宮本輝「満月の道」の風景(その1)

中古車販売業は好調

流転の海シリーズ第七部の「満月の月」は昭和36年の秋から始まります。「中古車のハゴロモ」は売上を伸ばし、二号店を立ちあげるまでに!柳田元雄は「トヨタ・パブリカ大阪北」を開業し、モータープール内に修理工場と社員寮を併設しました。新たに登場するパブリカ新社員の水沼徳や、幽霊騒ぎを起こした木俣敬二といった魅力的な人物も追っていきましょう。

「中古車のハゴロモ」の従業員たち

「『中古車のハゴロモ』を大阪府福島区鷺洲に開業してからの一年三ヵ月のあいだに、松坂熊吾は、商品である中古車を展示する場所を十台分に増やしたが、さらに五、六台分の土地が必要だと考え、ふたりの社員に、早くこの近辺に見つけてくるようにと再度命じた」

ハゴロモの立ち上げ時(慈雨の音の風景その4・参照)、熊吾はまだ一人で店をやりくりしていましたが、
「わずか一年ほどで常時八台の中古車を右から左へと売る商いにひろげて、人もふたり雇わなければならなくなり、当初のもくろみの五倍の収入が月々入るようになった」
とのこと。新たに二人の社員を雇っていました。

ひとりは
「十一月の寒風のなかで売り物の車体を洗っている佐田雄二郎はまだ二十二歳で、エアー・ブローカーの関京三の紹介で、ことしの二月にハゴロモの社員となり、先月やっと運転免許を取得したばかりだった」

また、もうひとりは
「事務職として雇った玉木則之は四十五歳で、戦地の満州で右膝に大怪我を負い、敗戦の三ヵ月前に兵役免除となって帰国してから郷里の広島で療養中に原子爆弾の被害者となった。・・・・・・ネフローゼという腎臓の病気にかかって、早朝からの労働が困難となり、簿記の学校に通って二級の資格を取ったころ、ハゴロモの事務所に貼られた事務員募集の紙を見て入ってきた。」

新しい営業所の候補となったのは伸仁の通う関西大倉学園の北に十分くらい北へ行った場所とのこと。下に引用した地図(右下に大倉高校)のなかで、マネキン工場跡は右上の方にあった思われます。

出典:『路線価設定地域図』昭和36年分 3の1,大阪国税局. 国立国会図書館デジタルコレクション https://dl.ndl.go.jp/pid/1697899 (参照 2024-09-07、一部抜粋)
https://dl.ndl.go.jp/pid/1697899/1/246

脚の怪我の後遺症で歩行速度が遅い玉木でしたが、打ち合わせなどに熊吾は常に彼を同行させます。
「若くて元気な佐田雄二郎を同行させればいいのだが、佐田はあまりにも機転がきかない。思慮も浅く、ハゴロモでの仕事をほんの腰掛けとしか考えていないふしが感じられて、熊吾は、大事なことはまかせられない人物だと割り切ってしまっていた。」

40年間お待たせしました

熊吾が辰巳というシンエー・タクシーの運転手から生理用ナプキンの購入を依頼される場面があります。
新聞を渡され
「その大きな広告で宣伝しているものを買って来てくれと娘に頼まれた。薬局があるとそこで車を停めようと思うのだが、どうにも買いにくい。そこに薬局がある。この広告の商品を買ってきてはくれないか。」
とのこと。

熊吾が新聞を広げると
「『40年間お待たせしました!』というキャッチフレーズの横に長方形の箱の写真があった。」
とあります。
下には雑誌に掲載されたアンネナプキンの広告の写真を引用させていただきました。

熊吾「なんでわしがお前の代わりに買うのか?なんでわしに白羽の矢を立てたんじゃ。わしも恥しいぞ。娘さんが自分で買うたらええじゃろう」
辰巳「娘、ノブちゃんとおんなじ中三でして、恥しいんですやろ。母親がおったら、買いに行ってくれるんやけど、去年の夏に亡くしまして、親ひとり子ひとりになってしもて・・・・・・。このアンネっちゅうのん、きょう全国一斉発売ですねん・・・・・・松坂の大将がその顔で、アンネ一箱くれっちゅうたら迫力おまっせ」

辰巳の頭を小突いた後、熊吾は薬局に入ってこう言います。
「40年間お待たせしました、っちゅうのを一箱くれ」

森井博美と再会

「この十日間ほどは聖天通りを通ったのだが、商店と商店に挟まれた小さな二階建ての窓辺に三歳くらいの女の子がいて、熊吾を見ると笑いかけてくる。」

下には現在も昭和の雰囲気を残す聖天通りのストリートビューを引用させていただきました。

以下には熊吾と女の子との会話を抜粋してみましょう。
熊吾「お嬢ちゃんは、いつもここで何をしちょるのかのお」
はにかむ女の子に名前を訊くと、すうちゃんとのこと
熊吾「わしはクマじゃ・・・・・・松野すうちゃんか。きれいな目をしちょる。千両まなこっちゅうやつじゃ。すうちゃんは正しくは何というんじゃ?すで始まるけん、すみこさんかな?・・・・・・」

そのような会話をしていると、男女が口論をしながら後ろを通り過ぎていきます。女性のほうの後ろ姿はミュージック・ホールのダンサーだった西条あけみ(本名・森井博美)にそっくりでした。

トヨタ・パブリカの販売店を併設

シンエー・タクシー社長の柳田は、(熊吾が管理人をまかされている)シンエー・モータープールから五分の場所に新しく「トヨタ・パブリカ大阪北」を開業し、それに伴いモータープール内に社員寮と修理工場を併設します。

上にはトヨタ・パブリカのポスターを引用させていただきました。「パブリカ」とはパブリックカーの略語で、若い家族にも手の届く価格帯のトヨタ初の大衆車でした。

木俣敬二

ここでは前回(慈雨の音の風景その4・参照)の幽霊騒ぎの種明かしを行い、幽霊の正体(?)だった木俣敬二についても紹介しておきましょう。
当日の夜、幽霊が出るという噂のあった「中古車のハゴロモ」の事務所で熊吾と伸仁が肝試しをしていたところ、
「そのとき、あけてある窓の向こう側の、青桐のメモとあたりから、何か蒼白いものがふいにあらわれて・・・・・・」
というところから続けましょう。

突然
「えらい、すんまへん」
という声が聞こえると、驚きのあまり熊吾は叫び声をあげ、伸仁は床にずりおちてしまいます。

声の主は木俣敬二といい、ハゴロモの移転前にあったチョコレートコーティング工場の経営者でした。不倫関係となった事務員の彼女が妊娠。子供をおろして別れてくれと頼むと彼女は首を吊ってしまいます。木俣はその場所に彼女が好きだった青桐の木を植えたとのことです。

出典:写真AC、青い幹のアオギリ
https://www.photo-ac.com/main/detail/29793389&title=%E9%9D%92%E3%81%84%E5%B9%B9%E3%81%AE%E3%82%A2%E3%82%AA%E3%82%AE%E3%83%AA

上には青桐の木の写真を引用しました。ここではハゴロモ事務所の裏にある青桐の前に線香を供え、お祈りしている木俣の姿をイメージしておきましょう。

手土産はモロゾフのチョコレート

それ以来、「キマタ製菓」社長の木俣敬二は月に一度ハゴロモを訪ね、お墓参りをするようになりました。下にはハゴロモでの熊吾たちの会話を抜粋します。
熊吾「また来やがった。おい、佐田、そこの青桐を引っこ抜いてしまえ。あの木があるかぎり、あいつの月にいちどの墓参りは永遠につづくぞ」
木俣「またお邪魔させていただきます」
熊吾「お邪魔もお邪魔も、お前くらい邪魔なやつはおらん。わしは今夜にでも、あの青桐を引っこ抜くことに決めたぞ。こんどこそ本気じゃ」
木俣「そんなえげつないことをしはる人やおまへん。私は、松坂熊吾というお方をよう存知あげています」
熊吾「なんで、お前がわしのことをよう存知あげとるんじゃ。糖尿病のわしにこんな甘いチョコレートを持って来るやつが、わしのことをよう存知あげちょるんなら、それはわしの命をじわじわと縮めようっちゅう策略じゃ」
木俣「まあ、大将のお相手は、恒例の墓参りをしてからということで」
熊吾「誰が相手をしてくれと頼んだ。何が『恒例の』じゃ。お前がいつの間にか勝手に恒例にしてしもうたんじゃ」

「言っているうちに熊吾もおかしくなってきて、言葉に笑いが混じってしまった。玉木も笑いをこらえることで指が震えるらしく、算盤を弾くのをやめた」
とあります。

手土産として持ってきたのは自社製のチョコレートでなく「モロゾフ」製でした。現在でも人気の高い菓子ブランド・モロゾフは、同名のロシア人が1931年に神戸で創業しています。

上には昭和初期のモロゾフのチョコレート缶の画像を引用させていただきました。熊吾は「モロゾフ」というロシア人創業者の名前から、直前に偶然見かけた森井博美(天の夜曲の風景その5・参照)の曽祖父・マカール・サモイロフというロシア人の名前を連想し、博美に付き添って長崎にいった時のことを思い出します。

集団就職の学生たち

「トヨタ・パブリカ大阪北」の水沼徳(トクちゃん)は伸仁の一つ年上で「能登の農家から・・・・・・大阪に出てきた」とのこと。
「夢を抱いて列車に乗ったかもしれんが、大阪駅に着いて、あのパブリカ大阪北の修理工場の二階の寮に入った途端に、そんな夢なんか吹っ飛んでいったことじゃろう」
と熊吾が伸仁にいいます。

上には1960年の集団就職の動画を引用させていただきました。なお、1960年代の離職率は20%以上あり、熊吾のいうように夢と現実の違いが大きかったようです。

トクちゃんの夢

京都の能楽堂で伸仁に「羽衣」を観せた日に知り合った螺鈿工芸師「守屋忠臣」から連絡があり、琵琶の弾き語りによる「平家物語」に招待されました。日にちは十二月二十四日(日)とのこと。柔道の稽古もなく日曜なので伸仁を無理にでも連れて行こうとします。

下には平家物語・祇園精舎の動画を引用させていただきました。

熊吾「これは命令じゃ。二十四日の日曜日は、何があろうと平家物語の弾き語りを聴きに行くぞ」
伸仁「二十四日はトクちゃんと映画を観にいくねん。お母ちゃんが、トクちゃんと一緒に行っといでってお金をくれてん。トクちゃん、もうすごう喜んで、夜、寝られへんくらい楽しみにしてるねん」
熊吾「トクちゃんもつれていってやる。一生で何度も観れるもんじゃあらせんぞ。映画なんて、いつでも観れる。その代わり、帰りにトクちゃんにもうまいすき焼きをご馳走してやる」

この日、熊吾や伸仁も楽しい時間を過ごしましたが、トクちゃんは人生を左右してしまうような体験をしました。すき焼きを食べたあと、守屋忠臣の家で螺鈿細工を見せてもらいます。伸仁は
「琵琶や硯箱や帯留に施されている螺鈿細工の美しさにびっくりした」
とのことですが
「トクちゃんはぼくの何倍も夢中になってしまって、守屋さんが製作中の箪笥に顔をすりつけるようにして見入って、いつまでもそこから離れなかった。」
とあります。

下には正倉院「螺鈿紫檀五絃琵琶」のレプリカの写真を引用させていただきました。伸仁たちが見た螺鈿工芸もこちらの作品のように輝いていたのではないでしょうか。

トクちゃんは年明けに再度、守屋忠臣に会うため一人で京都に向かいました。以下はトクちゃんから京都に行った目的を聞いた伸仁が房江と交わした会話の抜粋です。

伸仁「トクちゃん、螺鈿工芸師になりとうて、守屋さんのとこで働かせてほしいって頼みに行ったんやてェ」
房江「へえ、自動車修理工になるのを辞めてか?」
伸仁「うん。仕事をしてても、守屋さんとこで見た箪笥とか重箱とか琵琶とかが頭に浮かんで、どうにもなれへんねんてェ」
房江「つまり、守屋忠臣ていう人間国宝の螺鈿工芸師に弟子入りしたいってことか・・・・・・守屋さんはトクちゃんにどう言いはったんや?」
伸仁「自動車修理の勉強に励んで、いなかのご両親に早うらくをさせてあげなさい、って。うちは十年間は無給や。一銭の給料も払わん。あんたの毎月の給料の半分、三千円を、能登のご両親がどれほどあてになさっているかをよく考えてみなさい、って。その守屋さんの言葉で、風船がシューッと音を立ててしぼんだような気がしたって、トクちゃんがバスのなかで言うてたわ」

麻衣子が母親に!

年末に千代麿の家に麻衣子から電話があり、その年の5月に女の子を出産したとの報告を受けました。麻衣子の親代わりを自負する熊吾は伸仁にこう言います。
熊吾「娘の父親は誰か。これからどうするつもりなのか。これだけは正直に言うてくれと、麻衣子にこのわしの伝言を伝えるんじゃぞ」
伸仁「何にも喋れへんかったらどうすんのん?」
熊吾「麻衣子は、お前になら、自分の考えを正直に言う・・・・・・これまでも、わしに直接言えんことは、お前に言うっちゅう作戦を使うてきよった」

房江「城崎は、やっぱり雪やったんやろ?」
伸仁「雪どころやあれへん。吹雪や。一メートルくらい積もってたでェ。駅から麻衣子ちゃんの家までの道、もの凄い風で、こごえ死ぬかと思たわ」
上には近年の雪の城崎温泉の写真を引用させていただきました。伸仁もこのような景色を見ていたかもしれません。

次の日の朝、伸仁は麻衣子の現状を以下のようにまとめます。
「男は和田山の大きな家具屋の次男だが、訳があって結婚を機に城崎で暮らすようになり、前回の選挙で町会議員になった・・・・・・麻衣子が妊娠したころに、家業を継いでいた兄が病気で死んだ。麻衣子とのことは城崎どころか、和田山の街でも知られていたので、本人は次の選挙では落選すると見切りをつけ、兄に代わって家業を継ぐことにして一家で実家に戻った。男は栄子(麻衣子の娘)が十八歳になるまで毎月養育費を払うという念書を、自分の父親を保証人として書いた」
そして、そのお金を資金にして
「もういちど『ちよ熊』をやってみようと決めた」
とのことでした。

ペン習字の全課程終了を祝う

房江にペン習字の終了証書が届いた日、自分へのお祝いをしようと思い立ちます。そしてちょうど学校から帰って来た伸仁をお供に老舗の鰻屋で食事をしたあと、数年前の外国映画を上映している映画館に入りました。

「三本立ての洋画のうちの一本が終わりかけていた。どこの国なのかわからない平原のなかのいなか道を、荷車に人間や家財道具を満載して進んでいるシーンがスクリーンに映し出されていた。その荷車の前にも後にも、さまざまな楽器が大きな旗を持った人々が、なんだか楽しそうに歩いている」とあります。

出典:Unknown 1938, Public domain, via Wikimedia Commons
https://commons.wikimedia.org/wiki/File:Gypsy_family_with_varda_wagon_on_Epsom_Downs_1938.JPG

上にはロマ族(ジプシー)の家族の写真を引用させていただきました。房江が見た映画の登場人物もこちらのようなおだやかな顔をしていたでしょうか?

ここでは
「私も、あの行進に入れてもらって、暖かそうな日差しの大平原をにぎやかに歩いてみたい」
と思いながら最後のシーンを見る房江の姿をイメージしてみましょう。

カレーの日

「パブリカ大阪北の社員食堂の賄い婦がつくるものも、柳田商会のそれも五十歩百歩で、空腹だからなんとか食べられる代物で、少ない予算をやりくりして、少しでも若い者たちが喜びそうなものを作ってやろうという工夫の跡などどこにも感じられない」

そこで房江は土曜日はカレーの日と決めて、若い社員にお腹いっぱい食べさせてやろうとします。

菓子だけでなく食品分野への展開を、創業時から長期構想として抱いていた江崎利一は、1958年に加工食品分野への進出を決断。多数の商品を開発するなかで長く中核商品となったのがワンタッチカレーです。主婦の声を反映して、板チョコ技術を応用した削らなくても素早く溶けるルーを開発、即席カレー市場拡大の一翼を担いました。

出典:グリコ公式サイト、協同一致 Glicoグループ100年史 発刊記念サイト、カレー商品https://www.glico.com/jp/100th_history_contents/highlight/product/011.html

上には昭和30年に発売されたグリコ・ワンタッチカレーの説明や広告を引用させていただきます。板チョコのようなブロック構造になったため、従来に比べて量の調整が簡単になりました。

ここでは
「牛肉のすね肉を柔らかく煮るには時間がかかる。じゃが芋を鍋に入れるのは、すね肉が柔らかくなってからだ。」
などと考えながら、本格的なカレーをつくっているところを想像してみましょう。

旅行などの情報

「ああ上野駅」歌碑

トクちゃんは集団就職で大阪駅にやってきますが、東北方面から東京エリアに就職する人たちの集合場所は上野駅でした。集団就職列車は1975年(昭和50年)まで運行され日本の高度経済成長を支えます。

上野駅の広小路口には上に引用させていただいたような歌碑が建てられています。集団就職列車のレリーフや銘板の歌詞から上京してきた若者たちの様子を想像してみてください。ほかにもエキュート上野のパンダ壁画など駅周辺の新しい名所も巡ってみてはいかがでしょうか。

基本情報

【住所】東京都台東区上野 7-1-1(上野駅)
【アクセス】上野広小路口からすぐ
【参考URL】https://t-navi.city.taito.lg.jp/spot/1109

モロゾフのお菓子

木俣敬二がお土産に持ってきたチョコレートの製造元「モロゾフ」は、神戸に本店を置く有名な洋菓子メーカーです。チョコレートの定番は「フェイバリット」で、下に引用させていただいたように形・味・香りなどが異なるチョコを少しずつ味わうことができます。

カスタードプリンは優しくなめらかな味わいが評判のロングセラーです。また、アルカディアやオデットといった伝統のクッキーも手土産として人気があります。

基本情報

【公式URL】https://www.morozoff.co.jp/
【店舗情報】https://www.morozoff.co.jp/shop