宮本輝「天の夜曲」の風景(その1)
富山での生活
熊吾は運営する平華楼の食中毒事件などをきっかけに、大阪での事業から撤退することにしました。そして、高瀬勇次という人物の誘いを受けて、富山で中古車部品販売業を立ち上げるため富山に向かいます。今回は、「流転の海シリーズ」の前作からの経緯も含め、富山で生活を始めるまでの風景を追っていきましょう。
人物紹介
「天の夜曲」は「流転の海(流転の海の風景その1・参照)」シリーズの4作目です。主な登場人物を以下に記します。
松坂熊吾:この物語の主人公。愛媛県南宇和郡から大阪に戻り、新事業を展開
松坂房江:熊吾の妻
松坂伸仁:熊吾と房江の子。小学三年生
杉野信哉:警察に勤務。熊吾の最初の妻(内縁)の兄
丸尾千代麿 :熊吾と旧知の運送屋
柳田元雄:自動車部品を扱う柳田商会の社長
高瀬勇次:富山で中古車部品店を開業するため、熊吾を共同経営者として迎える
河内善助:戦前からの仕事仲間
平華楼の食中毒事件
近江丸の火災(血脈の火の風景その7・参照)が起きてから「一ヵ月ほどたった梅雨のはしりのひどく蒸す日がつづいたころ、近くの電電公社の註文で特別に作った中華弁当で集団食中毒を起こした」
とのこと。
電電公社の運動会用につくられた弁当は納入日の夕方が消費期限でしたが、一部の人が持ち帰って次の日に食べたことが要因でした。中華弁当をつくった熊吾の中華料理店・平華楼に非はありませんが、組合が裁判沙汰にすることを恐れた電電公社の幹部たちは熊吾を説得し、濡れ衣を着せます。
昭和時代は現在よりも社内運動会が盛んにおこなわれていました。上には、昭和11年に「聚楽」が豊島園を貸し切って行った運動会の動画を引用させていただきます。
徒競走や二人三脚といったおなじみの種目以外にも、「サイダー飲み競争」や「陸上ボートレース」などのユニークな競技が行われていました。
富山移住の決心
追い打ちをかけるように、妻・房江の更年期症状が悪化して「鬱病」と診断され、熊吾が立ち上げに尽力したプロパンガス販売会社・社長の杉野は脳溢血で倒れてしまいます。
出典:大阪市中央卸売市場 編『大阪市中央卸売市場年報』第6回(昭和12年),大阪市中央卸売市場,昭11至14. 国立国会図書館デジタルコレクション https://dl.ndl.go.jp/pid/1144081 (参照 2024-07-11、一部抜粋)
https://dl.ndl.go.jp/pid/1144081/1/6
安治川沿いにある大阪中央卸売市場の喧噪(上に昭和初期の写真を引用)を思いながら、熊吾は以下のようなことを考えていました。
「商売をする土地としては、この中之島の最西端の、堂島川と土佐堀川が合流して安治川と名を変えていく場所は、先が見えた。間違いなくここは、近いうちに、車の通る数だけが多いだけの場末、大阪中央卸売市場のなかだけが活気を呈していて、川べりに倉庫群が並ぶ閑散した地になるだろう。」
さらに、台風による高潮で財産のほとんどを失い、母のヒサが失踪し、伸仁が近江丸の火事に巻き込まれそうになったことを思い返した熊吾は
「ここは、ろくでもないところだ。俺にとっては鬼門みたいなところだ」
とも考え、別の場所に移ることを決心しました。
高瀬勇次
熊吾が富山に移住することになったのは、中古車部品会社の開業のためでした。共同経営者の高瀬勇次については以下のように描かれています。
「店を移転して大きくさせたという柳田商会に立ち寄ったとき、一九二四年型のフォードのラジエーターはないかと訪ねてきた男に、柳田元雄には内緒で河内善助の店を紹介してやった。その、眼鏡をはずすとやぶにらみがひどくなる無骨そうな男が高瀬勇次であった」
熊吾が関西の中古自動車部品業界では名の知られた人物だったことを知った高瀬は
「私に、この業界での商売のやり方を教えてくれませんか・・・・・・私と一緒に富山一の会社を作りませんか」
「これまでは自動車修理工場をこまめに廻って、部品の調達を自分ひとりでまかなっていたが、松坂熊吾という人が力添えしてくれるならば、市内に店と倉庫を持って、たいていの自動車部品は揃うという会社を興せる」
などと誘い、熊吾もそれに乗ることにしました。
ちなみに、柳田商会などのあった大阪市福島区は昭和時代から自動車部品卸売業が集まっていた場所で(レファレンス協同データベース・参照)、上のストリートビューのように今でも多くの自動車部品販売店を確認できます。高瀬はこちらのような街並みをヒントにして、富山での起業を考えたのかもしれません。
富山駅に到着!
ここから、「天の夜曲」の冒頭の風景に戻ります。
「大阪から富山にへと向かう立山一号は、昼過ぎに定刻どおり出発し、さして遅れのないまま米原駅に着いたが、そこから北陸本線に入ると、松坂熊吾がこれまで見たこともない豪雪のなかを止まっては進み止まっては進みしながら、石川県の大聖寺駅でついに動かなくなった」
とのことです。
出典:『鉄道技術発達史』第2篇 第3,日本国有鉄道,1959. 国立国会図書館デジタルコレクション https://dl.ndl.go.jp/pid/2423737 (参照 2024-07-11、一部抜粋)
https://dl.ndl.go.jp/pid/2423737/1/523
上には昭和28年に建てられた鉄筋コンクリートの大聖寺駅の写真を引用しました。
伸仁「この汽車の高さよりもぎょうさん積もってる・・・・・・」
熊吾「あと五日で四月になるちゅうのにのォ・・・・・・この立山一号は汽車やあらせん。ディーゼル機関車じゃ。お前は何べん教えられても、汽車と言いよる。汽車っちゅうのは蒸気の力で走るのだけを指して言う」
伸仁「ぼく、汽車に乗りたかってん。シュッシュポッポて走って行く汽車で富山へ行くんやて思ててん」
出典:北國新聞社, Public domain, via Wikimedia Commons
https://commons.wikimedia.org/wiki/File:New_Kurikara_Tunnel_in_1955.jpg
上には昭和30年、北陸本線の新倶利伽羅トンネル開通時の写真を引用しました。こちらには伸仁が乗りたかった汽車の姿も写っています。北陸本線が全線電化されるのは昭和44年で、それまでは蒸気機関車やディーゼル機関車が併用されていました。
富山に到着
「富山駅に着いたのは夜の十一時だった。神通川を渡るとき、吹雪は、風に吹かれて左右に舞うだけの、重そうなぼたん雪に変わっていた。プラットフォームには、高瀬勇次と妻の桃子が迎えに来てくれていた」
出典:岩波書店編集部, Public domain, via Wikimedia Commons
https://commons.wikimedia.org/wiki/File:Toyama_station_in_1956.jpg
上に引用させていただいたのは昭和30年代の富山駅の写真です。熊吾が到着したのは昭和31年の雪の降る夜、ここでは、高瀬から
「あと五、六分で最終の市電が出てしまうと急がされ、改札口へと向かった」
という熊吾たちの姿をイメージしてみます。
北陸の豪雪
熊吾たちが最寄りの電停から高瀬の家に向かう途中、初めて見る富山の豪雪に驚く場面が描かれています。
「雪見橋というところで降り、小さな川のほとりの民家の並ぶ道を歩き出したが、二メートル近く積もった雪は、人の歩いた跡で幾分固められているものの、熊吾の膝のあたりまで埋めさせた、十歩も行かないうちに、足先の感覚がなくなり、熊吾は遅れてついて来る伸仁を抱きあげた」
下に引用したのは1932年(昭和7年)ごろの雪見橋の写真です。趣のある名前は、江戸時代の画家・池大雅がこちらから立山の雪景を写生したことが由来とされています。手前には満開の桜、橋の右側には市電が走行するのどかな風景です。
出典:村上陽一郎, Public domain, via Wikimedia Commons
https://commons.wikimedia.org/wiki/File:%E9%9B%AA%E8%A6%8B%E6%A9%8B.jpg
もちろん、熊吾が到着した当日は三月末で桜吹雪のかわりに雪が舞っていました。下には昭和38年に北陸地方を襲った豪雪時の長岡市内の写真を引用しました。熊吾たちが歩いていたのも、こちらのような雪道だったでしょうか。
出典:日本語: ジオテクサービス株式会社(撮影当時の名称:興和地下建設株式会社)English: Geotechservice Co.,Ltd., Public domain, via Wikimedia Commons
https://commons.wikimedia.org/wiki/File:Heavy_snowfall_1963_Nagaoka_by_Geotechservice_05.jpg
伸仁が落語を熱演
一旦、熊吾たちは高瀬の家に落ち着きますが、ストーブも火鉢もない寒い部屋に閉口し、最初の夜を小さな商人宿で過ごすことになりました。家族三人で久しぶりにお風呂に入った際、熊吾たちは伸仁に「鴻池の犬」という落語をリクエストします。
「テケテンテンと出囃子の曲までつけて」
「えー、お寒い中のお運び誠にありがとうございます。鴻池の犬という、まあ言うたら、しょうもないような、しょうもないこともないようなお話でご機嫌うかがいます。・・・・・・」と伸仁が始めると
「熊吾は旅館中に響き渡るほどの声をあげて笑った」
とあります。
出典:朝日新聞社, Public domain, via Wikimedia Commons
https://commons.wikimedia.org/wiki/File:Kokontei_Shinsho_the_5th.JPG
「鴻池の犬」の内容は寄せに連れて行ってもらったり、ラジオで聴いたりして覚えたとのこと。上には宮本輝氏のお気に入りで、著書(三十光年の星たち)にも登場する五代目古今亭志ん生さんの写真(昭和30年ごろ)を引用しました。
最後まで伸仁の落語を聴きたかった熊吾ですが
「終わるまで湯につかっちょったら、わしも母さんもお前も目ェ廻して、石川五右衛門になっしまう」
といって浴槽から出ます。
高瀬と決別?
大阪の家を引き払って富山までやってきましたが、事務所の立ち上げを先延ばしする高瀬の態度に業を煮やします。
熊吾「なんぼ家賃が目論見よりも高うても、わしは富山城の近くのあの店を借りるぞ」
出典:岩波書店編集部, Public domain, via Wikimedia Commons
https://commons.wikimedia.org/wiki/File:Toyama_castle_in_1956.jpg
富山城の周辺は市の中心部にあるため、部品の調達や販売にも便利だったと思われます。上には熊吾が富山にやってきた昭和31年ごろの富山城模擬天守の写真を引用しました。後ろに見える街並みのどこかに、熊吾が候補にした貸店舗があるかもしれません。
高瀬「ある程度の収益のめどがついてからでええがに・・・・・・富山には貸店舗なんて、なんぼでもある。ちょっとでも家賃が安いとこを捜すのは当たり前ですちゃ。この大雪が最後やないらしい。本格的に動くのは雪が解けてからでええがや。大阪みたいに忙しい土地柄やないから」
熊吾「わしはせっかちやが、商売には機敏に動かにゃあいけんちゅうのも鉄則じゃ。雪が溶けてからなんて悠長なやり方はわしに合わん。・・・・・・わしは、あんたの熱意にほだされて、慣れん土地に写って来たんじゃ。あんたに熱意が失せたのなら、この話、ご破算にしよう」
その時電話が鳴り、熊吾と高瀬を結び付けた河内善助の訃報が飛び込んできました。
出典:学習研究社 撮影者不明, Public domain, via Wikimedia Commons
https://commons.wikimedia.org/wiki/File:Shinsuke_Ashida.jpg
上には映画・流転の海で河内善助役を演じた芦田伸介さんの写真を引用させていただきます。以前(流転の海の風景その3・参照)もご紹介しましたが、渋い演技には定評があり、コーヒーミルク「クリープ」のCMキャラクターもされていました。
総曲輪や西町の風景
房江は高瀬家の人たちにハンバーグをふるまおうとして、食材を買い出しに商店街に出かけていました。熊吾は河内善助の葬儀のため、急ぎ大阪に戻ることを伝えるため、伸仁とともに房江を捜しにいきます。
「中央通り商店街を抜けて、西町という停留所のところで歩を止め、どこか喫茶店がないものかと周辺を見やっていると」
伸仁が房江を見つけます。
出典:岩波書店編集部, Public domain, via Wikimedia Commons
https://commons.wikimedia.org/wiki/File:Sogawa_in_1956.jpg
房江「パン屋さんがみつからへんかったから、総曲輪(そうがわ)っていうとこまで行ってしもた・・・・・・」
上に引用したのは昭和31年の総曲輪の写真です。空襲からの復興が進み、1953年にはシンボルであるアーケードが設置されていました。ここでは中央部の買い物かごを持った女性に、房江の姿を重ねてみましょう。
また、上には昭和38年ごろの西町の写真を引用させていただきました。
こちらの周辺の喫茶店に立ち寄った熊吾たちの会話を抜粋してみましょう。
房江「お肉やさんを捜して歩いているうちに、私、ふっと考えついたことがあるねんけど」
熊吾「高瀬と組まんでも、この富山で儲ける方法でも考えてくれたか?」
房江「中古車部品だけやのうて、中古車も売ってみたらどうやろ・・・・・・」
中古車の註文を受けてから車を捜すなら大きな駐車場は不要なのではと房江はいいますが・・・・・・
熊吾「わしにエアー・ブローカーになれっちゅうのか」
家を探しに
高瀬との共同事業をあきらめた熊吾は大阪に戻ることを決意します。ただ、房江たちは富山ののどかな場所で生活させてやりたいと考えた熊吾は、
「田圃があって、きれいな川が流れちょって、トンボや蝶々がとんどって、鎮守の森でもあるとこで、伸仁が自転車で学校へ通えるところ」
を捜します。
熊吾「伸仁も家捜しにつれて行くぞ。学校なんて、一日くらい休んでも、どうっちゅうことはない」
出典:富山市科学博物館公式サイト、とやまと自然 1988年度 第11巻、夏の号(通算42号)、とやまと自然(表紙)
https://www.tsm.toyama.toyama.jp/_ex/public/nature/scan/nature-042i.html
上には昭和33年ごろの雪見橋付近のいたち川の写真(上側)を引用させていただきました。
引用元の富山市科学博物館公式サイト「とやまと自然」には以下のような記述もあります。
当時の土手は文字通り土のままで、夏になると雑草が生い茂っていました。また川幅も今よりずっと広く、所によっては川原があって相撲場がつくってあったりしました。
出典:富山市科学博物館公式サイト、とやまと自然 1988年度 第11巻、夏の号(通算42号)、とやまと自然(表紙)
https://www.tsm.toyama.toyama.jp/_ex/public/nature/scan/nature-042i.html
熊吾が周旋屋(不動産屋)から紹介された家は、写真でいうと雪見橋の奥側にありました。熊吾たちはいたち川沿いをサイクリングしながら、こちらのような雄大な景色を楽しんでいたのではないでしょうか。
「いたち川橋の次が見竜橋で、そこからいたち川は細くなり、細い四つ辻の角に雑貨屋があった。大泉本町の嶋田という大工の家は、その雑貨屋の前を西に曲がって二十メートルほど行ったところにあった。借り主を捜している部屋は作業場の二階の八畳で、去年まで嫁いだ長女が使っていたという。」
下に引用させていただいたグーグルマップで、大泉の道標の脇にあるのが「見竜橋(見龍橋)」です。
「嶋田以下の住まいは、仕事場とつながった階下の二間で、五十歳くらいの夫婦と、高校二年生の長男、ことし中学を卒業して大工の修行をしている次男、そして伸仁とおない歳の三男の五人家族だった。」
嶋田元雄の容貌については
「坊主頭」
「太い眉ばかりが目立つ日に灼けた顔」
などという記述があります。
嶋田の人柄や窓から見える景観、伸仁が育つのに適した静かな環境を気に入った熊吾は、嶋田家を間借りすることに決めました。
家を決めた熊吾たちが自転車を停め、房江が作ってくれたお弁当を食べます。
上には富山市内からの立山連峰の写真を引用させていただきました。
ここでは、
「おにぎりが十個、刻みねぎを入れた玉子焼き、蒲鉾、ほうれん草のおひたし」
が入ったお弁当を
「見事な立山の峰々を眺め、菜の花の香りを嗅ぎ、蝶の飛ぶさまを見ながら」
食べる場面をイメージしてみましょう。
旅行などの情報
富山城址公園
富山城は戦国時代に築かれ、江戸時代には富山前田家の居城として整備されました。明治初期に廃城令により取り壊されますが、昭和29年の富山産業博覧会の際、下に引用させていただいたように戦後復興のシンボルとして天守閣が建設されます。熊吾たちもこちらの真新しい天守閣を観光にいったかもしれません。
富山城天守閣は富山市郷土博物館として活用され、中世から近現代までの富山城の歴史を伝えています。ほかにも前田家2代目の前田利長が用いたとされる長さ127ⅽmの「銀鯰尾形兜」などゆかりの武将に関連する展示も見逃せません。また、公園脇にある松川では遊覧船が運行し、特に桜や紅葉の時期には観光客でにぎわいます。
基本情報
【住所】富山県富山市本丸1
【アクセス】JR富山駅から徒歩10分
【参考URL】https://joshipark.com/
呉羽山展望台
借家を探しながら「いたち川」のほとりを自転車で走るシーンのように、「天の夜曲」には立山連峰の景色がたびたび登場します。下には立山連峰の眺望スポットとして人気の呉羽山展望台からの景色を引用させていただきました。
立山連峰は写真のような雪景色のほか、ピンク色に輝く夕焼けの景色など、季節や時間帯により多彩な姿を見せてくれるのも魅力です。また、呉羽山の麓には売薬資料館などを含む「民俗民芸村」もあるので、「天の夜曲」巡りの際に立ち寄ってみてはいかがでしょうか。
基本情報
【住所】富山市安養坊他
【アクセス】北陸道・富山ICから車で20分ほど
【関連URL】https://www.toyamashi-kankoukyoukai.jp/?tid=100443