宮本輝「血脈の火」の風景(その5)

食餌療法を開始

前回(血脈の火の風景その4・参照)、糖尿病の宣告を受けた熊吾は京都の病院で診察を受け、教育入院をすることになります。そこでは食餌療法と運動の二本立てで生活習慣を改善する指導を受けました。また、資金調達の仲介をしてくれた辻堂と久しぶりに再会する場面もあります。彼は再婚が決まっていましたが、(熊吾に恨みを持つ?)亜矢子との関係はまだ続いていました。

糖尿病の教育入院

熊吾は杉野から紹介してもらった糖尿病の権威・小谷光太郎医師の診察を受けます。小谷医師については以下のように描かれています。
「長く京都大学の医学部で教えながら、大学附属病院の内科医長をつとめていたが、健康保険制度による医療に異を唱えて、三年ほど前に大学を辞し、個人病院をひらいた六十二歳の小柄で温厚な人物であった」

小谷「インシュリン療法をするか、それとも食餌療法だけでいくか、判断に迷うすれすれの状態ですが、さてどうするか、一週間の入院のあと決めましょう」
熊吾「入院?入院せにゃいけんほど悪いんですか」
小谷「悪いですな。このままの生活を続けると、半年後には眼底出血を起こし、白内障になり・・・・・・二年で死ぬでしょう・・・・・・しかし、天寿をまっとうする方法があります。その方法を、一週間の入院で学習してもらう」

出典:大林組公式サイト、大林組百年史
https://www.obayashi.co.jp/chronicle/100yrs/t1c4s4.html

「熊吾の病室からは、淀の京都競馬場が見えた」
とあります。

上に引用させていただいたのは昭和13年に完成した京都競馬場の写真です。なお、戦時中に国の金属回収令によりスタンドの屋根が撤収され、復旧したのは昭和33年とのこと。熊吾が見たときには屋根が付いていなかったと思われます。

病院でのてっちり

食餌療法を学ぶために房江も同席させて、てっちりを食べることになります。下には豪華なてっちりの写真を引用しましたが、熊吾が食べることを許されたのはほんの少しでした。

出典:写真AC、ふぐ料理
https://www.photo-ac.com/main/detail/25100359&title=%E3%81%B5%E3%81%90%E6%96%99%E7%90%86

小谷医師は熊吾が食べる分を別皿にとり分けてこのように言います。
小谷医師「てっさは、七切れぐらい。白子は駄目。骨付きの身は三切れ。野菜は好きなだけ結構。ご飯はこれだけ」
房江「先生、てっさって、こんなに薄いんですよ。七切れで、普通のお刺身の一切れほどで、骨付きの身が三切れ・・・・・・。しらたきは?」
小谷医師「そうねェ、しらたきは、このくらいかな」
と箸で五本ほどつまみます。
小谷医師「スープは小鉢に二杯。野菜はどんどん食べてください。野菜で腹をふくらませるのがこつですな・・・・・・」

出典:写真AC、ふぐ刺し
https://www.photo-ac.com/main/detail/29742450&title=%E3%81%B5%E3%81%90%E5%88%BA%E3%81%97

上には豪華なてっさ(ふぐ刺し)の写真を引用しました。房江の言うように薄切りなので、七切れでは物足りなかったことでしょう。

「熊吾は、てっさを一切れずつ、噛みしめて食べ、大きめの受け皿に白菜を盛った。そうしているうちに、なさけなさとおかしさが同時に押し寄せてきて、ついにこらえきれずに笑った。房江も長箸で煮えたフグの身をつまんで、それを小谷医師の皿に取ってあげながら、うつむいたまま声を殺して笑い始めた」
とあります。

毎日ウォーキングを

小谷「松坂さんの膵臓は、まだインシュリンを製造しています。正常な人の十分の一くらいですが、この十分の一のインシュリンでまかなう方法はたったひとつです・・・・・・食餌療法と運動です」

小谷医師の推奨する運動とはウォーキングでした。病院と競馬場とを往復するコースを教えながらこのように言います。
「少し急がないと電車に乗り遅れるといった感じで歩いて下さい。そうすれば、競馬場の正門まできっかり二十分です。途中、他の病院で般若湯(お酒のこと)を飲んだら、四十分では帰ってこられない。四十分で帰ってこなかったら、即刻退院を命じます。それではヨーイ・ドン」

出典:国土地理院、京都競馬場周辺(1945年~1950年)
https://maps.gsi.go.jp/#16/34.903862/135.718482/&ls=std%7Cort_USA10&blend=0&disp=01&vs=c1g1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f1&d=m

下に引用したのは1945年~50年の間に撮影された京都競馬場(写真右上)付近の航空写真です。写真中央にある十字部分が当時の淀駅で、高架化された現在の駅より競馬場から遠い位置にありました。

熊吾に試練を与えるために、小谷医師は屋台のおでん屋を通る道を選んでいましたが、誘惑に負けず、なんとか競馬場の正門まで歩きます。
「小谷医師の言葉どおり、ほとんど二十分で京都競馬場の正門に着いた。競馬の開催日ではないので、明りもなく閑散としていて、坂道の上に京阪電車の淀駅が見えた」
とのこと。

下には地上駅時代の淀駅の写真を引用させていただきました。なお、京都競馬場で熊吾たちは万馬券を当てることになりますが、それはもう少し先のことです(花の回廊の風景その5・参照)

出典:No machine-readable author provided. Goki assumed (based on copyright claims)., CC BY-SA 3.0 http://creativecommons.org/licenses/by-sa/3.0/, via Wikimedia Commons
https://commons.wikimedia.org/wiki/File:Keihan_Yodo_Station.jpg

心斎橋にて

京都競馬場から小谷医師の病院への帰り道、熊吾は考えごとをしながら歩いていました。
「熊吾は三日前の夜、心斎橋筋の人混みですれちがった一組の男女のことを思った。あっと気づいて声をかけようとしたとき、すでにその男女は人混みのなかに姿を消したのだが、ほんの一瞬視界に入った男女の横顔は、辻堂忠と岩井亜矢子にまちがいはなかった」

出典:See page for author, Public domain, via Wikimedia Commons
https://commons.wikimedia.org/wiki/File:Shinsaibashi-suji_in_1930s.JPG

上には昭和初期の心斎橋筋の写真を引用させていただきました。明治・大正時代には「東の銀座、西の心斎橋」と称されただけあり、モダンな服装の方が多く見られます。こちらのどこかに親密そうに歩く辻堂と亜矢子の姿を置いてみましょう。

亜矢子の復讐?

熊吾は戦前からの取引き銀行である三協銀行が、急に熊吾への融資を渋り出したことに対し不可解なものを感じていました。ある日、大阪駅で三協銀行の支店長と偶然会った際、いやみをいってやろうと百貨店の食堂に誘います。

下には大阪駅前の阪急百貨店大食堂の写真を引用しました。
引用元には
「日曜祭日の飯時にはいつも『満員御断り』」
とあるようにこちらは大阪駅前でも人気の高い食堂でした。

出典:百貨店新聞社 編纂『大・阪急』,百貨店新聞社,昭和11. 国立国会図書館デジタルコレクション https://dl.ndl.go.jp/pid/1090051 (参照 2024-06-27、一部抜粋)
https://dl.ndl.go.jp/pid/1090051/1/57

支店長は「融資の件は、自分の本意ではない」といいます。
新年の頭取宅での宴会の席で、その支店長に
「副頭取の夫人が、松坂さんのことをそれとなく訊いてきた」
とのこと。

三協銀行の「副頭取の夫人」となっている塩見(旧姓・岩井)亜矢子とは因縁がありました。
辻堂が松坂商会で働いていたころ、熊吾は下心もあって没落貴族の娘・亜矢子に近づきますが、彼女は部下の辻堂と愛人関係になってしまいます。さらに辻堂が熊吾を裏切って彼女に金を貢がされていることを知った熊吾は、
「怒りを抱いて、亜矢子を辱めることを口にした」
とのこと。
「誇り高い亜矢子が、あるいは熊吾の言葉に自尊心を深く傷つけられ、それを根に持ち続けているのかもしれない」
と考えます。

そして、親密な関係にある辻堂からそれとなく熊吾の近況を聞き出した亜矢子が、三協銀行副頭取の夫を通じて熊吾への融資を停止させたことを確信しました。

辻堂との再会

資金繰りに困っていた熊吾を救ってくれたのは、その辻堂でした。知り合いの金融業者から急場をしのぐお金を無担保で借りられるとのこと。辻堂立ち合いのもと、大阪の喫茶店で取引を交わすことになります。

辻堂「このあたりは闇市だらけだったのに、すっかり変わりましたねェ。この界隈を、革のコートを着て、うろついていたなんて、なんだか嘘みたいですよ」
熊吾「闇市は、形を変えて、阪神百貨店の裏側で迷路みたいな商店街になりよった」

出典:国土地理院
https://maps.gsi.go.jp/#17/34.701246/135.497882/&base=std&ls=std%7Cort_old10&blend=0&disp=11&vs=c1g1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f1&d=m

上には1961年~1969年の間に撮影された大阪駅付近の航空写真を引用させていただきました。地図の十字部分が阪神百貨店、左上が大阪駅です。阪神百貨店の裏側(地図下側)には小さな家が密集していますが、このあたりが熊吾のいう「迷路みたいな商店街」であったと思われます。

熊吾とともに喫茶店を出た辻堂は、御堂筋を会社とは逆の方向に歩き出します。
辻堂「私は、阪急電車で夙川に行きます」
亜矢子が西宮の夙川駅周辺に家を借りているとのこと。辻堂は結婚が決まっていながら、亜矢子との関係をやめられないといいます。

出典:にしのみやデジタルアーカイブ、阪急電鉄夙川駅
https://archives.nishi.or.jp/04_entry.php?mkey=1532

上には昭和20年代の夙川駅周辺の写真を引用させていただきました。
こちらの写真のどこかに駅前で買い物をする辻堂と亜矢子が写っているかもしれません。

熊吾は
「行くな。新しい家庭を築いて、平和に暮らせ。それが、死んだ可愛い女房と子供への弔いじゃ」
といって亜矢子のもとにいくのを止めますが・・・・・・

伸仁が賭けマージャン?

熊吾は野田阪神の交番に立ち寄り、失踪した母・ヒサ(血脈の火の風景その3・参照)の行方はつかめず、生存している可能性は低いという報告を受けます。警官に挨拶し交番から出ようとすると、野田阪神駅の改札口で誰かを待っている伸仁の姿が見えました。

「伸仁は伸びあがって手を振った。それを見ていた熊吾は、思わず眉根を寄せた。観音寺のケンが、いかにもならず者とわかる格好の三人の男たちと一緒に改札口を通り抜け、笑いながら伸仁の頭を撫でた。男たちは、伸仁に何か語りかけ、それから身をのけぞらせて笑い、駅前の交差点を渡って商店街へと向かった」
とのこと。

「駅前の商店街」がどちらかは不明ですが、下には「野田新橋筋商店街」で明治44年から営業を続ける「呉服西尾」様の公式サイトの写真を引用させていただきました。ここでは、強面の男たちが伸仁を連れてこちらの通りを歩いているのを想像してみましょう。

出典:呉服西尾公式サイト、歴史
https://nishio-gofuku.co.jp/history/

熊吾は彼らの後をつけて雀荘に入るのを確認します。そして、しばらくしてからそこに乗り込みました。
熊吾「子供が賭け麻雀なんかしやがって・・・・・・お前ら、わしの息子に何をしようっちゅうんじゃ。こいつはまだ七つやぞ」
観音寺のケン「俺、こないだ、ノブちゃんに、ぼろぼろに負けたんや。その話をこいつらにしたら、おもろいから、いっぺんそのガキと卓を囲もうやないかっちゅう話になって」
熊吾「こいつは、いま病気で、薬を服んじょる。きつい薬やけん、学校の行き帰りに労する体力以外は使うたらいかんのじゃ」
観音寺のケン「そやけど、まだ終わってないで。計算の仕様がないで」
熊吾は仕方なく伸仁に代わってゲームの続きをしました。

上に引用させていただいたのは1984年に公開された映画「麻雀放浪記」のワンシーンです。真田広之さんや鹿賀丈史さんなどの若手の名演が話題になりました。ここでは、写真右側の高品格さんを熊吾、左側の真田広之さんを観音寺のケンの友人に見立てて以下のシーンをイメージしてみましょう。
ケンの友人「もう一回だけ、つきおうてェや。せっかっく、神戸から足を運んだんや」
熊吾「そんなら、わしが相手をしてやる」
ケンの友人「あかん、あかん、おっさんは強すぎる」

熊吾「よし、伸仁。こいつらを可愛がっちゃれ。その代わり、五時までやぞ」

熊吾は伸仁の体調を監視するといいながら後ろに陣取り、サインで作戦指示をしてゲームを有利に進めます。

出典:NHK公式サイト、サイカルjournal、宮本輝
https://www3.nhk.or.jp/news/special/sci_cul/2018/11/story/special_181128/

こちらのシーンをイメージするために、上に少年時代の宮本輝氏(右側はお母様の雪恵さん)の写真を引用させていただきました。

ケンの友人「イカサマや。こんなチビにイカサマでやられたなんてわかったら、わしらは盃を返さなあかんで・・・・・・」

「伸仁に点棒を投げつけて立ち上がった男は、長袖のシャツをまくりあげ、二の腕に彫った刺青を振り廻してから、伸仁の鼻をそっとつまんだ。伸仁は、万歳をしながら、投げつけられた点棒をかき集めた」
とあります。

このときの伸仁は写真のような笑顔だったかもしれません。

旅行などの情報

熊吾が食餌療法で食べた「てっちり」の写真などをご覧になって、食べたくなった方もいらっしゃるのでは?
以下にはふぐ料理が食べられる人気チェーン店を2つご紹介します。

玄品(げんぴん)

「とらふぐ」の専門店で全国に60店舗以上もお店を展開しています。こちらのふぐ刺し(てっさ)は一般的なものより数ミリ厚くカットしているため、プリプリの食感を楽しめるのが特徴です。

熊吾が食べたふぐ鍋(てっちり)のほか、熊吾には栄養過多と思われる「特大ぶつてっちり」も提供しています。お酒のお供には熟成骨付きふぐとふぐ身、焼きふぐ皮がセットになった三種盛りを試してみてはいかがでしょうか。

基本情報(本店)

【住所】大阪府大阪市中央区難波1-1-1-3(法善寺総本店)
【アクセス】地下鉄御堂筋線なんば駅から徒歩約2分
【参考URL】https://www.tettiri.com/

とらふぐ亭

関東圏に40店舗ほどを展開するふぐ料理の専門店です。泳いだまま届けられる「泳ぎとらふぐ」を使用しているため、ふぐ本来の食感や味を楽しむことができます。皮刺しや泳ぎてっさ、泳ぎてっちり、なべ皮、雑炊のほかデザート類も付いた「泳ぎとらふぐセット」はふぐ料理をひととおり楽しめるお得なセットです。

上に引用させていただいた公式SNSのように、とらふぐ唐揚げとビールとの組み合わせは間違いありません。また、小谷医師が見せつけるように飲んでいたひれ酒は「とらふぐ亭」、「玄品」のどちらでも提供しています。ふぐ料理の味を引き立ててくれますので是非ご賞味ください。

基本情報(本店)

【住所】東京都新宿区歌舞伎町2-11-7メトロビルB1F(新宿本店)
【アクセス】JR新宿駅から徒歩で約10分
【参考URL】https://www.torafugu.co.jp/