宮本輝「慈雨の音」の風景(その4最終回)
中古車販売店を開業
熊吾は「中古のハゴロモ」の開業に漕ぎつけますが、一方で持病の糖尿病が悪化し、治療のためにウォーキングを始めます!伸仁が手塩にかけて育てたクレオとの別れが訪れ、因縁の人物・海老原太一にもショッキングな出来事がありました。また、心霊スポットとの噂のあった「ハゴロモ」事務所で熊吾たちが見たものとは・・・・・・
クレオが飛べるように!
クレオ(パトラ)と名付けた白い鳩は(慈雨の音の風景その3・参照)、伸仁の世話により成鳥になりますが、飛ぶことや自分で餌をついばむことができません。
「親離れ、巣離れというものをさせなければ、この鳩はこれから先、永遠に狭い鳥籠のなかで、練り餌を人から与えられて生きつづけることになるのだ」
と熊吾から注意された伸仁は、鳩を籠から出して訓練します。
その結果、
「東は淀屋橋の少し向こうまで、西は船津橋あたり。南は靭公園周辺。北は大淀区の自分の学校近く」
と1~2km四方程度を飛べるようになります。
上にはクレオのような白い鳩の写真を引用させていただきました。
ここでは「戻ってきて物干し竿にとまったクレオの頭を指先で撫でて、オノミを十粒ほど掌にのせた」
という伸仁の姿をイメージしておきましょう。
シンエー・タクシー営業所の新人
「伸仁の新学年の始業式の日に、シンエー・タクシー福島西通り営業所は営業を開始し、新しく雇われた青年がやってきた」
彼の名前は神田三郎といい、房江の第一印象は以下のようでした。
「背が低く、髭の剃り跡が青々としていて、頭髪の薄さを見ると四十代半ばかと思えるが、まだ二十七歳だった。・・・・・・気弱そうな細い目をいつも足元に向けていて、誰かに話しかけられると白い肌を紅潮させて愛想よく応じるが、他人と交わることがいかにも苦手だという物腰は、なんとなく痛々しそうなものを感じさせた」
また
「経済的な事情で高校を卒業すると小さな食品会社の経理部に就職したが、大学に進んで会計士の資格を取るという夢を捨てられず、会社が退けたあと予備校には行かず、自分で受験勉強をつづけてきたのだ・・・・・・シンエー・タクシーの営業所での神田の仕事はいわば電話番なので、仕事の合間に受験勉強をしていてもいいという条件で、食品会社を辞めてきたという」
出典:数研出版公式サイト、1947「チャート式」復刊へ再出発
https://www.chart.co.jp/100th/history/
会計士を目指している神田三郎の志望校の受験科目には数学もあったと思われます。上には神田が使っていた参考書の候補として昭和20年代の数研出版の数学参考書の写真を引用させていただきました。通信教育でペン習字を習ってもなかなか上手にならない房江は、神田の字に対して以下のような感想を抱きます。
「いつ行っても、神田は参考書を机に置き、短い鉛筆を持って勉強していた。房江は、神田が参考書に書いた文字の小ささにいつも驚いてしまう。先を尖らせた鉛筆による文字は、虫眼鏡を使わないと読めないのではないかと思えるほどだが、一字とて乱雑に書きなぐったものはなく、どれも活版印刷のような字体だったのだ」
クレオとの別れ
「シンエー・タクシー福島西通り営業所」を取り仕切るようになった根岸平治は房江に対しこう言います。
「自分はシンエー・タクシーの常務だが、今月から正式にモータープールも担当するように社長に命じられた・・・・・・これからは、なんでも私にまず報告してもらいます。・・・・・・このモータープールの経営者は松坂さんとは違うっちゅうことを、この際、はっきりさせときましょう。私の管轄したになったかぎりは、ここの経営に関しては、私に逐一報告して、私の決裁なしで勝手なことはせんように」
そして、伸仁に対して以下のように言いました。
「犬は番犬になるけど、鳩は預かってる大事な自動車に糞を落とすだけや。きみはこのモータープールの誰に許可を得て、鳩を飼うてるんや・・・・・・鳩を飼うことは許可しません」
モータープールで鳩を飼うことを禁止された伸仁はクレオを外の世界に戻す決心をします。お別れの場所に選んだのはヨネの散骨を行った余部鉄橋でした。
出典:by Reggaeman, CC BY-SA 3.0 https://creativecommons.org/licenses/by-sa/3.0, via Wikimedia Commons
https://commons.wikimedia.org/wiki/File:Amarube_railway_bridge_05.JPG
上には旧橋梁を列車が通過する写真を引用しました(2007年頃)。写真の手前には余部(餘部)駅ホームがあります。ここでは、クレオが海側を飛び、列車が写真右側のトンネル方面に向かっているとして、以下の風景をイメージしてみましょう。
伸仁はクレオをかごから出して鉄橋から放つと、
「鉄橋から少し飛んだだけで駅のホームへと降り、それからしばらく羽根だけ動かしていたが、鳥取からの列車が入って来ると、海のほうへ飛んで行った。自分は慌ててその列車に乗り、日本海の向こうへと飛んで行くクレオが方向を変えて陸地のほうへと戻って来るのを車窓から目にしたが、すぐにトンネルに入ったので、それきり見えなくなった」
海老原太一が自殺
朝刊に目を通していた房江は社会面の見出しに驚きます。
「エビハラ通商社長の海老原太一氏が自殺」
熊吾はモータープールの正門で車の誘導に忙しい時間帯でしたが、房江は熊吾にその新聞記事を見せに行きます。伸仁に交通整理の代わりを頼んだ熊吾は急いで事務所に戻り、記事を熟読しました。
上には映画「流転の海」の番宣動画を引用させていただきました。最後のシーンで熊吾役の森重久弥さんにローストビーフを投げられているのが西郷輝彦さんが演じられた海老原太一です。
以下のような記事を見ながら、海老原太一とのさまざまな出来事を思い出していたのではないでしょうか。
「次期総選挙に出馬表面していたエビハラ通商社長・海老原太一氏が、十五日夜八時頃に宿泊先の道後温泉の旅館の部屋で首を吊っているのを女中が発見し、救急車が病院に搬送したがすでに死亡していた。・・・・・・いまのところ遺書はみつかっておらず、警察が動機を調べている」
また、何人かのコメントも書かれていました。
「自殺する理由などまったく思い浮かばない。」
「信じられない」
「三日前に神戸での宴席で食事をともにしたが意気軒昂だった」
熊吾の糖尿病が進行
熊吾が脚にできたおできを診察してもらったところ、それは糖尿病が進んでいるのが原因でこのまま放っておくと脚を切断しないといけなくなると警告されます。小谷医師からは以下のような生活習慣をつけることを強く勧められました。
「とにかく酒をやめて歩け。食後三十分たったら、靭公園まで歩き、公園を三周して歩いて帰れ。」
上に引用させていただいたのは1962年(昭和37年)の靭公園の写真です。ここではテニスの試合を遠くから眺めながら外周をウォーキングする熊吾の姿を置いてみましょう。
60年安保闘争の記事
「日米新安全保障条約の締結を強行に採決した政府に抗議するデモ隊が国会議事堂の構内に突入し、警官隊と衝突して、東京大学の女子学生が死亡したという記事は、どの新聞も一面で大きく報道していた」
とあります。
上には当時のデモの写真を引用させていただきました。熊吾はこちらのような写真を見ながら以下のようにつぶやきます。
「安保に反対して、どうしようっちゅうんじゃ。軍隊を持って、原爆や水爆を持とうっちゅうのか。それとも、完全に丸腰の国になって、ソ連の一部になろうっちゅうのか」
海老原太一を偲ぶ
熊吾はシンエー・タクシー社長の柳田と打ち合わせて地下鉄天王寺駅に戻る途中、ジャンジャン横丁に入っていきます。そこでは「雨で商売ができなくなった大道香具師たちが、商売道具をテント地の布で包んで、何軒も並ぶ串カツ屋の軒下で雨やどりしていた」とのことです。
上には昭和時代のジャンジャン横丁の写真を引用させていただきました。帰りの地下鉄の座席で、熊吾は「自分慕ってどこへ行くにも伴をしたがった若いころの太一」を思い出しながら語りかけます。
「生きちょったら、また何かの縁でお互いに心を通わせるようになって、ジャンジャン横丁の串カツ屋で立ったままコップ酒を飲みながら、大将、申し訳ありませんでした、いやいや、お前の晴れの日に人前で恥をかかせたわしが悪い、と言い合うて、ふたりで笑える日がきたかもしれんぞ」
誰のせい?
また、ジャンジャン横丁ではこのようなシーンもあります。
「それぞれ異なる流行歌が何曲もあちこちから響き、雨音と重なって、熊吾には群衆の怒号に聞こえたが、通天閣の下に来たときには、『こんな女に誰がした』という歌詞だけが鮮明に聞こえた」
とのこと。
こちらの歌詞は上にyoutube動画を引用させていただいた「星の流れに」という曲に出てくる歌詞です。映画の主題歌にもなった人気曲でしたが、太一の所業や死の原因が自分にあると責められているように感じた(?)熊吾は
「でめえでなったんじゃ」
とつぶやきます。
中古車のハゴロモ
熊吾は中古車販売にちょうどよい土地を鷺洲に見つけていましたが、敷金が高額のため二の足を踏んでいました。
「九州と四国で梅雨が明けたと気象庁が発表した日の午後、鷺洲の店舗とその横の土地の持主から電話があり、敷金を安くする代わりに、少し家賃を上げさせてもらうということで手を打とうと持ちかけて来た」
とのこと。熊吾はすぐに契約を結びます。
そして中古車店の名前は「中古車のハゴロモ」としました。最初は能の演目「井筒」を店名にしようとも考えますが、幽霊の話はゲンが悪いと考えなおし、縁起の良い話の「羽衣」に変更したとのことです。
上に引用させていただいたのは1961年(昭和36年)の自動車販売店の写真です。左下には中古車のハゴロモで初に売れた初代ブルーバードの姿も見られます。
購入者に試運転用のキーを渡し、購入する意思を伝えられたのは「中古車のハゴロモ」の留守番をしていた伸仁でした。
熊吾「そうか、売れたか。わしの店で最初に車を売ったのはお前じゃ」
ハゴロモは心霊スポット?
熊吾は旧知の看板屋に「中古車のハゴロモ」などと書いた目立つ看板を依頼します。
看板屋「サイズは、現場を見んと決められまへんで」
熊吾が店舗の場所を教えると
看板屋「えっ!隣はミシン屋で、その隣は洋服の仕立屋の、あの空き店舗でっか?・・・・・・あそこは、前はチョコレート屋でしたんや。菓子屋で売るチョコレートやおまへんねん。ケーキとかビスケットとかの表面に塗ったりするコーティング・チョコレートっちゅうやつで、わたいとおない歳くらいの男がひとりで作ってましたんや。電話番の女事務員をひとり置いてました。まだ二十二、三の、いやに背の高い女でしたけど、たぶん、ふたりはできてたんですな。その女、あそこで首を吊りましてん。男は機械ごと、どっかへ移って行きよって、それ以来、借り手があらわれんままになってましてん」
「中古車のハゴロモ」の場所については他の箇所で以下のような記述があります。
「店舗に面した広い通りに目をやった・・・・・・その道は、東は大阪駅の北口へ、西は国道二号線の海老江の大きな交差点へとつながっている」
「聖天通を西へ歩くと、少し広い道に出る。そこを渡って鷺洲商店街をさらに西へ行くと淀川大橋のほうから歌島橋のほうへとつながる大通りへと出て、もうそこから『中古車のハゴロモ』までは歩いて二、三分(満月の道の風景・その1参照)」
下には1961年から1969年頃の鷺洲周辺の空中写真を引用させていただきました。モデルとなっている場所は地図の中心にある十字のあたりと思われます。
出典:地理院地図、鷺洲付近、1961年~1969年
https://maps.gsi.go.jp/#17/34.696936/135.470821/&base=std&ls=std%7Cgazo4%7Cgazo3%7Cgazo2%7Cort_old10&blend=0000&disp=11111&lcd=ort_old10&vs=c1g1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f1&d=m
熊吾「幽霊でも出るっちゅうのか」
看板や「まあ、そういう噂もちらほらと」
熊吾「そんな落語みたいな話、本気で聞いてたまるか」
縁起をかついで付けた会社名に泥を塗られたような気がして不機嫌になる熊吾でした。
幽霊が出た?
昭和35年の9月ごろ、熊吾は伸仁とともに大江能楽堂で「井筒」を観たあと、伸仁と以下のような会話をします。
熊吾「夜、雨が降りだしたら、幽霊を見に行くぞ」
伸仁「えっ!ほんまに?」
熊吾「出よったら、とっつかまえて、もうどうかお許し下さいと泣いて謝るまで説教してやる」
伸仁「ぼくも行ってもええ?」
熊吾「度胸があるなら、ついて来い」
出典:Arthur Waley, Public domain, via Wikimedia Commons
https://commons.wikimedia.org/wiki/File:IZUTSU.jpg
熊吾「幽霊は丑三つ時と決まっとるんじゃ・・・・・・夜中の二時から二時半くらいじゃの」
伸仁「井筒の亡霊もその時間に、あの井戸のとこで昔を思い出してたん?」
熊吾「あの亡霊と、うらめしやァと出てくる幽霊とは、ぜんぜん意味が違う」
このような会話をしながら「中古車のハゴロモ」に到着すると、事務所には何故か仏事に用いる線香の匂いが漂っています。
熊吾「しとしと雨に、どこからともなく線香の煙・・・・・・。お膳立ては揃っちょるのお・・・・・・」
伸仁「そんな気色悪い言い方、せんといてェな。ぼく、やっぱり帰るわ」
「そのとき、あけてある窓の向こう側の、青桐のメモとあたりから、何か蒼白いものがふいにあらわれて・・・・・・」
旅行などの情報
大江能楽堂
観世流大江家5世又三郎(竹雪)氏が明治41年に創建した現存する最古の能楽堂です。2月・5月・9月・12月の4回の定期能が開催されています。三段の階段状の座敷で収容人数は約400名。自然な柔らかい光を利用した施設で幽玄の世界を堪能できます。
上には明治の面影を残す内部の写真を引用させていただきました。見学会なども実施されていますので詳細は公式サイトをチェックしてみてください。
基本情報
【住所】京都府京都市中京区押小路通柳馬場東入橘町646
【アクセス】地下鉄東西線・市役所前駅から徒歩約4分
【公式URL】https://www.asahi-net.or.jp/~tn4m-ooe/
靭(うつぼ)公園
熊吾が糖尿病の治療のためウォーキングをした場所として登場しました。昭和30年に飛行場跡を利用してつくられた公園で東京ドームおよそ2個分と大阪でも有数の規模があります。東園と西園があり東園には下に引用させていただいたようなバラ園やケヤキ並木といった散策スポット、西園はテニスコートを中心にしたエリアです。
出典:inoue-hiro, CC BY-SA 3.0 https://creativecommons.org/licenses/by-sa/3.0, via Wikimedia Commons
https://commons.wikimedia.org/wiki/File:UtsuboPark-RoseGarden01.jpg
東・西の外周は2kmほどありランニングコースとしても人気があります。また、外周にはおしゃれなカフェや雑貨店もあるのでデートスポットとしても活用できるでしょう。
基本情報
【住所】大阪市西区靭本町2-1-4
【アクセス】四つ橋線・本町駅から徒歩約5分
【参考URL】https://www.osakapark.osgf.or.jp/utsubo/