宮本輝「野の春」の風景(その2)
明彦の結婚・タネの引っ越し
昭和41年の夏、房江は淡路島の民宿へ、伸仁は白馬岳でテニス合宿とそれぞれのお盆休みを満喫。熊吾の妹・タネの息子・明彦が結婚することになり、熊吾と房江は仲人を依頼されます。そして、タネは蘭月ビル(花の回廊の風景その1・参照)を出て、大阪府大東市にある明彦の新居の近くに引っ越すことになりました。今回はその引っ越し前後の風景を追っていきましょう。
お盆休みは淡路島で
房江は
「盆休みに有給休暇を足して六日間の休みを取り、多幸クラブが借りた淡路島の民宿で二泊三日を」過ごしました。「新鮮な鯵と鯛の刺身。鱧の天麩羅」を食べ「松林の向こうの浜辺からの風は涼しくて、二日間とも長い昼寝をした」とあります。
上に引用させていただいたのは昭和時代の淡路島・洲本の旅館のパンフレットです。ここではパンフレットの写真のような開放的な部屋から海を眺める房江の姿をイメージしてみます。
伸仁がテニス合宿から帰宅
一方、「信州の白馬岳の麓」でのテニス部の合宿から帰ってきた伸仁は「日に焼けて全身が牛蒡のようになっている」とのこと。「今朝は七時前の大糸線に乗るために五時に起きたので眠い」「大糸線も、松本からの電車も、名古屋からのも、どれも満員で一度も坐ることができなかった」といいます。
上には昭和43年の10月に「白馬駅」となった大糸線「信濃四ツ谷駅」の写真を引用させていただきました。白馬岳の最寄り駅なので、伸仁もこちらの駅を利用したのではないでしょうか?ここでは、伸仁が朝七時前に、眠そうな目をこすりながら駅に入って行く姿をイメージしてみましょう。
充実したお盆休み
房江は夏休みの「残りの三日間を使って溜まっている衣服の洗濯やらモータープールの掃除やらを片付けた」
とのこと。伸仁がテニス合宿から帰ってくると、「アメリカの連続テレビドラマを観ながら」二人ですき焼きを食べました。
下には当時の海外ドラマの例として1966年2月から火曜日21:30から放送されていた「奥様は魔女」の特別映像を引用させていただきました。
休みの最後の日にはカレンダーに書かれている献立を確認します。
「あしたは昭和四十一年の八月十九日。金曜日だ。昼の献立はちらし寿司とワカメの味噌汁。夜は缶詰の鯖の味噌煮と豆腐の煮物。ほうれん草のおひたし。大根の味噌汁」
そして、充実したお盆休暇を過ごした房江は「さあ働こう」と自分に気合を入れました。
明彦の結婚式
「国道二号線沿いにある尼崎市民会館で松坂明彦と北野喜代美の結婚式の仲人を務めると、同じ会場内にある貸衣装やで房江は留袖の着物を、熊吾は燕尾服を返して、普段着に着替えた。」
とあります。
文化会館の敷地面積は4,959㎡、本館は3階建て、別館は2階建て、延べ床面積は2,849㎡であり、このなかに1,500人収容のホールや展示室・会議室・結婚式場などが備えられていました。
出典:レファレンス協同データベース、尼崎市文化会館とはどのような施設か、また内部の様子が分かる資料はあるか。
https://crd.ndl.go.jp/reference/entry/index.php?id=1000235079&page=ref_view
「尼崎市民会館」という施設は見つけられませんでしたが、現在、「尼崎市総合文化センター」が建っている場所にはその前身の「尼崎市文化会館」という施設があり、「新生殿」という結婚式場を備えていました。こちらが「尼崎市民会館」のモデルかもしれません。
出典: Web版尼崎地域史事典『apedia』、尼崎市文化会館
https://www.archives.city.amagasaki.hyogo.jp/apedia/index.php?key=%E5%B0%BC%E5%B4%8E%E5%B8%82%E6%96%87%E5%8C%96%E4%BC%9A%E9%A4%A8
上には「尼崎市文化会館」の全景写真を引用させていただきました。こちらの広場に「新婦側の家族や親戚たちと挨拶を交わして別れる」熊吾たちの姿を置いてみましょう。なお、熊吾は明彦のお相手の北野喜代美の親族について以下のように言っています。
「あんなお堅い一家やとは思わんかったけん緊張したぞ。親戚縁者も石部金吉ばっかりじゃ。揃いも揃ってあんなに無口な一族も珍しい」
また、
「今夜の夜行で九州へ新婚旅行に旅立つ新郎新婦は列車に間に合わせるために慌ただしく貸衣装屋から出て行った。大阪駅には明彦の同僚が車で送ってくれる」
とのこと。
出典:宮崎県季刊誌「Jaja」公式サイト、あの頃、みんな宮崎をめざした,フェニックスハネムーンの時代
https://www.pref.miyazaki.lg.jp/contents/org/shoko/appeal/jaja/20_08.html
当時の九州、特に宮崎は新婚旅行のメッカとなっていました。明彦たちも上に引用させていただいたような専用バスを利用して観光を楽しんでいたかもしれません。
蘭月ビルにて
蘭月ビルでは、タネと別れて妻や子供と一緒に暮らしている寺田権次が待っていました。
寺田「明彦にお祝いを渡そう思うてなあ。なんや、そのまま新婚旅行に行ってしもたんかいな。花嫁さんの顔をひとめみたかったなあ」
「背中から二の腕にかけて彫り物を入れたならず者崩れ」と自分のことをいう脂ぎった雰囲気の寺田でしたが、病気に侵されて「顔や手が腫れぼったくて、体の動きも重そうだった」
とのこと。
彼は房江に対し、以下のように言い残して家に帰って行きます。
「ねえさん、わしもそろそろ年貢の納め時が近づいて来よりましたで。自分でちゃんとわかりまんねん。象みたいなもんですなあ。死期を悟ってぽつんと一頭だけで姿を消してしまいよる。わしは象ほどでかい人間やなかったし、この世に何にも残しまへんでしたけど、息子を一人前の大工に育てました。わしみたいな人間には、もうそれだけで立派なもんでっしゃろ」
出典:Web版『図説尼崎の歴史』、昭和27年頃の杭瀬市場、阪神国道(国道2号)より市場入り口を望む(杉本昭典氏提供写真)
https://www.archives.city.amagasaki.hyogo.jp/chronicles/visual/05gendai/gendai1-8.html
上には寺田の家のあった杭瀬付近の昭和27年の写真を引用させていただきます。
おぼつかない足取りで帰途につく寺田の姿を心配して、房江は熊吾に付き添ってもらうことにしました。国道二号線を歩きながら、熊吾と寺田は蘭月ビルでの想い出話でもしていたでしょうか。
片町線の思い出
11月の初旬にはタネと娘の千佐子が大東市にあるアパートに引っ越すことになり、房江や伸仁も手伝うことになります。蘭月荘から大東市までは伸仁がトラックで荷物を運び、房江たちは電車で移動しました。
タネのアパートの場所については以下のように記述されています。
「阪神尼崎から梅田に行き、そこから国鉄環状線の外回りというのに乗る。天満、桜の宮、そして京橋。その京橋駅で別のホームの片町線に乗り換える。大阪の東のほうへまっすぐに奈良との境までいく電車だ。・・・・・・京橋から住道までは三十分くらい。駅前の商店街を抜けて、田圃や畑のある地域を行くと踏切がある。それを渡り、さらに生駒山のほうへ歩くと小さな新興住宅地がある。アパートはそのなかだ。住道駅からアパートまでは歩いて二十分くらい。・・・・・・」
出典:大阪府大東市の昔写真アルバム、野崎まいりは屋形船で
https://mukashishashin.com/2023/12/30/%E9%87%8E%E5%B4%8E%E3%81%BE%E3%81%84%E3%82%8A%E3%81%AF%E5%B1%8B%E5%BD%A2%E8%88%B9%E3%81%A7/
片町線が野崎駅にも停車することを知り、熊吾との結婚直後、松坂商会の社員たちと松茸狩りに行った時に降りた駅が野崎駅だったことを思い出します。
「松茸山の手前にきれいな川が流れていて、笠をかぶって揃いの法被を着た船頭たちが遊覧を楽しむ客に『野崎小唄』を聴かせながら棹を操っていた・・・・・・井草正之助もいた。海老原太一もいた。河内モーターの河内善助夫妻も一緒だった。・・・・・・」
なお、熊吾は別のシーンでこのイベントのことを下のように語っていました。
「戦前、秋になると野崎の観音さん詣でと称して、あの近くの松茸山で松茸狩りをしたもんじゃ(新潮文庫版・P44)」
上には大東市ができた昭和31年ごろに開催された、屋形船での「野崎まいり」を再現したイベントの写真を引用させていただきました。井草や海老原は熊吾を裏切ることになりますが、それは後の話です(流転の海の風景その4・参照)。こちらの写真を昭和17年頃の松坂商会の社員旅行の写真に見立て、好きな俳句を詠む井草や、熊吾に「大将、大将」といってついてまわる海老原の姿を置いてみます。
昭和の住道駅前
「駅前には商店街が東へとつづいていた。引っ越し作業がすべて終わるのは夕方になるだろう。みんなお腹が減っているにちがいない。肉を買って行って、みんなですき焼き鍋を囲みたい。」
出典:大阪府大東市の昔写真アルバム、変りゆく住道駅周辺昭和50年10月-2
https://mukashishashin.com/2023/12/31/%e5%a4%89%e3%82%8a%e3%82%86%e3%81%8f%e4%bd%8f%e9%81%93%e9%a7%85%e5%91%a8%e8%be%ba%e6%98%ad%e5%92%8c50%e5%b9%b410%e6%9c%88-2/
上には昭和時代のにぎやかな住道駅前の写真を引用させていただきました。こちらの写真から「すき焼き用の牛肉、焼き豆腐、白菜、ねぎ、糸こんにゃく、椎茸」を探しながら商店街で買い物を楽しむ房江の姿を想像してみましょう。
房江に子分ができた!
社員食堂では「週に一度は松坂さんの肉団子が食べたいと」と言われるほど料理が評判になります。肉団子のレシピは「レンコンとネギを細かく刻み、生姜のおろし汁と一緒に挽き肉に混ぜたら、下ごしらえは完了」。団子状にして鍋で揚げれば完成します。
出典:日テレ,キューピー3分クッキング、れんこん入り肉だんご
https://www.ntv.co.jp/3min/recipe/20110914/
上に引用させていただいたのはコリコリとした食感も楽しめる肉団子の写真です。ここでは「肉団子と千切りキャベツ、それにワカメと豆腐の味噌汁」というメニューを美味しそうに食べる社員の姿をイメージしてみます。
肉団子をつくった日、人数不足を補うために義理の妹・タネが賄い婦の仲間に加わります。
藤木「・・・・・・私は、どう呼んだらええの?どっちも松坂さんやからなあ」
房江「タネさんと呼んだらええわ」
藤木「肉団子、十個ほど貰うて帰ってもええかなあ」
房江「ええよ。三十個ぐらい余るように作ってるから。私も十個貰うつもりねん。息子の夜食」
タネ「私も貰える?」
房江「いま働きだしたのに、あつかましい。新入りのくせに」
「よしよし、多幸クラブに私の子分ができた」と心強く思う房江でした。
旅行などの情報
大浜海水浴場
房江が夏休みを過ごした「淡路島の洲本」にある快水浴場100選の人気海水浴場です。
「海水着を買って水泳を習おうと本気で思っていたが、伸仁に止められた」
とのことですので、泳ぎはしませんでしたがこちらのビーチで涼んでいたかもしれません。
上に引用させていただいたような南北750mにもわたる白砂のビーチが続き、遠浅なので子供連れでも安心です。ビーチハウスが2か所あり、ボートなどのレンタルもしているので、手ぶらで来ても楽しめます。
基本情報
【住所】兵庫県洲本市海岸通1丁目
【アクセス】洲本ICから車で約15分
【参考URL】https://www.city.sumoto.lg.jp/site/tunagarumachi/10835.html
野崎観音
野崎観音は曹洞宗の禅寺で行基菩薩が約1300年前に開山したとされる古刹です。江戸時代には大阪城の北にある八軒屋浜から野崎駅南の観音浜までの屋形船が運行し、大阪市街地から日帰りでお参りができるようになりました。その後、鉄道の普及により船の利用は減少しますが、昭和初期に東海林太郎(しょうじたろう)さんの「野崎小唄」がヒットしたことにより全国的に名前が知られます。熊吾や房江が遊覧船を利用したのはこのブームの時期だったのかもしれません。
特に5月1日~8日の本尊御開帳の「野崎まいり」の時期には参道に200軒以上の露店が出店し、今でも上に引用させていただいたような賑やかな雰囲気を楽しめます。
基本情報
【住所】大阪府大東市野崎2-7-1
【アクセス】JR学研都市線・野崎駅から徒歩約8分
【参考URL】https://www.nozakikannon.or.jp/