夏目漱石「坊っちゃん」の風景(その1)

四国に赴任するまで

「親譲りの無鉄砲」な「坊っちゃん」は、わんぱくな少年時代を過ごします。そんな「坊っちゃん」に対し両親や兄は冷たい態度で接しますが、なぜか下女の「清」だけはかわいがってくれました。卒業するのが難しいことで知られる「東京物理学校」をストレートで卒業、物理学校の教師の勧めで松山の中学校に教師として赴任することになります。

「坊っちゃん」のモデルについて

「坊っちゃん」は夏目漱石が明治28年から愛媛県尋常中学校(松山東高校の前身)に赴任したときの体験を下敷きにした小説です。下には英語教員として赴任した28歳ごろの夏目漱石の写真を引用いたします。なお、「坊っちゃん」は「吾輩は猫である(・・・の風景その1・参照)」の次の年(明治39年)に発表された二作目の小説で、そのころの漱石は大学などで講師をする傍ら執筆をしていました。

出典:See page for author, Public domain, via Wikimedia Commons、愛媛県尋常中学校の英語教員時代の夏目漱石(1896年3月撮影)。
https://commons.wikimedia.org/wiki/File:Natsume_Soseki,_an_English_teacher_at_Matsuyama_Middle_School.jpg

「坊っちゃん」の内容は漱石本人の体験に基づいたものも多いと思われますが、モデルの一人として知られているのが下に写真を引用させていただいた弘中又一氏です。同ホームページ(熊谷デジタルミュージアム)によると弘中氏は漱石とほぼ同時に松山に赴任し、「坊っちゃん」と同じ数学教師でした。

出典:熊谷デジタルミュージアム、弘中又一(ひろなかまたいち)(1873-1938)
https://www.kumagaya-bunkazai.jp/museum/ijin/hironakamataiti.htm

また、松山の方言で坊っちゃんを意味する「ボンチ」というニックネームがあったとのこと。こちらのような童顔な雰囲気が「坊っちゃん」と呼ばれるきっかけになったのでしょうか。漱石はこちらのニックネームから小説のタイトルを付けたといわれています。

幼少期

それでは「坊っちゃん」の風景を追っていきましょう。
「親譲りの無鉄砲で小供の時から損ばかりしている。小学校に居る時分学校の二階から飛び降りて一週間ほど腰を抜かした事がある。なぜそんな無闇をしたと聞く人があるかも知れぬ。別段深い理由でもない。新築の二階から首を出していたら、同級生の一人が冗談に、いくら威張っても、そこから飛び降りる事は出来まい。弱虫やーい。と囃したからである。小使に負ぶさって帰って来た時、おやじが大きな眼をして二階ぐらいから飛び降りて腰を抜かす奴があるかと云ったから、この次は抜かさずに飛んで見せますと答えた。」
ここで、父に向っていった言葉が「すみません」でなくて「この次は抜かさずに飛んで見せます」というところに、負けん気の強さがうかがえます。

出典:『東京景色写真版』,江木商店,[明26?]. 国立国会図書館デジタルコレクション https://dl.ndl.go.jp/pid/764109 (参照 2025-01-09、一部抜粋)、東京九段坂
https://dl.ndl.go.jp/pid/764109/1/98

なお、「坊っちゃん」は自分を漱石と同じく「江戸っ子」と語っているので、この頃のストーリーは漱石本人の体験が色濃く反映されていると思われます。

漱石は小学校を三回転校していますが、最後に通ったのは錦華学校(現・お茶の水小学校)でした。上には漱石が小学校に通った時代(明治10年頃)より15年ほど後のお茶の水界隈(九段坂)の写真を引用いたしました。実家のあった喜久井町までの道のりとは少し外れますが、ここでは、このような賑わいのある道を小遣いに負ぶわれて家に戻る「坊っちゃん」の姿をイメージしてみます。

出典:熊本市西区ホームページ、漱石の父 直克「漱石写真帖」より
https://www.city.kumamoto.jp/nishi/hpKiji/pub/detail.aspx?c_id=5&id=16897&class_set_id=3&class_id=692

また、上には漱石の父・直克の写真を引用させていただきます。「大きな眼をして」
「二階ぐらいから飛び降りて腰を抜かす奴があるか」
と声を荒らげる姿を想像してみましょう。

喧嘩早い気性

「庭を東へ二十歩に行き尽つくすと、南上がりにいささかばかりの菜園があって、真中に栗の木が一本立っている。これは命より大事な栗だ。実の熟する時分は起き抜けに背戸を出て落ちた奴を拾ってきて、学校で食う。菜園の西側が山城屋という質屋の庭続きで、この質屋に勘太郎という十三四の倅が居た。勘太郎は無論弱虫である。弱虫の癖に四つ目垣を乗りこえて、栗を盗みにくる。ある日の夕方折戸の蔭に隠れて、とうとう勘太郎を捕まえてやった。その時勘太郎は逃げ路を失って、一生懸命に飛びかかってきた。向うは二つばかり年上である。弱虫だが力は強い。」

下には勘太郎を捕まえた頃(十一・二歳)の漱石の写真を引用いたしました。

出典:See page for author, Public domain, via Wikimedia Commons、11、12歳頃の夏目漱石(1879年 – 1880年撮影)。
https://commons.wikimedia.org/wiki/File:Natsume_Soseki_11-12_years_old.jpg

「鉢の開いた頭を、こっちの胸へ宛あててぐいぐい押した拍子に、勘太郎の頭がすべって、おれの袷(あわせ)の袖の中にはいった。邪魔になって手が使えぬから、無暗に手を振ったら、袖の中にある勘太郎の頭が、右左へぐらぐら靡いた。しまいに苦しがって袖の中から、おれの二の腕へ食い付いた。痛かったから勘太郎を垣根へ押しつけておいて、足搦をかけて向うへ倒してやった。山城屋の地面は菜園より六尺がた低い。勘太郎は四つ目垣を半分崩して、自分の領分へ真逆様に落ちて、ぐうと云った。勘太郎が落ちるときに、おれの袷の片袖がもげて、急に手が自由になった。」

出典:近藤浩一路 著『漫画坊つちやん』,新潮社,大正7. 国立国会図書館デジタルコレクション https://dl.ndl.go.jp/pid/1087976 (参照 2025-01-08、一部抜粋)
https://dl.ndl.go.jp/pid/1087976/1/7

上には「漫画坊っちゃん」の挿絵を引用いたしました。六尺(約1.8メートル)の段差があったということですから、校舎の二階ほどの高さでないにしても、勘太郎も相当な衝撃を受けたのではないでしょうか。しかも挿絵では頭を打ってそうですし・・・・・・。

「その晩母が山城屋に詫びに行ったついでに袷の片袖も取り返して来た。」

漱石の生家

勘太郎とのケンカをした場所が漱石の実家(生誕地)を想定していたとすると、その場所は「東京都新宿区喜久井町1番地」となります。下のストリートビューでは「やよい軒」などが入るビルとなっていて当時の様子を想像することはできませんが、その前には「夏目漱石誕生之地」と刻まれた石碑が建てられています(昭和41年、漱石生誕100年記念)。

なお、当時の生家付近は早稲田田圃と呼ばれる田園地帯が広がる自然豊かな場所だったといいます。下には喜久井町の近くにあった早稲田田圃の写真を引用いたしました。中央に写っているのは東京専門学校(現・早稲田大学)です。

出典:『早稲田』(早稲田大学出版部、1909年), Public domain, via Wikimedia Commons、 東京専門学校(1890年頃)、『早稲田』(早稲田大学出版部、1909年)
https://commons.wikimedia.org/wiki/File:T%C5%8Dky%C5%8D_Senmon_Gakk%C5%8D_circa_1890.png

更に「坊っちゃん」を進めます。
「母が病気で死ぬ二三前台所で宙返りをしてへっついの角で肋骨を撲って大いに痛かった。母が大層怒って、お前のようなものの顔は見たくないと云うから、親類へ泊りに行っていた。するととうとう死んだと云う報知が来た。そう早く死ぬとは思わなかった。そんな大病なら、もう少し大人しくすればよかったと思って帰って来た。」

下には漱石の母・ちえの写真を引用いたしました。

出典:See page for author, Public domain, via Wikimedia Commons、 夏目漱石の母・ちえ(1828年 – 1881年)。
https://commons.wikimedia.org/wiki/File:Natsume_Chie.jpg

家に帰ってくると、今度は兄にののしられ大喧嘩になります。
「そうしたら例の兄がおれを親不孝だ、おれのために、おっかさんが早く死んだんだと云った。口惜しかったから、兄の横っ面を張って大変叱られた。」

清(きよ)

両親が兄ばかりかわいがることを不敏に思い、味方になってくれたのが下女の清(きよ)でした。

「この下女はもと由緒のあるものだったそうだが、瓦解のときに零落して、つい奉公までするようになったのだと聞いている。だから婆さんである。この婆さんがどういう因縁か、おれを非常に可愛がってくれた。不思議なものである。母も死ぬ三日前に愛想をつかした――おやじも年中持て余している――町内では乱暴者の悪太郎と爪弾きをする――このおれを無暗に珍重してくれた。・・・・・・清は時々台所で人の居ない時に『あなたは真っ直すぐでよいご気性だ』と賞める事が時々あった。・・・・・・清がこんな事を云う度におれはお世辞は嫌いだと答えるのが常であった。すると婆さんはそれだから好いご気性ですと云っては、嬉しそうにおれの顔を眺めている。自分の力でおれを製造して誇ってるように見える。少々気味がわるかった。」

出典:近藤浩一路 著『漫画坊つちやん』,新潮社,大正7. 国立国会図書館デジタルコレクション https://dl.ndl.go.jp/pid/1087976 (参照 2025-01-08、一部抜粋)
https://dl.ndl.go.jp/pid/1087976/1/9

「これはずっと後の事であるが金を三円ばかり貸してくれた事さえある。・・・・・・その三円を蝦蟇口(がまぐち)へ入れて、懐へ入れたなり便所へ行ったら、すぽりと後架の中へ落してしまった。・・・・・・清は早速竹の棒を捜して来て、取って上げますと云った。しばらくすると井戸端でざあざあ音がするから、出てみたら竹の先へ蝦蟇口の紐ひもを引き懸かけたのを水で洗っていた。それから口をあけて壱円札を改めたら茶色になって模様が消えかかっていた。清は火鉢で乾かして、これでいいでしょうと出した。ちょっとかいでみて臭いやと云ったら、それじゃお出しなさい、取り換えて来て上げますからと、どこでどう胡魔化したか札の代りに銀貨を三円持って来た。この三円は何に使ったか忘れてしまった。今に返すよと云ったぎり、返さない。今となっては十倍にして返してやりたくても返せない。」

上には「臭いや」といって鼻をつまむ坊っちゃんの漫画を引用いたしました。

一人暮らし

「坊っちゃん」の父が亡くなると、兄は生家を処分して勤めている会社の九州支店に赴任していきます。赴任前に兄は「坊っちゃん」の下宿にやってきて六百円を渡し、好きなように使え、だがそのあとは面倒をみないといいました。
「おれは六百円の使用法について寝ながら考えた。商買をしたって面倒くさくって旨うまく出来るものじゃなし、ことに六百円の金で商買らしい商買がやれる訳でもなかろう。よしやれるとしても、今のようじゃ人の前へ出て教育を受けたと威張れないからつまり損になるばかりだ。資本などはどうでもいいから、これを学資にして勉強してやろう。・・・・・・それからどこの学校へはいろうと考えたが、学問は生来どれもこれも好きでない。・・・・・幸い物理学校の前を通り掛かかったら生徒募集の広告が出ていたから、何も縁だと思って規則書をもらってすぐ入学の手続きをしてしまった。今考えるとこれも親譲りの無鉄砲から起った失策だ。」
「坊っちゃん」は学校に通うために小川町に下宿し、「清」は「坊っちゃん」が自分の家を持つまで、彼女の甥の家に住まわせてもらうことになりました。

出典:東京理科大公式サイト・東京理科大オープンカレッジ
https://web.my-class.jp/manabi-tus/asp-webapp/web/WWebKozaShosaiNyuryoku.do?kozaId=117135

上には当時、小川町にあった東京物理学校(現・東京理科大学)の写真を引用させていただきました。

「三年間まあ人並に勉強はしたが別段たちのいい方でもないから、席順はいつでも下から勘定する方が便利であった。しかし不思議なもので、三年立ったらとうとう卒業してしまった。自分でも可笑しいと思ったが苦情を云う訳もないから大人しく卒業しておいた。」

「入りやすく出にくい」、すなわち入学は容易(無試験)であるが卒業・進級は厳しいという評判があり、卒業生には教職に就く者が多く特に数学・理科教員として中等教育界に重要な位置を占めた。

(中略)
1906年発表の夏目漱石の小説『坊つちやん』で、主人公が物理学校卒業という設定になっているのは、漱石自身が設立者(維持同盟員)である櫻井房記・中村恭平と親交が深かったほかに、当時の一般的イメージとして物理学校出身教員が高い評判を得ていたことも関係していると考えられている。

出典:ウィキペディア、東京物理学校
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9D%B1%E4%BA%AC%E7%89%A9%E7%90%86%E5%AD%A6%E6%A0%A1

上に引用したように東京物理学校は卒業するのが難しく、そのため、卒業生の教員は優秀なことで知られていました。なお、「坊っちゃん」を漱石の母校(東京帝国大学)でなく東京物理学校に通わせたことについては、親しい友人が大学の設立メンバーであったことも関係しているようです。

四国へ

「卒業してから八日目に校長が呼びに来たから、何か用だろうと思って、出掛けて行ったら、四国辺のある中学校で数学の教師が入る。月給は四十円だが、行ってはどうだという相談である。」
将来のことを決めていなかった「坊っちゃん」は二つ返事で応えました。

「いよいよ約束が極まって、もう立つと云う三日前に清を尋ねたら、北向きの三畳に風邪を引いて寝ていた。おれの来たのを見て起き直るが早いか、坊っちゃんいつ家をお持ちなさいますと聞いた。卒業さえすれば金が自然とポッケットの中に湧いて来ると思っている。そんなにえらい人をつらまえて、まだ坊っちゃんと呼ぶのはいよいよ馬鹿気ている。おれは単簡に当分うちは持たない。田舎へ行くんだと云ったら、非常に失望した容子で、胡麻塩の鬢(びん)の乱れをしきりに撫でた。」

出典:上越特産市場公式サイト、新潟県上越市越後の飴「笹飴」
https://www.joetsu-tokusan.jp/

「あまり気の毒だから『行く事は行くがじき帰る。来年の夏休みにはきっと帰る』と慰めてやった。それでも妙な顔をしているから『何を見やげに買って来てやろう、何が欲しい』と聞いてみたら『越後の笹飴が食べたい』と云った。越後の笹飴なんて聞いた事もない。第一方角が違う。「おれの行く田舎には笹飴はなさそうだ」と云って聞かしたら『そんなら、どっちの見当です』と聞き返した。『西の方だよ』と云うと『箱根のさきですか手前ですか』と問う。随分持てあました。」
とのこと。

上には現在も新潟名物となっている越後の笹飴の写真を引用させていただきました。

旅行などの情報

夏目漱石生誕の地(碑)

昭和41年に漱石の生誕100年を記念して建てられた石碑です。夏目家は江戸時代から名主を世襲する家柄で、誕生の地から若松町までの上り坂は漱石の父により「夏目坂」と名付けられたとのこと。下に引用したように「夏目坂」の由来が記された案内板も建てられています。

出典:Higa4, CC0, via Wikimedia Commons、 新宿区喜久井町の夏目坂
https://commons.wikimedia.org/wiki/File:Natsume-zaka_(Shinjuku)_01.jpg

周辺にはビルが立ち並び、「坊っちゃん」の時代をイメージできるものは少なくなっていますが、徒歩10分程の晩年の住居跡には「漱石山房記念館」が設置され、関連する貴重な資料が展示されています。併せてゆかりの地を巡ってみてはいかがでしょうか。

基本情報

【住所】東京都新宿区喜久井町1
【アクセス】東京メトロ東西線・早稲田駅から徒歩約5分
【参考URL】https://www.kanko-shinjuku.jp/spot/-/article_353.html

笹飴

「笹飴」とは米飴と水飴を白くなるまで練り、天日干しした熊笹にはさんだ食べ物です。江戸時代からある商品ですが「坊っちゃん」が発表されると、全国的に有名になりました。水飴の優しい甘さや風味、笹の香りの素朴さがマッチし、食べ飽きないのが人気のポイントです。

出典:高橋孫左衛門商店公式サイト、翁飴
http://www.etigo-ameya.co.jp/menu.html

笹飴は多くのメーカーから販売されていますが、特に創業400年以上「高橋孫左衛門商店」などが有名です。同店では笹飴以外にも、上に引用させていただいた「翁飴(おきなあめ)」など皇室献上の人気商品もあります。近年では「瑠璃飴」のような写真映えのする商品も登場し、お土産の選択肢が広がりました。

基本情報

【住所】新潟県上越市南本町3-7-2(高橋孫左衛門商店)
【アクセス】えちごトキめき鉄道・南高田駅から徒歩約12分
【参考URL】http://www.etigo-ameya.co.jp/index.html