宮本輝「花の回廊」の風景(その2)

房江から見た風景

房江が働く小料理屋(花の回廊の風景その1・参照)は彼女が客の要望に応じてつくる料理が評判となり、以前より繁盛しつつありました。一方、女主人は愛人と地方に出かける機会が増え、房江に住み込みで働くことを要求しますが・・・・・・。そんなある日、蘭月ビルで老人が亡くなり、一緒にいた伸仁が警察に連行されたという連絡を受けます。

小料理屋「お染」

房江の働く小料理屋については以下のように記されています。
「宗右衛門町筋の中程の、道頓堀川沿いにある小料理屋『お染』は、客同士がどんなに詰め合って腰掛けても八人が限度で、川に面した壁にはガラス張りの小窓がひとつあるだけだった。この窓がもっと大きければ、空襲を受ける前の賑わいを取り戻した道頓堀の色とりどりのネオンや、戎橋を行き来する人々の喧騒が楽しめるのにと房江は思い、自分と同じ感想を口にする常連客も多いことを知っていた。」

下には昭和30年ごろの戎橋付近の写真を引用しました。戎橋を渡った先(写真上側)にある車が左右に横切っている道路が宗右衛門町筋でしょうか。ここでは戎橋の右側のエリアにあるお店のどちらかで房江が働いているところを想像してみましょう。

出典:パブリックドメインR、夜の大阪・戎橋 [辻口文三, カメラ毎日 1955年4月号より]
https://publicdomainr.net/camera-mainichi-april-1955-issue-0001573/

また、お染から道頓堀川をはさんだ向かい側には、当時、下に引用させていただいたような二代目グリコ看板などのネオンが輝いていたと思われます。

房江の料理が評判

房江がつとめる前の「お染」の料理は以下のようなものでした。
「小料理屋といっても、房江が勤め始めた去年の十一月までは、黒門市場の近くにある蒲鉾店で買った魚の練り物を切って、それを皿に盛って出すか、客の要望に従って寿司屋から出前を取るかしか能のない店で、看板に『バー』と書くほうが正しい店だったのだ。」

これでは客があまりに寂しかろうと思った房江が簡単な料理を出すようになると、それが評判になり客から料理を所望されるようになります。
女主人「あれが食べたい、これが食べたいて言われても、材料がおまへんがな。予約してくれはらんと。なァ、房江さん」
房江「次にお越しになったときは、クリームコロッケなんかいかがですやろ」
客「このお染でクリームコロッケかいな。そらええなァ。あさって来るよってに、クリームコロッケ、楽しみにしてるわ。三人前、予約したで」

「心斎橋筋で洋品店を営む六十過ぎのその男は、二日後、友人を伴ってお染にやって来ると、蟹の身の入ったクリームコロッケをひとくち味わうなり驚き顔で房江を見つめ、『あんた、何者やねん?』と訊いた。」
とあります。

上に引用させていただいた投稿のように「カニクリームコロッケ」は日本で考案された食べ物で、文献に初めて登場するのは天皇の料理番で知られる秋山徳蔵氏のレシピ集「仏蘭西料理全書」とされています。下には当該部分(クロケット=クリームコロッケ)と思われる部分を引用させていただきました。

クロケットは、その調理原料は主たる要素と従たる要素とに分けることが出来ます。主たる要素には、家禽及び獲物(ジビエ)の肉、魚肉又は蝦、蟹等のような甲殻類の肉を用い、従たる要素にはシャンビギョン又はセーブ、ハム又は牛舌肉トリュッフ等を用ひ(後略)

出典:仏蘭西料理全書、秋山徳蔵 著、P58、クロケット
https://dl.ndl.go.jp/pid/970458/1/58

住み込みを要求されるも!

「五月に入ったころから、房江の勤務時間の延長を求める女主人の言葉には剣が含まれるようになった。房江の作る料理を目当ての客が増えつづけたからだったが、同時に、女主人に羽振りのいい旦那ができかけていることも大きな要因だった。・・・・・・その男は相撲が好きで、去年、小結に昇進した一人の相撲取りを贔屓にしていて・・・・・・場所に従って動いていた。男が九州に来いと言えば、女主人は何をさて置いても九州にいかねばならない。・・・・・・」

お染の女主人の旦那が贔屓にしていたのは昭和31年秋場所に小結に昇進した玉乃海太三郎関のことかもしれません。下にはその玉乃海関の写真を引用しました。

出典:ベースボール・マガジン社 (Baseball Magazine Co., Ltd.), Public domain, via Wikimedia Commons
https://commons.wikimedia.org/wiki/File:Tamanoumi_Daisaburo_1959_Scan10009.JPG

玉乃海関は下に引用させていただいたように相撲協会から破門になったり、戦時にジャングルで死にかけたりと波乱万丈の人生を送った方です。豪快な取り口が人気で昭和32年九州場所では全勝優勝を果たしました。もしかしたら、お染の女主人・田嶋カツ代も旦那と一緒に九州場所で優勝シーンを見ていたかもしれません。

幕下だった1940年(昭和15年)に上海で巡業が行なわれた時のこと、(中略)酒癖の悪い福住は怒って運転手を引きずり降ろしケンカを始める。そこへ憲兵数名が駆けつけるが悪いことに彼らも酒を飲んでいた。いきなり軍刀の鞘で殴られて激怒した福住はその憲兵全員を叩きのめしてしまう。(中略)協会から破門することが条件とされてしまった。
(中略)
太平洋戦争開戦後の1942年(昭和17年)1月、海軍の軍属としてトラック諸島、テニアン島、ガダルカナル島の飛行場建設に従事した。米軍の攻撃によりジャングルへ逃げこむが飢餓地獄を生き延び、戦死、病死、餓死者25,000人以上という敗戦の中にあって、ケ号作戦によって奇跡的に救出された海軍の生存者832名の内のひとりとなった。
(中略)
1950年(昭和25年)に師匠・玉錦の夢を見たという。するとその翌日に二所ノ関(玉ノ海)から破門を解くから戻って来いと言われて復帰、幕下格で帰参した。(中略)1956年(昭和31年)9月場所では小結で9勝6敗と勝ち越し、殊勲賞を受賞する。1957年九州本場所、(中略)見事涙の全勝優勝を飾った
(中略)
取り口は怪力を生かし四つ身から櫓投げを放つなど豪快そのもの、「荒法師」の異名をとった

出典:ウィキペディア、玉乃海太三郎
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%8E%89%E4%B9%83%E6%B5%B7%E5%A4%AA%E4%B8%89%E9%83%8E

住み込みを要求された房江は以下のように考えていました。
「それがいやなら馘にすると言われても、自分はこの店に住み込みで働く気はない。もしそうまで言われたら辞めるしかない。たとえ電気も水道もないビルの三階の部屋であっても、私は仕事を終えたら、たとえ歩いてでもそこに帰りたい。」

伸仁が警察に?

ある日、房江が「お染」で料理の仕込みをしていると、伸仁を預けている熊吾の妹・タネからの電話がかかってきます。アパートで老人が亡くなり伸仁が警察に連れていかれたとのこと。房江は早退させてもらい、警察に向かいました。下には房江が行ったと思われる旧尼崎警察署(大正15年竣工)周辺のストリートビューを引用させていただきました。

ここでは伸仁がなにか悪いことをしたのではないかと心配し
「心臓の鼓動が頭のなかに響いてきそうだった」
という精神状態で警察署の前に立つ房江の姿をイメージしてみましょう。

警察で野球のまねをする伸仁

どきどきしながら警察署に入ってみると、伸仁は廊下の長椅子のところで遊んでいました。
「ゴムボールを壁に当て、返ってきたボールをつかんで廊下の奥へと投げる格好をしながら、ラジオのプロ野球のアナウンサーの口調を真似て『セカンドが取って一塁へ。一塁はセーフ。その間に三塁ランナーがホーム・イン』」

以下には昭和32年のプロ野球の最終成績を引用します。当時のセリーグは現在と同じ6球団でしたが、パリーグには7球団が所属していました。ほかにも大阪タイガース(→阪神)や国鉄スワローズ(→ヤクルト)など、多くの球団が現在とは異なる名前です。

1957年セントラル・リーグ最終成績(中略)
1位 読売ジャイアンツ(中略)
2位 大阪タイガース(中略)
3位 中日ドラゴンズ(中略)
4位 国鉄スワローズ(中略)
5位 広島カープ(中略)
6位 大洋ホエールズ(中略)
1957年パシフィック・リーグ最終成績
優勝 西鉄ライオンズ(中略)
2位 南海ホークス(中略)
3位 毎日オリオンズ(中略)
4位 阪急ブレーブス(中略)
5位 東映フライヤーズ(中略)
6位 近鉄パールス(中略)
7位 大映ユニオンズ(中略)

出典:ウィキペディア、1957年の野球
https://ja.wikipedia.org/wiki/1957%E5%B9%B4%E3%81%AE%E9%87%8E%E7%90%83#%E8%AA%95%E7%94%9F

伸仁がどちらのプロ野球チームのファンだったかは不明ですが、阪神エリアなので周辺にはタイガースファンが多かったことでしょう。

下には昭和31年のオールスター出場時の吉田義雄選手(右は巨人の広岡選手)の写真を引用しました。戦手時代も走攻守そろった名選手でしたが、1985年の阪神優勝時の監督として記憶されている方も多いのではないでしょうか。

出典:博友社 (Hakuyu-sha Co., Ltd.), Public domain, via Wikimedia Commons
https://commons.wikimedia.org/wiki/File:Yoshio_Yoshida_and_Tatsuro_Hirooka_1956_Scan10007.JPG

ほかにも昭和32年当時、パリーグでは本塁打王になった南海(現ダイエー)の野村克也氏(30本)、セリーグでは最多勝利(28勝)を獲得した国鉄の金田正一氏(28勝) などが活躍されていました。

好物のうなぎを食べに

伸仁を警察署に連れていった理由について、尼崎署の警官は以下のように言います。
「とにかく、息子さんの話は、あっちへ飛び、こっちへ飛びしますし、老人が死んだということで興奮もしてましたので、あのアパートからちょっと離したほうがええと思うて、署まで来てもらいましたんや」

伸仁が悪いことをしたわけではないと知ってほっとした房江は、何かおいしいものを食べようと思い、伸仁をつれて尼崎駅前の「三和商店街」に向かいました。
「駅の裏側に行けば、いまでもここが一面闇市であったことに気づくが、阪神国道側の商店街には明るいアーケードが設けられて、かつての闇市の無秩序な喧噪と尖った表情の人々の群れはなりをひそめてしまっていた。」

下に引用させていただいたのは、昭和30年代と思われる三和商店街の写真です。こちらのどこかに、ほっとした気分で歩く房江と伸仁を置いてみましょう。

出典:三和本通商店街公式サイト、尼崎三和本通商店街について
https://sanwahondori.com/about/

好物のうなぎの蒲焼の匂いに誘われてお店に入った房江は、伸仁にうな重はどうかと訊きます。
伸仁「きも焼きもつけてや」
房江「ノブは、うなぎの肝が好きやなァ。きも焼きが好きな子供なんて珍しいわ」
房江は「うな重の上を二人前と、きも焼き二本分」、さらに「銚子一本の熱燗」を注文しました。

旅行などの情報

戎橋

房江が働く小料理屋があった戎橋周辺は今でも大阪有数の繁華街です。目の前にはグリコの看板や、かに道楽の動く看板といった写真スポットがたくさんあります。なお、西淀川区にある江崎記念館には上で紹介した2代目グリコサインのほか歴代の模型が展示されているので、併せて立ち寄るのもおすすめです。下には模型の写真が掲載された大阪観光局公式サイトの投稿を引用させていただきました。

道頓堀周辺には串カツやタコ焼き、豚まん、ネギ焼きといった名物グルメが数多くあり、迷ってしまいそうです。また、大阪土産を捜すなら「くいだおれ太郎」グッズが充実している中座くいだおれビルの「いちびり庵道頓堀店」を覗いてみてはいかがでしょうか。

基本情報

【住所】大阪府大阪市中央区道頓堀1丁目
【アクセス】なんば駅から徒歩約3分
【参考URL】https://osaka-info.jp/spot/ebisubashisuji-shopping-street/

うなぎの双葉

房江が伸仁を連れてどちらのうなぎ屋さんに入ったかわかりませんが、こちらは現在尼崎周辺で人気のうなぎ店です。特にランチの「蒸しうなぎ丼」は肝吸いもセットで1000円強(2024年8月)とコスパも抜群、関西では珍しい「蒸し」工程が入った鰻はふっくらとした食感を楽しめます。

丼物の単品以外にも定食やフルコースも準備されています。ほかにも伸仁が頼んだ鰻の肝焼き、うざく、う巻などもあるので、お酒とともに堪能してみてはいかがでしょうか。

基本情報

【住所】兵庫県尼崎市神田北通り3-39
【アクセス】阪神本線尼崎駅から徒歩約5分
【参考URL】https://futaba-unagi.gorp.jp/