井上靖「北の海」の風景(その3)

台北行きの決定と親戚巡り

洪作は四高へ入学するために、金沢で柔道の練習をしながら受験勉強をしようと考えます。ところが、洪作の母から親元(台北)に来るように説得を頼まれた宇田夫妻により、半ば強制的に送別会を開催されてしまいました。そして、洪作は台北行きを親戚などに伝えるため、久しぶりに故郷・湯ヶ島に帰省します。

母からの手紙

蓮実から勧められたように金沢で受験生活を送ろうと考えた洪作は、沼津駅の北側にある宇田先生の家に相談にいきました。宇田は「そこらを歩こうか」といって「ゆるい傾斜をなしている道を上がって行った。間もなく人家が切れると、富士の裾野まで遮るものなく原野が拡がっている」とあります。

周辺が開発され、当時の風景とは違っていますが、現在でも樹木や建物の間からは富士山を望むことができます。下には沼津駅からも近い「のぼりみち通り」のストリートビューを引用させていただきました。ここでは富士山の見える「草叢に腰を降ろす」二人の姿をイメージしてみます。

「ここで浪人しているより、金沢で浪人している方がいいと思うんです・・・・・・刺激にもなりますし」という洪作に対し宇田教師は「君の話を聞いていると、なんとなく臭いところがある。受験勉強しながら、一方で四高の道場へでも通う料簡じゃないのかな」と図星をつかれました。

洪作を心配した宇田教師が両親に手紙を送ったところ、母からは「台北に来て、親許で勉強するように勧めてくれ」と返信があったとのこと。宇田夫人は「お母さんがお帰りなさいと言って来たんですから、いやでも何でも、お帰りにならなければなりませんわね」といい、送別会の準備のためにおさしみを買いに出かけます。

どのお店に行ったかは不明ですが、沼津は当時から下の写真のような立派な魚市場がありました。宇田家での送別会にも新鮮なお刺身が並んだことでしょう。

出典:平山岩太郎 編『沼津の栞 : 附・三島近傍案内』,蘭契社,大正5. 国立国会図書館デジタルコレクション https://dl.ndl.go.jp/pid/946182 (参照 2024-02-13、一部加工)
https://dl.ndl.go.jp/ja/pid/946182/1/5

当時の台北について

余談になりますが洪作の両親や弟妹がいた台北は台湾の中心都市で、この時期には日本の統治下にありました。洪作の父・隼雄氏(「北の海」では捷作)は台北衛戌病院の院長をしており、小説内でも同様の設定になっています。

下には当時、台北の銀座と呼ばれた「栄町」の写真を引用させていただきました。洪作の父母や弟妹もこちらの大通りで買い物などをしていたのではないでしょうか。

出典:鞠園, Public domain, via Wikimedia Commons
https://commons.wikimedia.org/wiki/File:%E8%87%BA%E5%8C%97%E6%A6%AE%E7%94%BA%E9%80%9A.jpg

蓮実からの手紙

宇田夫妻から送別会をしてもらった洪作ですが、本当に台北に行こうと決心したのは蓮実からの手紙を読んだときでした。以下にその文面を抜粋します。
「受験勉強を金沢でするようにお勧めしたが、よく考えてみると、必ずしも最良の方法とは言えないように思う。・・・・・・四高生ののんきな生活の影響を受けて、一緒になって遊び暮してしまう怖れがある。・・・・・・今のような毎日を送っていたのでは、とうてい高校受験に合格するとは思えない。・・・・・・切に台北行きをお勧めする次第である。・・・・・・台北へ行ったからといって、台北高校などを受験されては困る。台北行きをお勧めするのは、四高に入って貰いたいからである」

当時、台北にあった台北高等学校は下に引用したような立派な校舎をもち、帝国大学などへの進学も多かったようです。蓮実はずぼらなところのある洪作が台北から戻ってこないことを懸念して念押しをしたのでしょう。

出典:See page for author, Public domain, via Wikimedia Commons
https://commons.wikimedia.org/wiki/File:View_of_Taihoku_High_School_with_photo_of_2nd_principal_Mr._Misawa.jpg

大天井からの手紙

蓮実の手紙の中には、もう一つ面識のない人からの手紙も同封されていました。それは「大天井」という「何年も金沢で浪を人している年齢(とし)とった受験生」からでした。以下に文面を抜粋します。
「相棒がひとりできたことを悦んでいる。だが、金沢へは来ない方がいい。来るとろくなことにはならぬ。・・・・・・まともな試験問題が出れば、俺などいの一番で合格するんだが、毎年毎年ろくな問題がで出やがらぬ。・・・・・・・だが、俺も来年ははいる。今年は八月一日から勉強を開始するつもりだ。・・・・・・お前さんも沼津などでごろごろしないで、早くおやじさんとおふくろさんのところへ行って、栄養あるものを食って、そのエネルギーを勉強の方へ廻せ。・・・・・・勉強して四高にはいり、四高にはいったら、稽古にはげみ、大方の期待に応えよ」
洪作は「今までにこれほど不作法な、失礼極まる手紙を貰ったことはない」と驚きます。

下に引用させていただいた情報によると、当時の高等学校の入試問題は全学校で共通だったようです。

⑤1919年から1927年までは,共通試験単独選抜方式が採用された。
⑥1928年から1940年までは,各校独自の出題による単独選抜方式で実施された。

出典:独立行政法人大学入試センターホームページ・大学入試関連アーカイブ、旧制高等学校入試https://www.sakura.dnc.ac.jp/archivesite/

下には大天井が不合格になってしまった大正14年の入試試験から、「北の海」下巻にて彼が「苦手」といっている国語の問題の一部をピックアップしました。

出典:中等教育会 編『最近五ケ年間官立学校入学試験問題集』大正10至14年度,中等教育学院,大正14. 国立国会図書館デジタルコレクション https://dl.ndl.go.jp/pid/937714 (参照 2024-02-09、一部加工)
https://dl.ndl.go.jp/ja/pid/937714/1/197

湯ヶ島に帰省

門ノ原で伯母につかまる

台北行きを決めた洪作は故郷の湯ヶ島の祖父母などに、そのことを伝えに行くことにしました。湯ヶ島に帰省するバスのなかで「意地の悪そうな顔をしている五十ぐらいの女」からしつこく話しかけられて、うんざりした洪作は「湯ヶ島より一里手前の月ヶ瀬という集落の外れ」でバスを降りました。

そして、「親戚が二軒ある」月ヶ瀬を無事に通り過ぎ、「父親の実家である」門ノ原も脱けたところで「道から少し入ったところにある駄菓子屋にはいって行った」とあります。

下は門野原と市山集落の境にある嵯峨沢橋手前のストリートビューです。嵯峨沢橋は「しろばんば」で父の兄・森之進に連れられて泊りに行く場面でも登場しました(しろばんばの風景その2・参照)。ここでは、橋の手前の脇道(右側)に駄菓子屋があったと仮定して、ほっとして歩く洪作の姿を想像しておきましょう。

「ください」といって洪作が駄菓子屋にはいろうとすると、「じゃ、わたしはこれでごめん蒙りますよ」という声がします。中から出てきたのは伯母(森之進の妻)でした。

伯母は「あんた、洪作じゃないかい」と声をかけたものの、「あんたが洪作なもんかね。たぶらかそうと言っても、その手にはのりませんよ。洪作が門ノ原の伯父さんの家をす通りして行くようなことがありましょうか」といって「最後ににやっと笑った」とのこと。「おはぐろの黒さが、伯母を鬼の面にしている」ともあります。

明治時代、皇族や貴族に対しお歯黒禁止令が出されたことにより、お歯黒の習慣はすたれていきますが、伯母のように地方では大正末期でもお歯黒をしている人がいたようです。ここではお歯黒をした能面の写真から伯母の表情をイメージしてみましょう。

出典:Historical Museum of Bern, CC BY 3.0 https://creativecommons.org/licenses/by/3.0, via Wikimedia Commons
https://commons.wikimedia.org/wiki/File:Giappone,_periodo_edo,_maschera_no_di_tipo_ko-omote,_XVII_sec..JPG

上の家

門ノ原で三泊して墓掃除や家回りの修繕などを手伝ったあと、洪作はやっと祖父母の家(上の家)にたどりつきます。上の家にはいつもの通り祖父が苦虫を嚙み潰したような顔で出迎え「中学を卒業したというのに、郷里にも帰らんと、―――先生に心配かけ、寺の人にも心配かけ、台北の親にも心配かけ、このわしにも心配かけ・・・」と嫌味たらたらです。

それでも、久しぶりとなる上の家の居心地は快適で、夕食時には以下のような会話がなされました。
洪作「明るくて気持ちがいいなあ。庭を見ながらご飯を食べるなんて、贅沢だな」
祖父「別に贅沢なことでもなかろう。お前は時々変なことを言う」
洪作「だって、寺ではいつも庫裡で食べる。年中薄暗いんだ」

下には洪作の祖父たちが住んでいた上の家の写真を引用させていただきました。建物は2021年に保存改修が終了し、洪作の時代に近い姿になっています。庭が見られるとありますので、右側のガラス戸を開けて、食事をしていたのかもしれません。

おぬい婆さんの回想

小学生時代(しろばんばの風景その1・参照)におぬい婆さんと暮らした土蔵に入ってみたくなった洪作は、伯母から鍵を借ります。土蔵でおぬい婆さんに現状報告をすると、彼女から以下のような声が返ってきます。
洪作「婆ちゃ、中学の受験でも落第し、高校も四年の時と、卒業した時と、二回受験して、二回とも落第したよ」
おぬい婆さん「いいさ、いいさ、坊を入れてくれんようなところへは、はいってやらんこっちゃ」
洪作「お蔭でどこへ行っても評判が悪い。・・・・・・湯ヶ島のおじいさんにも憤られた。形なしだ」
おぬい婆さん「ああ、何をやってもしくじってばかりいるじいちゃか。あのじいちゃに褒められるようになっては、人間も、もうお仕舞じゃ」
洪作「こんど台北に行くことに決めたよ」
おぬい婆さん「実の親であってみれば、それも致し方あるまい。浮世の義理というもんじゃ。・・・・・・いっそ、この婆ちゃが一緒について行ってやることにしよう。・・・・・・無理難題を言ったら、この婆ちゃが化けて出てやる」

下には、伊豆近代文学博物館に復元されている土蔵の写真を引用させていただきます。こちらの写真の机の手前に洪作の姿を置き、(想像の)おぬい婆さんと会話しているところを想像してみましょう。

「翌日、洪作は墓地のある熊ノ山に登った」とあります。洪作が曽祖父や曾祖母、そしておぬい婆さんのお墓詣りをするためでした。墓石の前で黙って洪作が頭を下げると、一緒についてきた近所の子供たちも真似をします。

下に引用させていただいたのは近年の熊野山墓地のストリートビューです。ここでは墓石の前に立つ洪作と「木馬でも跳ぶように、手頃な墓石のところへ行くと、それを飛び越えて」遊びはじめる子供たちの姿を置いてみましょう。

そこに、西平部落のくめさんという老人がやってきて、墓石を倒すなどした子供たちに「こら、がき共」といって追い払います。そして、「あんた、洪作さんじゃねえか」と声をかけてきます。以下は二人の会話からの抜粋です。
くめさん「春の顔を持っている者は、そんなにたんとはねえ。苦労が苦労にならねえんだから得な性分だ。ただ春の顔で困ることは、とかくのんべんだらりと一生を送ってしまいがちなことだ。・・・・・・何でもいいから夢中になるのが、どうも、人間の生き方の中で一番いいようだ」
洪作「いま夢中になれるのは柔道ぐらいしかない」
くめさん「柔道とは、な。もうちっと増しなものはないもんかな。―――が、まあ、それもよかんべ。・・・・・・子供と墓地で遊んでいるよりよかんべ」

旅行の情報

上の家

上の家は洪作(=井上靖氏)の本家に当たります。洪作の祖父母が住む家で「しろばんば」では叔母のさき子やみつとの交流が描かれ、おぬい婆さんの葬列を見送った場所にもなりました。また、「夏草冬濤」では帰省時の宿泊先として登場し、毎日子供たちと遊んだり、一ノ瀬少年とその母が訪ねて来たりした場所でもあります。

定期的に内部公開もしているので、井上靖氏の三部作のシーンを思い出しながら、見学してみてはいかがでしょうか。

基本情報

【住所】静岡県伊豆市湯ケ島1786
【アクセス】新東海バス・湯ヶ島バス停から徒歩2分
【参考URL】伊豆市観光ホームページ

熊野山墓地

洪作が帰郷した際におぬい婆さんたちのお墓参りをした場所です。また、下に引用させていただいたように井上靖ご夫妻の墓所でもあります。特にご命日である1月29日に近い日曜日に開催される追悼事業「あすなろ忌」では、参加者がそろってお墓参りをするのが定例です。

お墓の裏側には「柔道六段 お酒大好き 心宏く温き人 多忙な中 にも幸せな一生を終える」というふみ夫人による墓誌が刻まれています。高台にあって天城の山々の眺望もきれいなのでお見逃しのないように。

出典:Osamu Suzuki, CC BY-SA 4.0 https://creativecommons.org/licenses/by-sa/4.0, via Wikimedia Commons
https://commons.wikimedia.org/wiki/File:%E4%BA%95%E4%B8%8A%E9%9D%96%E3%81%AE%E3%81%8A%E5%A2%93.jpg

基本情報

【住所】静岡県伊豆市湯ケ島1786
【アクセス】伊豆箱根鉄道・修善寺駅からバスを利用。湯ヶ島入り口で下車
【参考URL】伊豆市観光ホームページ(しろばんばの里散策マップ参照)