宮本輝「花の回廊」の風景(その5)

モータープールの営業は前倒し

柳田元雄とともに準備をしてきた「シンエー・モータープール」の開業は、予定地であるF女学院が火災により早く立ち退いたため、一ヵ月ほど前倒しされることに!その間にも熊吾は伸仁の住む蘭月ビルでさまざまな人々と出会いました。また、自分の行く先々で海老原太一の影を感じた熊吾は、反撃を開始します。

モータープールの予定地が火事に!

昭和33年1月、近所の自動車部品販売店を火元とした火事により、モータープール(駐車場)の予定だったF女学院の大部分が焼けてしまいます。
「風速十メートルの風は、火元から広い道を隔てた東南側に炎を飛ばし、F女学院の講堂と職員室、そして四教室を除く十三教室の木造瓦ぶき二階建て一棟二百五坪を全焼するとともに、女学院と隣接する五軒の二階建ての家も全焼した」

下にはF女学院のモデルの候補とした大阪福島学園(現・好文学園女子高等学校)の正門付近の写真を引用させていただきました。(花の回廊の風景その3・参照)。

出典:好文学園女子高等学校公式サイト、沿革、旧校地正門
https://koubun.ed.jp/school/history.html

熊吾によると
「壊さなにゃいけんかった建物が全焼して、壊さずに使うつもりじゃったこの講堂も南側の校舎もほとんど無傷で残った」
とのこと。
柳田に対し、焼け残った南側の校舎の二階の利用方法について以下のように提案します。
「この教室からじゃと、正門が見えます。・・・・・・正門をモータープールの車や人の出入口にするんですから、管理人にはいつも正門が見えちょらにゃあいけません。私と家内と息子は、この教室に住むのがいちばんええと思いますが・・・・・・」

上の写真の右側(南側)の二階あたりが熊吾のいう居住スペースの候補だったかもしれません。

トヨペット・クラウン

モータープールのオーナー・柳田やその管理人として働くことになった熊吾は、もともと昭和33年の4月に駐車場のオープンを予定していましたが、火事により女学校の移転が早まったため、1か月の前倒しをすることになりました。

熊吾と柳田がF女学院の焼け跡を調査して外にでると
「市電の停留所の近くに、トヨタ自動車が生産するクラウンという名の乗用車の新車が停まっていて、柳田を待っていた。」
とのことです。
下には昭和33年に発売された初代クラウンの写真を引用させていただきました。

出典:Mytho88, CC BY-SA 3.0 https://creativecommons.org/licenses/by-sa/3.0, via Wikimedia Commons
https://commons.wikimedia.org/wiki/File:1955_Toyopet_Crown_01.jpg

熊吾「これはお幾らでしたか」
柳田「百二十万ほどやった。このトヨペット・クラウンと日産のダットサンとどっちにしようかと迷たんやけど、こっちのほうが排気量が多うて乗り心地がええと勧められてなァ。それにこっちなら、わしが使わんようになっても、タクシーに使えるがな。トヨタがこの乗用車を最初に売り出したのはさきおととしや。戦後十年で、日本もこんな乗用車が製造できるようになったんかと、まあ言うたら万感胸に迫るっちゅう思いに駆られて買うたんや」

力道山に似た男

熊吾が蘭月ビルにある妹のお好み焼き屋で、寺田権次の焼くテッチャン(牛の臓物)を食べていると、「幼い女の子を抱いた男」が入っています。
「その三十五、六歳かと思える男が、あまりにもプロレスラーの力道山に似ていたので、熊吾は無礼と知りつつも男の顔を凝視してしまった」
また、
「この年齢で、これほどの落ち着きと貫禄を持つ男は、滅多にお目にかかれるものではない」
との感想も抱きました。

下には、昭和29年ごろの力動山さんの写真を引用します。

出典:朝日新聞社, Public domain, via Wikimedia Commons
https://commons.wikimedia.org/wiki/File:Rikidozan_1954.JPG

熊吾が伸仁の父と知ると名刺を渡し、丁寧に挨拶をしました。
「甲田鉄工株式会社 社長 甲田憲道」

甲田は自社の社員がこちらのお好み焼き屋で、客に暴力を振るったことを謝罪しにきたといいます。
ここでは
「松坂さん、一杯いかがですか」
と笑顔でマッコリをすすめる甲田に興味を持った熊吾が
「甘みと酸味がちょうどいい塩梅のマッコリ」
を味わうところをイメージしてみましょう。

その後、熊吾自身も寺田権次といざこざを起こすことになりますが・・・・・・

競馬で大儲け!

昭和33年の
「二月の最初の日曜日、熊吾は久しぶりに伸仁をつれて京都競馬場へ行った」
とあります。

伸仁からは
「きょうのお父ちゃんの予想、ぜんぜん当たれへんねんもん。競馬場についてから五戦全敗やで」
と言われるほどの調子の悪さです。熊吾は最後に伸仁の選んだ組み合わせも含めた六点張りをしました。

下に引用させていただいたのは、昭和33年のころの京都競馬場の写真です。ここでは、
「京都競馬場の真ん中にある大きな人工池の向こうでスターターがゲートのところへと歩き出した」
という緊張の場面をイメージしてみます。

伸仁「やったァ!お父ちゃん、三ー四や」
熊吾「これはでかい馬券じゃぞ」

「連勝複式三ー四という馬券は二万六千に百円という配当だった」
伸仁の予想があたり「伸仁の私立中学校への進学費用」にできるほどの大金が入ります。

熊吾「平然としちょれ。ぼくら親子は負けに負けて、すっからかんでございますっちゅう顔をしちょれ。スリがあちこちで目を光らせちょるけんのお」
帰りの電車の中でも
「伸仁は熊吾と目が合うたびに顔をしかめ、ことさら怒っているような表情を作ってみせながら、妙に緊張しつづけていた」
とあります。

蘭月ビルの茶人

蘭月ビルには朝鮮半島にルーツをもつ人が多く住んでいました。「ヤカンのホンギ」もその一人で本名は「供引基」といいます。あだ名についてタネは以下のように教えてくれます。
「引基は朝鮮語でホンギと読むそうやねん。ヤカンを作る工場に勤めているから『ヤカンのホンギ』。頭もヤカンみたいやからねん」

その「ヤカンのホンギ」が四十一度の熱を出した伸仁をスクーターで病院に連れていってくれたことを知り、熊吾はそのお礼のため彼の家を訪ねます。

熊吾がお礼をいうと、彼は伸仁の容態を訊いたあと、
「ぼくの点てる茶を一服、どうですか」
と誘います。

出典:建築写真類聚刊行会 編『建築写真類聚』第1期 第3 (茶室 巻1),[洪洋社],[大正9]. 国立国会図書館デジタルコレクション https://dl.ndl.go.jp/pid/962639 (参照 2024-08-19、一部抜粋)
https://dl.ndl.go.jp/pid/962639/1/28

「六畳の畳敷きの部屋の奥に茶釜があり、そこから湯気が出ていた。その横に茶筒、茶筅、茶巾が置かれてある。畳半分の炉が切ってあり、そこで炭がいこっている。」
上には大正時代の茶室の写真を引用させていただきました。

彼の姿については以下のように描かれています。
「おそらくこの蘭月ビルに住む朝鮮人のなかで最も日本語が下手だと思われる供引基は、歳は五十二、三歳で、背は低いが頑丈な骨格の、不愛想な男だった」

ここでは無骨な「ヤカンのホンギ」が、同じくあまり愛想がいいとはいえない熊吾に対して、黙々とお茶を点てる様子をイメージしてみます。

海老原太一への逆襲

熊吾が柳田を訪ねると、シンエー・タクシーの応接室には
「関西猟人倶楽部 昭和三十二年十二月六日 大峯山中にて」
と説明書きのある写真があり、
「七、八人の男たちがそれぞれ猟銃を持って立ち、戦利品である三頭の猪と五羽の雉、それに三羽のヤマドリを地面に並べて得意そうに笑っていた。」
とのこと。

熊吾は柳田元雄以外にも知っている顔が写っていることに気づきます。
「片手に猟銃を持ち、片手でポインター種の犬の頭を撫でているその小柄な男は海老原太一だった」

下には1940年代に撮影された海外での狩猟の写真を引用しました。こちらの写真から海老原たちの姿をイメージしてみましょう。

出典:Auckland Museum, CC BY 4.0 https://creativecommons.org/licenses/by/4.0, via Wikimedia Commons
https://commons.wikimedia.org/wiki/File:Group_of_hunters_posing_with_game_on_beachfront_(AM_77885-1).jpg

シンエー・タクシーの常務によると、応接室の写真は海老原が額付きで贈ってきたとのこと。海老原がS電機の社長やT百貨店の社長といった大物財界人と一緒にいるところを、熊吾に誇示しているように感じました。

熊吾は前回(花の回廊の風景その4・参照)、井草の妻から入手した名刺(裏綿に海老原の借用書付)を利用して逆襲を開始します。タネの愛人・寺田権次に「名刺有ります」との文言を、「ラッキー」のビリヤード講師・上野に宛名などを書いてもらい、上野の出張先の名古屋で投函してもらいました。

旅行などの情報

京都競馬場

熊吾と伸仁が万馬券を当てた京都競馬場では、天皇賞や菊花賞、エリザベス女王杯などの主要なレースが行われています。下には「花の回廊」でも触れられている人工池を含んだ競馬場のパノラマ写真を引用させていただきました。

熊吾の頃はなかった高さ10.8m・幅64mもの巨大なスクリーンも設置され、迫力のあるレースを楽しめます。また、カレーやラーメン、焼き鳥、肉料理などの食事処が充実。大型遊具やふわふわドームやボーネルンド社プロデュースの大型屋内あそび場「Paka Run!(パカラン)」などもあるのでファミリーで来ても楽しめるでしょう。

基本情報

【住所】京都府京都市伏見区葭島渡場島町32
【アクセス】京阪淀駅から徒歩2分
【関連URL】https://www.jra.go.jp/facilities/race/kyoto/

プロレス美術館

蘭月ビルのお好み焼き屋で出会った甲田憲道が力道山に激似であったことは上でもご紹介しました。プロレスにご興味がおありなら、競馬場と同じく京都市内にあるプロレス美術館に立ち寄ってみてはいかがでしょうか。

こちらにはアントニオ猪木対モハメド・アリ戦の電車の中刷り広告や、タイガー・ジェット・シンのターバン、ミル・マスカラスのマスクなどプロレス好きにはたまらない貴重な品々が展示されています。

ほかにも上に引用させていただいた写真のように、部屋の中央には館長が自作されたリングもあり、テンションがあがりそうです。お店の営業は主に土日・祭日の午後が中心となります。定員が6名ほどなので前日までのご予約がおすすめとのことです。

基本情報

【住所】京都府京都市左京区高野清水町55
【アクセス】京阪出町柳駅から徒歩10分
【関連URL】https://pro-wrestling-museum.jimdofree.com/