宮本輝「地の星」の風景(その2)
活動を開始
熊吾の住む城辺町には商店街が復活し、南宇和でも活気のある場所になっていました。戦後六年を経て、近所の中村音吉がビルマから復員、彼から提案されたダンスホールの開業に乗り出すことにします。さらに、和田茂十の国会への野望を叶えるために選挙参謀となった熊吾には忙しい日々が待っていました。
商店街に活気が戻る
熊吾は城辺町北裡にある母(ヒサ)と妹(タネ)たちの家に住んでいました。
「城辺町の、県道沿いの商店街は、昭和二十六年に入ると、それまで閉店していた幾つかの店も商いを再開し、木炭バスの廃止とそれにともなうディーゼルバスの運行で、活気を呈するようになった」
とのことです。
下には、城辺周辺で営業をしていた宇和島自動車のディーゼルバスの写真を引用させていただきました。
出典:宇和島自動車株式会社公式サイト、写真でみる百年の歴史
https://uwajima-bus.co.jp/100/
また、下に掲載したのは今も落ち着いた雰囲気の残る城辺の商店街のストリートビューです。こちらの道路を未舗装・広さ一車線ほどに置き換えて、以下のシーンをイメージしてみましょう。
「ディーゼルバスが商店街に入ってくると、人々は、軒先に寄ってその通行の邪魔にならないようにしなければならないほどに、道幅は狭かった」
マッカーサーが去る
昭和26年4月16日に
「朝鮮動乱におけるアメリカ軍の戦略に異を唱え、そのために解任されて」
アメリカに戻ったマッカーサーは退任演説を行います。下には演説中のマッカーサーの写真を引用しました。
出典:See page for author, Public domain, via Wikimedia Commons
https://commons.wikimedia.org/wiki/File:Douglas_MacArthur_speaking_at_Soldier_Field_HD-SN-99-03036.JPEG
熊吾が読んでいた朝刊にも同様の写真があったかもしれません。新聞にはその演説内容が記されていました。
「私はなおあの当時最もよくうたわれた民謡の一節を覚えている。それはまことに誇らしげに“老兵は死なず、ただ消え去るのみ”と揚言したものであった。この老兵のように私はいま軍人としての境涯を閉じて姿を消そう。さようなら――」
そして熊吾は
「第二次世界大戦がひとつの時代の終わりだとすれば、敗戦後の日本を実質的に統治した占領軍の最高司令官マッカーサー元帥の引退も、また日本のひとつの時代の終わりを告げるものといわなければならない」
と考えます。
音吉の帰還
その演説の数日後の四月二十一日、昭和19年に出征して消息が途絶えていた鍛冶屋の中村音吉が帰還します。
下には第二次大戦終戦後にビルマで降伏し、武装解除を受ける日本軍兵士の写真を引用しました。この後、ビルマの収容所で数年強制労働させられた音吉は
「音吉の指には爪がなかった。髪の大半が抜け落ちているのも、爪がはえていないのも、極度の栄養失調によるものであった」
とのことでした。
出典:Morris W A (Sergeant), No 9 Army Film & Photographic Unit, Public domain, via Wikimedia Commons
https://commons.wikimedia.org/wiki/File:Japanese_troops_of_52nd_Division_hand_over_weapons.jpg
音吉「熊のおじさん。中村音吉、ただいま帰って来ました」
熊吾「ようもまあ、生きて戻れたのお」
音吉「わしは、何回死んだかわからん。熊のおじさん、わしは、ほんまに何回死んだかわからんのじゃ」
熊吾「とにかく、いまは体を休めることや。うまい物を食うて、ゆっくり休むことや」
出典:Morris W A (Sergeant), No 9 Army Film & Photographic Unit, Public domain, via Wikimedia Commons
https://commons.wikimedia.org/wiki/File:The_British_Reoccupation_of_Burma_SE7589.jpg
中村音吉が蝕まれていたのは肉体だけではありません。戦争体験や上に引用したような収容所での生活によりPTSD(心的外傷後ストレス障害)になっていて、屋根にのぼって踊るなどの奇行に及びます。屋根で踊る要因などについて音吉は熊吾に以下のように語りました。
音吉「わしは、わしが死んだあと、閻魔様にしか裁いてもらえんようなことを、ビルマの収容所でやりましたなァし。どんなことやと訊かんといてやんなはれ・・・・・・わしは親の代からの鍛冶屋で、体を動かしちょると、なんや知らん安心出来るけん、夜、恐ろしいなると屋根にのぼる・・・・・・わしは子供のとき、親父に叱られると、腹いせに、屋根にのぼりましたなァし。・・・・・・子供のときにやったように、屋根にのぼって踊っちょると、死んだ親父が助けに来てくれるような気がしてなァし・・・・・・」
ダンスホールの計画
そんな音吉も徐々に体力を取り戻し、鍛冶屋としての仕事に復帰できるようになりました。そんなある日、熊吾が仕事場に立ち寄ったときの会話を以下に抜粋します。
音吉「じつはわしは、ええ商売を思いついたぞなァし・・・・・・わしには資本がないけんど、熊のおじさんにならすぐにも始められるええ商売やけん」
熊吾「どんな商売を思いついたんじゃ」
音吉「わしの友だちが東京で働いとるんやが、こないだ手紙を送って来ましてなァし。最近、ダンスに凝っちょるて書いとった・・・・・・東京じゃあダンスホールっちゅうのが大繁盛で、若い男や女がそこに集まって、体をすり合わせて踊っちょるそうやなァし。信じられんような世の中になっしもて・・・・・・」
出典:時事通信社 編『日本戦後の表情』,時事通信社,1948. 国立国会図書館デジタルコレクション https://dl.ndl.go.jp/pid/1150999 (参照 2024-06-04、一部抜粋)
https://dl.ndl.go.jp/pid/1150999/1/28
上には昭和初期のダンスホールの写真を引用しました。同ページにあるコメントも抜粋しておきます。
「終戦後眞先きに復活したのがダンスホールとキャバレだ。『開放』された若い男女は堤を切ったように押しよせる・・・・・・」
1940年(昭和15年)10月31日、東京のダンスホールはこの日かぎりで閉鎖、各ホール超満員であった[7]。
太平洋戦争開戦間際の1940年(昭和15年)にダンス禁止令が出され戦時中はダンスホールも閉鎖状態となった[8]。
出典:ウィキペディア
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%80%E3%83%B3%E3%82%B9%E3%83%9B%E3%83%BC%E3%83%AB
国内のダンスホールは戦時中、上に抜粋したように閉鎖となっていました。戦後になっても南宇和周辺で営業を再開したダンスホールはまだ少なく、熊吾は事業の可能性を感じます。
「闘牛以外に何の娯楽もなく、若い者たちは身を持て余して、酒や博打を吐け口にするしかない・・・・・・はやりすたりがあるだろうが、このご時世なら五、六年はもつだろう」
熊吾は定職のない妹(タネ)とその情夫(政夫)にダンスホールを運営させようと考えました。
玉水旅館にて
熊吾は前回の闘牛の場面で(地の星の風景その1・参照)、伊佐男の罠から救った漁師の網元・和田茂十から
「城辺町で古い暖簾を持つ玉水という料理旅館」
に招かれます。
「玉水旅館」は実在した旅館(2010年に閉館)で宮本輝氏も定宿とされていたとのことです。下には営業していたころの貴重な写真を引用させていただきました。
出典:宇和島東高校28期の部屋、愛南めぐり日記
https://blog.goo.ne.jp/uto28/e/5237e326e131e26428b2064726de624e
茂十が議員になる野望を持っていることを知っていた熊吾は、自分がその選挙参謀になると宣言します。
その日、茂十がふるまってくれたのは「とびっきりの猪の肉」で
「鍋には臭い消しのための味噌は使っていなかったが、肉に臭みはなく、噛む必要がないくらい柔らかかった」
とあります。
出典:写真AC
https://www.photo-ac.com/main/detail/27498866
上にはきれいに盛り付けられた猪肉の写真を引用させていただきました。ここでは一般には出回らない高級な日本酒でもてなされながら以下のような作戦会議をしているところを想像してみましょう。
熊吾「両面作戦を使う・・・・・・まず、後援会を作る。その後援会では、すきっ腹や財布をちょっとだけ膨らませてやる。そのために蒲鉾工場を再開するんじゃ」
茂十「やっぱり選挙は金ですかなァし」
熊吾「いまは金よりも食うものに血まなこの時代じゃ。魚が腐るほど獲れるんやから、蒲鉾を作って、それを大阪や神戸に出荷してみい。飛ぶように売れるぞ」
伸仁が野壺にはまる
「地の星」の前半で印象的な風景をもう一つ紹介しましょう。熊吾が伸仁とタネの娘・千佐子を連れて家の近くの「城址の森」に向かう途中のことです。
千佐子「おっちゃん、ノブがおらん」
「野壺に落ちたな。底なし沼みたいな野壺が、このあたりには二つ三つあるのだ」
と推測した熊吾が周囲を見渡すと、
「なすび畑と田圃のあいだの草叢に、伸仁の手が見えた」
とのこと。
そこには全身を糞尿だらけにした伸仁の姿がありました。
上には今も残る野壺の写真を引用させていただきます(こちらは貯水用として用いられているようです)。化学肥料のなかった当時は、糞尿を発酵させた堆肥を溜めておく野壺は貴重な農業施設でした。
なお、野壺の持ち主によると、少年時代の熊吾も同じ野壺にはまったとのこと。また、熊吾を訪ねてきた和田茂十は以下のようにいいながら伸仁の頭を撫でました。
「男は一遍は野壺にはまっといたほうがええ。あそこは、いろんな経験が溜まっちょるとこやけん」
旅行などの情報
愛南市場食堂
闘牛の後、和田茂十が熊吾に大きな鯛を贈る場面があるように愛媛は鯛などの海鮮グルメが人気です。愛南町にある深浦漁港の市場に併設された「愛南市場食堂」では新鮮な魚料理をリーズナブルに食べることができます。
「鯛のごまだれ丼」や「鯛めし丼」などの丼物のほか、数量限定の「愛南びやびや鰹」や養殖スマ「伊予の媛貴海(ひめたかみ)」といったこちらのエリアならではのお刺身もお試しください。
基本情報
【住所】愛媛県南宇和郡愛南町鯆越166-4
【アクセス】松山自動車道・津島岩松ICから
【参考URL】https://ainan-marugoto.jp/gourmet/ichibasyokudo/