宮本輝「流転の海」の風景(その2)

再出発に向けて

松坂ビル跡には熊吾に断りもなく闇市のバラック小屋が建てられ、会社の再興には程遠い状態でした。闇市の裏にはやくざ組織が関わっていて熊吾も危険な目に会いますが、辻堂という新しい仲間の活躍で土地の取り戻しに成功します。そして、再開した自動車部品販売の大口取引先となったのは、戦前は自転車で部品を売り歩いていた柳田元雄でした。

土地の回収を開始

熊吾はバラック小屋の立ち退き交渉のために松坂ビル跡に向かいます。下にはGHQの文民スタッフであったモージャー氏が、戦後まもない頃撮影した飲食店の写真を引用しました。

出典:モージャー氏撮影写真資料、飲食店街と通行人(場所不詳)/190、 国立国会図書館デジタルコレクション (参照 2024-05-10)
https://dl.ndl.go.jp/pid/10756455/1/190

こちらの写真のどこかに熊吾を置き、ビル跡の露店(珈琲屋)で以下のような会話をしているところをイメージしてみましょう。

珈琲屋の主人「うちの珈琲はほんまの砂糖入りでっせェ」
熊吾「珈琲に砂糖か。どこから手にいれてくるんじゃ・・・・・・ここはわしの土地やけん。もうぼちぼち立ち退いてもらいたいんやが」
主人は困ったという顔になり、他にも七・八軒の店が営業しているといいます。
熊吾「すぐにとは言わん。一ヵ月待つけん、その連中に話をつけてくれんか」
珈琲屋の主人「わたいが、話をまとめまんのか?」
熊吾「(そうしてくれれば)あんたが商いをつづけていけるようにしちゃる。わしは嘘はつかん」

そしてあしたも来るからといってお店を出ました。

辻堂忠

「梅雨あけが近いというのに、重そうな総革のコートを着ている人相の悪い男」。それが辻堂の第一印象でした。

辻堂「大将、何か欲しいもんでもおまんのか?」
熊吾「原子爆弾を二、三個欲しいのお・・・・・・アメリカに仕返しをしちゃるのよ」
辻堂「原爆は無理やけど、ピストルやったら、五丁でも六丁でも持って来まっせ」

下には映画「流転の海」で辻堂(佐藤浩市さん)が、闇市で熊吾(森繁久彌さん)と会話をする場面を引用させていただきました。

出典:出典:山城紙業株式会社、ブログ、本の紹介、流転の海
https://yamashiro-paper.jp/2021/05/18/%E6%B5%81%E8%BB%A2%E3%81%AE%E6%B5%B7/

その男が気になった熊吾は酒屋に案内させます。「運ばれてきたものは、本物のスコッチであった」とのこと。戦後の闇市では、下に引用したような「カストリ酒」という粗悪な密造焼酎が出回っている時代で、本物のウイスキーを飲めるお店は少なかったと思われます。

出典:See page for author, Public domain, via Wikimedia Commons
https://commons.wikimedia.org/wiki/File:Kasutori-Sake.JPG

辻堂「ええ酒でっしゃろ?」
「おもむろに琥珀色の液体を鼻先に持って行き、しばらく香りを嗅いでから一気に飲み干した」

インターネットの情報によると宮本輝氏は「オールド・パー」という銘柄のウイスキーがお好みとのこと。下に引用させていただいたような風景を思い浮かべながら執筆されていたかもしれません。

熊吾「わしは松坂熊吾や」
辻堂「辻堂って言いまんねん。辻堂上等兵・・・・・・」
熊吾「兵隊に行く前は何をやっちょった」
辻堂「証券会社に勤めてました」
熊吾「なんでその仕事に戻らんのや」
辻堂「ミンダナオ島から帰ってきたら、女房も、二人の子供も死んでしもとった。わざわざ疎開したさきの長崎で、原爆にやられよった・・・・・・何のために、元の仕事に戻らなあきまへんねや?」
熊吾「事業を再開するには、まず人がいる。金はあるが、いまのところ人が足らん。わしのところで働かんか。・・・・・・」
辻堂「いま道で逢うたばっかりの私を雇ってやろうと言いはるんですか。とんだならず者かもわかりませんよ」

「いかにも闇市を根城にする与太者を装っているが、本性は教育もあるまっとうな人間なのに違いない」
と考えた熊吾は、辻堂が土地回収の交渉に適役と直感します。

土地引き渡しの交渉

昨日の珈琲屋に行って交渉をしていると「この界隈をなわばりにするやくざ」が三人づれでやってきます。そして首領格らしい痩せた男(柄島)が口をひらきました。
柄島「おっさん。もう一年ほど、見逃したってくれや。一年待つだけで、おっさんの寿命も延びるがな」
熊吾「ほう、なんでわしの寿命が延びるんや」
柄島「一年、事を急いだばっかりに、ここで死にとうはないやろ」
熊吾「なめるな、チンピラ風情が・・・・・・俺に指一本触れたら、寿命を縮めるのは貴様のほうぞ・・・・・・俺の可愛がっとる連中が、草の根分けても捜し出して、誰やらわからんくらいに、ズタズタに切り刻んでくれるわ・・・・・・」

危ない場面をはったりでなんとか切り抜けます。

出典:English: US military Photograph日本語: アメリカ国防総省の写真, Public domain, via Wikimedia Commons
https://commons.wikimedia.org/wiki/File:Black_market_in_Shinbashi.JPG

上には新橋にあった闇市の写真を引用しました。上側の看板から「関東松田組」が仕切っていたことがわかります。ちなみに「流転の海」で松坂ビル跡周辺を仕切っていたのは「檜岡組」でした。

辻堂との約束

柄島とひと悶着あった後、大阪駅へ向かう熊吾を辻堂が呼び止めます。
辻堂「いまの男、柄島といいましてねェ。この二年のあいだに、四人もの人間を殺してきたやつですよ。・・・・・・あんな、はったりは、命を落とすだけですよ」
熊吾「掃除は出来んのか」
辻堂「やくざの掃除なんか出来ませんよ。その代わり、あの柄島を刑務所に放り込むことは出来ます。とにかく四人も殺しているんですから」

「いつしか二人は大阪駅の構内に入っていた。傘をたたみ、熊吾は六甲道までの切符を買った。雨漏りのする構内には数人の浮浪者が、ただ黙然と膝をかかえて座っていた」とのこと。

上には昭和22年の大阪駅の写真を引用させていただきました。写真から見ると建物は復興しているように見えますが、まだ雨漏りがあったとのこと。内部の修繕までは行き届いてなかったのかもしれません。

熊吾「連中に立ち退いてもらわんと、わしの商売が始まらんのじゃ」
辻堂「ほんとに、私を使ってくれますか?」
熊吾「君さえそのつもりなら、きょうからでもわしのところにこい」

熊吾が家に寄って行けという誘いにのらず、彼は闇市の方に消えて行きました。

井草正之助

松坂商会の片腕として呼びよせた井草正之助の容姿については以下のような記述があります。
「井草は四十五歳だったが、熊吾よりも二、三歳老けて見えた。背が高く骨太い体つきだったが、胸が薄くて、端整な顔つきのどこかに寂しいものがあった」
映画「流転の海」の井草は「渡る世間は鬼ばかり」の父親役としても認知度の高い藤岡琢也さんが演じられていました(流転の海の風景その1・参照)。

また、性格については
「社員としては忠実な、頭の回転の速い、しかも表情だけで熊吾の胸の中を察知して、いちいち熊吾に言われるまでもなく物事に対処するだけの感性の鋭さを持っていた」
とあります。
ですが、熊吾は
「あまりにも機転がきき過ぎる・・・・・・俺が昔の力を取り戻さなかった場合は、井草は自分の身を守るために俺の寝首をかくかもしれない」
とも考えていました。

出典:Cleveland Museum of Art, CC0, via Wikimedia Commons
https://commons.wikimedia.org/wiki/File:Japan,_Edo_Period_-_Goblet_with_Three_Sprigs_of_Flowers-_Ko_Imari_Type_-_1989.264_-_Cleveland_Museum_of_Art.tif

熊吾は井草に馴染みの闇屋から入手した日本酒をふるまいます。
井草は「古伊万里の、熊吾自慢の盃」で酒を受けたとあります。上には米国・クリーブランド美術館が所有する古伊万里の酒杯の写真を引用させていただきました。

この時の井草との会話を抜粋してみましょう。

井草「家は焼けたのに、なんでこの伊万里が残ってますねや」
熊吾「庭に防空壕を掘って、そこにしもといたんや。・・・・・・この伊万里も、五百万の金の束も無事やった」
井草「五百万・・・・・・。それが資本でっか」
熊吾「あとは、姫路の八木沢徳次郎と城崎に引っ込んだ俵木徳三にあずけてある」
井草「どのぐらい、あずけたんでっか」
熊吾「八木沢に三百万、俵木には二百万や」
井草の見立てでは二人とも信用のおけない人たちで、とうていお金が返ってくるとは思えませんでした。

井草は「私が取り返します」といって取り立ての役目を引き受けますが・・・・・・

柳田元雄

辻堂の活躍で旧松坂ビルの土地を取り戻すと、熊吾は自動車部品会社の再開にもこぎつけました。中古のタイヤやベアリングは昔のコネなどを頼って入手します。下に引用させていただいた写真のようにトラックをタイヤなどで一杯にして出荷したのではないでしょうか?

主な買い手の一人は戦前からの知り合いの柳田元雄でした。以下は、井草とともに柳田と商談に行く途中の車のなかでの会話です。

井草「ベアリングを五百ケース。ジープ用のタイヤを六百本欲しいそうです」
熊吾「現金でないと売らんぞ。そう言うといたか?」
井草「現金で払うと言うてはりました」
熊吾「あいつも戦争を吉としたやつやのう」
井草「私もびっくりしました。戦争前は、事務所も持たんと、自転車で中古の部品を売り歩いていた男でっせ。子供を六人もかかえて、あんまり気の毒やさかい、たいして入り用でもないのに自転車の荷台に積んである物を買うてやったことが何遍もありますがな」

出典:自転車文化センター公式サイト、昭和35~36年頃 紙芝居は自転車に乗ってやってきた
https://cycle-info.bpaj.or.jp/?tid=100121

上に引用させていただいたのは自転車を利用した昭和の紙芝居屋さんの写真です。当時の自転車は荷台が大きめのものが多く、紙芝居の箱はもちろん、魚やアイスキャンディーなどの行商用としても用いられました。

戦前の柳田は妻とともに油まみれになりながら「自転車に積んだわずかな部品を売り歩いていた」とのこと。その甲斐あって戦後の柳田は順調に会社を大きくしていきます。

出典:©こんプロ, CC BY-SA 3.0 https://creativecommons.org/licenses/by-sa/3.0, via Wikimedia Commons
https://commons.wikimedia.org/wiki/File:%E3%82%AA%E3%83%AD%E3%83%8A%E3%83%9F%E3%83%B3%EF%BC%A3.jpg

また、柳田の容貌については戦前は「汚れた馬面」、今は「顔の垢もすっかり取れて、ヤギみたいになりおった」とのことです。柳田との付き合いは「流転の海」の最終巻「野の春」まで続き、見た目の印象も変わっていきます(「野の春」の風景その4・参照)。

映画版では、オロナミンCのCMに長年出演した大村昆さん(上に看板写真を引用)が柳田元雄役を演じられていました。

当時の世の中のこと

戦後の爪痕

昭和20年代は戦争の跡が生々しく残っていた時代です。親族や親友を戦争で失った人も大勢いました。熊吾は日中戦争が始まると満州に出征し、信頼していた部下を失った経験があります。

また、既に述べたように辻堂は妻と子供を長崎の原爆で失っています。下には長崎の爆心地の近くにあった「浦上天主堂遺壁」の写真を引用させていただきました。現在は、原爆の悲惨さを示すモニュメントとして長崎原爆資料館の敷地内に移築・保存されています。

出典:ぱちょぴ(投稿者)撮影, CC BY-SA 3.0 https://creativecommons.org/licenses/by-sa/3.0, via Wikimedia Commons
https://commons.wikimedia.org/wiki/File:%E6%B5%A6%E4%B8%8A%E5%A4%A9%E4%B8%BB%E5%A0%82%E3%81%AE%E9%81%BA%E5%A3%8102.jpg

リンタクが流行

「流転の海」では当時の流行についての会話も頻繁に挿入されます。
井草「東京でリンタクっちゅう乗り物がえらいはやってるそうでっせ。新宿の顔役が、引揚者とか戦災者の更生のために始めた商売やそうで、自転車のうしろを改造して二人乗りの座席をつくって、二キロで十円ちゅう値段やそうです」
熊吾「自転車とタクシーのあいのこでリンタクか。考えよったのお」

出典:Tadahiko Hayashi, Public domain, via Wikimedia Commons
https://commons.wikimedia.org/wiki/File:A_cycle_rickshaw_in_Japan_-_ca1948_-_Hayashi_Tadahiko.png

上に引用させていただいたのは昭和23年ごろのリンタクが活躍する写真です。1950年代の半ばにタクシーにとって代わられるまではこちらのような風景が日常的に見られました。

旅行などの情報

国立歴史民俗博物館

闇市などの昭和の風景にご興味があれば、千葉県佐倉市の「国立歴史民俗博物館」に行ってみてはいかがでしょうか。第六展示室「戦争と平和」というコーナーには闇市・露店の実物大再現スペースがあり、「流転の海」の世界をイメージしながらタイムスリップを楽しめます。

ほかにも迫力満点の実物大ナウマンゾウ模型や、華麗な平安時代の貴族の服装などの展示が充実。ミュージアムショップでは下に引用させていただいたような「はにわグッズ」も人気です。

基本情報

【住所】千葉県佐倉市城内町117
【アクセス】京成佐倉駅から徒歩約15分
【参考URL】https://www.rekihaku.ac.jp/index.html

長崎原爆資料館

本文でご紹介した「浦上天主堂遺壁」は新しい天主堂建設のために昭和33年に「長崎原爆資料館」の敷地内に移されました。下に引用させていただいたのは同じく浦上天主堂のステンドグラスの破片です。爆心地から500m離れているにもかかわらず粉々になっていて原爆の威力を実感できます。

ほかにも館内には火の見櫓や橋の一部など実際に被爆した大型建造物が展示されていて、原爆の恐ろしさを伝えています。

なお、浦上天主堂(カトリック浦上教会)は元の場所に再建されているのでこちらにもお立ち寄りください。内部に入るとステンドグラスからの光が刻々と変化し、幻想的な雰囲気を味わえます。

基本情報

【住所】長崎県長崎市平野町7-8
【アクセス】 長崎駅から路面電車を利用。原爆資料館電停で下車
【参考URL】https://nabmuseum.jp/