宮本輝「花の回廊」の風景(その3)
大駐車場の立ち上げ
熊吾はエアー・ブローカーの仕事と並行して、有料の大駐車場を立ち上げようとします。資金のない熊吾はタクシー会社社長の柳田元雄に土地を購入してもらい、自分は月極契約車の仲介などで報酬をもらう算段でした。熊吾が勧誘した契約者のなかには現在まで続く薬品会社も!熊吾に恩義を感じる徳沢という男からは取引に有利な情報を得ます。
柳田元雄との交渉
流転の海シリーズの前作「天の夜曲」では熊吾はシンエー・タクシー社長の柳田元雄と以下のような会話をし、大駐車の立ち上げを持ちかけていました。
熊吾「これから日本は飛躍的に車の数が多くなるでしょう。そうなると、この狭い日本で困るのは車の置き場所ですな。ある新聞に、アメリカでは『モータープール』というのがあるという記事が載っちょりました。・・・・・・大きな土地に作った有料駐車場です。日本もいずれそういうものが必要になるでしょう。警察も違反区域での路上駐車の取締まりに本腰を入れるそうですけん」
下には昭和38年ごろの青空駐車についてのニュース動画を引用させていただきました。熊吾が言っていたように駐車場不足は昭和30年代の社会問題になっていきます。
駐車場のための土地として熊吾は以下のような女学校の跡地を狙っていました。
「福島区の福島西通りの交差点のところに私立の女学校がある。校舎や講堂や運動場を含めて千二百坪だ。その私学は女子高校だが、新しく附属の女子中学を設立したがっている。戦後のベビーブームの時代に誕生した子供たちが、もうじき中学生になるのだ。・・・・・・いまの校舎のままでは文部省の許可がおりない。・・・・・・福島区の学校用地を売却し、どこか別の場所に中学と高校の校舎を建てようという案が具体化した・・・・・・」
下には昭和初期(1936年~1942年)の福島西通り交差点(十字マーク)付近の空中写真を引用させていただきました。交差点の右下(南東)部分の学校のような広大な構造物があります。こちらが熊吾の駐車場が狙っていた土地だったかもしれません。
出典:国土地理院、新福島駅周辺(1936年~1942年頃)
https://maps.gsi.go.jp/#17/34.694604/135.484117/&base=ort&ls=ort%7Cort_1928%7Cort_riku10&blend=00&disp=111&lcd=ort_riku10&vs=c1g1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f1&d=m
「あの土地が手に入れば、大阪でいちばん大きな『モータープール』なる駐車場をつくることができる。おそらく三百台の車の駐車が可能であろう」
そして、熊吾が資金提供者として白羽の矢を立てたのはシンエー・タクシー社長の柳田元雄でした。
「柳田はこの計画に必ず乗ってくる。柳田に土地を買う甲斐性はあっても、千二百坪近い女学院の跡地に月極め契約で三百台の車を確保するだけの方策はあるまい。しかし俺なら出来る。半年で駐車場を満車にしてみせる。」
「女学院の土地購入から駐車場の造成、そして月極契約者の確保。それを一括して松坂熊吾に委託させ、駐車場の毎月の上がりの一割を支払わせる。それが柳田元雄にとってどんなにらくな商いとなるか、彼なら算盤(そろばん)をはじかなくても即座にわかるであろう・・・・・・」
徳沢邦之
女学校の土地購入の交渉中に力強い味方が現れます。
「買い手はいくらでもあるだろうから、柳田元雄が提示した金額で買うことは難しいと思っていたが、熊吾の読みが外れた。千二百坪もの土地をそっくりそのまま買える者は少なくて、ほとんどは、三百坪だけならとか、五百坪だけならという条件をつけていた。女学院の移転計画は進み、移転先の土地購入も決まりながらも、女学院側の土地売却が遅れている理由がそこにあることを教えてくれたのは、不動産屋の社長と戦友だという徳沢邦之なる男だった」
不動産屋の事務所で社長の帰りを待っていると外から入ってきた徳沢が話しかけてきます。
徳沢「松坂さんは、私のことなんか忘れてしまいはりましたやろなァ・・・・・・上海でお世話になりました。もう二十年以上も昔のことです」
徳沢の名刺には以下のような肩書が書かれていました。
「衆議院議員 愛川民衆私設秘書 徳沢邦之」
下には上海租界(外国人居留地)の繁華街・バンド地区の戦前の写真を引用しました。熊吾や徳沢もこちらのような街中を歩いていたと思われます。
出典:See page for author, Public domain, via Wikimedia Commons
https://commons.wikimedia.org/wiki/File:Shanghai_1928_Bund_Cenotaph.jpeg
徳沢の服装や容貌については以下のように記述されています。
「夏だというのに合い物の派手な格子柄の背広を着た」
「自分より少し歳下かと思える徳沢は、削いだような頬がもともと角張っている顔の骨格をさらに尖ったものに見せていたが、茶色のロイド眼鏡の奥の細い気弱そうな目が、その顔から剣を消す役割を担って、逆に表情に茶目っ気に似たものをたずさえていた。」
次に熊吾と会ったとき、徳沢は熊吾との関係を以下のように語りました。
徳沢「海州園ていう茶館を覚えてはりますか?・・・・・・」
熊吾「海州園・・・・・・。春には庭にぎょうさんの見事な牡丹の花が咲く茶館でしたな。牡丹園の前には大きな池があって、いろんな色の大きな鯉が泳いじょって・・・・・・」
下には上海の茶館をイメージするために、現存する上海最古の茶館とされる「湖心亭(創業1855年)」の写真を引用しました。
出典:Scan by NYPL, Public domain, via Wikimedia Commons
https://commons.wikimedia.org/wiki/File:Shanghai._City_Tea_House_(NYPL_Hades-2359426-4043782).jpg
海州園は経営者の鄭一族と菓子職人の羅一族が共同で運営する茶館でした。
「開店は清王朝の初期に遡る。客に供する茶も上質で種類も多かったが、菓子はあまたの上海のなかでも随一と評されていて、創業時から海州園の菓子を造る職人は羅一族と決まっていた。」
その羅一族が持つ塩の販売権を目当てに、丸谷という日本人が鄭一族と羅一族を陥れようとしたとのこと。また、熊吾がその丸谷を上海から追い出してくれたおかげで徳沢の妹が日本に帰国できたといいます。
徳沢「あの軍部とつるんでた丸谷っちゅう男が上海から消えたお陰で、鄭家も羅家も争い事に巻き込まれることもなく、両家のアホ息子も自らの欲ぼけから目が醒めただけやおまへん。私の妹も、小さな子をつれて、敗戦間近の時期に日本へ帰る船に乗ることができたんです。あの丸谷を上海におれへんようにしたのは、誰が何と言おうと、私は松坂熊吾さんやと信じとるのです」
熊吾の取り分
熊吾に恩義を感じている徳沢は、戦友の不動産屋などから得た情報を流してくれました。
「千二百坪の土地をすべて買うための金額が大きいだけでなく、校舎や講堂などを取り壊す費用も買い手に二の足を踏ませていることも徳沢邦之は付けくわえた。そのお陰で熊吾は精神的に優位な立場で不動産屋との交渉を再開することができたのだ」
「女学院側の意向を受けて、不動産屋が熊吾を窓口に、柳田元雄に土地を売ることを決めたのは八月十一日だった。」
土地の購入が決まると、熊吾はシンエー・タクシー事務所で柳田社長と自分との契約交渉をします。下には事務所の中で会話をする熊吾と柳田元雄社長の姿をイメージするために、昭和時代のタクシー営業所の写真を引用させていただきました。
出典:宮園自動車株式会社/豊和自動車株式会社・公式サイト、宮園グループの歴史、中野営業所:出庫風景
https://www.miyazono.jp/taxi/gaiyou_flame.html
駐車場の利益の十パーセントを要求する熊吾でしたが
「柳田は、駐車場が存在する限り、熊吾に純益の一部を払いつづけるなどという取引きには応じる気はないと明言し、純益の七パーセントを五年間と提示した。」
タクシー会社事務所での柳田と熊吾の会話を抜粋してみましょう。
柳田「松坂さん、五年間で急場をしのぎなはれ。急場をしのぎながら、松坂さんの次の足場を作りなはれ。私は松坂さんに恩返しをしてるんです」
熊吾「私が、昔、お困りだったころの柳田さんにいかほどのことをしてさしあげたのかわかりませんが、私へのありがたい恩返しに私は精一杯お応えさせていただきます。一年で千二百坪の土地に車をぎっしり並べてみせましょう」
ダイハツがミゼットを発売
中古車関連の仕事をしている熊吾は、乗用車市場の最新情報に敏感でした。
「ダイハツ工業が八月に売り出したミゼットというひとり乗りの軽三輪トラックは、軽免許で運転できるし、荷台にはかなりの量の荷物が載せられて、しかも小回りがきくということで、おそらく空前のヒット商品になるだろうと噂されていた」
出典:Yasuhiko Ito from Sendai, Japan, CC BY 2.0 https://creativecommons.org/licenses/by/2.0, via Wikimedia Commons
https://commons.wikimedia.org/wiki/File:Showa_era_street_scene.jpg
上には昭和36年ごろ、石巻市の駅前で撮影された写真を引用させていただきました。ここでは、信号待ちの運転手に
「これはミゼットっちゅうやつですか?」
と興味深そうに声をかけます。
そして、車で混雑する道路を見ながら
「もはや戦後ではない、か・・・・・・」
と熊吾が独り言をいうところを想像してみましょう。
なお、上の写真のミゼットにはドアが付いていますが、昭和32年発売当初は、下に引用したようなドア無しのスペックだったとのことです。
出典:Mytho88, CC BY-SA 3.0 https://creativecommons.org/licenses/by-sa/3.0, via Wikimedia Commons
https://commons.wikimedia.org/wiki/File:1957_Daihatsu_Midget_01.jpg
新型そろばんに挑戦
熊吾は駐車場の料金を決めるために、大阪で営業をする十八軒の有料駐車場を調査したところ「車を屋根の下に置きたがる」客が多いことが判明します。
そのため
「月極契約と時間制による一時預りの二種類に分けて、さらに細かい料金設定を考えてから、屋根付きとそうでない場所による料金について自分なりに差をつけてみた」
とのこと。
電卓などは登場していない当時、計算を行う道具といえばそろばんでした。
上に引用させていただいたのは、昭和10年までは主流だった5つ玉のそろばんです。小学校の教科書改訂により、昭和10年以降は現在と同じ四つ玉が主流になったそうです。
ここでは、熊吾が慣れない四つ玉で料金を計算しながら、以下のようにぼやいているシーンを想像してみます。
「わしらが子供のころに習うたのは五つ玉の算盤でのぉ、最近の四つ玉の算盤はやり方が違うけん、きのうの夜、康代に教えてもろうたんじゃ。やっと慣れてきたが、肩が凝るのお」
駐車場の事前調査
熊吾は駐車場造成のため、予定地の女学校に立ち寄ります。
「熊吾は校門から校庭へと入り、その真ん中に立って、あらためてF女学院の全体を眺めてみた。学校は全て塀で囲まれているが、その塀の隣には民家が密集している。・・・・・・」
なお、F女学院のモデルとしては当時の大阪福島学園(現・好文学園女子高等学校)が挙げられます。少し先の話(花の回廊の風景その5・参照)になりますが、下に引用させていただいたように昭和33年の1月に火災に見舞われる点も一致しています。
(前略)
出典:好文学園女子高等学校公式サイト、沿革
昭和12年2月 大阪商科女学校として大阪市福島区上福島西通に、実業家・臼谷吉五郎が私財を投入して創設
(中略)
昭和33年1月 校舎類焼、現在地へ移転
(後略)
https://koubun.ed.jp/school/history.html
「校門を入って南側は校舎でその校舎と向き合うように東側に講堂がある。校門の北側にはL字型の校舎がつづき、その東側は校庭用地で建物はなかった。・・・・・・熊吾は、講堂を見て、これは使えるのではないかと考えた。四方の壁をぶち抜いて屋根と柱だけ残せば、立派な屋根付きの駐車場となる。校門の南側の校舎の一階は用務員室らしいが、そこを駐車場の受付兼事務所にして、その隣の職員室も残せば、駐車場の管理人の住まいに使えるではないか。」
出典:好文学園女子高等学校公式サイト、沿革、第1回の入学式(昭和12年4月)
https://koubun.ed.jp/school/history.html
上には昭和初期、大阪商科女学校として開校した際の入学式の写真を引用させていただきました。
こちらに
「ちょうど昼の休み時間らしく、二階建ての木造校舎の窓辺でも校庭でも、女子高生たちが賑やかに喋ったり、バドミントンに興じたりしていた」
というなか、学校の施設を見てまわる熊吾の姿を置いてみましょう。
あの滋養強壮剤の会社へも?
熊吾は駐車場の売り込みを開始します。ある製薬会社に駐車場の売り込みに行くと、総務担当の若い社員が対応します。彼によれば、営業用の車が増える予定で置き場には困っていたとのこと。八台分の利用を考えてもいいが
「大事な薬のサンプルを車内に置いたままにする場合が多いので、それが盗まれたりするような駐車場では困る」
との条件を提示します。
また、帰り際にこちらの会社の業務内容を尋ねるとその社員は詳細なことまで教えてくれました。
「二年前に創業して、ドイツの科学者の指導のもとに痔疾治療の軟膏と坐薬の販売を始めましたが、いま新しい画期的な栄養剤を開発中です・・・・・・ニンニクの有効成分を抽出して、そこから有毒なものや臭みを除去したものです。・・・・・・ほとんど完成してまして、あとは厚生省の許可が降りるのを待つだけです」
オイゲン・シュネル博士の助言のもと、研究を積み重ね、ニンニクを約2年間熟成させることでニンニク特有の刺激臭を軽減し、効果と安全性のバランスの良いエキス「熟成ニンニク抽出液」の開発に成功。医薬品「レオピン」を世に送り出しました。
出典:湧永製薬株式会社公式サイト、湧永製薬のあゆみ
※1965年に「キヨーレオピン」と名称変更しました。
https://www.wakunaga.co.jp/history
上に引用させていただいたように、滋養強壮剤の「キヨーレオピン」は1960年(昭和35年)発売の「熟成ニンニク抽出液」を用いた医薬品とのことです。販売元の湧永製薬株式会社は、大阪市福島区で創業しているので、こちらがモデルになっているのかもしれません。
出典:湧永製薬株式会社公式サイト、湧永製薬のあゆみ
https://www.wakunaga.co.jp/history
上には創業時(昭和30年)の写真を湧永製薬株式会社公式サイトから引用させていただきました。熊吾の訪問時に対応された「総務担当の若い社員」がこちらの写真のなかにいらっしゃるかもしれません。
旅行などの情報
伊勢のりもの博物館
「花の回廊」ではミゼットやダットサンなどの昭和30年代の名車が登場します。「伊勢のりもの博物館」ではこのような名車に触れられるだけでなく、車中に入ってエンジンをかけられるのが特徴です。下に引用させていただいたオート三輪以外にもオースチンやヒルマン、プリンスグロリアといった名車が展示されています。
なお、開館は不定休となっていますので確実に見たい場合は事前に予約をしておきましょう。周辺には夫婦岩で有名な二見浦や伊勢神宮といったパワースポットが点在しています。
基本情報
【住所】伊勢市二見町三津1070-3
【アクセス】伊勢二見鳥羽ライン・二見ICから車で3分
【関連URL】https://www.bunka.pref.mie.lg.jp/matikado/t/detail?kan_id=1121361
白井そろばん博物館
熊吾が四つ玉そろばんで四苦八苦するシーンで、そろばんの歴史に興味をもった方におすすめなのがこちらです。熊吾が五つ玉そろばんを習ったのは明治時代と思われますが、そろばん自体は中国から室町末期に伝わっていて多彩な派生品がつくられています。
上に引用させていただいたは江戸時代につくられた硯とそろばんが一つになった作品です。ほかにもそろばんと電卓が一つになった「そろばん電卓」や海外のカラフルな電卓など2000点以上が展示されています。セミナーやイベントなども行われているので、事前に公式サイトをチェックしてお出かけください。
基本情報
【住所】千葉県白井市復1459-12
【アクセス】北総鉄道の白井駅から徒歩25分
【関連URL】https://soroban-muse.com/