内田百閒「贋作吾輩は猫である」の風景(その8最終回)

出田羅迷君の借金をめぐる話

第十二は五沙弥先生の家に出田羅名君と風船画伯が訪問している場面から始まります。先生は唐突に「出田君、君には二円五十銭貸しがある」と催促しその経緯を語りますが、途中から話が脱線していきます。吾輩に危険が迫っているとの連絡を受け、五沙弥家には次々と訪問客がやってきて収拾がつかなくなります。

借金の話

「羅迷が学校を出た当座の話で、表筋に小料理の赤瓢箪(あかひょうたん)だとか、金麩羅(きんぷら)の大新だとか、そんなのがあったなあ」という先生。「僕は羅迷をつれて、よくそんな店へ飲みに行った」語ります。

下に引用させていただいたのは昭和初期の金麩羅(衣の材料として小麦粉に玉子を加えることにより黄金色の仕上がりになった天麩羅)の老舗・大新の店舗と思われる写真です。ここではお店に入っていく先生と出田君の姿を置いてみます。



出典:吉田工務所 編『東京銀座商店建築写真集 : 評入』,吉田工務所出版部,昭和4. 国立国会図書館デジタルコレクション https://dl.ndl.go.jp/pid/1142921 (参照 2023-10-18、一部加工)
https://dl.ndl.go.jp/pid/1142921/1/9

ついでに当時の銀座のお店についての文献を当たってみると昭和2年発行の「ビジネス・センター」という書籍には、日本料理の項目に赤瓢箪と大新が並んで表記されていました。周辺でも有名なお店だったことがわかります。

出典:時事新報経済部 編『ビジネス・センター』,東洋経済新報社出版部,昭和2. 国立国会図書館デジタルコレクション https://dl.ndl.go.jp/pid/1192076 (参照 2023-11-01、一部加工)
https://dl.ndl.go.jp/pid/1192076/1/86

インヴァネス

季節は冬になり、一緒に飲みにいった羅迷君はインヴァネスを着用していますが、先生は「質屋に流れて」しまったため「ぶるぶるっと身体が縮まってしまう」という状態です。

羅迷君は先生にインヴァネスの購入をすすめ「二十円で買えますとも。もしそれより高かったら、その食み出した分は僕が負担して払います」といいますが、実際は二円五十銭だけオーバーしたというのが「貸し」の経緯でした。

インヴァネスとは丈の長いコートとマント状のアウターを重ねたもので、シャーロックホームズの服といった方が分かりやすいかもしれません。日本では大正時代から昭和の初期にかけて流行し、下に引用した明治44年「紳士の服装」にも掲載されています。

もともとはスコットランドで生まれた服ですが「和洋服に兼用せらるるので、此の位日本人に便利のものは無い」といっているのも興味深いところです。

出典:福原菊治 編『紳士の服装』,関根商会高等洋服店,明44.9. 国立国会図書館デジタルコレクション https://dl.ndl.go.jp/pid/848766 (参照 2023-10-19、一部加工)
https://dl.ndl.go.jp/ja/pid/848766/1/28

カリガリ博士

まだインヴァネスの話は続き、昔見たサイレント映画の話になります。「カリガリ博士はインヴァネスを著て居りましたね・・・・・・洋服の上にインヴァネスを羽織って、ゆがんだ様な坂道を歩いてゆくのです」と出田君がいうと「そうだ、とことことした様な歩きっぷりで、向こうの方へ行ったね」と先生。

先生はさらに風船君も巻き込み「カリガリ博士になったヴェルネス・クラウスはふとっていたけれど、風船さんがインヴァネスを著て、ああ云うゆがんだ道を向こうへ歩いて行ったら、痩せたカリガリ博士が出来る」というと、風船さんは「いいえ先生さん、私は眠り男のコンラート・ファイトの役で御座います」と返しました。

下に引用させていただいたのはそのカリガリ博士と眠り男の写真です。なお「カリガリ博士」とは1920年公開のドイツ映画で、写真の2人が連続殺人事件をひき起こす物語。世界発のホラー映画とされています。

出典:川越スカラ座公式サイト、第10回弁士・伴奏つき無声映画『カリガリ博士』『キートンの探偵学入門』上映会開催のお知らせ
http://event.k-scalaza.com/?eid=1264462

雛の博覧会

先生は「僕は声のする博覧会を知っているからね」に話を転じ、「雛鳥の展示会を見に行ったのさ・・・・・・上野の竹ノ台のもと文展をやった木造の建物の中だよ」といいます。ちなみに「文展」とは文部省美術展覧会の略称で、現在の日展(日本美術展覧会)の前身です。

下に引用させていただいたのは雛鳥展示会があった「竹の台陳列館」の写真です。このなかで「已に喧喧囂囂(けんけんごうごう)たる大変な騒ぎだ。・・・・・・何百羽の雄雛が争ってときを作るのがひとかたまりになって、会場の建物がふくれ上がっている」という騒がしいシーンをイメージしてみましょう。

出典:Google Arts & Culture,竹の台陳列館
https://artsandculture.google.com/asset/takenodai-exhibition-hall/0wH9LnoJD4Tqlw?hl=ja

マネキンガールの話

続いて、昭和初期に新しい職業として話題になったマネキンガールに話題が及びます。風船画伯が「そう云えばこの頃マネキンがなくなりましたね」というのに対し出田君は「その時分近所の角の呉服屋にマネキンが来て、何時から出るという掲示が店先に貼ってあるから見に行ったのです」と昔の体験を語りました。

下にはその「マネキンガール」の写真を引用させていただきます。じっとしているのが大変に思われますがその分お給料は高く、女性があこがれる職業の一つでした。

出典:大東京写真帖, Public domain, via Wikimedia Commons
https://commons.wikimedia.org/wiki/File:Mannequins_for_kimono.jpg

吾輩もピンチに!

裏の廂に杓子坂の小判堂が現れ、以前(「贋作吾輩は猫である」その5)でも登場した猛犬が吾輩を狙っていると警告します。「あんまり長くなって、締め括りがつかないから、出臼、柄楠、魔雛が出て埒をあけようかって云うのだそうです」とのこと。「何が長いのだ」と吾輩は聞き返しますがあいまいな答えしか得られません。

後ほど(出臼たちに襲われた二晏寺のかわりに)五沙弥家の縁の下で猫協議会を行うと告げて立ち去ります。

「出臼、柄楠、魔雛がそこを嗅ぎつけたとすれば、逃れる途はないかもしれない。しかし逃げないわけにはいかない」と不安気な吾輩を下の写真に重ねてみましょう。

出典:写真AC
https://www.photo-ac.com/main/detail/4236225&title=%E4%B8%89%E6%AF%9B%E7%8C%AB

どんどん人が増えて行って・・・・・・

「吾輩」に危険が迫るなか、五沙弥家には数多くの人が訪れます。出田君と風船画伯の後から飛騨里風呂君がやってきて「句寒さんはまだまいりませんか」と示し合わせていることを明かしました。さらに行兵衛君や狗爵舎君、鰐果君のお母さんなどもやってくるという情報を得た先生は「いかん、こりゃいかん」といいながら・・・・・・。

下には鰐果蘭哉君の手紙に「猫の義務」とあった「ネコじゃネコじゃ」を引用させていただき、「贋作吾輩は猫である」の風景を終了させていただきます。

旅行などの情報

銀座大新

百閒先生が出田君と一緒に行った銀座大新は広尾に移転しましたが、現在でも営業中です。上でも紹介した金麩羅の老舗で、コース料理や天丼などのメニューがあります。目の前で揚げられた旬の天麩羅はサクサクした食感で食材の旨味が凝縮していると評判です。

L字カウンターのみのこぢんまりとしたお店なので静かに食事をしたい方にも最適、営業は昼と夜(予約のみ)の2部制となっています。席数が7名程度のため確実に入るためには、昼も予約をしておくのがよいでしょう。

基本情報

住所:東京都港区南麻布5-16-11
アクセス:東京メトロ日比谷線・広尾駅から徒歩約2分
参考URL:https://tabelog.com/tokyo/A1307/A130703/13078504/

恵日山・金剛寺

百閒先生のお墓は東京と故郷・岡山の2か所にあり、東京の墓地は恵日山・金剛寺です。下に引用させていただいたように金剛寺では教え子が住職をしていたとのこと。一方で「贋作吾輩は猫である」の第九に「この未然和尚は格式の高いお寺の住職なのだが、若い時に学校で五沙弥から独逸語を教わった因縁がある」との記述があり、金剛寺の住職が未然和尚のモデルであったかもしれません。

百閒先生のお墓は敷地の奥のほうにあり「内田榮造之墓」と本名が刻まれています。

昭和46年(1971)4月20日、享年82歳の生涯を閉じる。遺言により、葬儀・告別式は、教え子が住職を務めていた金剛寺(中野区上高田)で行われた。百間のお墓の傍らには、こひさんのお墓と「木蓮や堀の外吹く俄風」の句碑が建っている。

出典:岡山県庁公式サイト「内田百間」ゆかりの地
https://www.pref.okayama.jp/page/detail-29245.html

基本情報

住所:東京都中野区上高田4-9-8
アクセス:JR中央線・東中野駅から徒歩約10分