宮本輝「満月の道」の風景(その2)

板金塗装部門の立ち上げ

「ハゴロモ」はフェリーにより調達エリアを広げることで、安くて高品質な車を得ることに成功。板金塗装部門を立ち上げることで迅速に販売できるようになりました。そんな中、経理の玉木の伝票処理について不可解な情報を得ますが・・・・・・。また、伸仁の友人・トクちゃんは退職螺鈿細工の修行のため「パブリカ大阪北」を去って行きました。

キマタ製菓

「熊吾が『キマタ製菓』を訪ねたのはきょうが初めてで、木津川に沿った道をバスで南へと行き、たぶんこのあたりだろうと見当をつけた停留所で降りたが、道に迷ってしまい、あっちこっちの角を曲がり、と歩き廻っているうちに四ツ橋筋を渡って横堀川のほとりへと出てしまった。」

下には西横堀川と交わる西長堀川の昭和時代の写真を引用させていただきました。どちらの川も埋め立てにより姿を消していますが、当時は丸太が並び多くの材木商が並んでいました。ここでは、こちらの橋の上に道に迷って困っている熊吾の姿を置いてみましょう。

出典:大阪市立図書館デジタルアーカイブ、西長堀川、日下福蔵、1973
http://image.oml.city.osaka.lg.jp/archive/detail?cls=ancient&pkey=w5015001

キマタ製菓では社長の木俣敬二がチョコレートをつくっています(満月の道の風景その1・参照)。熊吾との会話を抜粋してみます。
熊吾「それがカカオバターっちゅうやつか?」
木俣「これを溶かして、細こうにしたカカオ豆と砂糖を入れて、弱火で一時間くらい練りまんねん。カカオ豆は、ただ細こうにするだけではあきまへんねん。滑らかさが命です。それをするのがこっちの機械。ローラーとローラーのあいだに微細な隙間をこしらえるのが職人の腕でして」

熊吾は汗でびっしょりの木俣を見て、チョコレート作りが思ったより重労働と知ります。効率よく作れる機械はないのかと尋ねると、木俣はあるのだが高くて買えないと回答。木俣の体を気遣った熊吾は資金を貸すことにしました。

富岡海運との取引

ハゴロモの中古車の売れ行きは好調でしたが、中古車業会の競争が激しくなり、大阪近辺で良質の中古車を買い付けすることが難しくなってきました。そんな時、フェリーを利用して山陽や四国にエリアを広げることを提案してきたのが富岡海運社長の富岡仙一です。富岡については以下のように記述されています。
「富岡仙一という五十八歳の男は、戦前に父親が創設した富岡海運株式会社を戦後五年たったときに引き継いで、まず今治のタオル業者たちとの仕事から会社再興を始めた。・・・・・・富岡仙一は、それら大手が石炭や鉄工業品に比重を置こうとしているのを察知し、今治のタオル業者との取引き契約に奔走した。・・・・・・たが、タオルだけだと、どうしても貨物船に無駄な空きが生じる。それもかなりの空きだ。富岡仙一はその空きを中古車で埋めようと考えて、熊吾との交流が始まった。」

出典:ヒョーゴアーカイブス、国道2号線渋滞中、姫路市今宿の高岡歩道橋付近の風景、1970年代
https://web.pref.hyogo.lg.jp/archives/c096.html

大阪市から福岡県北九州市に至る国道2号線は、上に引用させていただいたように当時から渋滞が激しく、トラックドライバーを悩ませていました。

富岡「・・・・・・じつはこれは私の着想やないんです。いまはまだお名前を明かせんのですが、おんなじ海運業者にIさんというかたがいてはります。そのIさんがこれからやろうとしてることをヒントにして、私なりに工夫しただけです。・・・・・・Iさんは、荷を積んだ大型トラックを運転手ごとフェリーで運ぶことを思いつきはったんです。それなら、ガソリン代は要らん、運転手は休める、目的地に着く時間も大幅に縮められる、とね」

1960年代前半から阪神-北九州間でのカーフェリーによる輸送効率化を着想[18]、1965年に「阪九フェリー」を設立し1968年に神戸港-小倉港間で日本初の長距離フェリー航路を開設。

出典:ウィキペディア、入谷豊州
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%85%A5%E8%B0%B7%E8%B1%8A%E5%B7%9E

Iさんがどなたかは不明ですが、上に引用させていただいた資料などによると実業家の入谷豊州(いりたにとよくに)氏がモデルかもしれません。以下には入谷氏が設立した阪九フェリーの第一船・フェリー阪九の写真を引用させていただきました。

出典:阪九フェリー株式会社公式サイト、フェリー阪九
https://www.han9f.co.jp/ships-history/

トクちゃんの旅立ち

「夏のボーナスをもらった翌日の七月一日に、トクちゃんこと水沼徳は『パブリカ大阪北』を辞職して、螺鈿工芸師になるために京都の守屋忠臣のもとに弟子入りすることになった。」

田岡の運転でトクちゃんを送っていった熊吾が、車のなかでご両親がよく許してくれたものだなというと
トクちゃん「お母ちゃんがお父ちゃんに頼んでくれたんです。トクの好きな道に進ませてやろうって。お父ちゃんは、人を使うて一銭も払わんようなやつが信用できるか、って怒鳴りまくったんです・・・・・・」
とのことでした。

京都の仕事場兼自宅で守屋忠臣は下のように本音を明かします。
守屋忠臣「私はもう弟子はとらんと決めてましたんや・・・・・・あの子が一人前になるまで私は生きてられませんので」
熊吾「私もですなァ」

守屋忠臣のモデルがどなたかは不明ですが、上には昭和45年に木工芸の分野で初めて重要無形文化財保持者(人間国宝)に認定された黒田辰秋さんの作品を引用させていただきました。

仮名手本忠臣蔵の舞台

トクちゃんを送り届けた帰り、運転する田岡勝己は抜け道を提案します。
田岡「山崎、水無瀬、高槻、茨木、池田と通って行く道です。国道一号線よりも空いていると思うんです。たしか百七十一号線という国道です。」
熊吾「ああ、中心蔵の五段目、『山崎街道の場』に出てくる道じゃ。歌舞伎では名前を変えてあるが、赤穂浪士断絶のあと、家老の大野九郎兵衛の息子・定九郎が零落して追剥に身をやつし、お軽の父・与一兵衛を切り殺して五十両を奪う。その定九郎をイノシシと間違えて、お軽の夫・早野勘平が鉄砲で撃ち殺す・・・・・・『ででんでんでんでんでん、またも降り来る雨の脚、人の足音とぼとぼと・・・・・・』。この五段目は『弁当幕』っちゅうてのお・・・・・・」

熊吾が語る「五段目」は見どころが少なく、観客が弁当を食べることが多いため「弁当幕」とも呼ばれていたとのこと。ですが、伸仁はなぜか五段目を気に入っていました。
熊吾の言葉と重複しますが、以下には五段目をシンプルにまとめた動画を引用させていただきました。

昭和37年当時、国道171号沿いにあった「お軽と早野勘平の旧居跡」という石碑を見た熊吾は、
熊吾「ここじゃ、ここじゃ。もっと山のなかじゃと思うちょったが国道沿いか?昔は人斬り強盗やイノシシが徘徊しちょったとこやぞ」
田岡「それは江戸時代でしょう?いま昭和ですから」

伸仁の富士登山

高校に入って初めての夏休みを迎えた伸仁は、高校主催の富士登山に参加します。

「夜行列車で静岡まで行き、貸切りバスに乗って富士山の五合目で降りて、その日は団体用の宿泊施設に泊まる。翌日の早朝に登山を開始し、頂上まで登れた者も登れなかった者も、昼の三時に箱根の強羅をめざす。その夜は強羅の温泉で一泊し、翌日の午前中は、白糸の滝などの名所を見物して、昼過ぎ列車で大阪へ帰って来るという日程だった。」

出典:富士山みはらし公式サイト、昭和30年代
http://www.fujisan5.com/index.php

上に引用させていただいたのは昭和時代の「みはらし五合目ホテル(現・富士山みはらし)」周辺の写真です。ここでは「小さめのリュックサックに着替えや菓子を入れた」伸仁が、不安と期待を抱きながらホテルの前に集合している姿を想像してみます。

鳥すき店にて

熊吾の中古車会社は一見順調に思えましたが、大学夜間部に通いながら働く従業員・神田三郎から少し気になる話を耳にします。会社の経理を担当する玉木則之が一つの商品に対し、金額の違う伝票を二枚作っているとのこと。熊吾は、右指が震えるようになった玉木が伝票で字の練習をしているのではといってみたものの、釈然としません。

上に引用させていただいたのは東京神田にある明治時代創業の「鳥すきやきぼたん」の料理です。
ここでは
「この店のがほんまの鳥すきやとしたら、ぼくの家のは何なんやろ・・・・・・」
といいながら料理を美味しそうにほおぼる神田少年の姿をイメージしてみましょう。

家計簿をつけながら

房江の家計簿には次のような文字が書かれていました。
「玉子五個 六十五円、豆腐二丁 四十円、マヨネーズ 百十五円……食パン 三十二円」。
どちらも令和時代に比べると大分安価です。また、ペン習字のおかげで新しい漢字を書けるようになったことが嬉しく、過去のメモを見直していました。

福島西通交差点の北側には「ミコタ通り商店街」や「聖天通り商店街」がありますが、房江の買い物は福島西交差点の南側と東側で済ませます。例えばカレー用の牛肉は「浄正橋の交差点を(南に)渡って福島天満宮の前を右に曲がったところにある精肉店」を利用していました。上に引用させていただいた福島天満宮(右)の周辺のストリートビューのなかに精肉店に入る房江を置いてみましょう。

あの子は、好きなことをさせといたらいいです

伸仁の通う関西大倉高校は生徒数急増のため次年(昭和38年)度に茨木市に移転することになります。その説明会にやってきた房江は校庭で、伸仁の担任の紀村晋一という英語教師に会いました。二人の会話を抜粋してみましょう。

紀村「松坂くんは絵が好きですねェ。うちの高校で、図書館で画集をひらいているのは、紀村さんのクラスの松坂伸仁だけやて司書の人が言うてました。前は岸田劉生やったけど、最近は横山大観になったそうです。おうちで、なんかそんなきっかけでもあったんですか?」
房江「画集ばっかり見てるもんですから、こないだ父親が京都の美術館につれて行きました。日本の近代画のなんとか展というのをやっていたそうで、そこで横山大観の絵を見て、その絵を使うて作った絵葉書を買うて来て、水彩絵具でそれを写してます。」
紀村「あの子は、好きなことをさせといたらいいです」

出典:パブリックドメインQ、横山大観 「蓬莱山」 (1948)
https://publicdomainq.net/yokoyama-taikan-0016937/

上に引用させていただいたのは横山大観画伯の作品のひとつ「蓬莱山」です。こちらのような絵葉書を見ながら真剣に模写をする伸仁の姿を想像してみます。

板金塗装業も

教師の言葉から「人間として案じなければならない点はいまのところない」とほっとした房江は、そのことを熊吾に伝えようと、関西大倉高校の北にあるハゴロモ大淀店に立ち寄りました。

大淀店では「つなぎの作業服を着た坊主頭の青年が、一台の中古車の前輪部分の車体をバーナーの火で焼き切る作業をしていた。その中古車のうしろ側にも、もうひとり坊主頭の青年がしゃがんでいて、板金を終えたドアの部分に塗装の下塗りを施している」
とのこと。

下には「伊香保おもちゃと人形自動車博物館」の公式サイトより、昭和時代の大衆車やタクシーの写真を引用させていただきました。ハゴロモ大淀店でもこちらのような車が板金塗装を待っていたかもしれません。

出典:伊香保おもちゃと人形自動車博物館公式サイト、自動車博物館
http://www.ikaho-omocha.jp/index.html

熊吾「もうどうにもこうにも板金塗装の部門を作らんとハゴロモの商売がやっていけんようになったんじゃ。黒木が徳島や高知や広島を駆けずり廻って仕入れた中古車十二台のうち八台が、どこかにぶつけた跡がある。へこんじょったり、傷がついたままにして地金が錆びちょったり・・・・・・。エンジンにも足廻りにも、他のどこにも支障がないのに、それだけで客は敬遠しよる。お陰で安う仕入れられても、売れんかったら船で神戸港まで運んだ甲斐がないけんのお。・・・・・・それで、今朝ここへ来て、決めたんじゃ。ハゴロモで板金塗装もやるぞ、と」
房江「今朝?今朝決めて、なんでもうふたりの職人さんを見つけて、仕事を始められたん?」
熊吾「わしは魔法使いなんじゃ」

世の中はゴルフブーム

シンエー・モータープールの柳田社長は、熊吾の代理で社長室に来た房江に、自分のゴルフ場をつくることを打ち明けました。壁に貼ってある地図の一部を指差してこういいます。
「ここは川辺郡猪名川っちゅうところや。ほとんど畑と荒れた山林しかないところや。ぼくはここに自分のゴルフ場を造る。ぼくの最後の仕事や」

上には昭和35年ごろのゴルフ人気の動画を引用させていただきました。以下の熊吾と房江の会話からは、当時はお金持ちだけの娯楽と考えられていたことが分かります。
房江「ゴルフ場って、どんなとこ?」
熊吾「わしも行ったことがないけん、見当もつかんが、三河自動車の社長が最近凝り始めて、わしに顔を合わせるたびに誘いよる。あの小さなゴルフのボールが、なんと一個二百八十円らしい。探しに行けんとこに飛んでいったら、二百八十円が一瞬にしてパーじゃ。とにかく、とんでもなく金のかかる遊びらしい」

旅行などの情報

萱野三平記念館

守屋忠臣の家から大阪に帰る時に熊吾が見た「お軽と早野勘平の旧居跡」という石碑の情報は見つけられませんでしたが、国道171号線をさらに大阪に向かうと早野勘平のモデルとなった萱野三平の記念館(実家跡)があります。実在の萱野三平は赤穂藩主・浅野内匠頭の江戸城・松の廊下での殺傷事件をいち早く赤穂に知らせた人物です。その後、吉良邸討入に加わろうとしますが(三平を浅野藩に推挙してくれた主家に迷惑がかかることを憂慮した)父から反対され、この地で自刃しました。

三平が居住した長屋門には自刃の間が残り、管理棟の涓泉亭(けんせんてい)には三平や西国街道の資料も展示されています。上に引用させていただいたように、歴史を感じられる整備の行き届いた施設です。

基本情報

【住所】大阪府箕面市萱野3-10-4
【アクセス】阪急・箕面駅からバスを利用
【参考URL】https://www.city.minoh.lg.jp/

鳥すきやき・ぼたん

熊吾が神田三郎とともに行った鳥すき屋のシーンで引用させていただいたお店です。鳥すき屋は大阪梅田の桜橋交差点から細道を南に行ったところにありましたが、「ぼたん」は東京都神田で明治30年に創業しました。下に引用させていただいたように戦災を逃れた建物内は懐かしい雰囲気が漂います。

名物・鳥すき鍋はモモ肉やムネ肉、砂肝、レバー、ハツなどの多彩な部位が入っていて、味や食感の違いを楽しめます。備長炭と鉄鍋でじっくりと温める昔ながらのスタイルのため、白滝や葱、豆腐といった副菜にもしっかりと出汁がしみているのも美味しさのポイント!〆めの親子丼も絶品と評判です。

基本情報

【住所】東京都千代田区神田須田町1-15
【アクセス】03-3251-0577
【参考URL】https://www.sukiyaki-botan.co.jp/

東京国立博物館

東京国立博物館(トーハク)では伸仁が興味を持った岸田劉生や横山大観といった有名画家の作品を鑑賞することができます。また、下に引用させていただいた国宝・八橋蒔絵螺鈿硯箱(尾形光琳作)のようにトクちゃんのところで触れた螺鈿細工の種類も豊富です。

ほかにも甲冑や刀、仏教美術、埴輪といった日本文化を象徴するさまざまな作品を展示しています。メイン施設の本館・平成館以外にもガンダーラ美術などに触れられる東洋館、法隆寺宝物館、洋画家・黒田清輝の記念室などもあるので時間に余裕をもってお出かけください。

基本情報

【住所】東京都台東区上野公園13-9
【アクセス】JR上野駅から徒歩約10分
【参考URL】https://www.tnm.jp/