宮本輝「慈雨の音」の風景(その2)
ヨネの散骨
熊吾一家は遺灰を余部鉄橋から海に撒いてほしいという浦辺ヨネの遺言を実行するため、再び城崎に向かいました。熊吾夫妻と伸仁の三人は温泉宿に宿泊し、久しぶりに家族水入らずの時間を過ごします。また、戦前から親しくしている亀井周一郎との日帰り旅の途中、熊吾はある人物と久しぶりに再会し・・・・・・
再び城崎温泉へ
「六月最後の土曜日の、梅雨の合間の日の落ちる自分に、熊吾と房江と伸仁は城崎駅に着いた。蟹の季節はとうに終わったので、関西の人々には人気の温泉地とはいえ、うら寂しいほどに閑散としていることであろうと熊吾は予想していたが、同じ列車から降りた数組の団体客がプラットホームに列を作り、それを出迎えに来た宿の者たちや客引きも駅舎でひしめき合って、改札口を通り抜けるのに十分近くかかってしまった。」
出典:GDTさん.“昭和38年山陰本線城崎駅(城崎温泉駅)” X, Jan 5, 2022.
https://x.com/GoldTakeshi/status/1478608628529926149
上には昭和38年の城崎駅の写真を引用させていただきました。こちらは列車が到着してからしばらくたった後でしょうか?改札口の混雑はないようです。なお、右側の窓口には野菜や果物のようなものが置いてありますが、こちらで販売していたのでしょうか。
少年漫画が創刊
熊吾たちがヨネの遺骨のある麻衣子の家に向かう途中には、みやげもの屋や本屋が並んでいました。本屋に立ち止った伸仁は
「ことし日本で初めて創刊されたという週刊の漫画誌の表紙に見入っていた」
とあります。
下にはこの年の3月に発売された少年サンデーと少年マガジンの創刊号の表紙を引用させていただきます。
伸仁が買ってもらったのはどちらの漫画雑誌かは不明ですが、朝潮太郎(3代)さんはこの年の3月場所に優勝し、長島茂雄さんは伸仁たちが城崎に来る直前の6月25日に行われた天覧試合で逆転サヨナラホームランを放つ活躍をしており、いずれも人気急上昇中でした。
城崎のホテルで
「幅八メートルあるかないかの、温泉町の真ん中を真っすぐに静かに流れる大谿川が直角に方向を変えるところの少し手前に、麻衣子が予約してくれた今夜の宿があった」
大谿川の向きが大きく変わるところとは、上に引用させていただいたグーグルマップの中央部付近と思われます。
熊吾は
「案内されるまま二階の奥の、川に面した部屋に入ると、仲居にビールを運んでくれるように頼んだ」
とのこと。
房江は「大きな窓のところに置かれた籐製の椅子」に座り
「川と柳並木がよう見えるわ」
といってくつろいでいます。
一方の伸仁は
「さっき買ってもらった漫画週刊誌を読み始めた」
とあります。
上には城崎温泉・山本屋さんの公式インスタグラムから客室の写真を引用させていただきました。こちらの客室からは房江がいったような大谿川や柳並木の景色がきれいに見えます。
こちらの部屋に
「初めての親子三人での温泉旅行を楽しんでいる」
熊吾たちの姿を置いてみましょう。
余部鉄橋から
熊吾たちは次の日、余部鉄橋から散骨を行うため山陰本線に乗車しました。当初は列車の中から遺灰を撒くつもりでしたが、列車が鉄橋の上を走っている時間を麻衣子に尋ねると
麻衣子「三十秒くらいかなァ。渡り切るのに一分もかかれへんと思う」
とのこと。
熊吾「そんなせわしない散骨の儀式があるかや。列車の窓から物を投げ捨てるようなことができるか」
そこで熊吾は、この年(昭和34年)4月にできたばかりの余部(餘部)駅で降り、そこから鉄橋の上を歩いて散骨ができないかと考えます。
同じ列車にいた地元の老人によると、余部駅がなかった頃は
「余部集落の者たちは、険しい山道を登って線路のところまで行き、枕木を踏んで鉄橋を渡り、トンネルの中を歩いて鎧駅まで行かねばならなかった」
とのことです。下には昭和時代に余部鉄橋の上を歩く女学生の写真を引用させていただきました。
出典:GDTさん.“昭和38年山陰本線餘部鉄橋.” X, Jan 3, 2022.
https://x.com/GoldTakeshi/status/1477884623783088132
上の写真の女学生は普通に歩道を歩いているように見えますが、実はこちらの橋梁は高さが41.5mもあり、下に引用させていただいたようにスリル満点の場所でした。なお、第三阿房列車(第三阿房列車の風景その4・参照)にも余部鉄橋を通過するシーンがあり、百閒先生は「車窓から見た余部(あまるべ)の鉄橋の恐ろしさが後々まで悪夢のように忘れられない」と記しています。
(話を戻して)鉄橋の真ん中まで歩いていけるかという熊吾の質問に対し、地元の老人は
「行こうと思えば行けるが、たいていの人は脚がすくむであろう」
といって笑います。
出典:ヒョーゴアーカイブス、山陰西線余部鉄橋
https://web.pref.hyogo.lg.jp/archives/c611.html
いざ散骨となると、房江たちは度胸を決めて鉄橋を渡り始めますが、高所恐怖症の熊吾はなかなか決心がつかず、
「膝が笑うちょる。尻の穴がきゅーんとなっちょる」
といいながらゆっくりと歩を進めます。
やっと鉄橋の中央に到着した熊吾はヨネの骨壺に向かってこう言いました。
「えらいめに遭わせてくれたのお」
亀井周一郎との日帰り旅
カメイ機工社長の亀井周一郎は熊吾と戦前から親交があり、今は「関西中古車業連合会」を再結成するための貴重な協力者になっています。また、前回(慈雨の音の風景その1・参照)登場した「ヤカンのホンギ(熊吾とは蘭月ビルで知り合う)」がカメイ機工の警備員として働けるようになったのも彼の後押しがあったからでした。
会社を訪問した際に、経営に悩む亀井に対し熊吾はこう提案します。
熊吾「気分転換に散歩でもしませんか。ええ空気のところで樹木を見ながらぶらぶらと歩いちょるうちに、ええ考えが浮かぶかもしれません」
亀井の希望で琵琶湖に向かいますが、京都駅での乗り換えの際に時間的な余裕を考え、京都市内の静かな道を歩くことにしました。
「この道を東に歩けば銀閣寺だという四つ辻でタクシーを降り、熊吾と亀井は一乗寺の方向へと歩いた。・・・・・・道は詩仙堂のほうへゆるやかに右に曲がっていて、細い竹の棒の先に取り付けた布に『草餅』と染め抜いた旗だけが目印の小さな茶店があった。」
とのこと。熊吾たちが歩いたのは下に引用させていただいたようなルートだったかもしれません。
亀井は同じ道を使って詩仙堂や曼殊院などに何度も行っているが
「私はこの道で人とすれちがったことはほとんどありません」
といいます。
近年、白川通利周辺はおしゃれなお店が多いエリアとして人気がありますが、下に引用した文献によると昭和時代は「狐に化かされそうな」鄙びた場所だったことが推測できます。
この白川の里あたりは、すっかり開けて新しい家の建ちつづいた今日此頃でも、比叡の灯も見えないほど靄の深い晩などは、ここらに多い花畑の傍を通ったりすると、何處かにまだ狐に化かされそうな夢幻的な感じが残っている。昔狐狸の栖(すみか)だったことはたしかであって、直ぐ隣の一乗寺村には、霊験あらたかな不動明王を祀ってあるところに、狸谷という地名がある。この狸谷というのは、山中越えにかかる白川通を北へ折れて、瓜生山の山裾傳いに一乗寺村に入り、蕪村の墓や芭蕉庵のある金福寺の傍を通って、詩仙堂の前に出てからの山峡一帯のことで・・・・・・
出典:吉井勇 著『短歌歳時記』,大八洲出版,昭和21. 国立国会図書館デジタルコレクション https://dl.ndl.go.jp/pid/1128167 (参照 2024-08-29)
https://dl.ndl.go.jp/pid/1128167/1/29
下には熊吾たちが立ち寄ったと思われる詩仙堂の庭園の写真を引用させていただきました。
こちらのお座敷にゆったりと景色を眺める熊吾と亀井周一郎の姿を置いてみましょう。
出典:写真AC、京都府 詩仙堂 新緑
https://www.photo-ac.com/main/detail/3963287&title=%E4%BA%AC%E9%83%BD%E5%BA%9C+%E8%A9%A9%E4%BB%99%E5%A0%82+%E6%96%B0%E7%B7%91
観音寺のケンとの再会
亀井周一郎との日帰り旅の途中、熊吾が京都駅の改札口のほうへ向かっていくと、
「向こう側から歩いてくる風体の良くない一団に目を止めた。そのなかの兄貴分らしき男も熊吾を見ていた。三年前に別れたときとは髪型も変わり、かなり太ってはいたが、観音寺のケンに間違いはなかった」
とのこと。
下には昭和27年に完成した3代目京都駅の写真を引用させていただきました。
出典:『鉄道技術発達史』第2篇 第3,日本国有鉄道,1959. 国立国会図書館デジタルコレクション https://dl.ndl.go.jp/pid/2423737 (参照 2024-08-29、一部抜粋)
https://dl.ndl.go.jp/pid/2423737/1/517
なお、当時の京都駅では下に引用したように発券は全て窓口で行い、改札も自動化されていませんでした。改札口周辺ではカチカチという切符を切る音が響いていたことでしょう。
出典:『鉄道技術発達史』第2篇 第3,日本国有鉄道,1959. 国立国会図書館デジタルコレクション https://dl.ndl.go.jp/pid/2423737 (参照 2024-08-29、一部抜粋)
https://dl.ndl.go.jp/pid/2423737/1/529
観音寺のケン「大将、おひさしぶりです」
熊吾「お前の女房の面倒を見ると約束したのに、突然姿をくらませてのお。内緒でこっそり引っ越して行きよったけん、どうすることもでけんじゃった」
ケン「あいつが勝手にやりよったことです。ご心配かけてしもて、申し訳ないのはこっちのほうで・・・・・・俺は、もうこの世界でした生きていけまへん」
「熊吾は道を誤った出来の悪い息子とわずかな立ち話だけで永遠の訣別をする父親のような心持ちになった」
とのこと。海老原太一が熊吾の金を横領した証拠となる名刺を彼に託してこう言います。
熊吾「これは、わしからのはなむけじゃ。井草っちゅう男は、五十万円を返してもらわんまま死んだんじゃ。この名刺は、お前が好きなように使え、名刺の主は、強欲なコソ泥じゃ」
旅行などの情報
城崎温泉・山本屋
こちらの旅館は房江が窓から柳並木を眺めるシーンで引用させていただいただきました。窓からの景色もきれいですが「一の湯」や「柳湯」が50m以内の立地にあり気軽に外湯巡りが楽しめます。もちろん旅館内にも温泉があるので旅館内でのんびりと過ごすのもよいでしょう。記念日などには下に引用させていただいたような半露天風呂付の特別室をご利用になってはいかがでしょうか。
温泉に入ったあとは山本屋直営工場で生産される城崎ビール(4種類)をいただくのもおすすめです。夕食には地元や近海でとれる魚や但馬牛といった豪華な食材を取り入れた日本食のフルコースをご堪能ください。
基本情報
【住所】兵庫県豊岡市城崎町湯島643
【アクセス】JR城崎駅から徒歩約7分
【公式URL】https://www.kinosaki.com/
空の駅あまるべ(道の駅あまるべ)
ヨネの散骨のシーンで登場した余部鉄橋は平成22年にコンクリート橋に架け替えられましたが、橋脚の一部は保存され「空の駅」という観光施設になっています。線路や枕木などが残る余部鉄橋跡には、下に引用させていただいたような41mの高さから海を眺められるスポットもあり、熊吾と同様のスリルを味わえるでしょう。
また、隣接する道の駅・あまるべでは余部鉄橋の解説ビデオを放映し、鉄橋部品を使ったペーパーウェイトなどの鉄道グッズも販売。食堂ではエビやキスなどの天ぷらをメインとした「空の駅定食」やカニの身がたっぷり入った「余部鉄橋御膳」といった地元グルメを味わえます。
基本情報
【住所】兵庫県美方郡香美町香住区香住870-1
【アクセス】JR餘部駅から徒歩すぐ
【公式URL】https://michinoeki-amarube.com/
詩仙堂
熊吾が亀井周一郎との日帰り旅を楽しんだ場所です。この後、亀井が大病を患い、海老原太一に重大な出来事が起きることを考えると、熊吾にとって忘れられない一日となったのではないでしょうか。
江戸時代の文人・石川丈山が晩年を過ごした山荘跡で、チャールズ英国王が故ダイアナ元妃とともに訪れたことでも話題になりました。四方の壁に江戸時代の絵師・狩野探幽が描いた中国の三十六人の詩人の肖像画が掲げられているのが「詩仙堂」の名前の由来です。
庭園内には四季折々を彩る樹木が植えられ、熊吾が見たと思われる新緑のほか、上に引用させていただいた紅葉の景色も見事です。鹿おどしの音に耳を澄ませながら、ゆったりと過ごしてみてください。
基本情報
【住所】京都市左京区一乗寺門口町27番地
【アクセス】市バス一乗寺下り松町バス停から徒歩7分
【公式URL】https://kyoto-shisendo.net/