀反の疑いをかけられた実弟・早良(さわら)親王が幽閉されたいわく付きの官寺で、当時は既に廃れ始めていました。空海が寺に入って最初に行ったのは僧綱所の知り合いに建物の修理を依頼することでした。
「ともかくも乙訓寺は荒れていた。しかし、空海の目をよろこばせるに足るものが、境内にあった。濃い緑の葉をもつ柑子の樹がふんだんに植えられており、かれが入山したときに、こがね色の実を多くつけていた。」
下には、乙訓寺の柑子の樹(柑橘樹)の写真を引用させていただきました。こちらの木は嵯峨天皇に献上された柑子の木の子孫ともいわれています。
「空海はさっそくその実を採らせ、嵯峨に送った。自分の寺の境内に実った果実を天皇に贈るなどは、両者の関係がよほど親密になっていた証拠ともいえるであろう。」
翌年の冬に柑子を送った際にしたためた「柑子ヲ献ズルノ表」は「性霊集」に収められています。
「『沙門空海、言ス。乙訓寺ニ数株ノ柑橘ノ樹アリ。例ニ依ツテ、交ヘ摘ンデ取リ来レリ。数を問ヘバ、千ニ足レリ。色ヲ看レバ金ノ如シ。金ハ不変ノ物ナリ。千ハ是レ一聖ノ期ナリ。又此ノ菓、本西域ヨリ出タリ。・・・・・・』空海は、数を千個にして、王者の天寿を祝っている。・・・・・・」
最澄の訪問
「この時期の最澄には、重くるしい屈託があった。奈良仏教を相手どっての教学上のあらそいがそのひとつであり、いま一つは、かれが越州からもちかえって、ひとたびは宮廷を狂喜させたことのあるかれの密教についてである。」
最澄は保護者である藤原冬嗣への手紙のなかで、以下のように明かしています。
「最澄、海外ニ進ムト雖モ、然レドモ真言ノ道ヲ闕(か)ク・・・・・・留学生海阿闍梨(空海)ハ幸ニ長安ニ達シ、具(つぶさ)ニ此ノ道ヲ得タリ」
空海から密教を学ぶことを決心した最澄は、空海のもとを訪れます。
「空海は乙訓寺在住を一年できりあげ、高尾山寺にもどる。辞表を書き送った日に乙訓寺を去るのだが、去った日が、弘仁三年十月二十九日である。その前々日の二十七日に、空海が予期したことかどうか、最澄が乙訓寺を訪ねてきたのである。」
「信じがたいことだが、両人が地上で相会ったのは、これが最初であった。・・・・・・」
上には最近の乙訓寺山門付近の写真を引用させていただきました。ここでは山門の奥のほうに空海、手前に最澄とその弟子の姿を置いてみましょう。
「山門を入ると、境内に柑橘の濃い緑の林があり、果実が、空海の文章にあるように黄金のように光っていたであろう。空海にとって最澄は法臘(ほうろう)が長けている。先輩に対する礼として、庫裡(くり)のそとまで出て、これを迎えたかもしれない。しかしながら、最澄の態度は、先輩というようなものではなかった。それまでしばしば空海に送った書簡でも見られるように、最澄の態度は、門弟のようであった。最澄は礼に篤く、逆に空海のほうはからなずしもそうではなかったかのようにも想像できる。」
この日のことについて最澄が他の人におくった手紙には以下のように記されています。
「去月二十七日・・・・・・、乙訓寺ニ宿シ、空海阿闍梨ニ頂謁ス。教誨慇懃、具ニ其ノ二部ノ尊像ヲ示サレ、曼陀羅ヲ見セシム」
下には乙訓寺本堂の写真を引用させていただきます。こちらのようなお堂のなかで最澄が曼荼羅に関する説明をしているところをイメージしてみましょう。ちなみに、お堂の右側には柑橘樹(柑子の木)も写っています。
乙訓寺に宿泊した最澄と空海とのやりとりを「空海の風景」から拾ってみます。
最澄「私の密教は、はなはだ闕けている。それを充たせていただくわけには参らぬでしょうか」
そういって最澄は、空海から灌頂をうけることを乞いました。
「『灌頂ですか』空海は、内心おどろいたに違いない。最澄自身が国家から命ぜられて宮廷の大官や奈良の長老たちに灌頂をおこなったのは、わずか六年前ではないか。その最澄が、師である壇からおりて空海を師とし、灌頂を乞うているのである。」
空海「いいでしょう。」
さらに、空海は乙訓寺を二日後に去る予定であることを述べておいて
空海「ですから、高雄山寺においてとりおこないましょう」
出典:国立文化財機構所蔵品統合検索システム、弘法大師像
https://colbase.nich.go.jp/collection_items/tnm/A-12075?locale=ja
また、最澄が灌頂の準備について質問したときのやりとりについては以下のように描かれています。
空海「準備ですか・・・・・・あの延暦二十四年九月のときは、どのようになされましたか」
師の勤操などが有無を言わさず灌頂を受けさせられた時の恥辱を思いながらたずねます。唐では灌頂の準備は受者が受け持つのが一般的でしたが(実際空海もそのようにしました)、最澄が行った灌頂の費用は桓武天皇の勅令により国費で賄われたとのこと。
空海「率直に申し上げて、そういうものは、灌頂ではありませぬ」
「といったかと思えるが、想像のゆきすぎであろうか。」
空海はこのような皮肉を、少し口をヘの字に曲げて言っていたかもしれません。上には南北朝時代に描かれた弘法大師像を引用させていただきました。
高雄灌頂
「空海が高雄山寺にもどると、最澄はあとを追うように高雄山寺にゆき、前後数ヵ月、山内の一室を借りて住んだ。この間、最澄は、灌頂の準備のために多忙だった。」
以下、最澄の手紙から肉声を追っていきましょう。
弟子の泰範に対しては、生活のための食料を求めます。
「高雄山寺の食料、都(すべ)テ無シ」
また、灌頂に関連する金品の提供をパトロンの藤原冬嗣に依頼しました。
「貧道、其ノ具、備ヘガタシ」
「灌頂を最澄ひとりが受けるよりも、おおぜいで受けるほうが、一人ずつの負担がやすく済む。このことを空海が教えたのか、最澄がいいだしたのか、ともかくも、そのように段取りをはこんだ。このようにして、最澄は、このとし(弘仁三年)も寒くなった十一月十五日、空海からまず金剛界灌頂をうけた。ともにうけたのは、俗人の和気真綱ら三人であった。・・・・・・最澄は十二月十四日、胎蔵界灌頂をうけた。・・・・・・灌頂した人名は、空海が自筆でことごとく書きあげており、こんにちもそれがのこっている。」
下にはその「灌頂歴名」の一部を引用しました。金剛界灌頂(十一月十五日)・胎蔵界灌頂(十二月十四日)ともに最澄の名前が筆頭で記されています。
出典:中野楚渓 編『神護寺伽藍名宝帖』,神護寺,昭13. 国立国会図書館デジタルコレクション https://dl.ndl.go.jp/pid/1262993 (参照 2024-11-25、一部を抜粋)、灌頂歴名の一部
https://dl.ndl.go.jp/pid/1262993/1/41
また、胎蔵界灌頂の名簿については以下のような事実も述べられています。
「そのなかに童子が四十五人もふくまれている。童子の名を見てゆくと、この時代のこどもの名前がどういうものだったかがわかる。弟男(おとお)、兄人(えひと)、茅丸(かやまる)、黒丸、繩手丸、十師丸、河内丸、津倉丸、浄丸といったふうである。・・・・・・同時に、この名簿は、重大なことも、物語っている。最澄は、あれだけ準備にかけまわりつつ、いざ灌頂をうけたときは、こどもと一緒だったということである。こどもと一緒だということで、最澄はおどろいたであろう。・・・・・・」
出典:国立文化財機構所蔵品統合検索システム、高野大師行状絵巻(模本)、「高雄灌頂事」の二枚を連結
https://colbase.nich.go.jp/collection_item_images/tnm/A-6912?locale=ja
「インドで行われる国王の即位式を模したものだけに、式を盛りたてるための人数も多く、また式に必要な装飾もことごとしいものであった。空海はおそらく長安で自分が受けた様式とおなじものをこの高雄山寺で再現したに相違ない。・・・・・・」
上には「高野大師行状絵巻」から「高雄灌頂事」の部分を引用しました。列の奥に坐っているのは灌頂受者の関係者でしょうか。空海が恵果から受けた灌頂(空海の風景の風景その8・参照)と構図は似ていますが(下に再度掲載)、受者が多いこともあり「高雄灌頂事」のほうが賑やかな雰囲気です。
出典:国立文化財機構所蔵品統合検索システム、高野大師行状絵巻(模本)、「大師御入壇事」の二枚を連結
https://colbase.nich.go.jp/collection_item_images/tnm/A-6912?locale=ja
「すべての法をつたえるのが、伝法灌頂である。最澄ほどの大家に対しておこなうのは、当然伝法灌頂でなければならず、最澄もそれを期待したであろう。が、実際はそうではなかった。」
「空海の風景」では、灌頂が終わったあとの最澄から空海への質問と回答を、弟子・円澄への手紙から抜粋しています。
最澄「真言のすべてを伝授されるのは―――伝法灌頂を受けるのは―――幾月かかるか」
空海「三年かかります」
最澄「もともと一夏(三ヵ月)ほどで終るのかと思っていました。」
また、最澄の密教への思いは以下のようではなかったかと司馬さんは推測しています。
「最澄は、天台という顕教をすてて真言という密教に転身する気はなかった。ただかれは国家が正規に採用したかれの天台宗において、採用試験の部門に国家の要請で(おそらく)「遮那業」という密教科を入れたため、責任上、自分自身がそれを学ばねばならぬとしているだけのことなのである。できれば資格だけほしかった。自分の立場に免じ、形だけでも伝法灌頂をさずけてくれてもよいではないか。空海はおそらく最澄のそういう意図を見抜いていたに違いない。」
それに対する空海の心の声は以下のようなものでした。
「(この男は、世渡りの便宜として密教を身につけようとしている)」
「(あれほどの好意を示してやったのに、最澄は密教者にならないのか)」
そして
「最澄は空海にとって複雑であり、あるいはごく単純に愉快とはおもいにくい存在になりつつあったといえる。」
とあります。
理趣釈経の借用を巡って
「―――真言密教の神髄は理趣経にある。ということを、たれが教えたのか。・・・・・・最澄はそれを越州で教えられたか、あるいは高雄山寺の空海のもとに留学のかたちであずけてある弟子たちから耳打ちされたか、いずれにしても、借経される側の空海にすれば、これを教義の秘奥の経典としているだけに、最澄が不空訳の『理趣釈経』を名指しで借りだしにくることをひそかにおそれていたにちがいない。」
なぜおそれたのか、に対しては以下のように説明されています。
「真言密教の仏蔵の伝授は筆授になく行法―――三昧耶―――にあると空海は何度もいってきたが最澄はそれに従わず、強いて筆授を強行してきた。・・・・・・『理趣釈経』を文章だけで読まれてしまえば真言宗というのは要するに男女の合歓をもって大日如来の原理の象徴とするのかとそのままに受けとられてしまうおそれがある。」
出典:空海 著『性霊集』巻第8−10,森江佐七,明26.3. 国立国会図書館デジタルコレクション https://dl.ndl.go.jp/pid/819439 (参照 2024-11-26、一部抜粋)、答叡山澄法師求理趣釈経書
https://dl.ndl.go.jp/pid/819439/1/47
上には「性霊集」から手紙(答叡山澄法師求理趣釈経書)の一部を引用させていただきます。
「書信、至ツテ深ク下情ヲ慰ム。雪寒シ。伏シテ惟(おもんみ)レバ、止観ノ座主、法友常ニ勝レタリト。貧道量リ易シ。貧道、闍梨ト契レルコト、積ンデ年歳有リ。・・・・・・」
ときらびやかな文飾から始まります。ですが、
「しかしながら空海の文章においては、この文飾がほどなく終る。文飾の裘(かわごろも)がはねあげられたあと、匕首がにぎられているのである」
空海は文字のみで密教を理解しようとする最澄に理趣釈経を貸与することを断ります。そして、理趣経の要旨を強い語り口で示し、三昧耶(行法)の重要性を繰り返しました。「空海の風景」からいくつかの文章を引用してみましょう。
「あなたは理趣経々々々といっているが、理趣経も多々ある、理趣経のなかのどういう章をあなたはもとめているのか・・・・・・自分は不敏であるが、自分の大師が訓えたところをいまから示す。だからよく聴け・・・・・・」
「必ズ三昧耶ヲ慎ムベシ。三昧耶ヲ越スレバ、則チ伝者も受者モ倶(とも)ニ益ナシ・・・・・・又秘蔵ノ奥旨ハ文ヲ得ルコトヲ貴シトセズ。唯、以心伝心ニ在リ」
こちらの手紙に対しての最澄の感想が「憑依天台宗序」という書物に書かれているとのこと。
「新来の真言家、則チ筆授之相承ヲ泯(ほろぼ)ス」
つまり
「『あいつは、筆授で外来文化をうけ入れるという日本の伝統をほろぼしてしまった』と、一言で片づけた。最澄はその後も空海と文通があり、信交を絶った形跡がない。ただ最澄は、空海が教示したがごとくに以後態度をあらためるなどとは言っておらず、事実、最澄は最澄としてつらぬいている。最澄もまた苛烈であった。
上には日本最古とされる最澄像の写真を引用させていただきました。
泰範の出奔
話は高雄灌頂の頃に戻りますが、伝法灌頂を受けるには三年が必要といわれた最澄は以下のような手段を考えます。
「やむなく便法を考えた。空海の手もとに、自分のもっとも聡明な弟子を残しておき、かれらに密教を学ばせることである。・・・・・・最澄は大いによろこび、泰範らを選んで、空海につけた。・・・・・・」
泰範の年は最澄よりも十一歳若く、最澄と同じく近江の生まれでした。どちらも旧来の奈良仏教に不満をもつことで共感し、最澄は天台教学を新しい仏教として請来する夢を泰範に語ります。
「さらには憧憬と敬愛が昂じて、僧門によくあるように、男女の愛に似た感情が双方にあったかもしれず、あったところで最澄という存在の風韻をそこなうものではない。」
天台山から最澄が持ち帰った経典を協力しながら読み進める二人でしたが、最澄が帰国して六年目に突然、泰範が辞表を送りつけてきました。最澄はそれでも泰範を慰留し、高雄山寺で一緒に空海から灌頂を受けますが、泰範はそのまま空海のもとにとどまります。
「あずけた弟子たちのうち、泰範の場合だけは事情がちがっている。泰範は自発的に空海のもとにのこった。近江の自坊にも帰らず、最澄らとともに叡山にも帰らなかった。」
とのこと。
上には根本中堂に祀られる最澄像の写真を引用させていただきました。ここでは比叡山寺(根本中堂の前身)で泰範の帰りを待ちわびる最澄の姿を想像してみましょう。この時の最澄の心情は以下のように述べられています。
「かれはこの時期、唐の天台宗をそのまま移植せず、天台教学を中心に、密教と禅と律という四大要素を―――融合させぬまでも―――一つの場に置きたいというあらたな体系を志向していた。それほどぼう大な事業をやるには、最澄の余命は短すぎた。それを思うだけでもいらだつのに、かれがすぐれた自分の協力者であると信じている―――それほどの男であったかどうかは疑問だが―――泰範に逃げられることは、最澄にすればそれによって自分の生涯の志望も事業も煙のようにはかなくなると思うほど、つらいことであったにちがいない。」
最澄と空海の決裂
最澄から泰範への比叡山に戻るようにとのたびたびの手紙に対し、あるとき空海は返書を代理で書くことを買ってでます。下にはその前半を引用しました。
「泰範言(もう)ス」とはじまり、しばらくは自分をへりくだって最澄を礼賛する言葉が続きます。
「私はまことにつまらない人間ではございますが、和尚の竜尾に付することによって名をあげ、また和尚の鳳凰のごとき翼によりかかることによって業をあらわすことになれば、蚊のような私でも労せずに天の河までのぼることができ、みみずのような私でも功なくして清泉を飲むことができます。・・・・・・」
出典:空海 著『性霊集』巻第8−10,森江佐七,明26.3. 国立国会図書館デジタルコレクション https://dl.ndl.go.jp/pid/819439 (参照 2024-11-26、一部抜粋)
https://dl.ndl.go.jp/pid/819439/1/46
「文飾の裘がはねあげられたあと、匕首がにぎられている」のは同じで、上文の後半から突然、分旨が一転します。それは以前の最澄から泰範の手紙に書かれていた「法華一乗と真言一乗とは何の優劣があろうか」という意見への反論でした。空海は泰範の名前を借りて、空海の持論を展開しています。
出典:空海 著『性霊集』巻第8−10,森江佐七,明26.3. 国立国会図書館デジタルコレクション https://dl.ndl.go.jp/pid/819439 (参照 2024-11-26、一部抜粋)
https://dl.ndl.go.jp/pid/819439/1/47
上には手紙の続き(後半部分)を引用しました。
「ほんものの仏(法身仏)と、法身仏が条件に応じて影のようにくるくる変化する応身仏の区別というものは、厳然としてあり得ます。つまり密教は法身仏に拠っており、顕教―――天台宗―――は応身仏によっているのです。でありますから、顕密二教はその説を異にし、かつ、顕教は権(かり)の教え、密教は実の教えという区別があるのでございます。私はその実の教えである真言密教の醍醐味を楽しんでおりますので、いまだ便法(権)の教えである天台宗の教薬を服用するいとまがないのでございます」
そして最後に
「もし和尚が私の真言密教についての狂執を責め給わねば、もうそれだけで私の望みは足ります・・・・・・」
とむすばれていました。
「最澄と泰範のつながりは、この一文で切れた。同時に、最澄はこれが空海その人の断交状と見たであろう。最澄がこの文章が誰の手になるものかわからなかったはずはない。」
また、この手紙による決裂は最澄・空海の個人的な出来事にとどまらず、後の日本の宗教界にも大きな影響を及ぼしたとのこと。
「最澄はこれ以後、閉鎖的になった。自分の教団の壁を高くし、弟子の他宗に流れることをとどめる諸規則、諸制度をつくり、その意味で叡山そのものをいわば城郭化した。・・・・・・日本の宗派が他宗派に対してそれぞれ門戸を鎖し、僧の流出をふせぐという制度をとるにいたるのは、この泰範の事件以降とされる。」
旅行などの情報
乙訓寺
空海が住職を務めた寺として登場します。聖徳太子が開山した由緒あるお寺ですが早良親王が幽閉された場所でもあり、空海が入った時には荒れていました。わずか1年ほどの滞在になりますが天皇に柑子を贈ったり、最澄と初めて顔を合わせたりとエピソードの多い場所となっています。
乙訓寺は戦国時代、織田信長の兵火により衰微しますが、江戸時代になって五代将軍綱吉により再建されました。本堂や山門、鐘楼などは江戸時代の建築で長岡京市の有形文化財に指定されています。春と秋には「木造十一面觀音立像」や「毘沙門天立像」などの特別公開もあるので公式サイトなどをチェックしてみてください。また、現在ではボタンの名所としても知られていて、4月下旬には上に引用させていただいたような華やかな景色をみることができます。
基本情報
【住所】京都府長岡京市今里三丁目14-7乙訓寺
【アクセス】阪急・長岡天神駅からバスを利用、薬師堂で下車(徒歩約5分)
【参考URL】https://otokunidera.jimdosite.com/