井上靖「北の海」の風景(その8)

金沢編(その4)

休み明けには柔道部卒の大学生たちも加わり、練習はいっそう激しくなります。洪作は大学生のなかでも最強級の久住や、二年で最弱の川根などと稽古をする過程で、多彩な柔道のスタイルを知ることに!また、夏期練習の後半に行われた一年対二年の試合も見どころの一つです。夏期練習も終わり、洪作は10日以上過ごした金沢の街をあとにします。

激しい練習

次の日から始まった四高柔道部の練習は今まで洪作が経験したことがないほど厳しいものでした。「道場へ出てみると、道場の様子は一変していた。東大から二人、京大から四人、九大から一人、それに地元の金沢医大から二人の、柔道部の先輩たちが顔を見せていた。三年の部員も四、五人出席しており、大部分が洪作の初めて見る顔であった」
そして「先輩たちの半数は柔道着を着、あとの半数は大学の制服を着たまま道場へ出た」とあります。

最初に権藤から訓示があり「今日から稽古は烈しくなる。・・・・・・先輩たちも、この夏の稽古を意義あるものにするために、わざわざ無声堂に集まって下さった。あすから五人掛け、七人掛け、十人掛けと、遠慮なくぴしぴしやる。・・・・・・いい加減な理由をつけて見学を申し出ても許さん」とのこと。

ここでは以前にも引用した(北の海の風景その4・参照)、明治時代末の無声堂の写真を用いて夏稽古の風景を想像してみましょう。左側で見学している方たちを「制服を着て練習を見守る大学生」、右側の色の異なる柔道着を着た人を「久住」という大学生のなかでもリーダー格の人物に見立ててみます。

出典:『東宮行啓紀念写真帖』,第四高等学校,明42.12. 国立国会図書館デジタルコレクション https://dl.ndl.go.jp/pid/780857 (参照 2024-02-23、一部加工)
https://dl.ndl.go.jp/ja/pid/780857/1/19

洪作はその久住に稽古をつけてもらいます。久住からは「いまにいい柔道をやるようになるよ、君は。―――素直だ、実に」とほめられます。
「洪作は結局、寝技でもとり、立技でもとった。不思議なほど、自由に体が廻った」とのこと。下にはそのころの洪作(=井上靖氏)の写真を引用させていただきました(井上靖記念館の企画展ポスター)。

洪作が四本とった久住は、二年生から「神さま」といわれるほど四高時代は有名な選手でした。実際にこのあと久住と南との稽古があり、久住の強さを目の当たりにすることになります。

有名な師範たち

少し話はそれますが、下に引用したように金光弥一兵衛氏と小田常胤氏は「東の小田、西の金光」と言われ、高専柔道でも有名な柔道家でした。例として杉戸が得意とした「三角締め」は六高師範の際に金光氏が開発した技とされています。

小田は旧制二高のほか江川定夫が師範を務める金沢の旧制第四高校でも寝技のコーチを務め、1921年7月の第8回全国高専大会では「死んでも勝つ」をモットーに大会8連覇を誓った[11]。この大会では小田率いる旧制四高と、小田と共に寝技の双璧と知られ“東の小田、西の金光”と称された金光弥一兵衛率いる旧制第六高校とが本命と見られており、両校は準決勝戦で激突。

出典:ウィキペディア
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B0%8F%E7%94%B0%E5%B8%B8%E8%83%A4

なお、金光弥一兵衛氏(下写真左)は「新式柔道」、小田常胤氏(下写真右)は「柔道は斯うして勝て」という柔道の指南書を発行されており、国立国会図書館デジタルコレクションでも閲覧ができます。以下ではこちらの著書の写真などを引用しながら、四高の夏期稽古の様子をイメージしていきましょう。

出典:Kōbunkan(隆文館), Public domain, via Wikimedia
Commonshttps://commons.wikimedia.org/wiki/File:Yaichib%C4%93_Kanemitsu.jpg(金光弥一兵衛)
Nanbokusha(南北社), Public domain, via Wikimedia Commonshttps://commons.wikimedia.org/wiki/File:J%C5%8Din_Oda.jpg(小田常胤)

川根の柔道

川根という柔道部員も洪作に強い印象を与えました。
「二年の部員で一番弱いのは川根という小柄な青年であった。川根は背も低いし、見るからに繊弱な体格をしていた。どうして柔道部などに紛れ込んだのか不思議に思われるくらいであった。・・・・・・稽古が辛くなると、みんな川根を相手に選んだ。川根と稽古をしている間は体を休めることができるからであった」とあります。

烈しい練習が始まってから三日目、権藤が「鳶と川根と十本勝負・・・・・・他の者は稽古をやめて見学」と大声で叫びました。

洪作の予想通り、鳶がすぐさま川根を押え込んで一本をとります。ここでは四高柔道部の師範を務めたこともある小田常胤氏「柔道は斯うして勝て」から後袈裟固の写真を引用し、押え込む鳶の姿をイメージしてみましょう。

出典:小田常胤 著『柔道は斯うして勝て』,南北社,大正9. 国立国会図書館デジタルコレクション https://dl.ndl.go.jp/pid/961561 (参照 2024-02-24、一部加工)
https://dl.ndl.go.jp/ja/pid/961561/1/29

ところが、「そのうちに攻撃と守備は逆になった」とあります。「川根は疲れきっている鳶をゆっくりと攻め、隙をみて十字逆をとり、六本目は川根の勝ち星になった」。下には四高の宿敵・六高の師範であった金光弥一兵衛氏の「新式柔道」から腕挫十字固の写真を引用させていただきます。このようにして最終的には川根が粘り勝ちします。

出典:金光弥一兵衛 著『新式柔道』,隆文館,大正15. 国立国会図書館デジタルコレクション https://dl.ndl.go.jp/pid/1020063 (参照 2024-02-24、一部加工)
https://dl.ndl.go.jp/ja/pid/1020063/1/91

以下に稽古のあとの洪作と川根との会話を抜粋します。
洪作「川根さんは疲れないんですか」
川根「そうでもないさ、やはりへとへとだ。・・・・・・人間だから誰でも疲れる。ただ、僕は毎日の稽古の時、休みなしにやっている。稽古だけは人の倍やろうと、自分で誓っているんだ。・・・・・・俺みたいに、全然強くなる見込みのない者でも、柔道のやり方というものはある。自分とやるんだよ。相手に勝つんでなくて、自分に克つんだ」
川根「な、こうして休んでいるとらくだろう。いつまでも休んでいたいだろう。が、休んでいてはいけないんだ。自分との戦いだ。休みたい気持ちに克つんだ。辛いが、立ち上がるんだ」

といって次の稽古相手を探しにいきました。「川根はいつか疲労というものを受け付けぬ不思議な体力を作り上げていたのである」とあります。

鳶と杉戸

金沢での洪作の相棒となった杉戸や鳶の素質については以下のように述べられています。「柔道をやり始めて何ほども経っていなかったが、鳶と杉戸は将来を嘱望されていた。鳶はその闘志において、杉戸はそのねばりにおいて、他の部員の到底及ぶところではなかった」。

鳶は「生命がけでぶつかってくるので、怪我をすることも多かったし、他の者と稽古する場合の何倍か疲れた」とのこと。また、杉戸については「長い脚を利用して、相手の首を捉える三角締め専門だった・・・・・・二、三回、その金火鉢のような脚で叩かれると、大抵の耳がはれあがった」とあります。

出典:金光弥一兵衛 著『新式柔道』,隆文館,大正15. 国立国会図書館デジタルコレクション https://dl.ndl.go.jp/pid/1020063 (参照 2024-02-28、一部加工)
https://dl.ndl.go.jp/ja/pid/1020063/1/85

上には金光氏「新式柔道」から「松葉搦の絞(=前三角絞)」の写真を引用させていただきました。上でもご紹介したように、同著の説明文には「此の技は著者が発見したる業の内にても人々の注意を惹きたるものゝ一つにして、此の名称は絵に書く折松葉の如くに搦みて絞むるを以って名付けたのである」とあります。

前三角絞である。1926年の金光の著作『新式柔道』に既にこの形態の写真が「松葉搦の絞」の名で掲載されている

出典:ウィキペディア
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%89%E8%A7%92%E7%B5%9E%E3%82%81

一年対二年の練習仕合

夏稽古の数日前、「一年の部員と二年の部員の練習仕合」が行われます。「南、宮関、大天井はいずれも二段であり、そのほかに四名の初段が加わっている。白帯は三人だけで、その中に鳶と杉戸が入っている」
「これにひきかえ、二年側は全員白帯だった。この稽古を終ると、何人かは黒帯になるということだったが、現在の所では有段者は一人もいなかった」とのこと。初段を取得するには1年または1年半の修行期間(試合ポイントによる)が必要であったのは、現在と同じであったようです。

下には洪作(=井上靖氏)の柔道着写真(右下)を引用させていただきました。井上靖記念文化財団の機関誌・伝書鳩第5号によると、大津商業柔道部の合宿にコーチとして参加したのは、四高・二年の夏の時期とのことです。合格後、先輩たちと同じく1年ほどの修行期間を経て、有段者(黒帯)になったのでしょうか。

「二年の大将は蓮実、一年の大将は大天井である。一年側が大天井を大将に据えたのは、副将の南までで勝敗を決めてしまい、大天井を残して買ってしまおうという作戦であることは明らかであった」

仕合の詳細は省略しますが、途中で番狂わせがあり「一年側は大天井を一人残して勝つどころか、大天井が一人で三人を引き受けなければならなくなった」という事態に。

洪作はこの時、大天井の試合を初めて見ます。「大天井と光村の仕合は・・・・・・見ていて何とも言えず美しかった。大天井はみごとな払い腰で二回捲き込んだが、その度に光村は背中を畳につかないで、倒れた時は大天井の背にくっついていた」とのこと。技をかけたのは大天井ですが、畳の上では「光村が攻めに廻った」とあります。

出典:金光弥一兵衛 著『新式柔道』,隆文館,大正15. 国立国会図書館デジタルコレクション https://dl.ndl.go.jp/pid/1020063 (参照 2024-02-28、一部加工)
https://dl.ndl.go.jp/ja/pid/1020063/1/28

「『それまで』と久住が引き分けを宣した時、間髪をいれず、大天井を小外刈りを放った」。下には「新式柔道」から小外刈りの写真を引用し、久住が「一本」と判定するところを想像してみます。何とか1勝した大天井ですが「誰の目にも疲れて見えた」とあり、次の二年生には一方的に攻められることに・・・・・・。

出典:金光弥一兵衛 著『新式柔道』,隆文館,大正15. 国立国会図書館デジタルコレクション https://dl.ndl.go.jp/pid/1020063 (参照 2024-02-24、一部加工)
https://dl.ndl.go.jp/ja/pid/1020063/1/45

夏稽古終了

権藤が「稽古やめ」と宣言し、部歌を歌い終わると、「鳶はひとり、もんどり打って、受け身の形をやると」、「終わった!」とどなります。下には「新式柔道」から受け身の写真を引用させていただきました。

出典:金光弥一兵衛 著『新式柔道』,隆文館,大正15. 国立国会図書館デジタルコレクション https://dl.ndl.go.jp/pid/1020063 (参照 2024-02-24、一部加工)
https://dl.ndl.go.jp/ja/pid/1020063/1/13


以下は、鳶と権藤との会話です。
権藤「何が終わった?」
鳶「もう、これで何日か稽古ができないと思うと、感無量というところです」
権藤「いやに元気になったな。エネルギーが余ってるじゃないか」
鳶「せめて、もう二、三日稽古があると」
権藤「大きなことを言うな」

「権藤は言ったが、彼自身やはり嬉しそうな顔をしていた」とあります。

夏休み

柔道の練習が終了し夏休みに入った日の午後、洪作たち三人は香林坊の大きな喫茶店に入り、大天井が来るのを待ちます。「今日は普通の人間が食ってる物を食ってみようや」と鳶が提案し、皆でソーダ水を飲んだりアイスクリームを食べたりしました。

下には名古屋にある老舗の喫茶家「ロビン」のソーダ水の写真を引用させていただきました。「北の海」の時代にはモダンな飲み物でしたが、(鳶たちは)青い液体の中にストローを入れ「チュウという音がしたと思ったら、コップの中の液体はなくなっていた」というようにワイルドに飲み干します。

お土産

喫茶店を出ると杉戸は「俺、おふくろから菓子を頼まれていた」。「この町の名物になっている干菓子」とは江戸時代創業の老舗和菓子店「森八」の「長生殿」というお菓子です。こちらは和三盆糖の上品な甘さと口どけのよさが特徴で、現在もお土産として人気があります。下には見た目も美しい「長生殿」の写真を引用させていただきました。

「その干菓子を売っている老舗まではかなりの距離があった」とあるように、当時、繁華街からは少し離れた橋場町に、下に引用したような大きなお店を構えていました。

出典:小谷書店 著『金沢案内記』,小谷書店,大正10. 国立国会図書館デジタルコレクション https://dl.ndl.go.jp/pid/963479 (参照 2024-02-24、一部加工)
https://dl.ndl.go.jp/ja/pid/963479/1/64

四人はお店のなかに入り、「大天井は一番大きい菓子折りを八個買い」ます。以後の会話を抜粋してみましょう。
大天井「もう、これでいいか。羊羹もあるぞ。白いのと黒いのがある」
鳶「要らん、要らん」
大天井「赤い粒をふった菓子と白い粉をふった菓子があるぞ。この方も有名だ。俺は食ったことはないが、うまいらしい」
杉戸「要らん、要らん」

赤白の「粉をふった菓子」は「千歳」という商品でしょうか。こしあんを求肥で包んだ小ぶりなおまんじゅうです。下には美味しそうな「千歳」の写真を引用させていただきました。

スキ焼屋にて

夏期練習の打ち上げはスキ焼店でやることになります。お店の名前は明記されていませんが、ここでは四高柔道部のコンパ会場として、井上靖氏もしばしば利用した「堅町天狗(天狗中田本店)」に登場していただきましょう(下に引用)。

コンパは「堅町天狗」において定期コンパ
が年に2回,その他歓迎会や送別会が数回行わ
れている。

出典:旧制第四高等学校のスポーツ活動研究(2)昭和2~3年(井上靖在籍当時)の柔道部練習日誌から、金沢 : 金沢大学教育学部、金沢大学教育学部紀要. 教育科学編 / 金沢大学教育学部 編 (56) 2007.2、大久保英哲氏

また、下には「天狗中田本店」の公式サイトから、大正期の写真を引用させていただきました。「大きな店の構えで、入口の板敷のところに二階へ通じる階段があった」とのこと。ここでは鳶が「おーい、お客さんだぞ」と上に向かって怒鳴るところを想像してみましょう。

出典:天狗ハム公式サイト
https://www.tenguham.co.jp/

また、こちらの二階での四高生と「女中」さんとのやり取りも聴いてみましょう。
杉戸「いい匂いだな」
女中「あんたたち、夏休みだというのに、まだうろうろしているの。困った人たちだね」
鳶「牛肉を食わせろ」
女中「商売だから食べさせて上げるけど、おとなしく食べるのよ」
鳶「いつだっておとなしく食べているじゃないか」
女中「嘘おっしゃい。―――いつか、火鉢を袴の中に入れて持ち出そうとしてのは、あんたでしょう」
鳶「知らんな」
女中「だめ、だめ、ごまかそうと思っても・・・・・・あら、この人も一緒だった」
杉戸「知らんよ」
女中「あんたはやかんを持ち出した」
杉戸「そうだったかな」
女中「さきに断っておくけど、今日は店の物を勝手に持ち出さないで下さいよ」
などと、信用がありません。

兼六園

スキ焼パーティーで練習の締めを行った次の日、大天井たちは洪作を連れて真夏の兼六園に入っていきます。「蝉が鳴いていますね。・・・・・・とんぼも居ますね。」という洪作に対し「幼稚なことを言うな。だからこんなのを兼六園に連れて来てもむだだと言うんだ。加賀百万石の殿さまのお庭なんだそ。蝉の声のほかに、水の音が聞こえるだろう。水の音を聞け。泉響さくさくたり」といいます。

下には広坂通り側にある真弓坂を上り、霞ヶ池に向かう途中のストリートビューです。ここでは右側にある小川の音に耳をすませてみましょう。

以下は会話の続きです。
杉戸「泉響さくさくとは言わんだろう」
大天井「泉響とうとうか」
杉戸「とうとうも変だな」
大天井「どっちでも同じようなものだ。まあ、そういったようなもんだ。洪作、覚えておけ。試験に出るぞ」
と正解が分からないまま話が終わります。

こちらについては井上靖氏が青森県十和田市の蔦温泉のことを詠んだ「泉響颯颯(せんきょうさつさつ)」(=泉の響きが風の吹くように聞こえてくるの意)が正解かもしれません。ちなみに蔦温泉には井上氏の言葉を由来とした「泉響の湯」が今でも残されています。

出典:石川県 編『石川県史』第五編,石川県,昭和8. 国立国会図書館デジタルコレクション https://dl.ndl.go.jp/pid/1921116 (参照 2024-02-27、一部加工)
https://dl.ndl.go.jp/ja/pid/1921116/1/25

また、上に引用させていただいたのは大正時代の兼六園・霞ヶ池付近の写真です。ここでは、こちらの写真の手前に洪作の姿を置き、初めて見る純和式の庭園に「いい庭だな。全くの人工庭園ですね」といい、「石一つ、木一つも置かれる場所に置かれてある感じだった」と感想を述べる場面を想像してみます。

滝の前で

鳶「暑いなあ」
杉戸「・・・・・・そろそろ引き揚げるか」
大天井「まあ、そう言わずにひと廻り廻って見せてやれ。来年の春、しょんぼりして、ここを歩かないものでもない。落第したことが判って、世をはかなみながら歩くには、ここはいいところだ・・・・・・」
鳶「じゃ、滝でも見せてやろうか」

彼が言ったのは兼六園でも見どころのひとつとなっている「翠滝(みどりたき)」のことと思われます。以下にはその翠滝を昭和初期に撮影した写真を引用させていただきます。

出典:石川県 編『石川県史』第五編,石川県,昭和8. 国立国会図書館デジタルコレクション https://dl.ndl.go.jp/pid/1921116 (参照 2024-02-27、一部加工)
https://dl.ndl.go.jp/ja/pid/1921116/1/21

大天井「あの滝の音がまた落第生には身にしみる。何とも言えず、世の中がつまらなく思えてくる。・・・・・・この1年猛勉強したが、ついに親の期待にも応えなかったし、先輩の期待にも応えなかった。かくなる上は―――」
鳶(声色を使って)「早まったことを考えるではない」
大天井「いや、とめるな。・・・・・・かくなる上は是非もない。―――道場を叩きこわして、校舎に火をつけてやる」
洪作「その時は手伝いますよ」

洪作は笑いながら言いました。

柔道部員たちとの別れ

数日間のつもりでやってきた金沢ですが、結局練習に最後まで参加して10日以上の滞在になりました。来た時は手ぶらでしたが、帰りはお土産の干菓子の箱や、杉戸からもらった参考書などで風呂敷が一杯です。

今回の最後の風景は大天井や杉戸、鳶が金沢駅まで洪作を見送る場面としましょう。下には昭和初期の金沢駅の写真を引用しました。

出典:石川県 編『石川県史』第五編,石川県,昭和8. 国立国会図書館デジタルコレクション https://dl.ndl.go.jp/pid/1921116 (参照 2024-02-23、一部加工)
https://dl.ndl.go.jp/ja/pid/1921116/1/44

「四人は改札口の方へ歩いて行った。米原行きの汽車が駅のホームにはいって来ると、洪作はそれに乗った」。以下に、四人の会話を抜粋します。
杉戸「じゃ、来年の三月に来るな。来る時、電報を寄越せば迎えに出ていてやる」
鳶「勉強しないとだめだぞ。俺たちは勉強しないが、俺たちの真似をしてはいかん。俺たちは四高にはいっているんだからな」
大天井「鳶でもはいれるんだから、四高なんぞ誰でもはいれる。だが、全然勉強せんと、俺の経験では、どうも入りにくいようだ。
洪作「大天井さんも頑張って下さい」
大天井「ひとのことを心配するな。俺の方は黙っていてもはいれる。もう場慣れもしているし、三年も勉強している。そうそう俺の知らんことばかりはでないだろう。来年あたりはそろそろ俺の知っていることばかりが出る年が廻ってくる番だ」

「汽車が動き出すと、三人はいっせいに右手をあげた。次第に遠くなって行く異様な風体の三人に、洪作は窓から身を乗り出すようにして眼を当てていた」とあります。

旅行などの情報

森八

杉戸たちが干菓子のお土産を購入したお店です。江戸時代に創業した老舗で明治2年に現在の屋号「森八」に変更しています。場所は2011年に新築移転していますが、「長生殿」や「千歳」など大正当時の商品は現在も販売されています。

下に引用させていただいたような赤崎いちごやルビーロマンなどの地元フルーツを使った「能登の宝ゼリー」などの新商品も人気です。武家屋敷を眺めながらお菓子を味わえる森八茶寮も併設されているので、兼六園観光と併せてめぐってみてはいかがでしょうか。

基本情報

【住所】石川県金沢市大手町10-15
【アクセス】橋場町バス停から徒歩1分
【参考URL】https://www.morihachi.co.jp/honten_top

天狗中田本店

四高生のイベントにも使用された明治41年創業の有名な食肉加工品・料理店で、洪作のお別れコンパの場面に登場していただきました。地元のブランド牛・能登牛をはじめとして国内産「黒毛和牛」や独自製法で造る「ハム」など品質の高い商品を扱っています。

以下に引用させていただいた投稿のよう冬季なら6名以上から食事の予約もできるとのこと。大天井や四高生のようになった気分を味わえるかもしれません。

基本情報

【住所】石川県金沢市兼六町1
【アクセス】野町駅から徒歩約16分
【参考URL】https://www.tenguhonten.co.jp/

兼六園

洪作が帰郷する前日に大天井たちが連れて行ってくれた金沢を代表する観光地です。洪作が訪問したのは真夏の時期だったため、綺麗な緑を眺めながら、蝉や鳥の声、水の音などを楽しめました。

春には桜色に染まり、秋にはカラフルな紅葉の名所となります。また、冬は雪の重みによる枝折れ予防のための「雪吊り」が名物で、下に引用させていただいたようなライトアップが美しい季節です。このように季節により異なる魅力があるため、リピートしても楽しめるでしょう。

基本情報

【住所】石川県金沢市兼六町1
【アクセス】金沢駅からバスで約20分、兼六園下で下車
【参考URL】http://www.pref.ishikawa.jp/siro-niwa/kenrokuen/