井上靖「夏草冬濤」の風景(その2)
鞄を紛失
二学期に入るとすぐに洪作は鞄を紛失するという事件を起こし、本人はもちろん友人や先生、伯母たちはさまざまな反応を示します。今回はこのようなストーリーを、通学路の風景や当時の教科書などを参照しながら追っていきましょう。また、ストーリーとは別出しで徒歩通学の友人たちを紹介し、洪作の食生活についても触れることにします。
二学期の始まり
前回(夏草冬濤の風景その1・参照)金枝などの魅力的な上級生と出会った洪作ですが、新学期に入り、また普段の生活に戻っていきます。二学期の初日、いつものように銀行前で同級生の徒歩仲間を待っていると「増田の肥った体が横町から現われ」、「今日は鞄は要らんぞ・・・・・・時間割をうつして来るだけだ」とのこと。後からやってきた小林も「勉強家は違うな。授業もないのに鞄を持って来やがった」と冷やかしました。
洪作は「ずんぶん間抜けたことをしたものだと思う。鞄には教科書全部とノート全部を詰め込んであって、それはいつもより重かった」とあります。大正時代にも学生鞄として多く用いられた肩掛けカバンの写真をお借りして、教科書などで膨らんだ鞄を持て余しているところを想像してみましょう。
出典:ロマンティスト, CC BY-SA 4.0 https://creativecommons.org/licenses/by-sa/4.0, via Wikimedia Commons
https://commons.wikimedia.org/wiki/File:%E8%82%A9%E6%8E%9B%E3%81%91%E3%82%AB%E3%83%90%E3%83%B3%EF%BC%88%E4%B8%AD%E5%AD%A6%EF%BC%89.jpg
中間地点で休憩
「三島と沼津をつなぐ道は、電車が走っている東海道一本しかなかった。三人の少年はそこを歩いて行く。三島の街を外れると、両側の店舗は次第に農家に替わって行って、やがて人家の切れているところに松林が置かれ始める」とあります。
下は洪作も歩いたと思われる旧東海道「長沢松並木」周辺のストリートビューです。このような場所を、学生服を着た3人が夏休みの出来事を話しながら通学する場面をイメージしてみましょう。
「長沢松並木」を少し進んだ黄瀬川は長い通学路の中間地点に当たり、その橋の傍の「智方神社」は洪作たちの休憩場所となっていました。「三人が壊れかかった木の鳥居の下に腰を降ろしていると、大抵ここで自転車通学の最初の生徒が三人を追い越して行く」とあります。
下に引用させていただいたのは、旧東海道から見た智方神社のストリートビューです。洪作は境内から通学する生徒を観察しますが「鞄を持っている者は一人もいなかった」とあります。
かばんの隠し場所
一人だけ鞄をもっていくことが恥ずかしくなった洪作は「俺、この鞄をどこかに置いて行くぞ」と宣言。小林が「いい場所を知ってる」というところに行ってみると「なるほど、楢の木の根もとにはらくに鞄がはいるくらいの穴があった」とあります。
下には智方神社の境内社(穂見神社)の御神木ともなっているクスノキの写真を引用させていただきました。御神木の案内板には井上靖氏が学生時代にこの下で休憩したとも記されているので、こちらの御神木が鞄を隠した楢の木のモデルとなっているかもしれません。ここでは「小林はまめまめしく木の小さい洞から落葉をかき出し、そこへ洪作の鞄を押し込んだ」というシーンを思い描いてみます。
カバンと教科書を紛失
ところが、学校帰りに隠し場所に行ってみると鞄がなくなっていることが判明します。当時の洪作がどのような教科書を使用していたかは明記されていませんが、大正九年の埼玉県立浦和中学校・教科書配当表(下引用)を参考にしてみましょう。
出典:『埼玉県立浦和中学校一覧』,埼玉県立浦和中学校,大正9. 国立国会図書館デジタルコレクション https://dl.ndl.go.jp/pid/910060 (参照 2024-01-12、一部加工)
https://dl.ndl.go.jp/ja/pid/910060/1/74
こちらの一覧から中学三年生の教科書を拾ってみると下の表のようになります。22冊もあり、全部の教科書を一度に失ったとすると相当ショックだったことでしょう。
伯母にも教師にも鞄を失くしたことを言えず「教科書を揃えたくても、教科書は集まらないだろう。日本中どこを探しても、一冊もないかもしれぬ。自分は三年という学年を教科書なしでやるのだ。教師から当てられたら、隣の生徒の教科書を借りて、それを読むのだ」などと思い詰める洪作の姿をイメージしてみます。
出典:管理人作成
教科書がない学校生活
洪作が教科書をなくした事件はすぐに広まり同級生たちは「洪作に特別な視線を当てた」とあります。また、今まで目立つことがなかった洪作ですが「鞄を失くしたお陰で、洪作はある意味で、いまやクラスのまん中に坐っていた」とも。
なお、「増田が代数の教科書を、小林が国語の副読本を持って来た。増田のは彼の兄が使ったものであり、小林のは親戚の四年生から借りて来たものであった」とあるように、2日目以降は徐々に状況が好転します。上の表でいうと「中等教科代数」や「国文新抄平家物語」がそれに当たるでしょうか。
下には大正時代の博物の授業の写真を引用させていただきました。「博物」とは上表のように動物や植物、鉱物などを扱う科目で、現在の「理科」の一部です。このような実験の時には机上に教科書を置く必要がないため、洪作も少しリラックスできたかもしれません。
出典:不詳, Public domain, via Wikimedia Commons
https://commons.wikimedia.org/wiki/File:Hakubutukyoshitsukoishikawa.jpg
かばんの紛失のストーリーは「夏草冬濤」の序盤のメインとなっていますので、詳細については本文でお楽しみください。以下ではストーリーをすすめるのを一旦やめて、洪作と一緒に通学する少年たちの紹介をしておきましょう。
増田と小林
徒歩通学仲間の増田と小林はどちらも真面目でおとなしい少年ですが、増田は「兄の言うことなら、いかなることでも全面的に信頼をおいていた」のが特徴です。たとえば洪作、小林と三人で千本松原に遊びにいったときの会話を下に引用してみましょう。
増田「ここの松、何本あるか知ってるか」
洪作「八百本」
小林「三千本」
増田「千二百三十八本だ」
洪作「嘘を言え」
増田「嘘なもんか、兄ちゃんが言ってた。だれかが数えてみたら本当に千二百三十八本あったんだって」
「受験生の兄さんが言ったことなら、どんなことでも、増田は真に受け」ました。そして「洪作も小林も、増田の兄さんがいい加減なことを言ったということは判っていたが、しかし、そのことを増田に納得させることのできないことも知っていた」とあります。
ちなみに、しろばんばの風景(その5参照)でも引用した大正時代の千本松原の写真(下)の説明文(右側)によると、「その数実に六千に近かく、東海の一仙境たり」とあります。現在は更に増えては「30数万本以上」あるそうです。
出典:西田繁造 編『日本名勝旧蹟産業写真集』奥羽・中部地方之部,富田屋書店,大正7. 国立国会図書館デジタルコレクション https://dl.ndl.go.jp/pid/967083 (参照 2024-01-13、一部加工)
https://dl.ndl.go.jp/ja/pid/967083/1/35
一方、小林については増田に比べて目立った特徴が描かれていませんが、後に洪作が沼津に下宿することになり、増田が電車通学になっても一人で徒歩通学を続けるところをみると、なかなか根性のある少年でした。
なお、下に引用させていただいた資料によると、増田や小林はモデルとなった方の実名を用いているようです。
ここに出てくる二人はいずれも実在の同級生。増田=増田潔、小林=小林太郎
出典:グラウンドワーク三島ボランタリーニュースNo73
http://www.gwmishima.jp/
洪作の朝食
ついでに洪作の食生活についても、触れておきましょう。「夏草冬濤」の前半には朝食についての記述がいくつかあります。「朝食は味噌汁と漬けものである。生卵がつく日とつかない日があった」とのこと。また、具材は「昨日の朝は葱だったから、今朝は豆腐か馬鈴薯(じゃがいも)だろうと思う」とあるように、いくつかの具材が日替わりになっていたようです。
下には生卵がついた朝食の写真を引用させていただきます。朝寝坊の洪作は、このような朝食を毎日大急ぎで食べてから出かけていました。
出典:写真AC
https://www.photo-ac.com/main/detail/27860008&title=%E5%8D%B5%E3%81%8B%E3%81%91%E3%81%94%E9%A3%AF
苦手な食べ物
また、小説内には洪作が豆腐嫌いであることを告白しています。味噌汁の具材としても「豆腐はいやだ。・・・・・・あんな白くてやわらかいだけの物を、どうして伯母は好むのだろうか」ともいっています。
下に引用させていただいたご子息の回想文によると、井上靖氏は少し濃い味の食べ物を好みとしていたようです。洪作時代の井上氏も、豆腐は少し味気ないと感じていたのでしょうか。
父は食事で贅沢をする人ではなかった。母や手伝いの者が作ったものを、喜んで食べた。いわゆる煮ものや煮魚などを中心にした家庭料理である。ただ、勿論、好みはあった。さっぱりしたものより、どちらかと言えば、脂っこいものを好んだ。
出典:味の味 父、井上靖と“ご馳走”井上 卓也
http://www.ajinoaji.com/inoue%20takuya.html
豆腐については更に、祖父・文太の好物であることに言及します。「夏は手拭いで赤くなった鼻の頭を拭き拭きしながら、ヒヤヤッコで酒を飲む。冬は湯豆腐だ。毎晩、湯豆腐をつっつきながら酒を飲む」といい、「年齢をとると、みんな豆腐が好きになる。どういうわけだろう」ともいっています。
「夏草冬濤」は1964(昭和39)年、井上靖氏が57歳のときに連載を開始した小説です。小説中の祖父の年齢にも近くなったであろう井上靖氏が、下のような美味しそうな冷や奴で一杯というようなこともあったかもしれません。
出典:写真AC
https://www.photo-ac.com/main/detail/27720876&title=%E5%86%B7%E5%A5%B4%E3%81%A7%E7%BE%8E%E5%91%B3%E3%81%97%E3%81%84%E6%97%A5%E6%9C%AC%E9%85%92%E3%82%92%E4%B8%80%E6%9D%AF
増田の親戚の家でのご馳走
洪作が増田に誘われて親戚の小母さんの家にいく場面でも、当時の食生活を知ることができます。小母さんは「何でも好きなものを御馳走して上げるから、ゆっくり遊んでらっしゃい」と歓迎し、「夕御飯、何にしましょうね。おすし、それとも親子どんぶり」と質問しました。
「食卓の上には親子丼のほかにいろいろなものが並んだ」とあり、「卵焼きもあったし、缶詰の鮭もあった。増田に依って洪作の好物として披露された福神漬けも小皿に盛られてあった」とのこと。下の引用文によると缶詰は当時普及し始めたばかりで、モダンな食べ物であったかもしれません。
国内で本格的に普及するきっかけは、1923年(大正12年)の関東大震災以降で、アメリカから送られた支援物資に缶詰が用いられたことによるものとされる。
出典:ウィキペディア
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%BC%B6%E8%A9%B0
ここでは、下のような缶詰の中身がきれいにお皿の上に盛られているところを想像してみましょう。食べ盛りの洪作や増田なら、親子丼を食べ終わったあとに、こちらの鮭缶と卵焼きでご飯をもう一杯いけそうです。
出典:写真AC
https://www.photo-ac.com/main/detail/243538&title=%E3%82%B7%E3%83%A3%E3%82%B1%E7%BC%B6%E3%80%80%235
旅行などの情報
智方(ちかた)神社
洪作がカバンを隠した場所として登場する智方神社は、大塔宮護良(もりよし)親王を主神とする古刹です。ご神木のクスノキは樹齢700年ともされていて、処刑された護良親王の御首を埋葬した目印に植えたとの伝説もあります。
今でも境内は緑が残り当時の雰囲気を感じることができます。徒歩数分のところには「長沢松並木」や源頼朝と弟・義経の対面石が残る「八幡神社」などもあるので、洪作の通学路を散策しながら、他の時代にも思いを馳せてみてはいかがでしょうか。
基本情報
【住所】静岡県駿東郡清水町長沢60
【アクセス】三島駅からバスを利用
【参考サイト】http://www.inarijinja.com/kenmu/tikata/index.htm