宮沢賢治「グスコーブドリの伝記」の風景(その2)
新しい世界に飛び出したブドリ
前回(グスコーブドリの伝記の風景その1・参照)の噴火の降灰の影響で生活ができなくなったブドリは森を出ます。町に向かう途中に出会ったのは沼ばたけ(田)でオリザ(米)をつくる「赤ひげ」という男でした。ブドリは赤ひげのもとで六年の間働きますが、天候不良などのため収穫が思わしくなく、暇を出されることに!尊敬するクーボー大博士を訪ねるためにイーハトーヴ市へ向かいます。
森を出る
「ブドリは、いっぱいに灰をかぶった森の間を、町のほうへ半日歩きつづけました。灰は風の吹くたびに木からばさばさ落ちて、まるでけむりか吹雪のようでした。けれどもそれは野原へ近づくほど、だんだん浅く少なくなって・・・・・・とうとう森を出切ったとき、ブドリは思わず目をみはりました。野原は目の前から、遠くのまっしろな雲まで、美しい桃いろと緑と灰いろのカードでできているようでした。そばへ寄って見ると、その桃いろなのには、いちめんにせいの低い花が咲いていて、蜜蜂がいそがしく花から花をわたってあるいていましたし、緑いろなのには小さな穂を出して草がぎっしりはえ、灰いろなのは浅い泥の沼でした。そしてどれも、低い幅のせまい土手でくぎられ、人は馬を使ってそれを掘り起こしたりかき回したりしてはたらいていました。」
「せいの低い桃色の花」とはおそらくレンゲ(「紫雲英」、「ゲンゲ」)であろう。国語事典には「れんげそう(蓮華草)豆科の二年生作物。中国原産。東アジアに分布。わが国では緑肥・飼料作物として古くから用いられたらしい。
出典:東北芸術工科大学紀要、第25号 2018年3月、宮澤賢治が書いた生活誌―『グスコーブドリの伝記』に描かれた生業と生活の姿―
文献(上)によると桃色の花とはレンゲとのことです。ブドリが火山灰の積もった森を出ると、下に引用したような桃色の畑が広がっていました。なお、「レンゲ草」は宮本輝氏「地の星(流転の海シリーズ2)」でも故郷・愛南町休耕田を鮮やかに彩る花としてたびたび描写されています(「地の星」の風景その1・参照)。
出典:写真AC、レンゲ草
https://www.photo-ac.com/main/detail/4744935&title=%E3%83%AC%E3%83%B3%E3%82%B2%E8%8D%89
ブドリがすすんでいくと、「ひげの赭(あか)い人」と「白い笠をかぶった、せいの高いおじいさん」がなにやら口論しています。
赤ひげ「なんでもかんでも、おれは山師張るときめた。」
白い笠のおじいさん「やめろって言ったらやめるもんだ。そんなに肥料うんと入れて、藁はとれるたって、実は一粒もとれるもんでない。」
赤ひげ「うんにゃ、おれの見込みでは、ことしは今までの三年分暑いに相違ない。一年で三年分とって見せる。」
白い笠のおじいさん「やめろ。やめろ。やめろったら。」
赤ひげ「うんにゃ、やめない。花はみんな埋めてしまったから、こんどは豆玉を六十枚入れて、それから鶏の糞、百駄(だん)入れるんだ。急がしったらなんの、こう忙しくなればささげのつるでもいいから手伝いに頼みたいもんだ。」
話を聞いていたブドリは横から赤ひげに声をかけます。
ブドリ「そんならぼくを使ってくれませんか。」
赤ひげ「よしよし。お前に馬の指竿(さし)とりを頼むからな。すぐおれについて行くんだ。それではまず、のるかそるか、秋まで見ててくれ。さあ行こう。ほんとに、ささげのつるでもいいから頼みたい時でな。」
白い笠のおじいさん「年寄りの言うこと聞かないで、いまに泣くんだな。」
出典:仙台市役所公式サイト、馬による代かき
https://www.city.sendai.jp/index.html
「それからブドリは、毎日毎日沼ばたけへはいって馬を使って泥をかき回しました。一日ごとに桃いろのカードも緑のカードもだんだんつぶされて、泥沼に変わるのでした。馬はたびたびぴしゃっと泥水をはねあげて、みんなの顔へ打ちつけました。一つの沼ばたけがすめばすぐ次の沼ばたけへはいるのでした。」
上には昭和時代に撮影された馬をつかった代かき(田植え前に土を砕いて地表を平らに整える作業)の写真を引用させていただきました。左側の方が指竿を使って農耕馬を誘導しています。ブドリも「赤ひげ」の沼ばたけ(水田)でこのような作業をしていました。
田植え
「こうして二十日ばかりたちますと、やっと沼ばたけはすっかりどろどろになりました。次の朝から主人はまるで気が立って、あちこちから集まって来た人たちといっしょに、その沼ばたけに緑いろの槍のようなオリザの苗をいちめん植えました。」
下に引用したのは明治時代の田植えの写真です。明治30年ごろから、同じ間隔で列になるように苗を植える「正条植え」が主流になっていったとのこと。こちらの列のどこかにブドリの姿も加えてみましょう。
出典:Kusakabe Kimbei, Public domain, via Wikimedia Commons
https://commons.wikimedia.org/wiki/File:Kusakabe_Kimbei_-_287_Planting_Rice.png
「ところがある朝、主人はブドリを連れて、じぶんの沼ばたけを通りながら、にわかに『あっ』と叫んで棒立ちになってしまいました。見るとくちびるのいろまで水いろになって、ぼんやりまっすぐを見つめているのです。
『病気が出たんだ。』主人がやっと言いました。」
ブドリ「頭でも痛いんですか。」
赤ひげ「おれでないよ。オリザよ。それ。」
「ブドリはしゃがんでしらべてみますと。なるほどどの葉にも、いままで見たことのない赤い点々がついていました。」
出典:山梨県ホームページ、農政部、病害虫防除所、水稲 いもち病、苗いもち
https://www.pref.yamanashi.jp/
多くの文献では「グスコーブドリの伝記」で描かれている稲の病気は「いもち病」であったとされています。上にはいもち病にかかった稲の写真を引用いたしました。
その年は病気でオリザ(米)が全滅したため、その後に蕎麦をつくり、毎日蕎麦を食べて過ごすことになりました。
そして次の春、主人がこういいます。
「ブドリ、ことしは沼ばたけは去年よりは三分の一減ったからな、仕事はよほどらくだ。そのかわりおまえは、おれの死んだ息子むすこの読んだ本をこれから一生けん命勉強して、いままでおれを山師だといってわらったやつらを、あっと言わせるような立派なオリザを作るくふうをしてくれ。・・・・・・そして、いろいろな本を一山ブドリに渡しました。ブドリは仕事のひまに片っぱしからそれを読みました。ことにその中の、クーボーという人の物の考え方を教えた本はおもしろかったので何べんも読みました。またその人が、イーハトーヴの市で一か月の学校をやっているのを知って、たいへん行って習いたいと思ったりしました。」
そして、
出典:写真AC、イネの花 山形県 庄内米
https://www.photo-ac.com/main/detail/4737418&title=%E3%82%A4%E3%83%8D%E3%81%AE%E8%8A%B1+%E5%B1%B1%E5%BD%A2%E7%9C%8C+%E5%BA%84%E5%86%85%E7%B1%B3
「早くもその夏、ブドリは大きな手柄をたてました。それは去年と同じころ、またオリザに病気ができかかったのを、ブドリが木の灰と食塩を使って食いとめたのでした。そして八月のなかばになると、オリザの株はみんなそろって穂を出し、その穂の一枝ごとに小さな白い花が咲き、花はだんだん水いろの籾(もみ)にかわって、風にゆらゆら波をたてるようになりました。」
上に引用したように稲の花(おしべ)は白く、それぞれの袋(エイ)から六本出ています。中にあるめしべに受粉をするとエイはすぐに閉じてしまうため、花を見られるのは1~2時間という短い間です。
ブドリのおかげでこの年の赤ひげのオリザは豊作でした。
赤ひげ「なんの、おれも、オリザの山師で四年しくじったけれども、ことしは一度に四年分とれる。これもまたなかなかいいもんだ。」
ところが豊作は長く続きません。次の年も、また次の年も雨が少なく、収穫量は激減してしまいました。
そしてとうとう、ブドリを呼び出してこういいます。
赤ひげ「ブドリ、おれももとはイーハトーヴの大百姓だったし、ずいぶんかせいでも来たのだが、たびたびの寒さと旱魃のために、いまでは沼ばたけも昔の三分の一になってしまったし、来年はもう入れるこやしもないのだ。・・・・・・いつになっておまえにはたらいてもらった礼をするというあてもない。・・・・・・済まないがどうかこれを持って、どこへでも行っていい運を見つけてくれ。」
赤ひげはそういって「一ふくろのお金と新しい紺で染めた麻の服と赤皮の靴とをブドリにくれました。」
クーボー大博士との出会い
「ブドリは二時間ばかり歩いて、停車場へ来ました。それから切符を買って、イーハトーヴ行きの汽車に乗りました。汽車はいくつもの沼ばたけをどんどんどんどんうしろへ送りながら、もう一散に走りました。その向こうには、たくさんの黒い森が、次から次と形を変えて、やっぱりうしろのほうへ残されて行くのでした。」
イーハトーヴ市がどこかは明確にされていませんが、下には明治時代の盛岡停車場の写真を引用いたします。当時から盛岡停車場は立派な設備が整った岩手県最大の駅舎でした。
出典:巌手県奉迎会 編『東宮行啓紀念写真帖』,巌手県奉迎会,明41.9. 国立国会図書館デジタルコレクション https://dl.ndl.go.jp/pid/780856 (参照 2025-03-05、一部抜粋)、盛岡停車場
https://dl.ndl.go.jp/pid/780856/1/16
「停車場を一足出ますと、地面の底から、何かのんのんわくようなひびきやどんよりとしたくらい空気、行ったり来たりするたくさんの自動車に、ブドリはしばらくぼうとしてつっ立ってしまいました。」
以下に引用したのはは大正末期の盛岡駅の写真です。駅の前には複数のタクシーが客待ちをしています。ここでは駅の出口あたりに大都会の雰囲気に飲まれそうになっているブドリの姿を置いてみましょう。
出典:『盛岡案内』,盛岡市,1926.7. 国立国会図書館デジタルコレクション https://dl.ndl.go.jp/pid/1900439 (参照 2025-03-03、一部抜粋)、盛岡停車場
https://dl.ndl.go.jp/pid/1900439/1/20
ブドリは気をとりなおしてクーボー博士の学校を目指します。
「そしてブドリがやっと学校をさがしあてたのはもう夕方近くでした。」
「その大きなこわれかかった白い建物の二階で、だれか大きな声でしゃべっていました。
『今日は。』ブドリは高く叫びました。だれも出てきませんでした。
『今日はあ。』ブドリはあらん限り高く叫びました。するとすぐ頭の上の二階の窓から、大きな灰いろの顔が出て、めがねが二つぎらりと光りました。それから、
『今授業中だよ、やかましいやつだ。用があるならはいって来い。』とどなりつけて、すぐ顔を引っ込めますと、中ではおおぜいでどっと笑い、その人はかまわずまた何か大声でしゃべっています。」
ブドリをどなりつけためがねの男は、探していたクーボー博士でした。
出典:『盛岡案内』,盛岡市,1926.7. 国立国会図書館デジタルコレクション https://dl.ndl.go.jp/pid/1900439 (参照 2025-03-03、一部抜粋)、盛岡高等農林学校
https://dl.ndl.go.jp/pid/1900439/1/22
上には宮沢賢治が通った「盛岡高等農林学校(現岩手大学農学部)」の写真を引用いたしました。こちらの2階からクーボー博士がどなっているところをイメージしてみましょう。
「ブドリはそこで思い切って、なるべく足音をたてないように二階にあがって行きますと、階段のつき当たりの扉があいていて、じつに大きな教室が、ブドリのまっ正面にあらわれました。中にはさまざまの服装をした学生がぎっしりです。向こうは大きな黒い壁になっていて、そこにたくさんの白い線が引いてあり、さっきのせいの高い目がねをかけた人が、大きな櫓の形の模型をあちこち指さしながら、さっきのままの高い声で、みんなに説明しておりました。」
なお、クーボー博士のモデルは当時、盛岡高等農林学校の教授で、賢治が教えを受けた関豊太郎氏といわれています。
「関教授は眼鏡をかけたするどい目つき、大きな声と短
出典:岩手大学リポジトリ、盛岡高等農林学校と宮澤賢治
気ですぐ怒鳴り、気むずかしい“ ライオン先生”」
https://iwate-u.repo.nii.ac.jp/
なお関教授は「グスコーブドリの伝記」のクーボー博士と同じく厳しい性格でしたが、賢治は教授を尊敬し、関教授も賢治を高く評価していたとのことです。以下には関教授の顔写真も引用させていただきます。
出典:岩手大学公式サイト、関豊太郎先生
https://www.iwate-u.ac.jp/index.html
授業の後、ブドリが書き取ったノートを見せにいくとその正確さを褒め、試問をします。
クーボー博士「では問題に答えなさい。工場の煙突から出るけむりには、どういう色の種類があるか。」
ブドリ「黒、褐、黄、灰、白、無色。それからこれらの混合です。」
クーボー博士「無色のけむりはたいへんいい。形について言いたまえ。」
ブドリ「無風で煙が相当あれば、たての棒にもなりますが、さきはだんだんひろがります。雲の非常に低い日は、棒は雲までのぼって行って、そこから横にひろがります。・・・・・・」
クーボー博士「よろしい。きみはどういう仕事をしているのか。」
ブドリ「仕事をみつけに来たんです。」
クーボー博士「おもしろい仕事がある。名刺をあげるから、そこへすぐ行きなさい。」
出典:See page for author, CC BY-SA 4.0 https://creativecommons.org/licenses/by-sa/4.0, via Wikimedia Commons、Santos Dumont N°4、1904
https://commons.wikimedia.org/wiki/File:Santos_Dumont_N%C2%B04.jpg
「なんだ、ごみを焼いてるのかな。」
といって博士が窓から外へ飛び出したのに驚いて、ブドリが窓へかけよると
「大博士は玩具のような小さな飛行船に乗って、じぶんでハンドルをとりながら、もううす青いもやのこめた町の上を、まっすぐに向こうへ飛んでいるのでした。」
とあります。
上には主に明治時代に発明家・飛行家として活躍したアルベルト・サントス・デュモンの飛行船(4号機)の写真を引用いたしました。風除けがなさそうな操縦席ですが、こちらから下界の景色を楽しんでいるのでしょうか。ここではクーボー博士を操縦者(サントス・デュモン)に重ねてみましょう。
旅行などの情報
岩手大学・農業教育資料館
「クーボー大博士」が講義をしている場所として登場していただきました。「盛岡高等農林学校(現岩手大学農学部)」の本館として大正元年に建てられた欧風建築物(下に引用させていただきました)で、現在は「農業教育資料館」として一般に開放されています。
館内には宮沢賢治が採取した岩石や卒業論文、学生時代の写真などのほか、クーボー大博士のモデルとされる関豊太郎博士関連の資料も展示され、「グスコーブドリの伝記」の世界観に触れることができます。また休憩スペースを兼ねた「ポランの間」には賢治の童話が並んでいるので見学の合間に立ち寄ってみてはいかがでしょうか。
基本情報
【住所】岩手県盛岡市上田3-18-8
【アクセス】盛岡駅から徒歩約30分(旧正門)
【参考URL】https://www.iwate-u.ac.jp/academics/facility/hmae.html
光原社
盛岡市内の賢治ゆかりのスポットをもう少しめぐってみましょう。「光原社」は大正13年、賢治が唯一生前に発刊した童話集「注文の多い料理店」の出版元でした。現在は出版社ではなく民芸品や漆器などを扱う複合施設として営業中です。商品については下に引用させていただいた公式インスタグラムもご覧ください。
敷地内には「可否館」という喫茶店も併設され「くるみクッキー」が名物になっています。ほかにも敷地内の賢治資料館「マヂエル館」にある「注文の多い料理店」の初版本は必見、海外のアクセサリーや衣類を販売する「カムパネラ」など見どころが満載です。
基本情報
【住所】岩手県盛岡市材木町2-18
【アクセス】盛岡駅から徒歩で約8分
【参考URL】https://morioka-kogensya.sakura.ne.jp/
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