宮本輝「慈雨の音」の風景(その3)
中学一年の伸仁
「慈雨の音」の舞台となる昭和三十四年は五年後の東京オリンピック開催が決定し、競技場や道路などの建設ラッシュが始まった時期です。中学生になった伸仁は子犬のジンベエやヒナ鳩のクレオといった生き物の世話で忙しくしていました。その間、同級生が月村敏夫たちとの別離という悲しい出来事を経て、無事に中学一年を終了します。
子犬の名前はジンベエ
伸仁は亀井周一郎から譲り受けた「ムク」という犬を、シンエー・モータープールで飼っていました。ムクは六匹の子犬を生みますが、そのなかの一匹「ジンベエ」は両目の瞼があかず、犬猫病院で相談してもお手上げの状態でした。
なぜメスの犬に「ジンベエ」などという名前をつけたのかと房江の質問に
「テレビで観たジンベエザメからつけたのだと言った」
とのこと。
「ごっつうでかいサメやねん。五メーターくらいあんねんて。サメやけど、おとなしいねん。人間も襲えへんし。他の魚も食べへんねん。海中のプランクトンを食べるだけや。目が小そうて、どこにあるかわかれへん。そのサメと顔が似てるから、ジンベエて名前にしてん」
下にはそのジンベエザメの写真を引用しました。伸仁のいうとおり、体の大きさの割に小さい目をしています。
出典:Derek Keats from Johannesburg, South Africa, CC BY 2.0 https://creativecommons.org/licenses/by/2.0, via Wikimedia Commons
https://commons.wikimedia.org/wiki/File:Whale_shark,_Rhincodon_typus,_at_Daedalus_in_the_Egyptian_Red_Sea._(35827412321).jpg
ある日、房江がモータープールの正門近くの花壇に水を撒いていると、「何か強い怒りを秘めたような目で房江を睨みつけながら」佐古田がやってきます。
佐古田「これ、ノブちゃんに渡したれや」
房江「あの子、何かご迷惑なことでもしましたやろか」
佐古田「硼酸(ほうさん)や・・・・・・これをなァ、二十倍に薄めてなァ、脱脂綿に吸わせて、仔犬の瞼を拭くんや。一日に何回も気長にやってみィ、て言うとけや」
「グリースまみれの手を作業服になすりつけながら仕事場に戻って行く佐古田のハンガーのような肩を見ながら、房江は礼を言った」
とのことです。
夏休みが始まる!
「夏休みに入るとすぐに、伸仁に野球のグローブを買ってくれとせがまれて、房江は淀屋橋にあるスポーツ用品店に行った。家の近くの店では左利き用のグローブがなくて、註文して届くのに十日ほどかかると言われたからだった」
とあります。
当時の淀屋橋周辺で大手スポーツ用品店といえば、下に引用させていただいたインスタグラムの2枚目・右側にあるミズノ淀屋橋店(昭和30年頃の写真)だったかもしれません。2階が「オールスポーツ品」とあるので、こちらで伸仁はグローブを試着していたのではないでしょうか。
グローブを買った後、房江と伸仁は御堂橋筋を北に向かい、梅田新道交差点の南西角にある不二家パーラーに入ります。下に引用させていただいたのは昭和35年ごろの梅田新道の写真です。左に見えるのが富士銀行(現在の大阪駅前第三ビルのエリア)とのことですので、御堂筋の南側からの写真と思われます。ここでは手前に写っている女性を房江に見立て、左側にある(と思われる)不二家に向かうところをイメージしてみましょう。
佐古田のアドバイスに従い、伸仁は毎日、五度も六度も根気よくジンベエの瞼を拭き続けます。その執念のおかげでとうとうジンベエの瞼が開きますが、今度は伸仁の眼に危険な出来事が起きることに・・・・・・
伊勢湾台風の被害
「九月二十六日に紀伊半島の潮岬の西方に上陸した台風十五号は、伊勢湾台風と名付けられたが、日本の人々がその被害の大きさを正確に知ったのは、かなりあとになってからだった」。十一月最後の日に熊吾は移動中のバスや市電の中で「伊勢湾台風がなぜこれほど甚大な被害をもたらしたかを解説する新聞記事を読みふけった」とあります。
上には当時の新聞の写真を引用させていただきました。満潮時と重なったことや都市の人口の過密化などが原因との解説を読みながら、災害の写真に見入る熊吾の姿をイメージしてみましょう。
北への帰還事業の記事も
蘭月ビルで伸仁と仲の良かった月村兄妹は母の再婚相手とともに北朝鮮へ渡ることになっていました。「北朝鮮へ帰る人々を乗せた最初の船が出港するのは十二月十四日である」ことは分かっているが「帰還者たちには優先順位があるのか。」と、熊吾は新聞を隅々まで読みますが、情報は得られませんでした。
出典:See page for author, Public domain, via Wikimedia Commons
https://commons.wikimedia.org/wiki/File:Repatriation_of_Koreans_from_Japan_02.jpg
上に引用させていただいたのは最初の帰国船の写真です。話は少し先になりますが、こちらのどこかに月村敏夫と光子の兄弟がどちらかに乗っていると想像してみましょう。
帰還列車を見送り
十二月十四日の初便に乗るため、月村兄弟は十二月十日の夜に大阪駅から新潟まで移動することになります。警戒が厳重のため大阪駅での見送りは不可能と知った熊吾は、なんとか伸仁に友人の見送りをさせてやりたいと考えます。そこで思いついたのは、河川敷でライトアップした鯉のぼりを振り、それを淀川を渡る列車の中から見てもらおうという作戦です。
上には愛知県の半田運河で開催される鯉のぼり祭りの写真を引用させていただきました。夜の淀川河川敷での以下のシーンを想像してみます。
伸仁「もうじき来るでェ。あと二、三分や」
熊吾「鯉のぼりは伸仁が振れ。わしがそれを懐中電灯で照らすぞ。大きく思いっきり振るんじゃぞ」
房江「お父ちゃん、あれや。来た」
「伸仁が鯉のぼりを振った。美恵と正澄が鉄橋のほうへと駆けだした」
「列車がやって来て鉄橋を渡り始めた。ほぼ満員の車輛もあれば、空席だらけの車輛もあり、チョゴリを着た老婦人の顔も見えた。列車のなかにもアリランの大合唱があった。列車は、たちまち鉄橋を渡って、熊吾たちの視界から消えていった」
とのこと。
伸仁「どこにおったんかなァ。ぜんぜんわかれへんかった」
房江「うしろから三輌目の、前のほうの席に、光子ちゃんがいてたで。両手を窓ガラスに押し付けて、こっちを見てたで」
伸仁「鯉のぼり、見えたかなァ」
熊吾「見えたに決まっちょる。冬の暗がりのなかの鯉のぼりは、あいつらの心から消えんぞ。お前が振りつづけた鯉のぼりじゃ」
東京オリンピックの景気
昭和39年の東京オリンピック開催が決定したのは、昭和34年5月26日でした。下にはそのことを報じる5月27日付の新聞の写真を引用しました。
出典:English: Yomiuri Shimbun日本語:読売新聞, Public domain, via Wikimedia Commons
https://commons.wikimedia.org/wiki/File:Yomiuri_Shimbun_newspaper_clipping_(27_May_1959_issue).jpg
東京に所用があって出かけていた千代麿が、東京オリンピック決定後の東京の様子を語る場面があります。
千代麿「東京駅は、東北とか北陸とかから身一つで働きに来た農家の男が次から次へと改札口を出て行ってました。東京オリンピックが決まったのは、たった半年前やっちゅうのに、もうそのための突貫工事があちこちで始まってて、農閑期で仕事のない百姓の手が要りますねん。農家の働き盛りの男らの出稼ぎっちゅうのは、これまでもあったけど、オリンピックのお陰で大量動員です。それでもまだ人が足らんそうで。来年、再来年になったら、日本中から出稼ぎを集めなあかんようになるそうです」
出典:Copyright © National Land Image Information (Color Aerial Photographs), Ministry of Land, Infrastructure, Transport and Tourism, Attribution, via Wikimedia Commons
https://commons.wikimedia.org/wiki/File:Aerial_view_of_the_national_stadium.19630626.jpg
上に引用させていただいた旧国立競技場や国立代々木競技場、日本武道館といったメインの競技場のほか、首都高速道路や新幹線、東京モノレールといった交通インフラも整えられていくことになります。
鳩のひなを育てる
年が明けて昭和三十五年の三月、伸仁は鞄の中に「小さな桃色のボールのようなもの」を持って帰ってきます。房江が何かとたずねると「卵から孵って五日目の鳩の鄙」とのこと。伝書鳩を飼っている池内兄弟という友人からもらったといいます。名前は「クレオパトラ」にちなんで「クレオ」としました。
上に引用させていただいたのは生まれて数日の鳩のヒナの写真とのことです。ここではイネ科の穀物・マイロや七味唐辛子の原料ともなるオノミ(麻の実とも)などをすり鉢で砕き、耳かきで丁寧にエサやりをする伸仁の姿を想像してみましょう。
中学一年を無事終了
明日から春休みという日、伸仁は「房江が編んだ丸首のセーターに着替えて階段を駆け下りて」きて、友人たちのたまり場ともなっている西岡君の家に遊びに行こうとしました。西岡君の母からたびたび菓子をふるまわれていることを聞いていた房江は、お礼に持って行ってもらいたいものがあるといいます。
「梅田の百貨店に行った際にクッキーの詰め合わせを買ったのだ」とのことでした。
上に引用させていただいたのは1927年(昭和2年)に創業した泉屋さんのクッキー缶の写真です。中学の一年間が終了した充実感と明日から春休みという開放感に浸る伸仁が、こちらの詰め合わせを自転車かごに入れて漕いでいく姿をイメージしてみましょう。
教師からの手紙
伸仁は終業式に一年の成績表と教師からの手紙を持ち帰ります。
成績は
「一年間の成績は、四十八人中二十四番となっている。」
また、手紙には以下のようなことが書かれていました。
「集中力や持続力が足りない面があるが、本気で努力すれば成績は確実に上がるので、家庭でもその方向へと導いてくれ・・・・・・素行に問題はなく、正確も明かるく、他の生徒とのつきあいもうまくいっている。・・・・・・おもしろい冗談を言って教室に笑いを作りだすが、授業中にそれをやって、他の教師から叱責されることがある。」
上には当時流行っていた「崑ちゃんのとんま天狗」で流れた生CMの動画を引用させていただきました。伸仁も「姓はオロナイン名は軟膏」といって皆を笑わせていたかもしれません。
小学生の時(花の回廊の風景その4・参照)は
「とにかく、伸仁くんは、つまり要注意人物です。」
と教師から問題視されていましたが、中学校の教師は好意的な態度で接し、伸仁もまた教師を尊敬しているようでした。
旅行などの情報
半田運河の鯉のぼり
伸仁たちが月村兄弟を鯉のぼりで見送る場面で引用させていただいたイベントです。運河沿いに50匹を超える鯉のぼりが風にたなびく風景は壮観で、昼夜ともに楽しめます。
出典:名古屋太郎, CC BY-SA 3.0 https://creativecommons.org/licenses/by-sa/3.0, via Wikimedia Commons
https://commons.wikimedia.org/wiki/File:Warehouses_of_Mizkan_along_Handa_canal.jpg
こちらのエリアは江戸時代頃から酒や酢などの醸造業が盛んでした。今でも上に引用したような黒壁の蔵が多く残っているので散策も楽しめるでしょう。また、ミツカンミュージアムや國盛・酒の文化館(いずれも予約制)は楽しみながら歴史を学べる人気の博物館です。運河から少し足を延ばすと、カブトビールの製造工場として誕生した「半田赤レンガ建物」があり、復刻カブトビールとともに美味しい料理をいただけます。
基本情報
【住所】愛知県半田市中村町
【アクセス】JR半田駅から徒歩約5分
【参考URL】https://www.handa-kankou.com/
泉屋のクッキー缶
伸仁の友人へのお礼の品として引用させていただいたクッキー缶です。創業者夫妻がアメリカ人宣教師から教えてもらったクッキーのレシピをもとに、日本人の好みに合うように改良し完成させました。リングターツをはじめとしてココナッツクッキーやフルーツバーなど伝統的な14種類の味を楽しめます。
浮き輪のシンボルマークが付いた缶は昭和27年からと長い歴史があり、「慈雨の音」にも登場する「阪神百貨店うめだ本店」など全国のお店で取り扱っています。レトロ缶以外にも上に引用させていただいたような「ねこ缶」のようなバリエーションも増えていますので、詳細は公式SNSをチェックしてみてください。
基本情報
クッキー缶について(公式サイト):https://izumiya-tokyoten.co.jp/cookies/
店舗リスト:https://izumiya-tokyoten.co.jp/shop/