宮本輝「天の夜曲」の風景(その4)
関西中古車業会の根回し
前回(天の夜曲の風景その3・参照)、「関の孫六兼元」を売って資金を得た熊吾は、良質な車を適正な価格で販売する中古車の組織を作ることにしました。主治医の小谷医師の移転・開業祝いの場面では、高度経済成長の影で表面化してきた公害病についても触れています。その後、火傷をしたダンサー(西条あけみ)の治療に付き添って長崎に向かうところまでの風景を追っていきましょう。
関西中古車業会
「中古車部品が重宝される時代は遅かれ早かれ終わるだろうが、中古車そのものの流通はもっと盛んになると熊吾は読んでいた。そのためには、闇市に似た発生の仕方でいまの日本の中古車業会を牛耳っているエアー・ブローカーの勢いを止めなければならないと考えて、戦前からの中古車業者たちに相互扶助的なつながりと結束を促し、社会的に信用ある組織作りを提案して、それを近畿一円に広げる中枢の管理組合の結成を呼びかけたのだった」
そして
「熊吾は『関西中古車業会』という名称をまず発案し、機関誌の発行と、合同の中古車展示販売会の開催を勧めた。」
とのことです。
出典:モーターマガジン社, Public domain, via Wikimedia Commons
https://commons.wikimedia.org/wiki/File:%E3%83%A2%E3%83%BC%E3%82%BF%E3%83%BC%E3%83%9E%E3%82%AC%E3%82%B8%E3%83%B3_%E6%98%AD%E5%92%8C30%EF%BC%881955%EF%BC%89%E5%B9%B48%E6%9C%88.jpg
なかでも熊吾が最初に着手したのは機関誌の発行でした。
「機関誌では、それぞれの業者の、そのときどきのお勧め車と値段を掲載したり、中古車の売買に関する多面的な情報を載せる」
とのこと。
「とりあえずその叩き台をつくるために、熊吾は千代麿の事務所で原稿を書き、図書館でアメリカの中古車業会に関する雑誌や新聞の記事を書き写してきた」
とあります。
上に引用したのは自動車雑誌「モーターマガジン」の創刊号(昭和30年8月)の写真です。現存する自動車雑誌として、日本で最も長い歴史があるとのこと(ウィキペディア・モーターマガジン)。熊吾はこちらの雑誌も参考にしていたかもしれません。
小谷医師の移転祝い
「十一回目の終戦記念日の前日、小谷光太郎医師の住居兼医院が、大阪市福島区の福島天満宮の近くに完成した。」
熊吾は開業のお祝いを持って主治医の小谷医師のもとを訪ねます。場所は「大阪市福島区の福島天満宮の近く」で、「そこは仕舞屋(しもたや)やメリヤス問屋が並ぶ界隈」でした。
下に引用させていただいたのは、戦前は「大阪輸出莫大小工業組合」の事務所、戦後はテナントビルとして活用された莫大小(めりやす)会館の写真です。ここでは、この建物の周辺を和歌山・紀ノ川産の天然鮎が入った木桶を持って歩く、熊吾の姿をイメージしてみます。
出典:Bittercup, CC BY-SA 3.0 https://creativecommons.org/licenses/by-sa/3.0, via Wikimedia Commons
https://commons.wikimedia.org/wiki/File:Knitting_Center.jpg
大阪市福島区は莫大小産業が盛んだった場所で、その象徴的な存在が「大阪輸出莫大小工業組合」の事務所として用いられた莫大小会館でした。残念ながらこちらの建物は2022年に閉館し、2024年には解体が終了しています。
また、下に引用させていただいたように大阪の莫大小(メリヤス)の組合は工程などによっても細分化されていて、晒(漂白や染色)、タオル、起毛整理(起毛や表面加工)、編立などがありました。戦災のため組合は存続できなかったとのことですが、福島区では多くのメリヤス問屋が復興を果たします。
出典:日本紡織研究所 編『紡織年鑑』昭和12年版,日本紡織研究所,昭和12. 国立国会図書館デジタルコレクション https://dl.ndl.go.jp/pid/1116590 (参照 2024-07-23、一部抜粋)
https://dl.ndl.go.jp/pid/1116590/1/360
水俣病の話題も
医師との雑談では当時、新聞で話題になりはじめた水俣病の話題が上がります。
小谷医師「この奇病にかかった猫は、真っすぐ歩けないどころか、同じところをくるくると廻りつづけて、悶絶して死ぬそうです」
熊吾「ほう・・・・・・。猫と人間がかかる奇病。魚介類の豊富な港町・・・・・・。猫も魚には目がありませんけんのお」
下に引用させていただいた新聞のようにネズミが増えるという2次被害もあったようです。
小谷医師「私の友人は、水俣の海で獲れる魚介類に何が含まれているのかの分析を急ぐよう進言したんですが、それ以来、彼の身辺に偶然とは思えない事故が続いたんです・・・・・・研究室に石を投げ込まれたり、身も知らない酔っ払いに突き飛ばされたり、有力者に街から出ていくよう脅されたり」
また
小谷医師「猫が何か病気の原因を媒介しているのかもしれないから、とりあえず水俣周辺の猫をすべて殺すべきだと主張するものが出てきたそうです」
ここでは
「猫が原因ではありません」
と大声で机の上を叩く小谷医師の姿をイメージしてみましょう。
駄菓子屋の2階に下宿
大阪に戻った熊吾は周旋屋に相談して平華楼(熊吾の中華料理店)のあった船津橋のビルで寝泊まりしていました。家賃は無料でしたが電気も水道も通じておらず、さすがの熊吾も音を上げます。
そこで
「『福島の天神さん』の裏、小谷医院からは北へ七、八分歩いたところにある借家」
に移ることにしました。
借家は駄菓子屋をしている「峰山ふき」という寡婦の家の二階でした。
家を下見に出かけると、駄菓子屋店に来る子供たちの情報や性格などを熟知している峰山ふきは、以下のように声をかけていました。
「ときちゃん、十円あるんやったら、この飴買うんのは五円だけにして、あとの五円はこっちのアイスキャンディーにしとき。あんた、いっつもおんなじもんを二つ買うて、ひとつ落とすやろ?・・・・・・ゆきこちゃん、お腹痛いのん、治ったんか?えらいお腹こわしてるってお姉ちゃんから聞いて、うちのスルメが傷んでたんとちゃうやろかって、心配してたんやで」
出典:パブリックドメインR、街の子供 [図子正和, 月刊カメラ 1956年10月号より]
https://publicdomainr.net/gekkan-camera-october-1956-issue-0002217/
「男の子たちは、峰山駄菓子店の前で、土に釘を刺して陣地争いをする遊びに興じ、女の子はたちはゴム飛びをしていて」
など自由にふるまっています。
上に引用したように(こちらは薬局前のようですが)、駄菓子店の前でシャボン玉遊びをする子供たちもいたかもしれません。
久保敏松
「天の夜曲」の1章には、後に熊吾の片腕となる久保敏松について以下のように記述されています。
「エアー・ブローカーのなかにも、たちの悪い仲間とは一線を画して、妻子をなんとか養って行ければそれでいいと割り切り、良心的な商売を己に課す者もいないではなかった。そんなブローカーのひとりである久保敏松を熊吾に引き合わせてくれたのは丸尾千代麿で、運送業用のトラックだけでなく、最近、自分のためのシボレーの中古車も、その久保敏松の勧めによって買ったのだった。」
とのことです。
千代麿のシボレーの型式などは不明ですが、「六人乗り」と熊吾が言っているところから、下に引用した「ベルエア・コンバーチブル」のような大型車をイメージしておきましょう。
出典:PxHere
https://pxhere.com/ja/photo/1131711
「久保は熊吾とおない歳で、背が高く痩せていて、熊吾がもどかしくなって癇癪が起こりそうになるくらい口数が少なく、しかも喋り方は普通の人の倍近く遅いのだが、姑息な悪意というものとは無縁の男」
とあります。
出典:See page for author, Public domain, via Wikimedia、初代通天閣と新世界 Commonshttps://commons.wikimedia.org/wiki/File:Original_Tsutenkaku_and_Shinsekai_2.jpg
そんな久保が趣味としているのはアマチュア四段の腕前をもつ将棋です。彼は仕事帰りに「通天閣の近くの将棋道場」に立ち寄る習慣がありました。
大阪のシンボルとなっている通天閣の初代は上に引用したようにパリのエッフェル塔を模倣してつくられました。明治45年に完成しますが昭和18年に火災で焼失。「天の夜曲」の時代(~昭和31年9月)の1か月後、昭和31年10月に二代目通天閣(2024年現在の通天閣)が再建されます。
当時は通天閣下のジャンジャン横丁には多くの将棋クラブがあったということですが、下には市2024年6月30日まで営業を続けた「三桂クラブ」の写真を引用しました。
出典:pommes king from Go and shogi center Sankei Club in Ebisu-higashi, Naniwa, Osaka, CC BY 2.0 https://creativecommons.org/licenses/by/2.0, via Wikimedia Commons
https://commons.wikimedia.org/wiki/File:Go_and_shogi_center_by_pommes_king_in_Osaka.jpg
熊吾は将棋道場に電話をかけて久保を呼び出してもらいます。以下、「関西中古車業会」のメンバー集めに関する二人の会話を抜粋してみましょう。なお、この時点で「関西中古車業会」には十二社が参加する意思を示していました。
熊吾「高村商会は、その気になりよったか?」
久保「息子は乗り気ですけど、親父のほうが優柔不断で・・・・・・」
熊吾「佐野中古車センターは?」
久保「佐野さんは大乗り気です。十八社といわず十三社が集まったら、とにかく旗上げしょうやないかと・・・・・・」
熊吾「佐野さんの参入が決まると、合計で十三社になるのお。肚が決まらんところも、関西中古車業会が動きだして、結果を出すようになったら、自分から参加させてくれと頼んでくるじゃろう。・・・・・・」
急行雲仙で長崎へ
熊吾は火傷をした西条あけみのために、小谷医師から皮膚治療の専門医を紹介してもらいます。その医師は長崎で被爆者の皮膚の治療などに従事しているとのこと。熊吾は西条あけみに付き添って長崎に向かうことになります。
「大阪から長崎へは、急行雲仙という列車が走っている。その列車は昼の一時に東京駅を出て、その日の夜の十一時に大阪駅に着き、長崎には翌日の午後四時前に到着するのだった」
話が飛びますが、この3年前の昭和28年、内田百閒先生が東京駅から阿房列車を走らせています(第三阿房列車の風景1・参照)。長崎での滞在を満喫した後、八代の常宿「松浜軒」にも立ち寄る長旅でした。よろしければ、こちらもお楽しみください。
出典:パブリックドメインR、クラーク・ゲーブル [谷田貝高幸, 日本カメラ 1955年2月号より]
https://publicdomainr.net/nippon-camera-february-1955-issue-0001926/
列車に乗り込んだ熊吾が
「自分の着替えや洗面具を入れた鞄を真ん中の段の自分の寝台に置き、かぶっていたパナマ帽を取った」時、
西条あけみ(本名・森井博美)はこう言いました。
「帽子かぶっとき。よう似合うのに・・・・・・。クラーク・ゲーブルみたいや」
熊吾はこう返します。
「クラーク・ゲーブルかあ・・・・・・。前にもどこかで言われたことがある。アメリカの映画俳優じゃそうじゃが、喜劇役者やあるまいのお」
上に引用したのは昭和30年ごろのクラーク・ゲーブルの写真です。熊吾(宮本輝氏の父・熊市氏)の写真(流転の海の風景その1・参照)と見比べてみてください。
昭和三十一年八月二十日の暑い日、熊吾は大阪を立ちます。下には蒸気機関車がけん引する急行雲仙の雄姿(昭和46年)を引用させていただきました。
急行雲仙に揺られながら熊吾たちはそれぞれの思いに浸っていました。
熊吾は千代麿や久保が以下のことを見抜いていることを想像します。
「男気と責任感と同情心で、博美の火傷後の治療に手を貸すふりをしているが、大将、あの女に惚れてしまって、深い関係になるのは時間の問題だな」
また、博美は長崎に帰ったらロシア人墓地だけは行きたいと考えていました。
博美「そのお墓の人、私のひいおじいちゃんやねん」
旅行などの情報
趣味の店ホリイケ
熊吾が下宿した駄菓子屋は福島天満宮の裏にあったとのことです。梅田駅の周辺には現在も営業を続ける駄菓子屋さんがあります。こちらでは「趣味の店ホリイケ」さんという昭和時代創業のお店をご紹介しましょう。
レトロな店内には上に引用させていただいたように数十円単位のリーズナブルなお菓子が勢ぞろいしています。また、文房具や玩具などの品揃えが豊富にあるのも人気のポイントです。観光客も入りやすい雰囲気なので梅田周辺にお出かけの際は、ぜひ足を延ばしてみてください。
基本情報
【住所】大阪府大阪市北区中崎西1-9-11
【アクセス】梅田駅から徒歩約8分
【関連URL】https://www.tv-osaka.co.jp/ip4/tabi/onair/1260363_6111.html#spot-1260866
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