宮本輝「地の星」の風景(その3)

金沢にて

会社の金を横領した井草正之助(流転の海の風景その3・参照)が金沢にいることを知らされ、熊吾は早速会いにいきます。そこで見たのは病気のためやつれた井草の姿でした。その足で、井草の愛人であった谷山節子を訪ねた熊吾は、娘の麻衣子が妻のある男とつきあっていることを知ります。父親代わりの熊吾は、麻衣子と別れるようにその男に忠告にいきますが・・・・・・

登場人物

今回は「流転の海」に登場した人物が久しぶりに活躍します(流転の海の風景その1・参照)。初登場の人物も含めて下にまとめておきましょう。
井草正之助・・松坂商会で熊吾の右腕として働くも、お金を持って姿をくらませる
辻堂忠・・・熊吾に誘われ松坂商会の社員となる。解散後は証券マンとして働いている
周栄文・・・若いころ熊吾が上海で事業をしていた頃からの親友。日本では谷山節子を愛人にし麻衣子という子を成す。日中戦争開始により上海に戻る際、熊吾に麻衣子の父親代わりを依頼する
井手秀之・・麻衣子の恋人。金沢大学を卒業後すぐに親が決めた女性と結婚している

辻堂からの手紙

梅雨も終わったころ、大阪にいる辻堂から手紙がきます。朝鮮戦争の特需景気が収束することを予想した熊吾が、元松坂商会の社員・辻堂に株の売却を依頼したことへの返信でした。そこには、辻堂が入手した新しい情報も付記されていました。一部抜粋してみましょう。

以下は依頼通りに株を売却したことの報告です。
「先日の株売却の件、御指示通りに処理しておきました。私もある程度の予想はたててありましたが、その予想をはるかに上まわる暴落の兆しが見えてきました」

下に引用させていただいたように、朝鮮特需自体は朝鮮戦争が終了する1953年まで続きますが、「ガチャマン景気」や「糸へん景気」と呼ばれた繊維製品に関する景気の終焉は1951年春ごろでした(参考:ウィキペディア・ガチャマン景気)。

熊吾が持っていた株の種類については記述がありませんので、このタイミングで売ったことが正解だったかどうかは定かではありません。

出典:内閣府公式サイト、昭和29年年次経済報告
https://www5.cao.go.jp/keizai3/keizaiwp/wp-je54/wp-je54-020104.html

次は新しい情報についてです。
「井原正之助氏の消息が判明したこと。氏は、現在、金沢に住居を持ち、奥さんとお子さんの三人で暮していらっしゃいます。・・・・・・重症の肺結核で病床にあります。他の病気も併発していて、病状は相当深刻な様子です。以前は、愛人と暮らしていました。・・・・・・」
愛人の名が周栄文の元愛人・谷山節子と知った熊吾は
「体中の血管が怒張して破れてしまうよう」
な怒りを感じ、すぐにでも金沢に行こうと思い立ちます。

熊吾「わしが死に水をとっちゃる。宇和島行きのバスはもう出たんか・・・・・・宇和島から高松までの汽車は何時じゃ。高松からの船は何時じゃ・・・・・・」

1949年3月1日
宇和島~城辺間急行バス運行開始

出典:宇和島自動車公式サイト、宇和島自動車100年ストーリー
https://uwajima-bus.co.jp/100/

1951年にはすでに熊吾の住む城辺・宇和島間には急行バスが開通していました。上には宇和島自動車公式サイトの年表から、当該便の部分を抜粋させていただきます。
城下町として発展した宇和島は当時から愛媛南部有数の大都市で、下に引用したような繁華街がありました。

出典:宇和島市 編『宇和島市勢要覧』昭和9・10年,宇和島市,昭11. 国立国会図書館デジタルコレクション https://dl.ndl.go.jp/pid/1461598 (参照 2024-06-05、一部抜粋)
https://dl.ndl.go.jp/pid/1461598/1/18

また、瀬戸大橋などの連絡橋がつくられる以前、四国から本州に行く手段はフェリーのみでした。以下に引用したのは1988年まで高松港と岡山・宇野駅を結んでいた宇高連絡船の昭和12年ころの写真です。

熊吾もこちらのような船に乗って金沢に向かったと想像しておきましょう。

出典:鉄道省 編『四国』,日本旅行協会,昭12. 国立国会図書館デジタルコレクション https://dl.ndl.go.jp/pid/1262621 (参照 2024-06-05、一部抜粋)
https://dl.ndl.go.jp/pid/1262621/1/25

金沢の風景

「空襲を受けなかった金沢の町には、古い家々が、戦前のままに残っていた」
とのこと。

下には昭和17年ごろの金沢の繁華街・香林坊の写真を引用させていただきました。
「市電に揺られながら、熊吾は乗客同士の会話で、金沢がきのう三十二.四度を記録したことを知った」
この景色の中にパナマ帽をかぶり、駅前で買ったお土産の西瓜を持って井草の家へ向かう熊吾の姿を置いてみます。

出典:『金沢商工会議所五十年史』,金沢商工会議所,昭和17. 国立国会図書館デジタルコレクション https://dl.ndl.go.jp/pid/1067815 (参照 2024-06-05、一部抜粋)
https://dl.ndl.go.jp/pid/1067815/1/8

井草との再会

熊吾は市電の通りから少し歩き、駄菓子屋の向かいの家に<井草>と書かれた表札が掛かっているのを見つけます。二階を見上げると
「そこには、すだれが掛かり、微風すら吹かない熱気の中で、風鈴の短冊はほんの少し捩じれたまま動かなかった」
とあります。

下には昭和初期の金沢市内(卯辰山周辺)の写真を引用しました。井草家(庭のある二階屋)や「小学生がたむろする駄菓子屋」もこちらのような風景の中にあったかもしれません。

出典:石川県 [編]『石川県史』第5編,石川県,昭和8. 国立国会図書館デジタルコレクション https://dl.ndl.go.jp/pid/1186905 (参照 2024-06-05、一部抜粋)
https://dl.ndl.go.jp/ja/pid/1186905/1/47

熊吾は井草から裏切りに至った経緯を聞きます。周の愛人だった谷山節子は熊吾にお金を用立ててもらいに大阪にやってきたとのこと。以下に会話を抜粋します。

井草「周さんと暮らしてたときよりも、なんやしらん色香が増して、きれいになってました。わては、ふらふらあとなって、この女に、一生に一遍の男気をふるうてみたいと思たんだす。しかし、それには金が要りますわなァ。大将に対するいろんな気持ちが重なってたときやったから、よけいに、魔がさしたんやと思いますねん」
熊吾「わしに対するいろんな気持とはなんじゃ」
井草「わては、女を殴る男が嫌いでんねや。大将は、奥さんを、えげつのうに殴りはる。・・・・・・わては、大将のそんなところだけが、どうにもこうにも嫌いでたまらんかったんだす。・・・・・・」

旅館で一休み

「兼六園の近くの旅館に落ち着くと、熊吾はすぐに浴衣に着換え、ビールを一本飲んで、座布団を枕に横になった」とあります。

下に引用させていただいたのは「明治の半ばからつづいている料理旅館」の一つ「金城樓(きんじょうろう)」の部屋からの写真です。夏の暑い日だったため、熊吾も窓を開けてこちらのようなきれいな景色を眺めていたかもしれません。

仲居さんが持ってきてくれた新聞のなかに結核の薬の広告を見つけた熊吾は、一縷の望みをかけて東京の広告元に連絡し、井草に送りました。

周の娘・麻衣子

井草から谷山節子の住所を教えてもらった熊吾は「大学生のための下宿屋が軒を並べる地域」にあった彼女の家を訪ねます。娘の麻衣子は17歳になり、周栄文に父親代わりを依頼されてから10年以上も会っていませんでした。節子によると麻衣子が女学校の退学の危機にあるとのこと。
熊吾「退学?どんな理由でじゃ」
節子「結婚したばかりの男の人と、しょっちゅう内緒で逢うとりますがや」
男の名前は「井手秀之」といい、金沢大学で研究を続けているとのこと。
熊吾「・・・・・わしが逢うて、話をしよう」

下に引用させていただいたように、昭和26年の金沢大学は金沢城内にあり、江戸時代に建てられた石川門を大学の正門としていました。

1949(昭和24) 金沢医科大学,第四高等学校,石川師範学校,金沢高等師範学校,石川青年師範学校,
金沢工業専門学校などが統合され,新制大学として金沢大学が誕生。
法文・教育・理・医・薬・工学部の6学部を設置。
法文,教育,理の3学部は金沢城内にキャンパスがあり,以後,角間キャンパス移転まで,
全国的にも珍しい”お城の中の大学”として親しまれる。

出典:金沢大学公式サイト、沿革(金沢大学の伝統)
https://www.kanazawa-u.ac.jp/university/management/history/

また、下には城内にキャンパスがあったころの石川門の写真を引用させていただきます。パナマ帽をかぶった熊吾が向こうから入ってくるところを想像し、以下のシーンをイメージしてみましょう。

「守衛のいる建物が門の横にあったので、熊吾は、淡水魚の研究をしている井手秀之さんに面会したいと言って、自分の名刺を出した。守衛は、構内の地図を書いてくれて、親切に途中まで案内し、楡の木立の向こうを指さして、『あそこに池がありまして、井手さんは、いまたぶん池の横にある研究室におられると思います』」

井手秀之

敵意を持って大学に乗り込んだ熊吾でしたが、以下のような井手の姿に好意を持ち始めます。
「日に灼けた、意外に野太そうな容貌と体格」
「自分とあまり身長の変わらない、どこから見ても色男とは言いかねる井手英之の、育ちのよさそうな柔和な目」

熊吾を木陰の涼しい場所に誘った井手は、通りがかりの柔道部の学生にラムネを買ってこさせます。
井手「すまんなァ。このくそ暑いのに用事を頼んで。きょうは何時まで練習や?」
学生「死ぬまでやるっちゅうとるがや。一年生が、もう三人死によった」
井手「俺も何べん死んだがやろか。五十回ではきかんちゃ」

熊吾「あんたも、柔道部でしたか・・・・・・何段です?」
井手「三段です」
熊吾「そりゃあ、たいしたもんじゃ。わしは、井手っちゅう二股野郎を、鼻もちならんやさ男やろうと思うちょったが、ケンカをしたら、ひとたまりもなく、わしは放り投げられますな」

出典:『東宮行啓紀念写真帖』,第四高等学校,明42.12. 国立国会図書館デジタルコレクション https://dl.ndl.go.jp/pid/780857 (参照 2024-06-06、一部抜粋)
https://dl.ndl.go.jp/ja/pid/780857/1/19

金沢大学の前身・旧制四高の柔道部は高専柔道大会で7連覇を果たした強豪校でした。その激しい練習の様子は井上靖氏の自伝的小説「北の海」(「北の海」の風景その4・参照)にも描かれています。

上には四高の柔道場・無声堂の写真を引用しました。井手も井上氏と同じく「練習量が全てを決める柔道」に励んでいたかもしれません。

養殖の研究

熊吾「淡水魚の養殖を研究しちょりなさるそうやが、どんな淡水魚ですか?」
井手「鮎と鱒です。人工養殖の難しい魚ですが、卵を人工的にかえすことは出来るんです」
熊吾「ほう、そうすると、一年中、新鮮な鮎や鱒を食べられるようになるっちゅうことですかのお」

能登海洋水産センターでは,これまで能登町や石川県の特性を生かした水棲生物の生殖に関する基礎・応用研究を世界に発信するとともに,オーガニック養殖を駆使した次世代養殖技術の開発を行ってきました。附属病院では,安全で美味しく,そして安定的に入手可能な魚を必要としており,今回,脂が控えめで味が良く,オーガニック養殖で育てたサクラマスを患者さんに提供しました。

出典:金沢大学公式サイト、理工学域能登海洋水産センターで育てた「サクラマス」を病院食で提供
https://www.kanazawa-u.ac.jp/news/122298/

金沢大学では井手が行っていた養殖の研究を今も続けていて、上に引用させていただいたように、病院食にも適したヘルシーなサクラマスなどを提供しています。

井手の決意

大学構内の木陰で麻衣子との関係を続けながら結婚したことをなじる熊吾でしたが、井手なりの理由があることを知りました。また、近いうちに京都大学の助手になれる見通しがあるとのこと、そうなったら妻と離婚し麻衣子と結婚するという井手の決意を聞いて熊吾は引き下がります。

出典:金沢大学資料館公式サイト、20 工学部 木立と旧校舎
https://museum.w3.kanazawa-u.ac.jp/20l/

上に引用させていただいたのは昭和28年ごろの金沢大学・丸の内(城内)キャンパス内の写真です。右側の大きな木立の下にラムネを飲みながら話す熊吾と井手を置き、その裏でさわがしく蝉が鳴く場面をイメージしてみましょう。

旅行などの情報

金沢城公園

熊吾が麻衣子の恋人・井手秀之に会った丸の内キャンパスの跡です。平成元年まではこの場所に金沢大学のキャンパスがありました。当時の大学の正門は金沢城の門(石川門)だったため、お城の役人になった気分で登校できたのではないでしょうか。

現在は下に引用させていただいたように菱櫓や五十間長屋などが復元され、江戸時代の姿をイメージしやすくなっています。

出典:flickr、金沢城公園
https://www.flickr.com/photos/126057645@N04/14783520509/

基本情報

【住所】石川県金沢市丸の内1-1
【アクセス】金沢駅からバスを利用。金沢城で下車
【参考URL】http://www.pref.ishikawa.jp/siro-niwa/kanazawajou/

金城樓(きんじょうろう)

熊吾の金沢の宿として風景を使わせていただいた旅館です。実際に熊吾が宿泊したかどうかは不明ですが、明治中期(明治20年)に創業し現在も営業を続けています。

「地の星」に描かれているように「昔からの加賀料理が自慢」で、「鴨の治部煮」や「加賀野菜」などが、下に引用させていただいた写真のような美しい器で提供されるのも魅力です。また、6室のみの全部屋には檜や石のお風呂を備えており、静かに過ごすことができるでしょう。

基本情報

【住所】石川県金沢市橋場町2-23
【アクセス】金沢駅から車を利用
【参考URL】http://www.kinjohro.co.jp