井上靖「北の海」の風景(その9最終回)

台北への旅立ち

金沢での充実した日々を終えて沼津に帰ると、いっこうに戻ってこない洪作のことを、宇田教師や祖父、台北の両親などが心配していると伝えられます。宇田のところに謝りに行くと、その場で台北行きのスケジュールを決められ、誓約書を書かされることに!先生や友人たちに見送られた洪作は、汽車と客船を乗り継ぎ、両親のもとへ向かいました。

沼津に戻る

沼津の町に戻ると都会から遊びに来た男女がたくさんいます。「大きな麦藁帽子をかぶり、開襟シャッツに短いパンツをはいている。中には水泳着の下にタオルを羽織って、千本浜の姿をそのまま町中まで運んで来ている者もいる」とあります。

千本浜ではありませんが、下には同時期(昭和初期)の由比ヶ浜(右上)や大磯(下)の海水浴場の写真を引用しました。このような男女たちが街を歩く風景を見て、「金沢にくらべると沼津の町は軽快でしゃれていたが、北国の城下町の持つしっとりとした重厚さは感じられなかった」や「ここは鳶や、杉戸や、大天井たちの歩く町ではなかった」と考えます。

出典:忠孝之日本社編輯部 編『新日本写真大観』,忠孝之日本社,昭和6. 国立国会図書館デジタルコレクション https://dl.ndl.go.jp/pid/1112102 (参照 2024-02-29、一部加工)
https://dl.ndl.go.jp/ja/pid/1112102/1/42

宇田教師宅にて

洪作は沼津に帰った二日後、親代わりになっている宇田教師の家を訪ねました。宇田は浴衣姿で縁側に座って庭を眺めていて、洪作の方を向いてくれません。やはり、金沢に出かけたきり音沙汰のない洪作を怒っている様子です。

ここでは下写真の奥の縁側に宇田教師、手前の部屋には洪作と遠山がいると想像して、会話を引用してみます。

洪作「おととい帰ってきました」
宇田「よく帰って来たな。いま遠山君に金沢まで探しに行って貰おうかと思っていた。ほんの二、三日で帰って来ると言って出て行ったまま、何日たっても帰って来ない。葉書一枚寄越さない。手紙を出しても、返事も来ない。僕もずいぶんいろいろな生徒を知っているが、君みたいのは初めてだ」
洪作「すみませんでした」
遠山「・・・・・・あすにでも台北に発つようなことを言っておいて、方々で送別会までやらせ、その上で居なくなってしまうとは何事であるか。周囲の人のことも、少しは考えろ。お前みたいな者でも、居なくなれば心配する」
宇田「・・・・・・一体、金沢で君は何をしていた?」
洪作「柔道の稽古です」
宇田「ふーむ。それもいいだろうが、君は受験生だ。なぜすぐに帰って来ない?」
洪作「みんな辛いんです。とても気の毒で、自分だけ帰るような気になれません」
宇田「ほう、受験生の君が、付き合ってやったのか。結構なことだ。立派な受験生だ。そんな受験生はこの世の中に二人とは居ないだろう」
洪作「いや、僕以外にもう一人居ました。凄く柔道の強い人で、その人は四高生をみんな呼び棄てにし、四高生の方はその人をさんづけで呼んでいました。・・・・・・」

出典:写真AC
https://www.photo-ac.com/main/detail/22125040&title=%E5%92%8C%E5%AE%A4%E3%81%AE%E3%81%82%E3%82%8B%E9%A2%A8%E6%99%AF%E3%83%95%E3%83%AA%E3%83%BC%E7%84%A1%E6%96%99%E7%B4%A0%E6%9D%90%E7%94%BB%E5%83%8F

そして、すぐに台湾に発つ日を決めることになります。
宇田「沼津を出発する日は、九月三日にするか、十日にするか。三日でも、十日でも、そのくらいのことは融通つけてやる・・・・・・」
洪作「十日にします」
宇田「では、十日に沼津を発ち、十一日に神戸から扶桑丸に乗ることになる。いいね、これで」
洪作「はい」
そして、その旨を便箋に書き、宇田たちに誓約書として提出することになりました。

下に引用したのは洪作が乗船することになった大阪商船「扶桑丸」の写真です。こちらのような豪華客船で、神戸港から台北の基隆(キールン)港まで三泊四日の旅をすることになりました。

出典:Osaka Shosen Kaisha, Public domain, via Wikimedia Commons
https://commons.wikimedia.org/wiki/File:Fuso_Maru1908.JPG

教頭の釜淵

旅立ちの数日前に沼津の街を歩いていると、沼津中学校教頭の釜淵から声をかけられます。影では生徒から「レイケツ(冷血)」と恐れられていた教師でした。
釜淵「夏はどうしていた?」
洪作「金沢に行っていました。来年四高にはいろうと思いまして」
釜淵「なかなか用意周到だね。そういうところがあるかね、君にも」
洪作「失礼ですね」
「洪作が笑うと、釜淵も笑った」
釜淵「まあ、君にも受験する気持があると言うことを知って、安心したよ。来年は難しいだろうが、来々年ぐらいには、どこかにはいらんとね」
洪作「それも、失礼ですね」
釜淵「この間、宇田君と君の噂をしたんだが、宇田君は褒めていた・・・・・考えていることがひとけた違っている。普通人生は六十年というが、君は百二十年ぐらいに考えているらしいということだった」
洪作「困りますね」

出典:『名古屋案内 : 附・郊外近県名勝案内』,名古屋ガイド社,昭和9. 国立国会図書館デジタルコレクション https://dl.ndl.go.jp/pid/1037325 (参照 2024-02-29、一部加工)
https://dl.ndl.go.jp/ja/pid/1037325/1/46

釜淵からコーヒーを飲もうと誘われた洪作は、当時できたばかりの洋菓子店に連れていきます。上に引用したのは昭和初期、名古屋広小路にあった不二家洋菓子店の写真です。こちらの奥側(喫茶部)を「一隅が喫茶部になっていて、二組か三組、卓と椅子が配されてある」というレイアウトに見立て、二人が笑顔で会話をしているところをイメージしてみましょう。

中学校時代とは「まるで別人のように思える」釜淵の温かさに触れ、「いざ沼津を去ろうとすると、どうしてこのように誰もがいい人間に見えて来るのだろう」と思う洪作でした。

清風荘でお別れ会

藤尾や遠山、金枝、木部といった沼津中学の友人たちが集まり、洪作の送別会をトンカツ屋(清風荘)で行うことになります。洪作が店に入らずに千本浜で時間をつぶしていると「洪作さん」と浴衣姿のれい子が追ってきました。以下に二人の会話を抜粋します。

れい子「十日に発つんですって」
洪作「うん」
れい子「台湾って果物がおいしいんでしょう・・・・・・どんな果物かしら」
洪作「バナナ、パパイヤ」
れい子「パパイヤって知らないわ・・・・・・」
れい子「新高山ってきれいな山かしら・・・・・・日本で一番高い山なんでしょう。学校で教わったわ」

下には当時、日本名で新高山(にいたかやま)と名付けられた、台湾最高峰(標高は3,952m)の玉山(ぎょくざん)の写真を引用させていただきました。

出典:西田繁造 編『日本名勝旧蹟産業写真集』台湾・北海道・樺太・朝鮮・満洲及関東州,富田屋書店,大正7. 国立国会図書館デジタルコレクション https://dl.ndl.go.jp/pid/967087 (参照 2024-02-29、一部加工)
https://dl.ndl.go.jp/ja/pid/967087/1/4

引き続き、洪作とれい子の会話です。
れい子「もう本当に帰って来ないの?」
洪作「冗談じゃないよ、帰るよ。帰るさ。来年の春には金沢に受験に行くんだ」
れい子「みんな嘘だって言ってたわ。・・・・・・台湾に行ったら、もう帰して貰えないらしいって言ってたわ。向こうの学校にはいって、将来は台湾人の娘さんと結婚して、向こうの砂糖会社に勤めることになっているんですって」
洪作「でたらめ言っていやがる」
れい子「―――ああ、わたしも台湾に行きたいわ。いいでしょうね。椰子の木が生えていて、月がきれいで、そんなところで暮らしたらどんなでしょう」
洪作「じゃ、来いよ」
れい子「だめよ、お金がないから」
洪作「向こうで勤め口を捜せばいい」
れい子「わたしも砂糖会社へ勤めようかしら」

れい子をイメージするために、「夢二式美人」の笠井彦乃さん(北の海の風景その1・参照)や妻・岸たまきさん(北の海の風景その2・参照)の写真を引用しましたが、下にはもう一人有名な夢二のモデル・お葉さん(佐々木カネヨさん)の写真を引用させていただきました。十七歳のれい子に見立てるには少し大人びていますが、別れを前にして大胆な行動をとる彼女の姿をイメージしておきます。

送別会では洪作の四高・柔道部志望についての議論が続きます。
金枝「四高もいいだろう。―――だが、ね、柔道という奴はね」
木部「柔道そのものはいいさ。しかし部生活はいかんよ」
内儀「柔道というと、すぐ遠山や洪作のことを思い出すからいけないんだね。・・・・・・でも、いい柔道もある。わたしは、ね、四高の柔道部というのは好きだね。・・・・・・あんたたちに見せてあげたいね。四高の蓮実さんという人を・・・・・・」
藤尾「自分を律したことがないので、自分を律することに魅力を感じるんだろうが、長く続きっこないよ・・・・・・」
洪作「何も自分を律するようなものに惹かれているんじゃない。多分、粗野なものに魅力を感じていると思うんだ」
木部「お前こそ粗野の見本のようなものだ。それ以上、粗野なものに惹かられて堪るか。・・・・・・お前はただ仲間がほしいんだ。野良犬が仲間を求めるようなものだ。お前はこれまでに一人の友達もできなかった。俺たちは、お前の友達だということになっているが、本当は、お前にとっては友達ではないんだな。お前は誰にも理解されていないんだ。そのことが判って、寂しいんだな。お前は生粋の野良犬だ。・・・・・・その時、その時の気分次第で生きている」
その後、しばらく洪作に対する「野良犬」論が続きました。

食事が終わると皆で千本浜に出ます。
「別れかや 今宵、千里の 別れかや」
と金枝が歌うと、藤尾は以下に引用させていただいたような「琉球(りきゅう)節」を披露しました。
「琉球へおじゃるなら
わらじはいておじゃれ
琉球は石原、小石原」

この後、れい子との間に「青春の匂いのする小さい事件」が起こりますが、詳細は「北の海」にてお楽しみください。

神戸港へ

九月十日、洪作は沼津駅から汽車で神戸に向けて出発することになりました。藤尾とともに駅の待合室に入っていくと、すでに宇田先生が夫人とともに来ていて「いよいよ年貢の納め時だね」といいます。それから次々に友人がやってきて声をかけました。以下に抜粋します。

遠山「名残り惜しいな」
木部「ああ、とうとうお前も普通の人間になるか。風邪をひくなよ。野良犬は小屋にはいると、みんな風邪をひく」
宇田「君は人に送られることは初めてだろう・・・・・・どんな気持ちだ」
洪作「落ち着かないものですね。こんなにみんなが送って、別れを惜しんでくれるなら、いっそやめてしまおうかという気持ちになります」
宇田「別れなんか、誰も惜しみはせんよ」
木部「そうですよ・・・・・・可哀そうに思って見送りに来てやると、すぐ勝手なことを考えやがる」
遠山「こいつが発ったら、沼津の町はすぐ消毒を始めるそうだ」
金枝「ちょっと、いいな、それ・・・・・・洪作の居なくなった沼津の町には消毒液の匂いがする」

後かられい子が見送りにやってくると、藤尾が「僕たちみんなの中学時代の愛人です」と宇田夫妻に紹介します。宇田は「ほう、なかなかきれいな娘さんだね。夢二調の・・・・・・このひとか、千本浜の麗人は」「僕の家内と、れいちゃんと、二人の女性が別れを惜しみに来たんだから、洪作君も満足だろう」といいました。

上には昭和5年の沼津駅の写真を引用させていただきました。汽車に乗り込んで窓を開け、みんなとの別れの握手が終わると、汽車が動き出します。「宇田とも、藤尾とも、遠山とも、れい子とも別れた。洪作の手にはまだれい子の手の冷たい感触が残っていた」とのこと。洪作の頭には「別れかや 今宵、千里の 別れかや」という金枝の歌が浮かんできました。

出航の風景

次の日の午後、神戸港で客船に乗り込み、ボーイに切符を見せると一等船室に案内されます。下に引用させていただいたのは昭和初期、神戸港から客船が出帆していく際の写真です。洪作の時もこのように見送りの人がたくさん来ていたと思われます。

ここでは、船の甲板に港を眺める洪作を置いてみます。友人たちと別れた寂しさが残りつつも、今後の受験への焦燥感や親たちとの共同生活の不安も感じていたのではないでしょうか。

出典:海洋協会 編『海洋発展史』,海洋協会,昭和17. 国立国会図書館デジタルコレクション https://dl.ndl.go.jp/pid/1229719 (参照 2024-02-29、一部加工)
https://dl.ndl.go.jp/ja/pid/1229719/1/222

船内で

瀬戸内海が暮色に包まれると、食事の合図の銅鑼が鳴ります。洪作は親と知り合いで台北で医師をしている佐藤と吉見、船の事務長との四人で食卓を囲むことになりました。

下に扶桑丸と同じく大阪商船・高千穂丸の一等食堂の写真を参照しながら、会話を抜粋してみます。
事務長「今日は瀬戸内海ですから、たいしたことはありませんが、それにしても多少揺れるかも知れません」
佐藤「少しぐらい揺れるのも、運動になっていいでしょう」(洪作に向かって)「あなたは、船には強いですか」
洪作「さあ、どうでしょう。船は初めてですから」
吉見「初めてですか。初めてならやられますよ。食べないに限る。気持ちが悪くなったら、いっさい胃の中に入れない方がいい」

出典:『台湾へ』,大阪商船,昭和12. 国立国会図書館デジタルコレクション https://dl.ndl.go.jp/pid/1122583 (参照 2024-02-29、一部加工)
https://dl.ndl.go.jp/ja/pid/1122583/1/4

海が荒れるも

外洋に出ると船が大きく揺れ出しました。洪作は持参した酔い止め薬を見つけられず、「飲むことは諦めて、英語の参考書を持って休憩室にはいって行った」とあります。休憩室は「ソファも上等であるし、卓も上等であった。そこに坐って、参考書を開いていると、ボーイがお茶を運んでくれた」とのこと。

下には扶桑丸の姉妹船・蓬莱丸の一等談話室の写真を引用しました。ここでは左側のテーブルで参考書を開く洪作の姿を置いてみましょう。「勉強をするのは何か月ぶりであろうか」という洪作ですが、船の事務員から「このあらしの中を、勉強とは見上げたもんです」といわれ「人から褒められたことなどなどないので返事い困った」とあります。

出典:『台湾へ』,大阪商船,昭和12. 国立国会図書館デジタルコレクション https://dl.ndl.go.jp/pid/1122583 (参照 2024-02-29、一部加工)
https://dl.ndl.go.jp/ja/pid/1122583/1/3

外洋に出た上に台風にもぶつかり船が大きく揺れますが、洪作は「気持ちなど少しも悪くなかった」、「寝台に体を横たえ、体を船の揺れに任せているうちに、洪作は眠った」とあります。

ここでは大阪商船・瑞穂丸の一等寝室の寝台を引用させていただき、洪作が横たわるシーンをイメージしてみましょう。

出典:『台湾へ』,大阪商船,昭和12. 国立国会図書館デジタルコレクション https://dl.ndl.go.jp/pid/1122583 (参照 2024-02-29、一部加工)
https://dl.ndl.go.jp/ja/pid/1122583/1/3

洪作は波濤が甲板にぶつかる音で一度目覚めました。「ああ北海に風荒れて、狂瀾岩にとどろけば」という「日本海の砂丘の上で杉戸が歌った寮歌が、その時洪作の心をよぎったが、それはその瞬間のことで、すぐまた洪作は深い眠りの中に入って行った」と結ばれています。

旅行などの情報

前回までは「北の海」のシーンに沿って、沼津・金沢を中心とした関連の施設を取り上げてました。今回は井上氏の生まれ故郷・旭川市にある「井上靖記念館」と、ゆかりの深い鳥取県の「アジア博物館・井上靖記念館」をご紹介します。

井上靖記念館(旭川)

井上氏の生誕の地・旭川に1993年にオープンした記念館です。「夏草冬濤の風景」(・・・その7・参照)でも引用させていただいたように、世田谷にあった井上靖氏の旧邸が移築されていて見どころの一つとなっています。設計者の磯山正氏は沼津中学同級生で、「夏草冬濤」では良家の少年・磯山という役で登場しました。

常設展では「しろばんば」や「夏草冬濤」、「北の海」といった洪作のころの井上靖氏はもちろん、新聞記者や作家時代の姿も写真や資料で追うことができます。下に引用させていただいた投稿にもあるように企画展もひんぱんに開催されていますので、公式サイトなどでご確認ください。

基本情報

【住所】北海道旭川市春光5条7丁目5-41
【アクセス】旭川駅からバスで約20分
【参考URL】井上靖記念館

アジア博物館・井上靖記念館

鳥取県は井上靖氏の家族が疎開をした場所(鳥取県日野郡日南町・野分の館)としてもゆかりがあります。井上靖記念館では井上氏の書斎を復元したコーナーを中心に、ゆかりの品々を展示。「敦煌」や「孔子」などの執筆を通して行った中国との親善交流についても学ぶことができます。

また、隣接するアジア博物館には豪華な絨毯を鑑賞できる「ペルシャ錦館」や、下に引用させていただいたような本格的なゲルを備えた「モンゴル博物館」などもあるので、海外旅行気分も楽しめるでしょう。

基本情報

【住所】鳥取県米子市大篠津57
【アクセス】境港駅から車で約15分
【参考URL】http://www.yonago-navi.jp/yonago/yumigahama/sightseeing/asia-inoue-museum/