村上春樹「羊をめぐる冒険」の風景(その5)

黒服の男の話

先生の家で「黒服の男」と対面した「僕」は「羊の写真」についての秘密を聞かされます。彼は撮影者の名前(「鼠」のこと)などを聞き出そうとしますが、迷惑がかかるのを恐れた「僕」は教えませんでした。代わりに彼は、特別な一頭の羊を捜し出すことを要求します。追い詰められた「僕」は「耳のモデル」とともに北海道に飛ぶことに!

先生の家にて

前々回(羊をめぐる冒険の風景その3・参照)、「本物の運転手」がついた「巨大な車」に迎えられた「僕」は明治風の洋館と平屋の日本家屋などがつながった立派な屋敷に到着します。下に引用した旧岩崎邸の華麗な姿から、先生の家を想像してみましょう。

出典:Ippukucho, CC BY 3.0 https://creativecommons.org/licenses/by/3.0, via Wikimedia Commons
https://commons.wikimedia.org/wiki/File:OldIwasakiMansion.JPG

「僕が通されたのは玄関のすぐ右手にある八畳ほどの洋間だった」とのこと。
「和服を着た年配の女中が入ってきてテーブルの上にグレープ・ジュースのグラスをひとつ置き、何も言わずに出ていった」
そして
「十分後にもう一度ドアが開き、黒いスーツを着た背の高い男が入ってきた。男は『ようこそ』とも『おまたせしました』とも言わなかった。僕も何も言わなかった。男は黙って僕の向かいに腰を下ろし、少し首をかしげて僕の顔を品定めするようにしばらく眺めた」とあります。

黒服の秘書の姿

黒服の秘書(以下黒服の男)については、その奇妙な雰囲気が詳細に描かれています。以下に一部を抜粋してみましょう。

「黒服の秘書は椅子に腰を下ろすと、何も言わずに僕を眺めた。くわしく観察する視線でもなければ、なめまわすような視線でもなく、体を貫くような鋭い視線でもなかった。冷たくもなければ暖かくもなく、その中間ですらなかった」

「男は相棒が説明してくれたとおりの男だった。服装がきちんとしすぎていて、顔は整いすぎていて、指はあまりにもすらりとしすぎていた」

「瞳はよく見ると不思議な色をしていた。茶色がかった黒に、ほんの少しだけブルーが入ったような瞳だった。右と左でその入り方の度合いが違っていた」
など。

出典:Bain News Service, Public domain, via Wikimedia Commons
https://commons.wikimedia.org/wiki/File:Busterkeaton.jpg

上には「偉大なる無表情」といわれた喜劇役者バスター・キートン氏の写真を引用してみました。ここでは、こちらの写真から黒服の男の表情を想像してみましょう。

黒服の男との会話

黒服の男「・・・・・・現実的な問題から始めよう。君の作ったPR誌の問題だ。そのことは聞いたね?」
僕「聞きました」
黒服の男「それについては君も驚いたと思う。誰だって苦労して作りあげたものを破棄されれば不愉快な気持ちになる。・・・・・・現実的な損失も大きい。そうだね」
僕「そのとおりです」
黒服の男「その現実的な損失という点について君の説明が聞きたい」

「僕」は用紙代と印刷代などの金銭的な損失と、会社の評判が悪くなることでPR誌の契約が破棄になるリスクについて説明しました。

下には「旧岩崎邸」の学習室の写真を引用させていただきました。こちらで向かい合う「僕」と「黒服の男」をイメージして話をすすめます。

黒服の男「私が生命保険会社に廃棄ぶんの雑誌に対する無条件の支払いと、今後の契約の続行を忠告したらどうなるだろうね・・・・・・その上にプレミアをつけてもいい。私が名刺の裏に一言書くだけで、君の会社はあと十年ぶんくらいの仕事をとれるよ。・・・・・・君だっていつまでも頭の鈍い酔払いと共同で仕事をつづけているわけにもいかないだろう」
僕「我々は友だちです」

すると「底なし井戸に小石を投げ込んだような沈黙がしばらく続いた」とあります。

羊の写真

「黒服の男」は「大判のモノクローム写真を取り出し」ます。
黒服の男「これは君の雑誌に載った羊の写真だ・・・・・・我々が欲しいのは三つの情報なんだ。君がどこで、誰からこの写真を受け取ったか、そしていったいなんのつもりでこんな下手な写真を雑誌に使ったか、だ」
僕「言えません・・・・・・ジャーナリストにはニュース・ソースを守秘する権利があります」
黒服の男「君はどうも奇妙な男だな・・・・・・私にはやろうと思えば、君達の仕事を全部シャット・アウトすることもできるんだよ。・・・・・・それに、君のような人間をしゃべらせる方法は幾つかある」
僕「しかしそれには時間がかかるし、それまでは僕はしゃべらない。しゃべったとしても全部はしゃべらない。あなたはどれだけが全部なのかはわからない」

出典:北海道農会 編『北海道農業写真帖』,北海道農会,昭11. 国立国会図書館デジタルコレクション https://dl.ndl.go.jp/pid/1687708 (参照 2024-04-08)
https://dl.ndl.go.jp/pid/1687708/1/89

「僕」から直接写真の情報を聞き出すことをあきらめた「黒服の男」は、拡大鏡を僕に渡し「それで写真を心ゆくまで調べてくれ」といいます。上には昭和初期に上士幌町で撮影された緬羊放牧の写真を引用させていただきました。

黒服の男「何か変ったところに気づいたか?」
僕「何も」
黒服の男「羊についてどの程度のことを知っている?」
僕「偶蹄目。草食、群居性。たしか明治初期に日本に輸入されたはずです。羊毛と食肉に利用されている。そんなところですね」
黒服の男「・・・・・・明治まで、殆どの日本人は羊という動物を見たこともなければ理解もできなかったということになる。十二支の中にも入っている比較的ポピュラーな動物であるにもかかわらず、羊がどんな動物であるかということは、正確には誰もわからなかった。つまり、竜や獏と同じ程度にイマジナティブな動物だったといってもいいだろう。事実、明治以前の日本人によって描かれた羊の絵は全て出鱈目な代物だ。H・G・ウェルズが火星人に対して持っていた知識と同じ程度といってもいいだろう。」

下に引用させていただいた投稿(中央右端)のように、羊はヤギと混同されて描かれることが多かったようです。

また、以下はH・G・ウェルズの「宇宙戦争(1898年)」の表紙の写真です。火星人はタコのような生き物として描かれています。

出典:Frank R. Paul, Public domain, via Wikimedia Commons
https://commons.wikimedia.org/wiki/File:War_of_the_Worlds_original_cover_bw.jpg

黒服の男「日本にいる羊の殆どは何代も以前まで簡単にさかのぼることができる。種でいうなら、サウスダウン、スパニッシュ・メリノ―、コツウォルド・・・・・・サフォーク、だいたいこの程度のものだ・・・・・・前列の右から三頭めの羊をよく見てほしい」
僕「種類が違いますね」
黒服の男「そのとおりだ。その右から三頭めの羊をのぞけば、あとは普通のサフォーク種だ。その一頭だけが違う。サフォークよりはずっとずんぐりしているし、毛の色も違う。顔も黒くない。なんというか、ずっと力強い感じがする。私はこの写真を何人からの綿羊の専門家に見せて見た。彼らの出した結論は、こんな羊は日本には存在しないということだった。そしておそらく世界にもな。だから、今君は存在しないはずの羊をみているということになる」

出典:J gareth p at the English Wikipedia, CC BY-SA 3.0 http://creativecommons.org/licenses/by-sa/3.0/, via Wikimedia Commons
https://commons.wikimedia.org/wiki/File:7_month_old_Suffolk_Ram_Lamb.JPG

参考のために上にはサフォーク種の羊の写真を引用しておきます。ここでは、「存在しないはずの」羊の背中にある「星形の斑紋」を拡大鏡で観察する僕を想像してみましょう。

先生のこと

「黒服の男」はボスである右翼の大物「先生」のことを語ります。脳に血瘤(けつりゅう)を抱えたまま40年以上も生き続けていることや、血瘤が発生した時期に「先生はいわばべつの人間に生まれ変わった」ことなど。

下に引用させていただいたのは「(米軍に)アーミーホスピタルとして接収されていた聖路加病院」の外観です。こちらの建物は1933年(昭和8年)竣工当時の姿を残しているとのこと。A級戦犯として拘留された先生はこちらの病院で血瘤についての詳しい診察を受けました。

出典:江戸村のとくぞう, CC BY-SA 4.0 https://creativecommons.org/licenses/by-sa/4.0, via Wikimedia Commons
https://commons.wikimedia.org/wiki/File:Seiroka-1.jpg

羊が先生に入って去った話

「黒服の男」は続けます。
黒服の男「私の仮説を言おう。・・・・・・私はその羊こそが先生の意思の原型を成していると思うんだ」
僕「動物クッキーみたいな話ですね」
「男はそれを無視した」とあります

下にはクッキーの型の写真を引用させていただきました。右下のモコモコした型が羊と思われます。「僕」の頭に浮かんでいたのはこちらのようなものだったでしょうか?

黒服の男「おそらく羊が先生の中に入りこんだんだ。・・・・・・それ以来四十年以上、羊は先生の中に住みついていたんだ。そこにはきっと草原があって、白樺の林があったはずだ・・・・・・特殊な羊なんだ。・・・・・・私はそれを探し出したいし、それには君の協力が要る」

「僕は先生の頭の中の草原を思い浮かべてみた。草は枯れ、羊の逃げ出した後の茫漠とした草原」とあります。下に引用させていただいたのは冬の牧場の写真です。「僕」がイメージしたのはこちらのような景色だったかもしれません。

ホテルのバーで

以上のような荒唐無稽な話を聞いた後、「僕」は黒服の男から「二ヵ月以内」にその羊を探し出すという使命を与えられます。「家に帰る前にまともな人間が二本足でまともに歩いているまともな世界を見ておいた方が良いような気がした」僕は新宿の西口で車を降ろしてもらいました。

「僕は高層ホテルの最上階に上がって、広いバーに入り、ハイネケン・ビールを注文した」とあります。下には1973年の新宿の空撮写真を引用させていただきました。ここでは新宿の高層ビルの先駆けであった京王プラザホテルに「僕」が入ったと仮定し、上階のバーに向かうところをイメージしておきましょう。

「僕」は「朝からフルーツ・ケーキひとつしか食べていない」ことを思い出し、こちらのバーで軽食をとることにしました。「チーズと胡瓜のサンドイッチを注文した。添え物を訊くと、ポテト・チップとピクルスだった。ホテト・チップをやめてピクルスを二倍にしてもらった」とあります。

下に引用させていただいたのは1971年の京王プラザホテル誕生時に営業を開始したスカイバー・ポールスター(2016年に閉店)の写真です。「僕」もこちらのような夜景を眺めていたかもしれません。

出典:西新宿.com、京王プラザホテル「ポールスター」2016年に閉店した西新宿のホテルバー【西新宿思い出写真館】
https://www.nishishinjyuku.com/entry/2018/08/28/155305

「いわし」を預けて冒険に出発

「僕」は先生から去った羊を探すため、「耳専門のモデル」とともに「羊の写真」が撮られた北海道に行くことにします。そして不在の間、「僕」の飼い猫を「黒服の男」に預けることにしました。空港まで送ってくれたのは例の「本物の運転手」で、彼はまだ名前がなかった飼い猫に「鰯(いわし)」という名前を付けてくれます。

下に引用させていただいたのは村上春樹氏の小説「うずまき猫の見つけ方」と並んだかわいい猫の写真です。ここでは運転手が抱こうとすると「猫は怯えて運転手の親指をかみ、それからおならをした」というシーンを想像してみます。

旅行などの情報

トイスラー記念館

「先生」が診察を受けた聖路加国際病院の旧棟は昭和8年竣工時の姿をそのまま残しています。同じ敷地内にある「トイスラー記念館」も昭和8年築の建物で、トイスラー宣教医師が開院した同病院と深いかかわりがあります。

下に引用したようにヨーロッパの山荘を思わせるおしゃれな外観が見どころです。また、周辺にはこぢんまりとした庭園もあり、春はつつじ、初夏はあじさいなどが目を楽しませてくれます。

出典:三人日, CC BY-SA 4.0 https://creativecommons.org/licenses/by-sa/4.0, via Wikimedia Commons
https://commons.wikimedia.org/wiki/File:TeuslerKinenkan20130715.jpg

基本情報

【住所】東京都中央区明石町10
【アクセス】東京メトロ築地駅から徒歩約10分
【参考サイト】https://www.city.chuo.lg.jp/a0052/bunkakankou/rekishi/bunkazai/kuminbunkazai/seirukakokusaibyouintoisurar.html

マザー牧場

黒服の男が提示した羊の写真は北海道の牧場のものですが、ここでは関東と関西で羊が見られる人気スポットを1つずつ紹介しておきましょう。

マザー牧場は千葉県にある人気レジャースポットでサフォーク種を含む19種類もの羊を飼育しています。羊たちや牧羊犬とのショーや子羊とのふれあいなどのさまざまなイベントがあるのも人気のポイントです。他にもレストランや遊園地、花畑などが広大な敷地に点在し、終日遊ぶことができます。

基本情報

【住所】千葉県富津市田倉940-3
【アクセス】JR君津駅南口からバスでマザー牧場まで
【参考URL】http://www.motherfarm.co.jp/

神戸六甲牧場

神戸六甲牧場でもサフォークやコリデール、サウスダウンなど10種類ほどの羊を飼育しています。こちらでは下に引用させていただだいたような羊などが通年放牧されているため、気軽にふれあえるのが魅力です。

ほかにもモルモットやうさぎとのふれあいや乗馬、子牛のミルクやりなどの体験コーナーも充実しています。手ぶらでバーベキューができるスポットや、自家工場で製造したカマンベールチーズを使った「チーズフォンデュ」が名物のお店もあり、グルメも楽しめるでしょう。

基本情報

【住所】兵庫県神戸市灘区六甲山町中一里山1-1
【アクセス】神戸三宮駅から公共交通で約1時間 20 分
【参考URL】https://rokkosan.jp/