宮本輝「長流の畔」の風景(その4最終回)

東京オリンピックの時代

新幹線の開通や東京オリンピックの開幕を迎え、日本は活気にあふれていました。熊吾は糖尿病や指の大怪我、歯槽膿漏の治療のため病院通いが続きますが、伸仁が成人するまで元気でいることがモチベーションになっています。一方で房江はホテルの調理スタッフとして働き始め、本来の「強さとたおやかさ」が戻ってきました。

房江はホテルの賄いに応募

元気を取り戻した房江は夕刊の求人欄で就職先を探します。ところがその内容は
「求む、女中。午前十時~午後七時。昼食付き。給与面談。三十代に限る・・・・・・求む、倉庫掃除婦。勤務は九時から六時。各種保険あり。年齢三十~五十まで」
などで「五十を過ぎた女でも可とする求人先はなかった」とあります。

上に引用させていただいたのは、昭和43年の求人広告とのことです。女子電話交換手(~22歳)、賄婦さん(50歳迄)など房江が見たのと同様の年齢制限がかかっています。

房江は求人広告のなかでも、以下の募集が気になりました。年齢制限はオーバーしていましたが「駄目でもともと」といって応募します。
「従業員食堂で社員の食事を作ってください。五十歳までの女性。勤務時間、九時から五時半まで。経験問わず。各種保険有り。交通費支給。多幸クラブ」

面接に合格!

多幸クラブの事務所では三十代後半と思われる三人の女性が待っていて、先に面接を済ませて帰っていきました。房江は年齢オーバーの上、履歴書に書いた尋常小学校中退という学歴にも引け目を感じて帰ろうとしますが
「どうぞお入りください」との声がかかります。

人事部課長・日吉「ああ、きのうお電話をくださったかたですね」
これまでに多人数の食事を作る仕事をした経験はあるかとの日吉からの質問に対し、房江は小料理屋で働いたことはあると回答します(花の回廊の風景その2・参照)。
日吉「六十人分の昼食と夕食を作ってもらう仕事です。かなりの力仕事ということになりますので・・・・・・」
房江「一生懸命に働きます」

質疑が少なかったことから房江は半ばあきらめていましたが、次の日、採用させていただきたいとの電話がかかってきました。

房江「なんで私が採用されたんやろ・・・・・・私にも運が廻ってきた」
「嬉しくて飛び跳ねたくなるような気分で裏門周辺の掃除を始めながら、房江は心の中で言った」

出典:写真AC、八宝菜3(中華料理)
https://www.photo-ac.com/main/detail/701456&title=%E5%85%AB%E5%AE%9D%E8%8F%9C%EF%BC%93%EF%BC%88%E4%B8%AD%E8%8F%AF%E6%96%99%E7%90%86%EF%BC%89

同僚として紹介された藤木美千代と二人で六十人分の八宝菜を作るのが房江の最初の仕事でした。
「にんじんを二十本、たまねぎを二十個、白菜を十個、缶詰入りの筍を十缶、冷蔵庫に入っている豚肉を三キロ・・・・・・これでは八宝菜ではなく五宝菜だなと思いながら、房江はたまねぎを切った」
とのこと。そして
「若い社員たちに、いつかこの私が本物の八宝菜を食べさせてやるぞと思った」
とあります。

上には、房江が作った五宝菜にプラスしてしいたけや海老、うずらの卵などが入った八宝菜の写真を引用しました。

アリバイ横丁

糖尿病治療のための1か月ほどの教育入院を終えた熊吾は、キマタ製菓社長の木俣を人気のトンカツ屋に誘います。
熊吾「梅田の阪急百貨店の下の地下街を西にいったところに喜多八っちゅうトンカツ屋がある」
木俣「ああ、アリバイ横丁でっか。あそこを西にいくんですな」
熊吾「なんじゃ、アリバイ横丁っちゅうのは」
木俣「全国の県の特産品を売ってる店がならんでまっしゃろ?あれをアリバイ横丁っちゅうんです」

上に引用させていただいたのはありし日のアリバイ横丁の写真です。
「青森県、秋田県、岩手県と書かれた看板を見ているうちに、なるほど、うまい呼び名をつけたものだと思った。・・・・・・九州に出張だと女房に嘘をつき、二、三日出かけたあと、確かにそこに行ってきたことの証として、このアリバイ横丁で博多の名産を買って帰るというわけか。」

木俣が新商品を開発

トンカツ屋にて木俣は「これが大ヒットしましてん。私のアイデアでっせ」と「片面に薄くチョコレートを塗ったビスケット」を自慢気に見せます。
熊吾「ビスケットにチョコレートを塗ってあるだけじゃが・・・・・・」
木俣「これはねえ、ビスケットやおまへん。クッキーとも違います。クラッカーっちゅうやつでんねん。小麦粉から作るから似たようなもんですけど、甘みがおまへん。アメリカの乾パンみたいなもんで、小腹がすいたときに、この上にハムとかチーズとかを載せて食べるそうです。・・・・・・」

当時のクラッカーといえば藤田まことさんが「てなもんや三度笠(昭和37年~昭和43年)」の中でCMをされていた「あたり前田のクラッカー」が有名でした。上にはそのCMシーンの画像を引用させていただきました。熊吾たちもこちらのCMを頭に浮かべながら話をしていたかもしれません。

危機一髪で

ある日、熊吾は大阪中古車センターの倉庫を点検しようと中に入ります。
熊吾「黴くさいのお」
そこに佐竹の子・理沙子と清太がやってきて「クマさん、クマさん」と呼びかけました。
熊吾「またなにかいたずらを企んじょるな。もうその手には乗らんぞ・・・・・・子供がこんな黴臭いところにおっちゃいけんぞ」
熊吾が子供たちを伴って倉庫から出たとたん、背後で木が割れるような音が・・・・・・。そしてモルタル造りの倉庫全体が崩れはじめました。

熊吾たちは運よく難を逃れますが、塵埃のため全身真っ黒になります。そのため、佐竹や子供たちと一緒に千鳥橋の近くにある銭湯で汚れを洗い流すことにしました。

出典:千鳥温泉公式サイト
https://jitenshayu.jp/

上に引用させていただいたのは昭和27年(1952年)に創業した千鳥温泉の写真です。千鳥橋駅からも近いので、熊吾が立ち寄ったこともあったかもしれません。

ここでは、こちらのお風呂を上がった熊吾が
「(人生は)幸福と不幸のせめぎ合いだ。どっちへ転ぶかは紙一重だ。なんと人間は恐ろしい世界で生きていることであろう」
と思うシーンをイメージしてみます。

東京オリンピックはカラーテレビで

「十月十日の土曜日は東京オリンピックの開会式の日だった。この日のために、日本の多くの家庭ではカラーテレビを買ったが、熊吾も伸仁に開会式や各競技の中継をカラー放送で観せてやりたくて、三日前に聖天通り商店街の電器屋に頼んでアンテナと一緒に取り付けてもらったのだ」

上には開会式の日本選手団の行進の様子を引用させていただきました。こちらを見ながら熊吾たちの会話を抜粋してみましょう。
熊吾「早うテレビの前に坐れ。もう始まるぞ」
伸仁「お母ちゃんも多幸クラブの社員食堂で観てるわ」
熊吾「アフリカにはマリなんて国があるんじゃのお」
伸仁「チャドいうのもあったでえ」
熊吾「あの長い脚と逞しい筋肉を見てみい。あんなのに日本人が勝てるはずがあるかや」
伸仁「この国の選手はひとりだけや。アメリカなんて何百人もおるのに」
熊吾「アメリカはなんでもかんでも物量作戦でくるんじゃ」

出典:Keystone Press, Public domain, via Wikimedia Commons
https://commons.wikimedia.org/wiki/File:TokyoOlympics1964Opening.jpg

上に引用させていただいたのは聖火点灯に向かう最終ランナー・坂井義則さんの写真です。ここでは、モータープールの2階で聖火点灯までの過程を食い入るように見る伸仁の姿を想像してみます。

千代麿と木俣の仲良しコンビ

キマタ製菓の前を通ると丸尾千代麿も一緒でした。千代麿はチョコクラッカーの原料となるカカオ豆の殻の運搬の仕事をきっかけに木俣と親しくなっていました。

二人は東京五輪に合わせて開業した新幹線の大阪・京都間に試乗したとのこと。
千代麿「ホームで新幹線を見るだけのつもりやったんやけど、京都までほんまに二十五分かどうか確かめようってことになりまして。大将、ほんまに速いでっせ。大将もいっぺん乗ってみはったらどないです?」

上には新幹線の公開試運転の投稿を引用させていただきました。こちらの新幹線のなかに、スピードにおどろきながら会話をする千代麿と木俣の姿を置いてみましょう。

「千代麿夫婦も苦労の連続で戦後を生きてきた。商売だけでなく家庭内の問題でも苦労を重ねた。木俣も小さな会社とはいえ、何度も倒産の危機をくぐって、やっと日が当たりかけている。まごころをふみにじって平気だという人間ではない。善意の塊のような男ふたりが仲良しになり、子供のようにじゃれあって楽しそうにしている」

元気になった房江の姿

熊吾は働きはじめた房江の姿を見ようとして「多幸クラブ」最寄りの市電停留所の前にある喫茶店に入りました。下に引用させていただいたのは廃止される前年(昭和43年)の大阪市電の動画です。

「濃い緑色のワンピースを着て、ハンドバッグを肘に掛け、低い踵の靴を履いて、房江は市電がやってくる方向に顔を向けていた。その横顔はこれまでの房江とはまったく違う女だった。・・・・・・房江には、内に隠しつづけていた利かん気で意志的な、柳に雪折れなしという強さとたおやかさが溢れていた。・・・・・・本当の松坂房江という女を殺していたのはこの俺だった・・・・・・。」

こちらの動画の中で男性に混じって満員の市電に乗り込む女性の姿を房江に重ねてみましょう。熊吾は喫茶店の観葉植物に身を隠しながら、別人のような房江を眺めていました。

旅行などの情報

千鳥温泉

倉庫が倒壊した後、熊吾たちが泥だらけになった体を洗った銭湯として登場してもらいました。現在の建物は昭和42年のもので、下に引用させていただいたように壁に描かれた豆タイルの富士山が見事です。また、熱めのお湯のほか乾式サウナや水風呂も備えていてリフレッシュ効果が期待できます。

また、スポーツ自転車や折りたたみ自転車を店内で預かってもらえるためサイクリストからも人気。オリジナルの銭湯グッズやTシャツなども販売しているので「長流の畔」巡りの途中に立ち寄ってみてはいかがでしょうか。

基本情報

【住所】大阪府大阪市此花区梅香2丁目12-20
【アクセス】阪神千鳥橋駅から徒歩約6分
【参考URL】https://jitenshayu.jp/

日本オリンピックミュージアム

東京2020大会直前の2019年にオープンした比較的新しい施設です。オリンピックの理念や歴史を学べるだけでなく、オリンピアンの身体能力を知ることができる体験コーナーも備えています。伸仁がカラー放送で見た1964年五輪関連のユニフォームやトーチ、メダルなどを展示。2020年東京大会コーナーも充実し、パリ2024大会などの最新イベントの展示も追加されています。

上に引用させていただいた歴代五輪のポスターのほか、1940年に開催予定だった東京大会の幻のポスターの展示もあります。なお、限定のオリジナルグッズを取り扱うミュージアムショップにもお立ち寄りください。

基本情報

【住所】東京都新宿区霞ヶ丘町4番2号
【アクセス】東京メトロ銀座線・外苑前駅から徒歩約5分
【参考URL】https://japan-olympicmuseum.jp/jp