宮沢賢治「グスコーブドリの伝記」の風景(その4)

ネリとの再会・最後の作戦

ブドリたちは飛行船を用いた肥料の散布に成功し、多少の天候不順があっても安定した収穫ができるようになります。さらに子供のころ生き別れになったネリとの再会も果たし、充実した毎日を送っていました。ところがある年、かつてブドリ一家を襲ったような大冷害(グスコーブドリの伝記の風景その1・参照)の危険が迫ります。ブドリはある作戦を提案しますが・・・・・・

飛行船から肥料を散布

「それから四年の間に、クーボー大博士の計画どおり、潮汐発電所は、イーハトーヴの海岸に沿って、二百も配置されました。イーハトーヴをめぐる火山には、観測小屋といっしょに、白く塗られた鉄の櫓が順々に建ちました。ブドリは技師心得になって、一年の大部分は火山から火山と回ってあるいたり、あぶなくなった火山を工作したりしていました。」
なお「潮汐発電」は安定したクリーンエネルギーとして期待されていますが、現在(2025年3月)の日本では実現できていません。海水の塩分による劣化やメンテナンスの難しさ、航路や漁場に対する場所的な制限などの課題があるようです。

イーハトーヴでは、
「次の年の春、イーハトーヴの火山局では、次のようなポスターを村や町へ張りました。」

「窒素肥料を降らせます。
ことしの夏、雨といっしょに、硝酸アムモニヤをみなさんの沼ばたけや蔬菜(そさい)ばたけに降らせますから、肥料を使うかたは、その分を入れて計算してください。分量は百メートル四方につき百二十キログラムです。
雨もすこしは降らせます。
旱魃の際には、とにかく作物の枯れないぐらいの雨は降らせることができますから、いままで水が来なくなって作付しなかった沼ばたけも、ことしは心配せずに植え付けてください。」

出典:写真AC、ヘリコプターで農薬散布(昭和45年)
https://www.photo-ac.com/main/detail/25855145/

上には昭和時代に行われていた農薬の空中散布の写真を引用いたします。一方、ブドリたちの肥料散布は以下に引用したように飛行船を用いていて、もう少し高いところ(雲の上)から散布していました。

「その年の六月、ブドリはイーハトーヴのまん中にあたるイーハトーヴ火山の頂上の小屋におりました。下はいちめん灰いろをした雲の海でした。そのあちこちからイーハトーヴじゅうの火山のいただきが、ちょうど島のように黒く出ておりました。その雲のすぐ上を一隻の飛行船が、船尾からまっ白な煙を噴いて、一つの峯から一つの峯へちょうど橋をかけるように飛びまわっていました。そのけむりは、時間がたつほどだんだん太くはっきりなってしずかに下の雲の海に落ちかぶさり、まもなく、いちめんの雲の海にはうす白く光る大きな網が山から山へ張りわたされました。いつか飛行船はけむりを納めて、しばらく挨拶するように輪を描いていましたが、やがて船首をたれてしずかに雲の中へ沈んで行ってしまいました。」

出典:宮沢賢治 著 ほか『グスコーブドリの伝記 : 童話』,羽田書店,昭和16. 国立国会図書館デジタルコレクション https://dl.ndl.go.jp/pid/1720627 (参照 2025-03-12、一部抜粋)
https://dl.ndl.go.jp/pid/1720627/1/116

上には「グスコーブドリの伝記(童話)、羽田書店」から飛行船による肥料散布をイメージできる挿絵を引用いたします。「グスコーブドリの伝記」ではこちらのような飛行船から雨を降らし、さらにブドリのボタン操作により硝酸アンモニア(窒素肥料)が混入されることになっていました。

ペンネン技師「飛行船はいま帰って来た。下のほうのしたくはすっかりいい。雨はざあざあ降っている。もうよかろうと思う。はじめてくれたまえ。」
「ブドリはぼたんを押しました。見る見るさっきのけむりの網は、美しい桃いろや青や紫に、パッパッと目もさめるようにかがやきながら、ついたり消えたりしました。ブドリはまるでうっとりとしてそれに見とれました。そのうちにだんだん日は暮れて、雲の海もあかりが消えたときは、灰いろかねずみいろかわからないようになりました。」
ペンネン技師「硝酸アムモニヤはもう雨の中へでてきている。量もこれぐらいならちょうどいい。移動のぐあいもいいらしい。あと四時間やれば、もうこの地方は今月中はたくさんだろう。つづけてやってくれたまえ。」

出典:写真AC、田園風景 山形県庄内平野
https://premium.photo-ac.com/main/detail/4219507/

「ブドリはもううれしくってはね上がりたいくらいでした。」
上には雨や肥料によって元気になったオリザ(稲)をイメージできる画像を引用いたします。
「この雲の下で昔の赤ひげの主人も、となりの石油がこやしになるかと言った人も、みんなよろこんで雨の音を聞いている。そしてあすの朝は、見違えるように緑いろになったオリザの株を手でなでたりするだろう。まるで夢のようだと思いながら、雲のまっくらになったり、また美しく輝いたりするのをながめておりました。」

村人たちの誤解

「その年の農作物の収穫は、気候のせいもありましたが、十年の間にもなかったほど、よくできましたので、火山局にはあっちからもこっちからも感謝状や激励の手紙が届きました。ブドリははじめてほんとうに生きがいがあるように思いました。」
「ところがある日、ブドリがタチナという火山へ行った帰り、とりいれの済んでがらんとした沼ばたけの中の小さな村を通りかかりました。ちょうどひるころなので、パンを買おうと思って、一軒の雑貨や菓子を買っている店へ寄って、
『パンはありませんか。』とききました。するとそこには三人のはだしの人たちが、目をまっ赤にして酒を飲んでおりましたが、一人が立ち上がって、『パンはあるが、どうも食われないパンでな。石盤(セキパン)だもな。』とおかしなことを言いますと、みんなはおもしろそうにブドリの顔を見てどっと笑いました。」
なお賢治の頃の「パン」は主食ではなく、アンパンやジャムパン、クリームパンなどといった菓子パンが主流で、まだハイカラな食べ物だったようです。下には花巻農学校時代の宮沢賢治の教え子・福田留吉が戦後すぐに発売を開始した福田パン・ソフトフランスパンの写真を引用いたしました。

出典:Yasu, CC BY-SA 3.0 https://creativecommons.org/licenses/by-sa/3.0, via Wikimedia Commons、岩手県盛岡市の福田パンが製造販売する「あんバター」コッペパン 包装された状態
https://commons.wikimedia.org/wiki/File:Fukuda_Pan_An_Butter_wrapped.jpg

「ブドリはいやになって、ぷいっと表へ出ましたら、向こうから髪を角刈りにしたせいの高い男が来て、いきなり、
『おい、お前、ことしの夏、電気でこやし降らせたブドリだな。』と言いました。
『そうだ。』ブドリは何げなく答えました。その男は高く叫びました。
『火山局のブドリが来たぞ。みんな集まれ。』
 すると今の家の中やそこらの畑から、十八人の百姓たちが、げらげらわらってかけて来ました。
『この野郎、きさまの電気のおかげで、おいらのオリザ、みんな倒れてしまったぞ。何してあんなまねしたんだ。』一人が言いました。
 ブドリはしずかに言いました。
『倒れるなんて、きみらは春に出したポスターを見なかったのか。』
『何この野郎。』いきなり一人がブドリの帽子をたたき落としました。それからみんなは寄ってたかってブドリをなぐったりふんだりしました。ブドリはとうとう何がなんだかわからなくなって倒れてしまいました。」

出典:宮沢賢治・花巻市民の会公式サイト、移築前、現在の雨ニモマケズ詩碑にあった建物 雪囲いが見える
https://ihatovstn.jp/hanamaki-guide/rasuchijin-association/

「気がついてみるとブドリはどこかの病院らしい室の白いベッドに寝ていました。枕もとには見舞いの電報や、たくさんの手紙がありました。ブドリのからだじゅうは痛くて熱く、動くことができませんでした。けれどもそれから一週間ばかりたちますと、もうブドリはもとの元気になっていました。そして新聞で、あのときの出来事は、肥料の入れようをまちがって教えた農業技師が、オリザの倒れたのをみんな火山局のせいにして、ごまかしていたためだということを読んで、大きな声で一人で笑いました。」
なお、「肥料の入れよう」に関して賢治は専門的な知識を持っていて、周辺の農民に対し「肥料設計相談」を行っていました。時期的には1926年(大正15年)に花巻農学校教師を辞任後、場所は上に引用させていただいた「羅須地人協会」が拠点でした。

ネリと再会

入院により思いがけない幸運もありました。ブドリがけがをしたという事件が新聞に掲載されたことにより、子供のころに生き別れた妹ネリがかけつけたのです。以下に出会いの場面を引用します。
「二人はしばらく物も言えませんでしたが、やっとブドリが、その後のことをたずねますと、ネリもぼつぼつとイーハトーヴの百姓のことばで、今までのことを話しました。ネリを連れて行ったあの男は、三日ばかりの後、めんどうくさくなったのか、ある小さな牧場の近くへネリを残して、どこかへ行ってしまったのでした。」
「ネリがそこらを泣いて歩いていますと、その牧場の主人がかわいそうに思って家へ入れて、赤ん坊のお守をさせたりしていましたが、だんだんネリはなんでも働けるようになったので、とうとう三四年前にその小さな牧場のいちばん上の息子と結婚したというのでした。」

出典:小岩井農牧株式会社 編『[小岩井農場]五拾周年記念』,小岩井農牧,昭和16. 国立国会図書館デジタルコレクション https://dl.ndl.go.jp/pid/1682922 (参照 2025-03-10、一部抜粋)、三九 乳牛の放牧
https://dl.ndl.go.jp/pid/1682922/1/100

上には賢治が何度も足を運んだ「小岩井農場」の写真を引用いたしました。賢治は詩集「春と修羅」のなかに「小岩井農場」という長編詩を残しているように、お気に入りの場所だったようです。「グスコーブドリの伝記」のネリの「小さな牧場」もこちらのような景色をヒントにして執筆されたのかもしれません。

出典:花巻市役所公式サイト、宮沢トシ
https://www.city.hanamaki.iwate.jp/

上にはネリのモデルとされる宮沢賢治の妹・トシの写真(花巻高等女学校の教師時代)を引用させていただきました。「まるで変わってはいましたが」とあるとおり、ネリにはブドリが記憶する面影は残っていませんでした。

出典:See page for author, Public domain, via Wikimedia Commons、宮沢賢治(6歳)・トシ兄妹。
https://commons.wikimedia.org/wiki/File:Miyazawa_Kenji_and_Toshi.jpg

比較のため、初回(グスコーブドリの伝記の風景その1・参照)にも引用した3歳のころのトシの写真を再掲いたします。

冷害を防ぐために

「それからの五年は、ブドリにはほんとうに楽しいものでした。赤ひげの主人の家にも何べんもお礼に行きました。
 もうよほど年はとっていましたが、やはり非常な元気で、こんどは毛の長いうさぎを千匹以上飼ったり、赤い甘藍(かんらん)ばかり畑に作ったり、相変わらずの山師はやっていましたが、暮らしはずうっといいようでした。」
「毛の長いうさぎ」とは当時毛織物の素材として重宝された「アンゴラ兎」のことでしょうか。下には帝国副業奨励会の出版物からアンゴラ兎の飼育小屋の写真を引用いたしました。

出典:帝国副業奨励会 編『アンゴラ兎の飼育法』,泰文館,昭和12. 国立国会図書館デジタルコレクション https://dl.ndl.go.jp/pid/1030084 (参照 2025-03-10、一部抜粋)、帝国副業奨励会の兎舎内部
https://dl.ndl.go.jp/pid/1030084/1/5

また、「甘藍(かんらん)」とキャベツのことで、下に図説しているように当時はまだ一般の人にはなじみの薄い西洋野菜でした。なかでも主流でない赤キャベツ(赤種甘藍)を選ぶところが「赤ひげ」らしいところかもしれません。

出典:惹爾地遜 (チャールス・シー・ジョールジソン) 述 ほか『西洋野菜甘藍栽培篇』,有隣堂,明42.12. 国立国会図書館デジタルコレクション https://dl.ndl.go.jp/pid/840177 (参照 2025-03-10、一部抜粋)、甘藍の種類
https://dl.ndl.go.jp/pid/840177/1/10

そして、妹のネリには男の子が生まれ、主人とともにブドリの家に遊びにくるようになります。また、ブドリのことを知った「てぐす飼いの男」の使用人がたずねてきて、ブドリの父母が森で亡くなっていたこと、森の奥の榧(かや)の木に葬ったことを教えてくれました。

「ブドリは、すぐネリたちをつれてそこへ行って、白い石灰岩の墓をたてて、それからもその辺を通るたびにいつも寄ってくるのでした。」
とあります。
「そしてちょうどブドリが二十七の年でした。どうもあの恐ろしい寒い気候がまた来るような模様でした。測候所では、太陽の調子や北のほうの海の氷の様子から、その年の二月にみんなへそれを予報しました。・・・・・・このままで過ぎるなら、森にも野原にも、ちょうどあの年のブドリの家族のようになる人がたくさんできるのです。」
下にはブドリと同じ年齢のころの賢治の写真を引用いたします。

出典:Kamakura Museum of Literature archives, Public domain, via Wikimedia Commons、宮沢賢治(27歳)
https://commons.wikimedia.org/wiki/File:Miyazawa_Kenji.jpg

「ある晩ブドリは、クーボー大博士のうちをたずねました。」
ブドリ「カルボナード火山島が、いま爆発したら、この気候を変えるくらいの炭酸ガスを噴くでしょうか。」
クーボー大博士「それは僕も計算した。あれがいま爆発すれば、ガスはすぐ大循環の上層の風にまじって地球ぜんたいを包むだろう。そして下層の空気や地表からの熱の放散を防ぎ、地球全体を平均で五度ぐらい暖かくするだろうと思う。」
ブドリ「先生、あれを今すぐ噴かせられないでしょうか。」
クーボー大博士「それはできるだろう。けれども、その仕事に行ったもののうち、最後の一人はどうしても逃げられないのでね。」
ブドリ「先生、私にそれをやらしてください。・・・・・・」

クーボー大博士やペンネン技師からは反対されますが・・・・・・

出典:花北地区コミュニティ協議会公式サイト、花巻まつり山車 昭和初期
https://hanakitacomi.jp/photo/old-photo/

(少し物語からそれますが)宮沢賢治は亡くなる数日前の昭和8年9月17日から19日、療養中の家の前に椅子を出して鳥谷ヶ崎神社のお祭り(花巻まつり)を見物したとのこと(ウィキペディア・宮沢賢治)。上に引用させていただいたのは昭和初期の花巻まつりの写真です。賢治もブドリと同じく地元の豊作と幸せな暮らしを祈りながら見物していたことでしょう。

カルボナード火山噴火後のイーハトーヴについては、以下のようなハッピーエンドで結ばれています。
「気候はぐんぐん暖かくなってきて、その秋はほぼ普通の作柄になりました。そしてちょうど、このお話のはじまりのようになるはずの、たくさんのブドリのおとうさんやおかあさんは、たくさんのブドリやネリといっしょに、その冬を暖かいたべものと、明るい薪(たきぎ)で楽しく暮らすことができたのでした。」

旅行などの情報

小岩井農場

1891年(明治24年)に開設された歴史のある農場です。宮沢賢治も複数回訪れていて、最寄り駅のJR小岩井駅前には「小岩井農場」(詩集・春と修羅より)の詩碑が建てられています。農場はレジャー施設として一般にも開放されていて、羊や牛などが放牧されるのどかな景色が体と心を癒してくれるでしょう。

ほかにも、牧羊犬がダイナミックに活躍する「ひつじショー」や引き馬による乗馬、さまざまな動物たちとのふれあいやエサやり体験など多彩なアトラクションを楽しめるのもこちらの魅力です。食事メニューはジンギスカンや焼き肉、ラーメン・ピザなどの選択肢が豊富、たっぷり遊んだあとは、名物の濃厚ソフトクリームを味わってみてはいかがでしょうか。

基本情報

【住所】岩手県岩手郡雫石町丸谷地36-1
【アクセス】JR盛岡駅前でバスに乗りかえ、「小岩井農場まきば園」で下車
【参考URL】https://www.koiwaifarm.com/

福田パン本店

ブドリがパンを求めてお店に入る場面で登場していただいたパン屋さんです。戦後間もない1948年に福田留吉さんが創業し、現在も盛岡周辺のソウルフードとなっています。とくに他のパン屋さんと一線を画すのが具材の豊富さです。こしあんやピーナツ、ジャムといったスイーツ類からタマゴやハンバーグ、コンビーフといった総菜類までさまざまな具材が準備されており、組み合わせにより数百種類のオリジナルメニューを試すことができます。

なかでも定番のあんバターサンドは賞味期限の長い「あんバターサンドクッキー」という新商品になっているほどの人気です。また、上に引用させていただいたように旬の素材や地元素材の新商品も登場しているので岩手県内の福田パンや周辺のスーパーでお好みのパンを探してみてください。

基本情報

【住所】岩手県盛岡市長田町12-11
【アクセス】盛岡駅から徒歩で約15分
【参考URL】https://iwatetabi.jp/gourmet/16786/