井上靖「北の海」の風景(その1)
仲間たちとの別れ
「北の海」は井上靖氏の自伝的小説「夏草冬濤(夏草冬波の風景その1・参照)」の続編です。「夏草冬濤」の時代から数年後、洪作が旧制沼津中学を卒業した大正15年の3月から物語が始まります。中学時代に仲間であった藤井や金枝、木部たちも大学進学などで沼津を去ることに!今回は、「夏草冬濤」のシーンにも触れながら、別れのシーンまでを追って行きましょう。
「夏草冬濤」後のあらまし
「夏草冬濤」は中学四年の春、西伊豆旅行に出かけるシーンで終了しています(夏草冬濤の風景その8最終回・参照)。
その後、「洪作は静岡高校を、四年修了の時と、今年と、二度受験して落ちていた」とあります。友人たちの状況はというと「木部、藤尾は洪作と同じように静岡高校を受けて落ちたが、木部は東京の私大の予科に、藤尾は京都の私大の予科に進むことになっていた。金枝は一高を受けたが、これも落ちて、私立の医科大学の予科に入った」とのことです。
下に引用させていただいたように、洪作たちが不合格だった静岡高校は、東京帝国大学への進学率が全国でも有数の難関校でした。
当時の大学進学は、現在の旧帝大レベルの進学と比べても一層狭き門であり、そこに通じる旧制高等学校もまた、地方の最高学府として優秀な人材を集めていました。旧制静高にも静岡県内外からエリート層が集い、修了後は多くの学生が東京帝国大学へ進学したと言われています。
出典:静岡大学人文社会科学部、【人文社会科学部の歴史】旧制静岡高校のお話
https://www.hss.shizuoka.ac.jp/
下には洪作たちが目指した静岡高校の全景写真です。写真右側にあるコの字の建物の右下が正門でしょうか。ここでは、彼らが緊張した面持ちで入学試験会場に向かう様子を想像してみましょう。
出典:寮史編纂委員会 編『静高寮史』,静岡高等学校寄宿寮,昭和7. 国立国会図書館デジタルコレクション https://dl.ndl.go.jp/pid/1465044 (参照 2024-02-03、一部加工)
https://dl.ndl.go.jp/ja/pid/1465044/1/7
紺がすりに衣替え
「北の海」の冒頭には「卒業と同時に、洪作は袂(たもと)の着物を着た。台北に居る母から紺がすりの袂の着物が送られて来たが、一日も手を通さないで行李の中に入れたままになっていた。それを取り出して着たのである」との記述があります。
当時、洪作たちが通った旧制中学は五年制で「沼津市内に家を持っている少年は四年ぐらいから袂の着物を着始めるのが普通」でしたが、洪作は五年間を学生服で過ごしていました。
下に引用させていただいたのは日本の文芸雑誌「青空」創刊時の梶井基次郎氏(左)、中谷孝雄氏(中央)、外村茂氏(右)の写真です。中央の中谷氏は紺がすりの服がよく似合っていますが、「見慣れてはいたが、自分が着てみると奇妙な気持ちであった」とあるように、洪作の紺がすり姿にはまだ初々さがあったと思われます。
出典:中谷孝雄 (1961) 梶井基次郎, 筑摩書房 巻頭, Public domain, via Wikimedia Commons
https://commons.wikimedia.org/wiki/File:Founders_of_Aozora.jpg
進路について考えるも
友人たちの進路は決まり、一人沼津で浪人をすることになった洪作は、久しぶりで千本浜に行き、風によってつくられた砂の高台に腰を降ろしました。
「そこは何軒か並んでいる別荘地帯の裏手に当たっていたが、どの別荘も夏以外は閉まっていたので、広い千本浜の中でも、そこだけ妙に閑散とした一画を成していた」とあります。大正15年発刊の「沼津みやげ」によると千本浜周辺には以下のような旅館がならんでいたとのことです。
夏期の海岸は、納涼者の天幕軒を連ねて一大分楽をなすの盛観を呈し、遥かに軽井沢を偲ばせる、同所の旅館には有名な千松閣ホテル、東京亭、植松、田中亭、公園館及公園入口に沼津館等あり・・・・・
出典:石塚恭江 編『沼津みやげ』,沼津毎日新聞社,大正15. 国立国会図書館デジタルコレクション https://dl.ndl.go.jp/pid/920374 (参照 2024-02-03)
https://dl.ndl.go.jp/ja/pid/920374/1/58
下には「沼津みやげ」のなかで「同地一流の大旅館」とされている仙(千)松閣ホテルの写真を引用しました。
洪作がこちらの裏手で「このまま沼津で浪人しているか、郷里の伊豆に何軒かある親戚のどこかに厄介になり、浪人の一年間を過ごすか」と考えているところを想像してみます。もっとも寝転んでいた洪作には「眠気が襲い始めていた」のですが・・・・・・
出典:平山岩太郎 編『沼津の栞 : 附・三島近傍案内』,蘭契社,大正5. 国立国会図書館デジタルコレクション https://dl.ndl.go.jp/pid/946182 (参照 2024-02-03、一部加工)
https://dl.ndl.go.jp/ja/pid/946182/1/29
再び制服で中学校通い
千本浜の松林で居眠りをしていた洪作は「級(クラス)は違うが、同学年で、今年落第して卒業出来なかった」遠山という少年に起こされます。「親しく交際したことはなかったが、同じように柔道の選手をしていた関係で、二三回一緒に他校に仕合に出掛けたことがあった」とのこと。その遠山から柔道部の練習を一緒に見てくれと依頼され、引き受けることにします。
部活の時間に合わせて久しぶりに中学に通うことになった洪作は、再び「中学の制服を着込んで」いて、「学帽をかぶっていないことと、下駄履きであることだけが、中学生と違っている」とあります。下は以前も(夏草冬濤の風景その6・参照)引用した洪作の母校・沼津中学校の写真です。
こちらの写真の手前にある正門から入って来る洪作を煙たがりながらも、在校生たちが「―やあ。とか、―おう。とか、短い挨拶の言葉を口から出した」というシーンを想像してみましょう。
出典:静岡県駿東郡 編『静岡県駿東郡誌』,静岡県駿東郡,1917. 国立国会図書館デジタルコレクション https://dl.ndl.go.jp/pid/1915607 (参照 2024-02-03、一部加工)
https://dl.ndl.go.jp/ja/pid/1915607/1/11
仲間との打上げ式
四月も下旬になったある日、洪作、藤尾、木部、金枝の四人は沼津中学の打上げ式を行うことになります。「会場は千本浜の入口にある清風荘というトンカツ屋の二階」とのこと。最初に到着した洪作のあとから、仲間たちがそれぞれのスタイルで登場します。
最初にやってきた木部は「小柄だが、どんな運動でも一応こなすぴちぴちした体を、かすりの筒袖の着物で包んでいる」とあります。彼は「泳いできた」といって畳の上に横になりました。
次にやってきたのは「金ボタンの大学の制服を着た」藤尾で
「今日は送別会だ。おばさん、腕によりをかけてうまい物を作ってくれよ」
と大人のような口をききます
洪作と同じく「袂の絣の着物を着てやってきた」金枝は
「すげえメッチェン(美人のこと)に、いまそこで会った。・・・・・・俺は、この頃、しきりに美女に心を奪われるようになった・・・・・・これが青春というものなんだ」などといいました。
下には大正時代の沼津にあった洋食店(東英亭)の写真を引用させていただき、こちらの写真の二階に、久しぶりに再会した少年たちを置いてみます。
出典:平山岩太郎 編『沼津の栞 : 附・三島近傍案内』,蘭契社,大正5. 国立国会図書館デジタルコレクション https://dl.ndl.go.jp/pid/946182 (参照 2024-02-05、一部加工)
https://dl.ndl.go.jp/ja/pid/946182/1/11
料理はフルコース
料理についての会話では金枝から文学の豆知識が披露されます。
藤尾「今日は定食なんだからな。スープと、魚の料理と、肉の料理が出る。ここの親父はめったにこの町では定食なんて食う奴はないから感激して作っている。今日のことを思って、ゆうべは昂奮して眠れなかったらしい」
金枝「ゴーゴリの“外套”だな」
「他の三人にはよく判らなかった。ゴーゴリの“外套”という小説の主人公がおそらくこの店の親父に似ているのだろうという見当はついたが、それ以上のことは判らなかった」とのこと。以下には「外套」のあらすじから、主人公とトンカツ屋主人との類似点に関連しそうな箇所を引用させていただきました。
仕事ぶりは真面目で、およそ小説の題材となりえるとは程遠い生活を送っていた(―中略―)
出典:ウィキペディア
新品の外套が手に入り、アカーキイは幸せな気持ちだった。およそ楽しみといったものはなく、仕事を機械的にこなすだけの日々だけだった彼にとって、それは画期的な大事件だった。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A4%96%E5%A5%97_(%E5%B0%8F%E8%AA%AC)
文学少年の「金枝はめったやたらに外国の翻訳小説や詩を詠んでいた。文学の話になると、学校の教師も金枝には一目おいていた」とのことです。
下は1890年代に発行された「外套」の表紙となります。金枝が読んだ本の表紙にもこちらのようなデザインが施されていたかもしれません。
出典:The original uploader was Kmorozov at English Wikipedia., Public domain, via Wikimedia Commons
https://commons.wikimedia.org/wiki/File:Gogol_Palto.jpg
再びスープについての会話
少年たちは自分たちの料理を運ぶために一階に降り、「洪作はスープの皿を、木部はスープの入っている鍋を持った」とのことです。ここで、金枝は「夏草冬濤」で磯村家を訪問したとき(夏草冬濤の風景その7・参照)のように、スープについての解説をしました。以下では当時と比較しながら引用していきます。
「夏草冬濤」では
金枝「濃いスープとうすいスープ」について
「濃いのはぼたぼたしていて、うすいのはさらさらしている。・・・・・・スープなどというものにお目にかかるのは、初めてのことなんだ」
「北の海」では
金枝「このスープはコンソメというんだ・・・・・・濁っていないスープだからな。外国の小説の中で何回も飲んでいる。・・・・・・日本だって、コンソメも飲めば、ポタージュも飲む」
ポタージュについては
金枝「牛乳を味噌汁の中に入れたようなものと思えばいいらしい・・・・・・東京へ行ったら、いくらでも飲める。上野に精養軒というレストランがある。そこのダンス・パーティーのことを芥川が書いている。そこへ行けば、いろんなスープがメニューに書いてある」
など。
スープの名前が明らかになるなど、小説から得たスープの情報が詳しくなっています。金枝が引用したものかどうかは不明ですが、下には芥川龍之介「路上」から、精養軒のダンスパーティー(音楽会)のことに触れている部分を抜粋させていただきました。
一週間の後、俊助は築地の精養軒で催される『城』同人の音楽会へ行った。音楽会は準備が整わないとか云う事で、やがて定刻の午後六時が迫って来ても、容易に開かれる気色はなかった。会場の次の間には、もう聴衆が大勢つめかけて、電燈の光も曇るほど盛に煙草の煙を立ち昇らせていた。
出典:青空文庫、「路上」芥川龍之介
https://www.aozora.gr.jp/cards/000879/files/132_15264.html
また、下には築地精養軒の内部写真も引用しておきます。なお、築地の精養軒は関東大震災で全焼したため、上野精養軒がその後を継いで本店となり現在に至っています。
出典:『東京風景』,小川一真出版部,明44.4. 国立国会図書館デジタルコレクション https://dl.ndl.go.jp/pid/764167 (参照 2024-02-05、一部加工)
https://dl.ndl.go.jp/ja/pid/764167/1/53
金枝の言葉に少年たちは上の写真のような東京のハイカラなレストランに重いを馳せたかもしれません。
実際に彼らが食事をしている清風荘の部屋は下に引用したような畳敷きの和室でした。ここでは、こちらの写真の中に、畳の上でくつろぎ、寝転んだり逆立ちしたりと自由にふるまう少年たちを置いてみましょう。
出典:写真AC
https://www.photo-ac.com/main/detail/1527625&title=%E5%92%8C%E5%AE%A4
少年たちのマドンナ
「北の海」でヒロイン役となるのは清風荘で働く「れい子」という少女です。藤尾は「東京や京都でもそうざらに居ないほどの美少女」といっていますが、容姿についての説明は少なく、「北の海」の下巻にて「宇田教師」が表現した「ほう、なかなかきれいな娘さんだね。夢二調の」というのが唯一の表現と思われます。
「夢二式美人」とは下の引用文によると、うりざね顔や大きな眼などに特徴があるとのことです。
憂いを帯びた表情、うりざね顔に細長くしなやかな肢体、大きな眼、竹久夢二の描く女性です。「夢二式美人」と呼ばれたこの女性像は、明治末から大正にかけて雑誌の挿絵などを通じて一世を風靡しました。
出典:国立国会図書館ホームページ、NDLイメージバンク、一世を風靡した「夢二式」
https://ndlsearch.ndl.go.jp/
下には夢二氏のモデルの一人であった、笠井彦乃さんの写真を引用しました。ここでは、打上げ式の席に、このような容姿をした「十七歳のれい子がエプロンをかけて座っていた」というところを想像してみます。
出典:日本語: 撮影者不明 English: Unknown, Public domain, via Wikimedia Commons
https://commons.wikimedia.org/wiki/File:Hikono-1918.png
料理の内容
洪作たちは「スープを飲み、魚のフライとトンカツを食べ、コーヒーを飲んだ」とあります。魚のフライとは下の写真のようなミックスフライだったかもしれません。
出典:写真AC
https://www.photo-ac.com/main/detail/530694&title=%E3%83%9F%E3%83%83%E3%82%AF%E3%82%B9%E3%83%95%E3%83%A9%E3%82%A4
また、下には衣がサクサクで中身がジューシーに揚げられたトンカツの写真を引用させていただきまました。事前に木部が「俺がキャベツ刻んでやる」といっていたので、キャベツの追加は自由にできたのではないでしょうか。
出典:Guilhem Vellut from Paris, France, CC BY 2.0 https://creativecommons.org/licenses/by/2.0, via Wikimedia Commons
https://commons.wikimedia.org/wiki/File:Hire_Tonkatsu,_Tonkatsu_Tombo,_Paris_10_January_2017_002.jpg
料理の後にビールを飲んでいると一階にもお客さんがやって来てれい子が下に行ってしまいます。わがままな藤尾が二階から何度か「れいちゃん」と呼びますが、その呼び方をめぐって木部や金枝ともめ始めます。
木部「そせよ、甘ったれた呼び方は」
藤尾「じゃ、れい子と呼び捨てにするのか。大体、お前がれい子、れい子と呼び捨てにするのは、聞いていて不愉快なんだ」
金枝「れいちゃんもおかしいし、れい子もおかしいよ」
藤尾「じゃ、お前のようにお嬢さんと摩訶不思議な当りさわりのない、自分の気持ちをはぐらかした呼び方がいいと言うのか」
洪作「どっちだっていいじゃないか、そんなこと」
藤尾「お前は口を出す権利はないよ。大体、お前は彼女の方を向いて、堂々と口をきいたことがあるか」
皆がもめていると内儀さんがやってきて「そろそろ帰っておくれよ」とのこと。四人は打上げ式を切り上げて外に出ました。
夜の海岸
洪作たちは食事が終わると千本浜の海岸に出ます。下に引用した大正時代の千本浜の写真から以下の風景をイメージしてみましょう。「浜には晩春の夜の薄明かりが漂っていたが、海面は暗く、その暗い海面に波頭の砕けるのが、何か白い生き物でも居るように不気味に見えている」。
出典:平山岩太郎 編『沼津の栞 : 附・三島近傍案内』,蘭契社,大正5. 国立国会図書館デジタルコレクション https://dl.ndl.go.jp/pid/946182 (参照 2024-02-06、一部加工
)https://dl.ndl.go.jp/ja/pid/946182/1/28
洪作以外の三人は小学校からいつも一緒にいる友人でしたが、木部は他の二人に「別れる方がいい」と言い出します。
金枝に対しては「(金枝は)自分にきびしく、いつも貧乏人の味方で、自分が正しいと思うことだけをやっていくだろう」といい、自分(木部)の放埓な生き方とは方向性が違うとのこと。
また、藤尾に対しては「俺が歌を作り出すと、お前も歌を作る。お前が家の銭をかっぱらうと、俺も真似をする・・・」というようにお互いに束縛されてきたとし、これで自由になれるといいました。
それを聞いていた洪作も「俺もみんなと別れるよ」と宣言すると、「こういうのを四散するというんだ。今まで親しくしていたものが、突然何かの内部作用によって、内側から崩壊し、一瞬にして四方に飛び散ってしまう。いいじゃないか、それも」と金枝がまとめました。
この後は、各々が異なる場所で、独自の道を歩んでいくことになります。
旅行などの情報
千本浜公園・文学のみち
千本浜公園は「しろばんば」や「夏草冬濤」にも何度か登場しますが、「北の海」でも打上げ式などの重要なシーンの舞台です。宴会が終わって千本浜に出た「四人は狩野川の河口近いところまで歩いて行き、それからまた松林の方へ戻って来て、砂浜の一隅に腰を降ろした」とのことですが、千本浜から河口の近くまでは現在、「文学のみち」が整備されています。
「文学のみち」では富士山を眺めたり、下に引用させていただいた「若山牧水記念館」に立ち寄ったりしながらゆったりと散策を楽しんでみてはいかがでしょうか。
基本情報
【住所】沼津市本字千本1910-1
【アクセス】JR沼津駅からバスを利用。千本浜公園で下車
【参考URL】https://www.city.numazu.shizuoka.jp/