宮本輝著「流転の海」の風景(その7最終回)

時代の流れ

朝鮮戦争の予感

小説は1948年7月現在。韓国と北朝鮮の間には不穏な空気が流れ、戦争が勃発しそうな情勢でした。戦争が始まれば進駐軍たちは朝鮮に移動すると考えられます。進駐軍とのコネを利用した払い下げ部品をもとに商売している熊吾にとっては死活問題。商売の転換が必要となりそうでした。下の写真は進駐軍の神戸基地司令部が置かれた「神港ビルヂング」。当時は多くのアメリカ兵が出入りする姿がありました。

知り合いのアメリカ兵の失脚

昭和24年2月になると悪い知らせがやってきます。部品の直接取引元のアメリカ兵が転属になります。熊吾は横流しがばれで左遷になったと推測。部品のあてがなくなった熊吾は朝鮮戦争を待たずして会社の方向転換を余儀なくされます。当時のアメリカ兵たちは山手などの宅地を摂取して住んでいたとのこと。下の旧山口吉郎兵衛邸も摂取の範囲に入っていました。アメリカ兵たちは朝鮮戦争の影を気にしながらこのような邸宅で束の間の平和を楽しんでいたのかもしれません。

伸仁の健康状態

政治や景気の話とは別に伸仁の体の弱さも熊吾の未来設計に大きな影響を与えます。ある時「はしか」と「中耳炎」と「腸炎」を併発。医者からは「ここ1日か2日がヤマ」といわれるほどの危険な状態になります。生き残るかどうかは「子供の体力次第」との医者の言葉から栄養を与えて体力をつけさせようと考えた熊吾。自家製の鶏スープを作って伸仁に食べさせようとします。昭和のころは多くの家庭で鶏が飼われていました。卵を産ませて料理や玉子かけごはんにして食べるのに使いました。卵を産まなくなると食用にされたとの話も・・・・。下は現在のニワトリ平飼いの風景。生み立ての卵を使った玉子かけご飯は美味しそうですね。

熊吾の決断・仲間たちとの別れ

アメリカ兵からの払い下げの期待もできなくなった熊吾。ひ弱な息子・伸仁をのびのびと育てたいとの望みもあり、会社を引き払って故郷の愛媛に戻ることにします。この記事の最後の風景は土地を売ったお金を持って熊吾と辻堂が御堂筋を歩く姿とさせていただきます。辻堂の女性がらみの背信行為もあり二人の関係は多少ぎくしゃくしていました。下は昭和10年頃の御堂筋の絵葉書とのこと。物語の昭和24年には大阪空襲からの復興も進み元の姿を取り戻しつつありました。風景のどこかに熊吾の姿をご想像ください。複雑な感情をいだきながらも信頼する辻堂に向かって「わしが死んだら伸仁を助けてやってくれ」という言葉を残して去っていきます。

旅行の情報

神港ビルヂング

こちらは神戸基地司令部が置かれたビルとしてご紹介しました。昭和14年に川崎汽船の本社ビルとして造られた建物。アールデコ調の長方形の塔などがおしゃれな雰囲気です。現在もテナントが入り利用されています。館内観光はできませんがライトアップもされる美しい外観をお楽しみください。
[住所] 兵庫県神戸市中央区海岸通8
[アクセス]  JR三ノ宮駅から徒歩約10分
[参考サイト]https://www.office-navi.jp/result/b29000187.html

滴翠(てきすい)美術館

進駐軍に摂取された邸宅の例としてご紹介した「旧山口吉郎兵衛氏住宅」は現在、美術館として利用されています。財閥の邸宅の雰囲気が分かるだけでなく、山口吉郎兵衛氏が収集した古美術から人形やかるたなどの日常品までを展示。当時の華やかな生活を想像することができます。
[住所] 兵庫県芦屋市山芦屋町13-3
[電話]0797-22-2228
[アクセス]阪急芦屋川駅から徒歩で約8分
[参考サイト]http://tekisui-museum.biz-web.jp/