夏目漱石「吾輩は猫である」の風景(その4)

金田夫人の訪問

前回までは主人の家で、友人や教え子たちがよもやま話を楽しむ平和な毎日が続いていましたが、ある日、金田という実業家の夫人が訪問し、状況は一変します。夫人の用件は娘の結婚相手の候補である寒月君の身辺調査でした。「大きな西洋館の倉のあるうち」に住むお金持ちである夫人の見下したような態度に主人たちは反感を覚え・・・・・・

金田夫人とは

例によって迷亭氏が主人ととりとめのない話をしていると「御免なさい」と鋭い女の声がします。女客の容姿は「年は四十の上を少し超した位だろう。抜け上がった生え際から前髪が堤防工事の様に高く聳えて、少なくとも顔の長さの二分の一だけ天に向かってせり出している」というものでした。

下に引用させていただいたのは明治後期に流行った「ひさし髷」をした女性の写真です。ここではこちらの女性の顔を「鼻だけは無暗に大きい」という女客(=金田夫人)に変換させていただき「(主人は)会社の方が大変忙しいもんですから。・・・・・・二つも三つも兼ねているんです。それにどの会社も重役なんで」と「これでも恐れ入らぬかと云う顔付をする」ところを想像してみましょう。

出典:A.Davey from Portland, Oregon, EE UU, CC BY 2.0 https://creativecommons.org/licenses/by/2.0, via Wikimedia Commons
https://commons.wikimedia.org/wiki/File:Billet-Doux_-_Japanese_woman_writing_a_letter_on_paper_roll_with_an_ink_brush_(1911_by_Elstner_Hilton).jpg

金田婦人の依頼

金田夫人は「実は方々からくれくれと申し込はございますが、こちらの身分もあるものでございますから、滅多めったな所とこへも片付けられませんので」と切り出します。さらに聞いてみると車屋の神さんや二弦琴の師匠などを使って、主人の家での寒月君の様子も探らせているとのこと。主人たちは不機嫌になりますが、迷亭は「話したって損の行く事じゃなし、話そうじゃないか」と先方の依頼を受け入れます。

例を挙げると「何か御宅に手紙かなんぞ当人の書いたものでも御座いますなら一寸拝見したいもんで御座います」という夫人に寒月からの絵葉書を見せると、「おや絵もかくんでございますか、なかなか器用ですね」といいます。下に引用させていただいたのは寒月君のモデル・寺田寅彦の絵です。このような絵や詩などを見て「そんなに野暮ではないんだと云う事は分かりました」といって寒月君を少し見直す金田夫人でした。

出典:「寺田寅彦の追想」後書,中谷宇吉郎著,青空文庫
https://www.aozora.gr.jp/cards/001569/files/59217_76784.html

金田家に侵入

一方的に身元調査をされる寒月に同情した「吾輩」は敵の様子を探るために金田邸に侵入します。「勝手口に廻る。さすがに勝手は広い、苦沙弥先生の台所の十倍は慥かにある」とあり、「先達て日本新聞に詳しく書いてあった大隈伯の勝手にも劣るまいと思う位整然とぴかぴかしている」ともいいます。なお小説の注釈には「『大隈伯』は首相も務めた大隈重信。その邸の台所は上流社会の模範といわれた」とあるほどの立派なものでした。


下に引用させていただいたのは大隈邸の台所の写真です。ここでは、このような金田邸の台所を見て驚く「吾輩」の姿をイメージしてみましょう。

出典:早稲田大学, Public domain, via Wikimedia Commons
https://commons.wikimedia.org/wiki/File:Ohkuma%27s_kitchen.jpg

ちなみに、1975年の映画では下に引用させていただいたように(安倍川餅が好きな)金田富子の役は篠ヒロコさん、その母、金田鼻子は岡田茉莉子さんが演じられていました。

お勝手からは苦沙弥先生への悪口が

潜入調査を続ける「吾輩」は先ず、話に聞き入ります。車屋の神さんと御飯炊き、お抱えの車夫の三人。「奥様の鼻が大き過ぎるの、顔が気に喰わないのって――そりゃあ酷い事をいうんだよ。自分の面あ今戸焼の狸見た様な癖に」などという声が聞こえてきます。

今戸焼とは「台東区今戸産の素焼きの土器」で「素朴な味に富むが、美麗ではない」と注解にあります。下に引用させていただいたのは今戸焼の狸の写真です。こちらを思い浮かべて「吾輩」は主人の顔と似ていると思ったでしょうか?

金田夫妻や娘の様子

縁の下を進むと「貧乏教師の癖に生意気じゃありませんか」という鼻子の金切り声が聞こえてきます。それに対して「あの学校にゃ国(同郷)のものもいるからな」という金田氏。「津木ピン助や福地キシャゴが居るから、頼んでからかわしてやろう」といやがらせの企てをします。

一方、(寒月の相手である)娘の富子とはいうと、電話を前にして「御前は大和(芝居茶屋の屋号)かい。明日ね、行くんだからね、鶉の三(きわめて上等の席)を取っておいてくれ、いいかえ」とゴリ押しする高飛車な性格でした。

下に引用させていただいたのは「デルビル磁石式壁掛電話機」と思われる写真です。明治30年ごろに登場しますが、一部の上流階級のみにしか普及しなかった高級品でした。ここでは席が空いていないという茶屋の担当者に対し、富子が「お前は失敬だよ。妾を誰だか知っているのか。金田だよ」と息巻くシーンをイメージしてみましょう。

出典:inazakira, CC BY-SA 2.0 https://creativecommons.org/licenses/by-sa/2.0, via Wikimedia Commons
https://commons.wikimedia.org/wiki/File:Telephone_of_Taisho_Era_-_Niigata_Prefectural_Museum_of_History.jpg

金田のいやがらせ

「吾輩」が探偵業務を終えて(?)鼻高々に主人の家に帰ってみると、迷亭先生のほか、寒月君も来ていて金田夫人の悪口をいっていました。しばらくすると「垣根に近く、往来で『今戸焼の狸今戸焼の狸』と四、五人わいわいいう声」がしますが、「今戸焼の狸」に心当たりのない主人は「何だか分らん」といいます。

ところが、しばらくすると「『ワハハハハハ』と云う声がする。一人が『高慢ちきな唐変木だ』と云うと一人が『もっと大きな家へ這入りてえだろう』」などという声が聞こえてきます。さすがに自分への悪口と分かった主人は「やかましい、何だわざわざそんな塀の下へ来て」と怒鳴り、「ステッキを持って、往来へ飛び出」しますが・・・・・・

ここでは再度、明治村の森鷗外・夏目漱石住宅の写真を引用させていただき、裏手から聞こえるいやがらせの声と、主人の怒鳴る声を聴いてみましょう。

旅行などの情報

寺田寅彦記念館

寺田寅彦が4歳から19歳までを過ごした邸宅を利用した施設です。戦災にて離れの勉強部屋を残し焼失しますが設計図をもとに全体が復元されました。本人が使用した勉強机や自筆の掛け軸、踏込式オルガンなどの展示があり寅彦を偲ぶことができます。また、以下に引用させていただいたような枯山水の庭園もあり、静かに過ごせると評判の観光スポットです。

なお、寅彦の書画や遺品(バイオリンなど)は高知県立文学館の「寺田寅彦記念室」でも見ることができます。近くには寅彦の銅像の立つオーテピアもあるので、併せて巡ってみてはいかがでしょうか。

基本情報

住所:高知県高知市小津町4-5​
アクセス:高知駅から徒歩約20分
関連サイト:https://www.city.kochi.kochi.jp/site/kanko/teradatorahiko.html

今戸焼・白井工房

主人へのいやがらせで「今戸焼の狸」とはやし立てるシーンにて登場してもらいました。今戸焼とは江戸時代に今戸神社で発祥したとされる焼き物で、種類は瓦や日常生活道具、土人形など多岐にわたります。幕末には50軒余りの窯元がありましたが、現在、今戸神社のある台東区内では白井さんの工房のみが営業を続けています。

基本は工房ですが商品を購入することも可能です。下に引用させていただいたように狸以外にもかわいい商品がたくさんあります。

基本情報

住所:東京都台東区今戸1丁目2−18
アクセス:東武浅草駅から徒歩約11分
関連サイト:https://www.city.taito.lg.jp/gakushu/shogaigakushu/shakaikyoiku/bunkazai/seikatubunkazai/imadoyaki.html