宮本輝「地の星」の風景(その5)

ダンスホール開業&選挙出馬を断念

城辺町(じょうへんちょう)の商店街は復興が進み、人気歌手の公演依頼をするまでになりました。一方、自宅の脇に建てた熊吾のダンスホールは準備期間に不幸な事故が起こりましたが、順調な滑り出しをみせます。一方で、熊吾が選挙参謀をつとめる(地の星の風景その2・参照)和田茂十は重い病気にかかっていることが判明し、立候補をあきらめることに・・・・・・

城辺に人気歌手を?

熊吾の妹・タネは裁縫などの家事は苦手でしたが、流行りの服や歌謡曲については知識が豊富でした。
タネ「市松劇場さんが、美空ひばりを一本松に呼びたいと思うて、松山の興行主んとこへ頼みに行ったそうやと」
房江「美空ひばり?」
下には「悲しき口笛」を歌う美空ひばりさんの写真を引用しました。

出典:Directed by Miyoji Ieki, produced by en:Shochiku, Public domain, via Wikimedia Commons
https://commons.wikimedia.org/wiki/File:Hibari_Misora_1.jpg

タネ「なんと、一回の公演が四十万円やて言われて、目ェ白黒させて帰って来たらしいけん」
房江「一回の公演で四十万円・・・・・・。美空ひばりて、まだ十二、三やろ」
タネ「十四歳や。『悲しき口笛』もええけど、こんどの『越後獅子の唄』も、まあ惚れ惚れさせるけんねェ」

上にはその「越後獅子の唄」のYouTubeを引用させていただきました。

房江「四十万円いうたら、新しい鰹船が四隻も買えるわ」

なお、この時は美空ひばりさんを呼ぶことはできなかったようですが、下に引用させていただいたように、商店街の資金が豊富になった昭和40年代の後半になって公演が実現したとのことです。

私(Aさん)は、昭和 40 年代後半、12軒の商店と連携して『城辺専門店会』を作り、その加盟店で買い物をしたお客さんには共通のスタンプシールを配布し、一定枚数集まると、加盟店の商品券やイベントの招待券と交換しました。一番盛り上がったのは歌手の美空ひばりを呼んだときです。美空ひばりに来てもらうためにはかなりお金がかかりましたが、そのときには、今まで商店街に来たことのない人も商品を買いに来たり、中には、商品のまとめ買いをしたりするお客さんもいました。当時、私の店でも多額の負担をしましたが、各加盟店に余力とそれができる売り上げがあったということです。

出典:愛媛県生涯学習センター公式サイト、データベース『えひめの記憶』
https://www.i-manabi.jp/system/regionals/regionals/ecode:1/71/view/4091

チャンバラごっこ

息子・伸仁が
「腰に紐を巻きつけ、そこに長い木の枝を差してチャンバラごっこをしていた」
というのも昭和の時代らしいシーンです。

下には、戦後の少年たちが隻眼隻手の剣士・丹下左膳になりきって、チャンバラごっこをする写真を引用させていただきました。

出典:English: Tanuma Takeyoshi日本語: 田沼武能, Public domain, via Wikimedia Commons
https://commons.wikimedia.org/wiki/File:Tange_Sazen_in_Kiba_Fukagawa_-_1956_-_Tanuma_Takeyoshi.png

熊吾が留守で家には房江とヒサ(熊吾の母)だけの時、伸仁が
「おっちゃんが、ぼくに『坊は長い刀を差してござんすねえ』て言いよった」
といって逃げてきます。
家を訪ねてきた男は「毛皮の襟のついた外套を着た、色の浅黒い男」、増田伊佐男でした。

伊佐男「松坂熊吾の奥方さんかなァし。わしは増田伊佐男っちゅうて、奥方さんのご亭主とは幼なじみの気の毒な男よ・・・・・・おお、松坂の母さんやなァし。わしを覚えちょりなはるかのお・・・・・・」
ヒサ「忘れやせんけん。お前には、ぎょうさんの干柿を盗まれた。うちの子に怪我をさせられたっちゅうが、お前も、うちの娘の顔に火傷をさせたんやけん。・・・・・・自分のやったことは忘れて、されたことばっかり根に持っちょる・・・・・・」

伊佐男は老婆の相手をやめ、房江の方を向いてこういいました。
伊佐男「和田茂十の選挙戦は終わりじゃ。茂十の命は、あと半年やけん、選挙に出てもしょうがありゃせんのお」

彼は房江たちに不気味な笑みを注いで去っていきました。

選挙戦を中止

房江は帰宅した熊吾に伊佐男の言葉を伝えます。
房江「あの人、茂十さんの命は、あと半年やて言うてはった・・・・・・」
熊吾「たいした早耳じゃ。茂十に近い連中の中にスパイがおるんじゃろう・・・・・・手遅れやと医者に言われた」

伊佐男の言うとおり、松山の病院に内緒で呼び出された彼の妻は、死期が近いことを知らされていました。熊吾は茂十にそのことは告げず、養生のため今回の出馬は見送るように説得したとのことです。

出典:愛媛県公式ホームページ、愛媛県議会、県議会の沿革
https://www.pref.ehime.jp/site/gikai/12619.html

上には茂十が活躍することを夢みた昭和20年代の愛媛県議会の写真を引用させていただきました。

ダンスホールでの出来事

音吉が提案したダンスホールは十二月末に完成し、次の年の一月十日の開店を待つばかりとなります。建物の面積は三十五坪(約115平米)ほどとあるので、下に引用した(別府・オリムピック)のような規模だったでしょうか。

出典:『別府案内』昭和12年版,別府商工会議所,昭和12. 国立国会図書館デジタルコレクション https://dl.ndl.go.jp/pid/1029768 (参照 2024-06-11、一部抜粋)
https://dl.ndl.go.jp/pid/1029768/1/155

ダンスホールの二階は政夫のために熊吾が準備した仕事場となっていて
「レコード盤やプレーヤーを置く部屋が設けられてある」
「政夫はその部屋で、レコードの選曲をし、プレーヤーを廻し、中古のマイクロフォンを通してホールに曲を流す役割をつとめることになっていた」
とあります。

ところが、年が明ける三日前、マイクロフォンとスピーカーの試験をしていた政夫が、二階の窓から転落して死亡するという事件が起きてしまいます。

蘇我神社にて

「ダンスホールを建てたことによって、政夫を死なせてしまった・・・・・・」
と弱気になった熊吾は毎日のように
「伸仁をともなって、深浦港にある蘇我神社の、百八十七段の急な階段を昇る」
ことを自分に課します。

下には蘇我神社のモデルと思われる蘇家神社周辺のストリートビューを引用させていただきました。

ある日、熊吾のことを心配して後をつけてきた房江と合流し、階段を三人でのぼるシーンがあります。季節は二月の頭、石段には雪が積もっていました。ここでは、手すりがない急勾配の階段を注意深く登る三人の姿をイメージしてみましょう。

熊吾はいつも
「境内まであと五十段くらいのところで腰を降ろして、鳶や海猫やかもめや、港を出ていく船を見ながら、熊吾は伸仁にさまざまなことを語って聞かせる」
とのこと。

例を挙げると
「中国に揚子江っちゅう大きな河がある。海よりもでっかいかと思うほどの河じゃ。・・・・・・日本は小さい。こんな小さい国に住んじょると、人間の出来までが小そうなるんじゃ。お前がおとなになったら、こんな小さい国になんかおるな。どこか、でっかい国で暮らせ」
など。

また、房江とはダンスホールについて以下のような会話をしました。
房江「きょうは、最低でも六人のお客さんがあるよ・・・・・・小学校の若い先生が三組、必ず、ダンスホールの開店の日には行くって約束してくれたそうやから」
熊吾「男だけが来よっても、ダンスのしようがないけんのお」
房江「ダンスなんて踊ったことのない人ばかりやから、当分のあいだは、タネちゃんがお客さんの手を取って教えなあかんし、レコードのかけ方を教えてもろたから、きょうは、私が二階にあがらなあかん」

ダンスホールは繁盛

開店前に不幸があったダンスホールでしたが
「開店して一週間もたたないうちに、入りきれない客たちを入口で断らねばならないほどの活況を呈しはじめた」
とのこと。

熊吾は政夫の代わりに
「二階の小部屋から片時も離れることができないまま、熊吾自身がレコードをかけつづける役廻りを受け持つはめになった」
とあります。

また、房江は男女のカップルを作ることに長けていました。
「房江の役割は、習ったばかりのステップを教えることだけではなかった。踊りの相手をともどもに欲しながらも、恥ずかしがってダンスホールの隅に突っ立ている男と女を促し、即席のパートナーを作ってやるという役割も担当しなければならなかった。」
とのこと。

出典:大東京写真帖, Public domain, via Wikimedia Commons
https://commons.wikimedia.org/wiki/File:Union_Dance_Hall_Ningyocho.jpg

上に引用したのは昭和初期のダンスホールの写真です。ここでは房江が隅にいる男女に対し、以下のように指図しているところを想像してみます。
「はい、あんたは、えーと、うん、あのお嬢さんと踊ってもらいなさい。紳士は男らしく、礼儀正しく、ダンスに誘わなあかんよ。お嬢さんのお名前は?育代さんか。はい、育代さん、この人と一緒にダンスを習いなさい」
「そこの、わざわざ宿毛から来たのに、壁と踊ってる人、あの小柄なお嬢さんにパートナーになってもらいはったらいかが?」

ホールに流れていた曲は?

熊吾のダンスホールにどんな音楽が流れていたかは不明ですが、タネが
「兄さん、早よう次のレコードをかけてやんなはれ。ジルバや、ジルバの曲やけんね」
という場面があります。

上にはジルバの曲として人気があったグレン・ミラー「インザ・ムード」の動画を引用させていただきました。ここではテンポのよい曲に合わせて、多少のミスを気にせず、楽しく踊る若者たちの姿をイメージしてみましょう。

旅行などの情報

蘇家(そが)神社

熊吾家族が三人で海を眺める場面で登場してもらいました。平安時代創建と伝わる歴史のある神社です。下に引用させていただいたような急坂で、熊吾のころは「高校の柔道部の連中が、ひィひィ言いながら、この石段を二往復走り昇らされちょる」とのこと。

ちなみに熊吾と伸仁は毎日こちらに来ましたが「神社の境内に足を踏み入れたことはなかった」とあります。旅行で立ち寄る際には、体力を充分に残し、境内でお参りをしてみてはいかがでしょうか。

基本情報

【住所】愛媛県南宇和郡愛南町深浦286番地
【アクセス】松山道・津島岩松ICから
【参考URL】http://ehime-jinjacho.jp/jinja/?p=3876