村上春樹「風の歌を聴け」の風景(その1)

「風の歌を聴け」について

「風の歌を聴け」はノーベル文学賞の候補にも挙げられる作家・村上春樹氏のデビュー作です。20代最後の年を迎える「僕」が大学生時代の夏休みの出来事を回想する形式で描かれています。舞台は1970年の神戸、「鼠」というニックネームの相棒とともに過ごす日々を、当時の風景をイメージしながら追って行きましょう。

1970年の日本

「この話は1970年の8月8日に始まり、18日後、つまり同じ年の8月26日に終る」とのこと。この年には大阪万博が開催され(3月から9月まで)、下に引用したようなパビリオンに世界各国から旅行客がやってきました。テレビではテーマ曲の「世界の国からこんにちは」がひんぱんに流れていたと思われます。

出典:takato marui, CC BY-SA 2.0 https://creativecommons.org/licenses/by-sa/2.0, via Wikimedia Commons
https://commons.wikimedia.org/wiki/File:Osaka_Expo%2770_Korean_Pavilion.jpg

プロ野球は川上監督率いる巨人軍がV9の全盛時代で、王・長嶋選手(下には1963年の写真を引用)を中心に六連覇を目指していました。なお、村上氏がファンクラブの名誉会員をされているヤクルトスワローズはこの年最下位に低迷しますが、若松勉選手などの加入があり、1978年の初優勝に向けた戦力が整っていきます。

出典:『青春ホームラン王 実録小説王貞治』1963年7月25日。発行所:ベースボール・マガジン社。, Public domain, via Wikimedia Commons
https://commons.wikimedia.org/wiki/File:Sadaharu-Oh-2.png

また、日本経済は高度成長が続き、カラーテレビ・カー(車)・クーラーといった「3C」が急速に普及していました。一方で初めて、大気汚染による光化学スモッグが報告されるなど、環境破壊の問題が注目されていきます。

デレク・ハートフィールド

「風の歌を聴け」では、冒頭の「文章について多くのことをデレク・ハートフィールドに学んだ」や、あとがきの「ハートフィールドの墓を尋ねるためだけの短い旅」に行ったなど、「ハートフィールド」という作家が何度も登場します。

実在の作家と考えてしまいそうですが、下の引用にあるとおり、村上氏の好きな作家を組み合わせた想像上の人物とのことです。

『風の歌を聴け』の発表当初(1979年5月)、大学図書館などでは、「デレク・ハートフィールドの著作を読みたい」という学生のリクエストに応えて司書が著作を探しては首をかしげるという誤解が後を絶たず、書店でも混乱が生じたとされる
(中略)
村上自身は幻想文学 (1983) において、カート・ヴォネガットやハワード・フィリップス・ラヴクラフト、ロバート・E・ハワードといった好きな作家を混ぜあわせてひとつにしたものですねと述べている。

出典:ウィキペディア
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%87%E3%83%AC%E3%82%AF%E3%83%BB%E3%83%8F%E3%83%BC%E3%83%88%E3%83%95%E3%82%A3%E3%83%BC%E3%83%AB%E3%83%89

下にはハートフィールドの分身の一人・カート・ヴォネガットさんの「Cat’s Cradle(猫のゆりかご)」というSF小説の表紙の写真を引用しました。こちらの写真から、以下の様子を想像してみましょう。

「高校生の頃、神戸の古本屋で外国船員の置いていったらしいハートフィールドのぺーパー・バックスを何冊かまとめて買ったことがある。一冊が50円だった。もしそこが本屋でなければそれはとても書物とは思えないような代物だった。派手派手しい表紙は殆ど外れかけて、ページはオレンジ色に変色している」

出典:”Jacket design by Ben Feder, Inc.”; “Photograph by Anne Farley”, Public domain, via Wikimedia Commons
https://commons.wikimedia.org/wiki/File:Cat%27s_Cradle_dust_jacket.jpg

ジェイズ・バー

村上氏の作品でたびたび登場するジェイズ・バーは「ジェイ」という中国国籍のマスターが経営するお店です。東京の大学が夏季休暇に入り、帰省した「僕」は特にやることもなく毎日のようにこちらのバーでビールを飲んで過ごします。下に引用したバーの写真に以下のようなシーンを置いてみましょう。

「狭い店は客で溢れんばかりだったし、誰も彼もが同じように大声でどなりあっていた」「一夏中かけて、僕と鼠はまるで何かに取り憑かれたように25メートル・プール一杯分ばかりのビールを飲み干し、『ジェイズ・バー』の床いっぱいに5センチの厚さにピーナツの殻をまきちらした」

出典:写真AC
https://www.photo-ac.com/main/detail/1828030?title=%E3%83%90%E3%83%BC%E3%82%AB%E3%82%A6%E3%83%B3%E3%82%BF%E3%83%BC

「ジェイ」については「風の歌を聴け」では「彼は中国人だが、僕より上手い日本語を話す」とあります。

また、三部作の二作目・1973年のピンボール(・・・風景その1~)では酒を「一滴も飲めない」ことを明かし、「黒い髭が頬と顎を影のように被い、目はくぼみ、細い唇は乾いてひびわれている。首には血管が浮き、指先には黄色い煙草のヤニが浸み込んでいる」と少し疲れたジェイが描写されます。

さらに三部作・三作目の羊をめぐる冒険(・・・の風景その1~)では「ジェイの本名は長たらしくて発音しにくい中国名だった。ジェイというのは彼が戦後米軍基地で働いている時にアメリカ兵たちがつけた名前だった」とのことです。

相棒の鼠について

「僕」の帰省先での相棒となった鼠については「初めて出会ったのは3年前の春のことだった。それは僕たちが大学に入った年」とのことです。鼠の愛車は下に引用させていただいたような「黒塗りのフィアット600」でした。

公園の猿たちは大騒ぎ

事情は不明ですが、3年前の春、「僕」は泥酔した「鼠」が運転するフィアット600に乗り合わせます。フィアット600は時速80キロの速度で公園のなかに突っ込み、石柱に衝突してしまいました。

「ボンネット・カバーは10メートルばかり先の猿の檻の前まで吹き飛び、車の鼻先はちょうど石柱の形にへこんで、突然眠りから叩き起こされた猿たちはひどく腹を立てていた」とあります。

上には猿の檻のモデルとされる打出公園の檻の写真を引用させていただきました。村上春樹ファンの聖地としても有名ですが、公園のリニューアルによりこちらの檻は撤去され、新しいモニュメントが作られる予定です。

ここでは、檻の手前側に破壊された車を見ながら茫然とする「僕」と「鼠」に対して、檻の中から怒りの声を上げる猿たちの姿を置いてみましょう。

鼠とチームを組む

以下には、少し落ち着いた後の二人の会話を引用させていただきます。
僕「出られるかい」
鼠「引っぱり上げてくれ」
鼠「ねえ、僕たちはツイてるよ。・・・・・・見てみなよ。怪我ひとつない。信じられるかい?」
僕「でも、車はもう駄目だな」
鼠「気にするなよ。車は買い戻せるが、ツキは金じゃ買えない・・・・・・ねえ、俺たち二人でチームを組まないか?きっと何もかも上手くいくぜ」

上には1981年公開の映画版「風の歌を聴け」の予告編動画を引用させていただきました。こちらの映画では主役の「僕」を小林薫さん、ヒロインの「小指のない女」を真行寺君枝さんが演じられています。また、「鼠」をミュージシャンの巻上公一さん、「ジェイ」をジャズ・サクソフォーン奏者の坂田明さんと音楽関係の方が脇を固めているのも特徴です。

ビールの自販機

引き続き二人の会話を引用してみます。
(鼠のチームを組まないか?という誘いを受けて)
僕「手始めに何をする?」
鼠「ビールを飲もう」
「僕たちは近くの自動販売機で缶ビールを半ダースばかり買って海まで歩き・・・・・・」とあります。

下には1990年ごろのビールの自動販売機の写真を引用させていただきました。2000年以降、酒類自販機は年齢認証機能が付いた「改良型」であることが必須となりますが、切り替えが進まず街中ではあまり見られなくなりました。

出典:Sashimi02224, CC BY-SA 4.0 https://creativecommons.org/licenses/by-sa/4.0, via Wikimedia Commons
https://commons.wikimedia.org/wiki/File:Old_vending_machine_that_sells_alcohol.jpg

以下はビールを飲んだ後の海での会話です。
鼠「俺のことを鼠って呼んでくれ」
僕「何故そんな名前がついたんだ?」
鼠「忘れたね。随分昔のことさ。初めのうちはそう呼ばれると嫌な気をしたがね、今じゃなんともない。何にだって慣れちまうもんさ。」

ジェイズバーにて

チームを組んだ二人ですが特別な活動をするわけではありません。主にジェイズ・バーでビールを飲み、たわいもないことを語る毎日が続きました。例えば以下のような会話です。
鼠「何故本なんて読む?」
僕「何故ビールなんて飲む?」
「僕は酢漬けの鯵と野菜サラダを一口ずつ交互に食べながら、鼠の方も見ずにそう訊き返した」とあります。下には美味しそうな酢漬け鯵の写真を引用させていただきました。

鼠「ビールの良いところはね、全部小便になって出ちまうことだね。ワン・アウト一塁ダブル・プレー、何も残りやしない。・・・・・・何故本ばかり読む?」
(僕は読みかけのフロベール「感情教育」を手に取って)
僕「フロベールがもう死んじまった人間だからさ。」
鼠「生きてる作家の本は読まない?」
僕「生きてる作家になんてなんの価値もないよ。」
鼠「何故?」
僕「死んだ人間に対しては大抵のことが許せそうな気がするんだな。」
「僕はカウンターの中にあるポータブル・テレビの『ルート66』の再放送を眺めながらそう答えた」とあります。

下にはアメリカドラマ・ルート66のサンプルムービーを引用させていただきました。大学を卒業した若者たちがシボレー・コルベットに乗って、大陸を横断する「ルート66」の旅をする物語です。

旅行などの情報

ハーフタイム(HALF TIME)

映画「風の歌を聴け」ではジェイズ・バーのロケ地として使われた場所で、春樹ファンには有名なお店です。1970年代を思わせるレトロなインテリアの店内ではジャズなどが流れていて、落ち着いて過ごすことができます。また、ジェイズ・バーで何度も登場するフライドポテトは、下(左上写真)に引用させていただいたようにこちらのお店でも人気です。

テーブル席の横には現役の「ピンボール」があり、次作の「1973年のピンボール」の世界にも触れることができるでしょう。

基本情報

【住所】兵庫県神戸市中央区琴ノ緒町5-4-11西川ビル2F
【アクセス】JR三ノ宮駅から徒歩2分
【参考URL】https://tabelog.com/hyogo/A2801/A280101/28001259/

打出公園

打出公園はフィアット600が突っ込んだ公園として登場します。下に引用させていただいた投稿のように、檻は撤去されましたが新しくモニュメントができる予定です。

また、「風の歌を聴け」では芦屋市をイメージした以下のような記述があります。
「海から山に向かって伸びた惨めなほど細長い街だ。川とテニス・コート、ゴルフ・コース、ずらりと並んだ広い屋敷、壁そして壁、幾つかの小椅麗なレストラン、ブティック、古い図書館、月見草の繁った野原、猿の檻のある公園」

上文の「古い図書館」とは打出公園に隣接する「芦屋市立図書館打出分室」のことで、下に引用させていただいたような、ツタに覆われた風情のある姿が見どころです。村上春樹氏が中学・高校時代を過ごした打出地域を巡って、「風の歌を聴け」の世界に浸ってみてはいかがでしょうか。

基本情報

【住所】兵庫県芦屋市打出小槌町15
【アクセス】阪急バス・国道打出で下車
【参考URL】http://www.city.ashiya.lg.jp/shisetsu/uchide_ke.html