平山三郎「実歴阿房列車先生」の風景(その5最終回)

第二・第三阿房列車、阿房列車以降の百閒先生

今回は第二・第三阿房列車の風景を再度、平山氏とともに追っていきましょう。「実歴」では多くの宿泊場所が実名で記されているので、より風景を想像しやすくなっています。なお、百閒先生が「阿房列車」後に行った列車旅や、もし新幹線に乗っていたらどんな旅をしていたかについても触れられており、読者の想像力を掻き立ててくれそうです。

百閒先生のリアリズムとは

「第二阿房列車・雪中新潟阿房列車」は昭和28年の2月22日から2泊で行われた新潟への旅です。
「新潟へ行ったのは東北旅行の翌年の二月。―――新潟の宿に著くといきなり新聞社の記者が待っていて遠慮のない質問を受けた。若い記者は、先生が目的も計画もなく新潟へふらりと来たことが奇異に感じられたのかもしれない。・・・・・・『阿房列車の取材ですか』と問う」

それに対しての先生の答えが「第二阿房列車・雪中新潟阿房列車」から引用されています。
百閒先生「それは家に帰って、机の前に坐ってからの事で、今ここでかうして気味のお相手をしてゐる事と丸で関係はない」
記者「でもさうなのでせう」
百閒先生「さうでないと云ふ必要もないし、さうだと考へる筋もない。要するにそんな事は、後の話さ」
記者「さうですか」
百閒先生「帰ってからのことだよ」

関連して平山三郎氏は郵船時代の先生の言動を思い出すといいます。船旅のあと、雑誌記者からすぐに原稿を書いて欲しいといわれたときのことを、先生は座談会で以下のように述べたとのことです。
「旅から帰って、すぐその事を書け―――『さう云はれて迷惑と云ふのではなし、もともと僕は原稿を書くのが稼業ですからね。しかし本当の事を云ふと私はさう云うのを好かない。・・・・・・帰ったときはその間の事を覚えてゐるが、一年か二年経つと大概忘れてしまふ。それを今度自分で自分の気持ちの様に綴り合はせる。その方が真実だ。行って来た儘の直接経験と云ふものは粗末なものです。一旦忘れて・・・・・・暫く間を置いた方が、本当のリアリズムになります。・・・・・・』」

下には再度、百閒先生の写真を引用いたしました。平山三郎氏は以下のようにも述べています。
「家に帰って、机の前に坐って、一日に二枚か三枚と先生の筆が渋滞するのも、右の様な事情からと思われる。」

出典:国立国会図書館ウェブサイト、近代日本人の肖像、内田百閒
https://www.ndl.go.jp/portrait/datas/6240/

少し頁を飛ばしますが、先生は「第三阿房列車・松江阿房列車」でもリアリズムについて同様のことをいっています。以下は「実歴阿房列車(新潮文庫版・P236)」からの抜粋です。
「松江阿房列車は、その前日琵琶湖畔大津に泊まった。所在ない時間があったので、例によって車で三井寺の前まで行き、瀬田の唐橋は此方側に車を待たして橋を渡ってまた引き返して車へ戻った。」
一方「第三阿房列車・松江阿房列車」では、先生はこの時の感想を以下のように記しています。
「こう云う所を訪ねたりお詣りしたりした感懐は、それから何年も経った後にならなければ熟するものではない。その場の紀行としては何も書きとめる事はない」

出典:小泉八雲記念館公式サイト、ペン先入れ
https://www.hearn-museum-matsue.jp/index.html

なお、松江では小泉八雲の旧居や松平不昧公ゆかりの茶室「菅田庵」などに連れていってもらいますが、先生は余り興味のない様子。
「宿のお膳に出た宍道湖の蝦、もろげと鱸の奉書焼が旨かったことばかり云っている。」
とのことです。
ただ、「実歴」では
「松江では八雲が愛用したという蓮の葉に蛙が一匹いるペン皿がお土産になった」
との情報が追加されています。

上に引用させていただいたような八雲の遺品をモデルにしたお土産だったと思われます。

「博多ホテル」の謎

「春光山陽列車。昭和二十八年(三月十五日)京都・博多間に特急かもめが開業したので処女列車に乗らないかと国鉄から招待され、京都へ行く。・・・・・・八時三十分かもめ発車。博多では国鉄の用意した宿には這入らず博多ホテル泊。翌日松濱軒泊」

出典:旅館研究会 調査・編纂『全国旅館名簿』,旅館研究会,昭和16. 国立国会図書館デジタルコレクション https://dl.ndl.go.jp/pid/1033104 (参照 2024-12-27、一部抜粋)
https://dl.ndl.go.jp/pid/1033104/1/409

上には「全国旅館名簿(昭和16年版)から博多ホテルの写真を引用いたしました。こちらのホテルについて「第二阿房列車・春光山陽特別阿房列車(新潮文庫版、平成二十一年、P119)」では
「本式の洋風ホテルを頼んでおいた」
とあり、上の写真と合致しますが、こちらのホテルは昭和21年に焼失したという記録があり(決算検査報告昭和25年度・会計検査院など)、その後も再建されたという情報は得られませんでした。百閒先生が宿泊したホテルは一緒に掲載されている別館だったのでしょうか。
そういえば、鹿児島阿房列車(実歴阿房列車先生の風景その3・参照)では戸塚文子さんから紹介してもらった博多の宿が存在しないというトラブルがありました。博多での先生たちの足跡は他の場所に比べてややイメージしくいようです。

第二阿房列車・雷九州阿房列車

「同年六月下旬、また八代を第一日の振り出しにして九州を一巡りする。東京を発つ時から雨で、八代も降り続け、松濱軒の池の水は溢れ出ている。熊本へ戻って夜中降りつづく熊本に一泊。このあたりから『不世出の雨男ヒマラヤ山系』『天成の雨男』などと云われることになるが、何、雨の降る旅にはいつだって先生が一緒なので、先生が旅をするときはいつもふしぎに雨が降って来るな、と一緒に伴(つ)いているわたしが、おかしく思うだけである。・・・・・・杉之井旅館では三日間降られっぱなしで一歩も外へ出ない。」
「第二阿房列車・雷九州阿房列車」では「将棋の名人戦」が行われた別府の温泉旅館となっていますが、「実歴阿房列車先生」では「杉乃井旅館」と明記されています。

上には2023年に杉乃井ホテル本館が閉館となった際の報道動画を引用させていただきました。動画の最初には
1944年に温泉旅館として出発した杉乃井旅館(杉の井館)の姿が映っています。ここでは、こちらの玄関に先生たちが入って行くところを想像してみましょう。

第三阿房列車

房総阿房列車

第三阿房列車に割かれているのは数ページ程度のため、「・・・の風景」でも少し飛ばしていきましょう。
「房総阿房列車」では他の「阿房列車」では類のない先生たちの行動が描かれています。
「房総阿房列車では、房総半島を一周する予定で、銚子へ行った。犬吠岬泊。翌日成田線で千葉まで戻り、千葉泊り、翌日は房総西線で、木更津、館山を通って安房鴨川泊。翌日は東線廻りで又千葉へ戻った。千葉から車で稲毛の何とかという宿へ著いた。明治末の文人が多く遊んだという古い旅館で、管理局の人と飲みはじめたが、―――女中が火鉢の炭火を割箸で動かすものだから部屋中煙だらけになるし・・・・・・」
宿のもてなしが気に入らなかった先生に促され、結局二人は旅館を飛び出してしまいました。

出典:historical exhibition, Public domain, via Wikimedia Commons、Tokyo Station Hotel check in counter
https://commons.wikimedia.org/wiki/File:TokyoStationHotel-CheckinCounter-1934-1945.jpg

「実歴」にはこちらの旅の裏話が追記されています。
「房総鼻眼鏡阿房列車には書かれていないが、東京駅へ著いた足でステーションホテルに部屋を取らせた。稲毛に予定通り泊まったつもりで、神速果敢であったことに祝杯をあげて、房総一周五日間の旅程の最後を完したのである。」

上には昭和初期の東京ステーションホテルチェックインカウンターの写真を引用いたしました。ここでは、夜遅くにこちらのカウンターでチェックインをする山系君、ロビーの椅子で手続きが終わるのを待つ先生の姿を置いてみましょう。

四国阿房列車

「北海道を除いて阿房列車の及ばない地方は四国だけになった。―――二十九年四月十一日、第三列車『はと』で壷井宗一さんと同社して夕大阪著。桜ばしの料亭で壷井大阪管理局総務部長の招宴。上月大津駅長同席。夜新大阪ホテル泊。」
こちらにも宿泊場所が実名で出ています。以下には現在のリーガロイヤルホテル大阪の前身・新大阪ホテルの広告を引用いたしました。

出典:朝日新聞社 編『朝日年鑑』昭和13年,朝日新聞社,昭和12. 国立国会図書館デジタルコレクション https://dl.ndl.go.jp/pid/1072267 (参照 2025-01-06、一部抜粋)
https://dl.ndl.go.jp/pid/1072267/1/14

大阪での宴会までは御馳走を食べられた先生でしたが
「翌日、先生風邪が悪化するらしく食欲がない。お酒も飲めない」
という事態になります。

「十二日高知五台山荘に落著いたが、先生の加減わるくお酒も余り飲まない。」
「五台山荘」について詳細な情報は得られませんでしたが、以下の文献によると、場所は五台山の麓にあったようです。

竹林寺を辞して、五台山麓、五台山荘に入る。

出典:久保田万太郎 著『雪の音』,好学社,1955. 国立国会図書館デジタルコレクション https://dl.ndl.go.jp/pid/1662769 (参照 2025-01-06)
https://dl.ndl.go.jp/pid/1662769/1/140

一方、「第三阿房列車・四国阿房列車」には高知港に入港してからタクシーで宿に向かう道のりの記述があります。
「高知の入江の縁を一廻りする様な道順で、その前まで行って見ると、宿は坂の上にある。・・・・・・」

出典:高知商工会議所 編『高知 : Guido to Kochi』,高知商工会議所,昭和13. 国立国会図書館デジタルコレクション https://dl.ndl.go.jp/pid/1023966 (参照 2025-01-06、一部抜粋)
https://dl.ndl.go.jp/pid/1023966/1/13

上は高知港から入江を渡って五台山に行く途中に通った可能性のある「青柳橋」の写真です。景勝地として知られていますが、風邪気味の先生はこちらの景色を楽しむ余裕はなかったかもしれません。

阿房列車以後

「単行本『阿房列車』は第一から第三まで三冊刊行されている。以後は『阿房列車』としてではなく、『八代紀行』、『千丁の柳』、『臨時停車』と八代に行った紀行が三篇ほどある。・・・・・・『千丁の柳』は、小説新潮の取材旅行でその雑誌の編集者椰子さんと写真家の小石清氏と同道して、八代・熊本へ行った。」

出典:Kiyoshi Koishi (小石 清), Public domain, via Wikimedia Commons、泥酔夢-疲労感 (小石 清)
https://commons.wikimedia.org/wiki/File:%E6%B3%A5%E9%85%94%E5%A4%A2%EF%BC%8D%E7%96%B2%E5%8A%B4%E6%84%9F_(Drunken_Dream_-_Fatigue)_-_Kiyoshi_Koishi.jpg

小石清氏は「門司在住の写真家」で上に引用したような前衛写真を得意にしていました。
「千丁の柳」の取材旅行についての記述をさらに抜粋してみます。
「(小石氏と)編集者の椰子さんとは古くからの友人で、この時は門司からわたし共と一緒になって、八代、熊本と四日三晩、同じ宿で同じお膳に坐ってお酒をのんで談論風発した。・・・・・・松濱軒の庭園、熊本城、水前寺公園などでたくさんの写真を撮った。」
なお、新潮文庫「第二阿房列車」「第三阿房列車」の表紙を飾っているのはこのとき小石清氏が撮影した写真です。下には先生がホームの鏡で髪を整えている「第二阿房列車」の表紙の写真を引用いたしました。

出典:第二阿房列車、新潮文庫、平成二十一年四刷、カバー撮影 小石清

旅館での宴会は以下のようでした。
「何を喋って風発したか忘れてたけれど、小石清の酔いっぷりはこれはまた見事で、或る程度酔うと、おれはもう駄目だ、と一言云うなり、そのまま直角に後ろに伸びてしまうのである。すると椰子さん、というのは小林博さんのことだが、小林さんが心得た手附で、後ろへ倒れる直前の小石清をふわっと受け止めて、あれはどういう具合にやるのか呼吸はわからぬが、座布団をまるめて肩に引っ下げるような、実に旨い具合に肩に掛けて、となりの座敷へ運んで行ってしまう。」

新幹線阿房列車(百鬼園先生追想より)

下には新潮文庫「実歴阿房列車先生」に集録されている「百鬼園先生追想」から新幹線と百閒先生のエピソードを抜粋してみましょう。
「東海道新幹線の着工された年、昭和三十四年の正月、『これからの鉄道を語る』座談会が交通新聞で催されたことがある。その席上、わが百閒先生曰く、―――そんなに早く走っても仕様がないですヨ。それより東京・大阪ノンストップ二十時間というのはどうです。少少、金はかかるでしょうが・・・・・・。
出席の方々、島技師長、十河総裁、遠藤幹線調査室長、青木槐三氏、いずれも話のつぎ穂に困っただろうと思う。」
在来の特急では約6時間30分かかった東京・大阪間を約4時間でむすぶ速さが評判になり、宮本輝氏の「流転の海第8部・長流の畔」でも主人公の友人たちが新幹線(大阪・京都間)に試乗する場面もありました(長流の畔の風景その4・参照)。

出典:Rsa, CC BY-SA 3.0 http://creativecommons.org/licenses/by-sa/3.0/, via Wikimedia Commons、0系新幹線36-84車内
https://commons.wikimedia.org/wiki/File:Shinkansen_0kei_36-84-inside.jpg

以下も「実歴」からの抜粋です。
「もし、と仮定するのはイミがないかも知れないが、百閒先生がもし存命で、元気でいられたなら、新幹線阿房列車は運転されただろうか。・・・・・・もともとは明治のハイカラ、新し物好きだから、『早すぎて困る』というのは、その場の冗談であって、何にも用事はないけれど、岡山駅のホームで一ぷくして、さて、九州八代まで足を延ばしたかも知れぬと思うのである。―――故郷の岡山の旭川畔はともかくとして、お気に入りの八代には幾度でも行きたいと云っていた。」
とあります。

上には「実歴阿房列車先生」の風景のラストとして、0系新幹線の食堂車の写真を引用いたしました。こちらのテーブルのどこかでほろ酔い加減の先生が山系君に話しかけているところを想像してみましょう。
それに対して山系君は
「まあいいです」
「はあ」
などと、いつものように曖昧な返事をしていたに違いありません。

旅行などの情報

菅田庵

ここでは、第三阿房列車の風景その4(参照)では紹介していなかった「菅田庵」を紹介いたします。
先生は旅館の宴席にもぐりこんだ自称「名もない神」から以下のようにののしられました。
「人がわざわざ案内すると云う所を見もしないし」
「会いに来た者はいい加減にあしらうし・・・・・・」
そこに「女中」さんが来たところ「名もない神」は「稲妻の速さで」飛び出して行きます。
女中「どうも申し訳御座いません」
先生「神様か」
女中「神様なもんですか。菅田庵の山の狐です」
なお、先生が遭遇したこの「怪しげな現象」のとき、「山系君は頭を前にたれて、昏昏と眠り込んだ儘」であったためか「実歴阿房列車先生」では触れられていません。
下には案内をしてもらったにもかかわらず、観光をせずに引き返してしまった「菅田庵」の写真(昭和初期)を引用いたしました。

出典:島根県 編『島根県史蹟名勝天然紀念物並国宝概説』,島根県,昭13. 国立国会図書館デジタルコレクション https://dl.ndl.go.jp/pid/1220227 (参照 2025-01-06、一部抜粋)、菅田庵茶室の入口
https://dl.ndl.go.jp/pid/1220227/1/113

菅田庵は江戸時代中期に、松江藩主・松平不昧公によりつくられた茶室です。間取りは1畳台目中板入り(一畳と3/4畳の「台目畳」の間に中板を入れたもの)で、百閒先生の三畳御殿よりもコンパクトですが、窓の採光などに狭さを感じにくくなっているとのことです。なお、定休日は火曜日と水曜日、夏季や冬季休業がありますのでホームページでご確認の上、お出かけください。

基本情報

【住所】島根県松江市菅田町106
【アクセス】JR 松江駅からバスで約15分、菅田庵入口で下車
【参考URL】https://www.kanden-an.jp/