宮沢賢治「グスコーブドリの伝記」の風景(その1)

森でひとりぼっちに

ブドリはのどかな「イーハトーヴの森」で優しい父母、妹とともに穏やかな毎日を送っていました。ところが凶作が続いたある日、父母は次々と山に入ってゆき姿を消してしまいます。さらに人助けを装った男に妹がさらわれ、ブドリはひとりぼっちに!また、次に現れた天蚕飼いの男は、ブドリに食事を与えるかわりに厳しい労働を課しました。

幸せな暮らし

「グスコーブドリは、イーハトーヴの大きな森のなかに生まれました。おとうさんは、グスコーナドリという名高い木こりで、どんな大きな木でも、まるで赤ん坊を寝かしつけるようにわけなく切ってしまう人でした。」

以下には昭和16年発刊の「グスコーブドリの伝記」の挿絵を引用いたしました。倒した大木をカットしているところでしょうか。眼下には海や港も見下ろせる素敵な場所です。

出典:宮沢賢治 著 ほか『グスコーブドリの伝記 : 童話』,羽田書店,昭和16. 国立国会図書館デジタルコレクション https://dl.ndl.go.jp/pid/1720627 (参照 2025-02-08、一部抜粋)
https://dl.ndl.go.jp/ja/pid/1720627/1/91

「ブドリにはネリという妹があって、二人は毎日森で遊びました。ごしっごしっとおとうさんの木を挽く音が、やっと聞こえるくらいな遠くへも行きました。二人はそこで木いちごの実をとってわき水につけたり、空を向いてかわるがわる山鳩の鳴くまねをしたりしました。するとあちらでもこちらでも、ぽう、ぽう、と鳥が眠そうに鳴き出すのでした。」

再び上の挿絵をながめながら、お父さんの仕事ぶりを誇らしげに眺めるブドリ兄妹の姿を想像してみましょう。右側の木からは山鳩たちが眠そうに「ぽう、ぽう」と鳴く声が聞こえてきそうです。

冷たい夏・凶作

「そして、ブドリは十になり、ネリは七つになりました。」
ブドリとネリのモデルは宮沢賢治とその妹・トシともいわれています。

出典:See page for author, Public domain, via Wikimedia Commons、宮沢賢治(6歳)・トシ兄妹。
https://commons.wikimedia.org/wiki/File:Miyazawa_Kenji_and_Toshi.jpg

上は「銀河鉄道の夜」の風景(・・・その1・参照)でも引用させていただいた少年時代の賢治とトシの写真です。このようなのどかな生活を送っていたブドリ一家でしたが・・・・・・

「ところがどういうわけですか、その年は、お日さまが春から変に白くて、いつもなら雪がとけるとまもなく、まっしろな花をつけるこぶしの木もまるで咲かず、五月になってもたびたび霙(みぞれ)がぐしゃぐしゃ降り、七月の末になってもいっこうに暑さが来ないために、去年播いた麦も粒の入らない白い穂しかできず、たいていの果物も、花が咲いただけで落ちてしまったのでした。」
また、

「そしてとうとう秋になりましたが、やっぱり栗の木は青いからのいがばかりでしたし、みんなでふだんたべるいちばんたいせつなオリザという穀物も、一つぶもできませんでした。野原ではもうひどいさわぎになってしまいました。」
「オリザ」はラテン語で「稲」という意味とのこと。賢治が9歳だった明治38年に岩手、宮城、福島を中心に起きた「東北三県凶作」を想像させる記述です。下には当時の岩手県の米生産量の表を引用いたしました。明治38年(168299石)は平均(506467石)の三分の一に満たないほどの凶作であったことがわかります。

出典:『岩手県統計書』明治38年,岩手県,明16-45. 国立国会図書館デジタルコレクション https://dl.ndl.go.jp/pid/806207 (参照 2025-02-28、一部抜粋、結合)、
https://dl.ndl.go.jp/pid/806207/1/99

そして
「ある日おとうさんは、じっと頭をかかえて、いつまでもいつまでも考えていましたが、にわかに起きあがって、
『おれは森へ行って遊んでくるぞ。』と言いながら、よろよろ家を出て行きましたが、まっくらになっても帰って来ませんでした。二人がおかあさんに、おとうさんはどうしたろうときいても、おかあさんはだまって二人の顔を見ているばかりでした。
 次の日の晩方になって、森がもう黒く見えるころ、おかあさんはにわかに立って、炉に榾(ほだ)をたくさんくべて家じゅうすっかり明るくしました。それから、わたしはおとうさんをさがしに行くから、お前たちはうちにいてあの戸棚にある粉を二人ですこしずつたべなさいと言って、やっぱりよろよろ家を出て行きました。二人が泣いてあとから追って行きますと、おかあさんはふり向いて、
『なんたらいうことをきかないこどもらだ。』としかるように言いました。
 そしてまるで足早に、つまずきながら森へはいってしまいました。」
戻ってこない父母を探すためにブドリとネリは夜の森を歩きまわりますが、見つけることはできませんでした。

出典:『東宮行啓記念宮城県写真帖』,宮城県,明41.10. 国立国会図書館デジタルコレクション https://dl.ndl.go.jp/pid/780859 (参照 2025-02-27、一部抜粋)、仙臺育児院
https://dl.ndl.go.jp/pid/780859/1/21

東北三県凶作ではブドリたちのような路頭に迷う子供たちが続出しました。上には飢饉などによる孤児を救済するために米国宣教師フランシス・E・フェルプスが創設した仙臺育児院(現仙台キリスト教育児院)の写真を引用いたします。もしブドリたちが「イーハトーヴの森」でなくて都会に住んでいたら、こちらのような施設で飢えをしのぐことができたかもしれません。

ネリがさらわれる

「それから、二十日ばかりぼんやり過ぎましたら、ある日戸口で、
『今日は、だれかいるかね。』と言うものがありました。おとうさんが帰って来たのかと思って、ブドリがはね出して見ますと、それは籠をしょった目の鋭い男でした。その男は籠の中から丸い餅をとり出してぽんと投げながら言いました。
『私はこの地方の飢饉を助けに来たものだ。さあなんでも食べなさい。』・・・・・・二人がこわごわたべはじめますと、男はじっと見ていましたが、
『お前たちはいい子供だ。けれどもいい子供だというだけではなんにもならん。わしといっしょについておいで。もっとも男の子は強いし、わしも二人はつれて行けない。おい女の子、おまえはここにいてももうたべるものがないんだ。おじさんといっしょに町へ行こう。毎日パンを食べさしてやるよ。』そしてぷいっとネリを抱きあげて、せなかの籠へ入れて、そのまま、
『おおほいほい。おおほいほい。』とどなりながら、風のように家を出て行きました。ネリはおもてではじめてわっと泣き出し、ブドリは、
『どろぼう、どろぼう。』と泣きながら叫んで追いかけましたが、男はもう森の横を通ってずうっと向こうの草原を走っていて、そこからネリの泣き声が、かすかにふるえて聞こえるだけでした。」

宮沢賢治の「グスコーブドリの伝記」は彼が何度も岩手山に登った経験から創作されたと思われる。

出典:国土交通省公式サイト、日本の活火山(8)、岩手山
http://www.mlit.go.jp

上に引用させていただいたように「グスコーブドリの伝記」でブドリたちの家のあった「イーハトーヴの森」のモデルは宮沢賢治がたびたび登山した岩手山付近という説もあります。

出典:掬茶, CC BY-SA 4.0 https://creativecommons.org/licenses/by-sa/4.0, via Wikimedia Commons
https://commons.wikimedia.org/wiki/File:View_of_Mount_Iwate_from_Mount_Hachimantai,_Autumn_2023.jpg

ここでは岩手山(上の写真参照)の手前にある草原に人さらいと籠に入れられたネリの姿を置き、ネリの泣き叫ぶ声と人さらいの
「おおほいほい。おおほいほい。」という声が森から徐々に遠ざかっていくところをイメージしてみます。
「ブドリは、泣いてどなって森のはずれまで追いかけて行きましたが、とうとう疲れてばったり倒れてしまいました。」

てぐす工場

「イーハトーヴの森」でひとりぼっちになったブドリの前にてぐす(天蚕)飼いの男が現れます。
「ブドリがふっと目をひらいたとき、いきなり頭の上で、いやに平べったい声がしました。
『やっと目がさめたな。まだお前は飢饉のつもりかい。起きておれに手伝わないか。』見るとそれは茶いろなきのこしゃっぽをかぶって外套にすぐシャツを着た男で、何か針金でこさえたものをぶらぶら持っているのでした。」

ブドリ「もう飢饉は過ぎたの?手伝えって何を手伝うの?」
てぐす飼い「網掛けさ。」
ブドリ「ここへ網を掛けるの?」
てぐす飼い「掛けるのさ。」
ブドリ「網をかけて何にするの?」
てぐす飼い「てぐすを飼うのさ。」
なお、「てぐす(天蚕)」とは下に引用させていただいたようにヤママユガなどのことで、家蚕(かさん)と違って屋外で飼育するのが特徴です。

カイコは野外にいるの?
農家で飼育されているカイコは別名「家蚕」というくらいで、野外にはいません。 カイコの近縁種のクワコ、ヤママユガなどは野外で生息しています。 これらの絹糸昆虫は「野蚕」と呼ばれています
・・・・・・
ヤママユガの類(天蚕、柞蚕)は、クヌギなどの雑木を食べて育ちます。
繭を作りますが、カイコとは形態、生活史等随分異なっています。

出典:東京農工大学蚕学研究室公式サイト、
https://web.tuat.ac.jp/~kaiko/index.htm

「見るとすぐブドリの前の栗の木に、二人の男がはしごをかけてのぼっていて、一生けん命何か網を投げたり、それを操ったりしているようでしたが、網も糸もいっこう見えませんでした。」
ブドリ「あれでてぐすが飼えるの?」
てぐす飼い「飼えるのさ。うるさいこどもだな。おい、縁起でもないぞ。てぐすも飼えないところにどうして工場なんか建てるんだ。飼えるともさ。現におれをはじめたくさんのものが、それでくらしを立てているんだ。」

ブドリ「そうですか。」
てぐす飼い「それにこの森は、すっかりおれが買ってあるんだから、ここで手伝うならいいが、そうでもなければどこかへ行ってもらいたいな。もっともお前はどこへ行ったって食うものもなかろうぜ。」
ブドリ「そんなら手伝うよ。けれどもどうして網をかけるの?」
てぐす飼い「それはもちろん教えてやる。」
「男は、手に持った針金の籠かごのようなものを両手で引き伸ばしました。」
てぐす飼い「いいか。こういう具合にやるとはしごになるんだ。」
「男は大またに右手の栗の木に歩いて行って、下の枝に引っ掛けました。」
そして、
「男は変なまりのようなものをブドリに渡しました。ブドリはしかたなくそれをもってはしごにとりついて登って行きましたが、はしごの段々がまるで細くて手や足に食いこんでちぎれてしまいそうでした。
てぐす飼い「もっと登るんだ。もっと、もっとさ。そしたらさっきのまりを投げてごらん。栗の木を越すようにさ。そいつを空へ投げるんだよ。なんだい、ふるえてるのかい。いくじなしだなあ。投げるんだよ。投げるんだよ。そら、投げるんだよ。」
下にはてぐす用の林(台湾の楓樹林)の写真を引用いたしました。ここでは、このような木々のどこかにはしごを立て、まりを投げて網掛けをするブドリを姿をイメージしてみます。

出典:『事業概観』,台湾拓殖,昭和15. 国立国会図書館デジタルコレクション https://dl.ndl.go.jp/pid/1459454 (参照 2025-03-01、一部抜粋)
https://dl.ndl.go.jp/pid/1459454/1/78

てぐす飼いから渡された「まり」投げは少年ブドリにとっては重労働でした。
ブドリ「ぼくはもういやだよ、うちへ帰るよ。」
天蚕飼い「うちっていうのはあすこか。あすこはおまえのうちじゃない。おれのてぐす工場だよ。あの家もこの辺の森もみんなおれが買ってあるんだからな。」
ブドリは生きるためにてぐす飼いから与えられた仕事をこなすしかありませんでした。

「それから一月ばかりたって、森じゅうの栗の木に網がかかってしまいますと、てぐす飼いの男は、こんどは粟のようなものがいっぱいついた板きれを、どの木にも五六枚ずつつるさせました。そのうちに木は芽を出して森はまっ青になりました。すると、木につるした板きれから、たくさんの小さな青じろい虫が糸をつたって列になって枝へはいあがって行きました。」
下の写真のような状態だったでしょうか。

出典:『事業概観』,台湾拓殖,昭和15. 国立国会図書館デジタルコレクション https://dl.ndl.go.jp/pid/1459454 (参照 2025-03-01、一部抜粋)
https://dl.ndl.go.jp/pid/1459454/1/78

「ブドリたちはこんどは毎日薪とりをさせられました。その薪が、家のまわりに小山のように積み重なり、栗の木が青じろいひものかたちの花を枝いちめんにつけるころになりますと、あの板からはいあがって行った虫も、ちょうど栗の花のような色とかたちになりました。そして森じゅうの栗の葉は、まるで形もなくその虫に食い荒らされてしまいました。」
なお、家の中で飼う家蚕が白色なのに対し、テグスは緑色を帯びており、家蚕の繭より一回り大きいのが特徴です。下には「天蚕」飼育発祥の地でもある長野県安曇野市で撮影された天蚕の写真を引用させていただきました。

そして
「それからまもなく、虫は大きな黄いろな繭を、網の目ごとにかけはじめました。」
とのこと。繭の並ぶ様子は以下の写真のようであったかもしれません。

出典:NHKクリエイティブ・ライブラリー、緑色の繭(まゆ)と天蚕
https://www2.nhk.or.jp/archives/movies/?id=D0002022316_00000

「するとてぐす飼いの男は、狂気のようになって、ブドリたちをしかりとばして、その繭を籠に集めさせました。それをこんどは片っぱしから鍋に入れてぐらぐら煮て、手で車をまわしながら糸をとりました。」
下には安曇野市により投稿された天蚕糸の紡ぎ方の公式動画を引用させていただきました。こちらは足踏み式となっていますが、てぐす飼いの男も手で同じように糸を紡いでいたと思われます。

「ある日、六七台の荷馬車が来て、いままでにできた糸をみんなつけて、町のほうへ帰りはじめました。みんなも一人ずつ荷馬車について行きました。いちばんしまいの荷馬車がたったとき、てぐす飼いの男が、ブドリに、
『おい、お前の来春まで食うくらいのものは家の中に置いてやるからな。それまでここで森と工場の番をしているんだぞ。』
と言って、変ににやにやしながら荷馬車についてさっさと行ってしまいました。」

工場閉鎖

「春になりますと、またあの男が六七人のあたらしい手下を連れて、たいへん立派ななりをしてやって来ました。そして次の日からすっかり去年のような仕事がはじまりました。」
ところが
「ある朝ブドリたちが薪をつくっていましたら、にわかにぐらぐらっと地震がはじまりました。それからずうっと遠くでどーんという音がしました。
 しばらくたつと日が変にくらくなり、こまかな灰がばさばさばさばさ降って来て、森はいちめんにまっ白になりました。」
こちらの出来事は、長野県安曇野の天蚕業が、焼岳の噴火で大打撃を受けたことをヒントにしているとも考えられています。

近世からの飼育地である長野県有明地方(現在は安曇野市)では、明治41(1908)年から明治45(1912)年にかけての焼岳の噴火による降灰のため、テンサン飼育は大きな打撃を受けたという

出典:東北芸術工科大学紀要、第25号 2018年3月、宮澤賢治が書いた生活誌―『グスコーブドリの伝記』に描かれた生業と生活の姿―

天蚕飼い「おい、みんな、もうだめだぞ。噴火だ。噴火がはじまったんだ。てぐすはみんな灰をかぶって死んでしまった。みんな早く引き揚げてくれ。おい、ブドリ、お前ここにいたかったらいてもいいが、こんどはたべ物は置いてやらないぞ。それにここにいてもあぶないからな。お前も野原へ出て何かかせぐほうがいいぜ。」

出典:国土交通省北陸地方整備局神通川水系砂防事務所ホームページ、大正14年(1925)10月12日15時の噴火(中村平一氏撮影, 高山市郷土館蔵)
https://www.hrr.mlit.go.jp/jintsu/

この時噴火した焼岳は、現在も火山活動を続ける活火山です。上には大正時代に起きた噴火の写真を引用させていただきました。
「イーハトーヴの森」での事業継続をあきらめた天蚕飼いは早々に去っていき、ブドリは再びひとりぼっちになってしまいました。

旅行などの情報

宮沢賢治童話村

宮沢賢治の童話の世界を体感できる施設です。「銀河鉄道の夜」の風景(・・・その1・参照)の出発駅をイメージした「銀河ステーション」のエントランスをくぐると童話の世界へトリップ。内部には「銀河ステーション広場」や「妖精の小径」、「天空の広場」、「山野草園」、「賢治の学校」といった体験型の施設があり、子供から大人まで楽しむことができます。

季節により上に引用させていただいたようなライトアップも実施され、幻想的な雰囲気を味わえるのも魅力です。また、売店「森の店っこ」では宮沢賢治関連のグッズのほか、地元花巻の銘菓やお酒、南部こけしなどの工芸品も扱っているのでお土産選びもお楽しみください。

基本情報

【住所】岩手県花巻市高松26-19
【アクセス】JR新花巻駅でバスに乗りかえ、賢治記念館口で下車
【参考URL】https://www.kanko-hanamaki.ne.jp/spot/article.php?p=133

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