内田百閒「第三阿房列車」の風景(その1)
長崎阿房列車
第二阿房列車・雷九州阿房列車(・・・の風景・参照)を走らせてから3か月半ほどたった昭和28年10月、「長崎に行こうと思う」と思い立ち、「長崎行二三等急行、第三七列車『雲仙』」に乗り込みます。食堂車に「悠久六時間」居座り、途中からは山系君の友人も加わって楽しいお酒を満喫。長崎に宿泊して端唄を聴き、最後は八代の定宿・松浜軒で締めくくります。
車窓の風景
東京駅を「電気機関車の曖昧(あいまい)な汽笛が鳴り響き」、例によって夢袋さんのお見送りを受けながら東京駅を出発しました。そして「新しくなって・・・・・・明るい」品川駅に停車し、大森蒲田を過ぎる頃から、段段に速くなった」「その勢いで六郷川を渡ったと思うと・・・・・・不意に暗い雲が流れて来て、車窓に雨滴を叩きつけた」とあります。
ちなみに先生に同行する山系君は押しも押されもせぬ「雨男」で通っています。下には昭和26年に撮影された急行「雲仙」の写真を引用させていただきました。雨のシーンを想像し「貴君、雨が降って来た」という先生に対し「はあ」と曖昧な返事をする山系君を最初の風景としてみます。
機関車は名古屋で切り替え
小田原と熱海の中間のある隧道を抜けた所で、「同じ『雲仙』の上り第三八列車と行き合い、お互の電気機関車が嘶き交わして擦れ違った」と鉄道旅ならではの音が聞こえます。また、「天竜川では大分暗くなりかけた靄の中に赤い筋が流れて、心無き阿房列車の旅心をそそった」とのことです。
ちなみに、特別阿房列車(第一阿房列車の風景その1・参照)では「浜松で電気機関車を蒸気機関車につけ換えたが、この頃は名古屋まで電気機関車の儘で行く」と、電化が進む様子も描かれています。
山系君と「一盞を傾けて」いると「いつの間にか窓が真暗になり、窓硝子に響く汽笛の音が、蒸気機関車C62の複音に変わって」います。下には蒸気機関車の汽笛音を引用させていただきました。先生のいう「汽車が次第に濃い夕闇の中へ走り込んで行く時に聞く汽笛の響き」とはこのような音だったでしょうか。
食堂車で長居
「雲仙の食堂車は定食時間を八釜(やかま)しく云うという事を聞いていたので・・・あらかじめ偵察を試みた」とあります。具体的には給仕さんに「定食を食べて、それから他の料理も食べていいかい」などと回りくどい質問をし、長居しても大丈夫そうだと判断しました。そして、より長くお酒を飲むために、定食時間よりも前に食堂に入ることにします。
下に引用させていただいたのは昭和20年代の食堂車の和やかな風景です。こちらの写真のどこかにほろ酔い加減の先生と山系君の姿を置いてみましょう。
山系君の友人が調子に乗って・・・
2人で飲んでいると、途中から山系君の友人2人が食堂車にやってきて、同卓することになります。その一人は山系君に次のような話をしていました。「漱石先生を神様のように思う。しかしそれだからと云って、一一、夏目漱石先生の吾輩ハ猫デアルといわなくても、漱石の猫で冒涜にならない。或いは猫の漱石でもいい」といいます。
そして更に調子に乗って「内田百閒先生の阿房列車なんで長過ぎる。百閒の阿房でいいだろう。或いは阿房の百閒でもいいね」と続けます。先生がにやっとしたか、むっとしたかは書かれていませんが、下には柔らかい表情の先生の写真を引用させていただきました。
出典:国会図書館「近代日本人の肖像、内田百閒、一部加工」
https://www.ndl.go.jp/portrait/datas/6240
大村線の景色が見たいが・・・
四人部屋の二等寝台でぐっすり寝ていると列車は九州近くまで進んでいました。「博多の次の停車駅鳥栖(とす)から鹿児島本線を離れて長崎本線に入り・・・佐世保線に入り」、「早岐(はいき)で佐世保線から別れて大村線に入り、大村湾の沿岸を走りだした」とあります。
先生は「美しい水の色と、その水に照り映える空とを区切った向こうの西彼杵半島の山の姿をよく眺めたい」と思いますが、他人に西日が当たるためカーテンを引かざるを得ませんでした。下に引用させていただいた写真は大村線の絶景駅として知られる千綿駅からのパノラマ写真です。先生が見たかったのはこのような景色だったかもしれません。
出典:写真AC
https://www.photo-ac.com/main/detail/3878909&title=%E5%8D%83%E7%B6%BF%E9%A7%85%E3%83%9B%E3%83%BC%E3%83%A0%E3%81%AE%E5%89%8D%E3%81%AB%E5%BA%83%E3%81%8C%E3%82%8B%E5%A4%A7%E6%9D%91%E6%B9%BE
長崎で宿泊
長崎駅に到着した先生一行は「駅から自動車で宿屋へ行く。・・・・・・町の中に丘陵があるらしい。登って降りて宿屋の前に着いた」とあります。また「通されたのは、廊下の勾欄(こうらん)で庭を抱いた二十畳の広間である」という立派な旅館だったようです。明記されていませんので推測の域を出ませんが、先生が宿泊したのは、日本三大名旅館の一つとされた「諏訪荘」だったかもしれません。
昭和11年より「諏訪荘」の商号により、和式旅館として営業し、日本三指に数えられる。内外の著名人が多数利用、天皇皇后両陛下には、皇太子時代に御宿泊されております。
出典:鎮西大社諏訪神社
https://www.osuwasan.jp/page0102.html
下には昭和16年の全国旅館名簿から諏訪荘の写真を引用させていただきました。ここでは、こちらの写真の車をお借りして、先生と山系君が到着したところをイメージしてみましょう。
出典:旅館研究会 調査・編纂『全国旅館名簿』,旅館研究会,昭和16. 国立国会図書館デジタルコレクション https://dl.ndl.go.jp/pid/1033104 (参照 2023-12-02、一部加工)
https://dl.ndl.go.jp/ja/pid/1033104/1/425
長崎の街歩き
長崎の宿には二泊します。一泊目は鉄道関係の二人を迎え、「杯を交えて嬉しくなかった試しはない」とご機嫌の様子です。次の日は「屋根の上の空を鶺鴒の渡る声」を聴きながらも二度寝し、「山系君が出て見ませんか」というので「何となく外へ出た」とあります。
地図を片手に「大浦の天主堂」を案内する山系君についていく先生は、途中「西洋の化物屋敷の様な日本郵船の長崎支店」が気になり、「外国航路の船が長崎に寄港しなくなったので、荒れ果てたのだろう」と感想を述べています。ちなみに、先生は昭和14年から昭和21年まで日本郵船に嘱託として勤務していました。下のような長崎支店(写真左側)の往時の様子を知っていたため、より荒廃が気になったのかもしれません。
出典:長崎名所絵葉書, Public domain, via Wikimedia Commons
https://commons.wikimedia.org/wiki/File:Nagasaki_Maru_of_Nagasaki_port,_Postcard.jpg
夜は料亭で痛飲!
二日目の夜は「昔から有名だという旗亭へ行き、お酒を飲み、芸妓(げいぎ)が歌を歌った」とあります。なお、「『春雨にしっぽり濡るる鶯(うぐいす)の』はこの家で出来た歌だそうである」といっていることから、こちらの旗亭は1642年創業の 「花月」と思われます。
この部屋で、「端唄 春雨」が生まれました。『春雨(はるさめ)』は、江戸時代に柴田花守がこの部屋で作詞。遊女をウグイスに例え、いつか男性と結ばれることを願う遊女の想いが込められております。
出典:史跡料亭花月公式サイト
https://www.ryoutei-kagetsu.co.jp/room/
箸袋に書かれた次の句「葉風ににおふ梅が香や」に違和感を覚えた先生は、「梅の花が咲くときに、葉はまだ出ていない。葉風が起こる筈がない。矢張り鶯の羽風だろう」と芸妓に尋ねます。
後で唄本を確認し、「葉風」でなく「羽風となっていた」ことを確認しますが、芸妓は「なぜそんなつまらない間違いがすぐ気になるのでしょう」と不審な様子。先生は「彼女は私共が校正恐る可き暮らしをしている事を知らない」とつぶやきます。下に引用させていただいたのは現在も史跡料亭として続く花月の写真です。奥に華やかに踊る芸妓たち、手前に一緒に口ずさむ先生の姿をイメージしてみましょう。
松井神社の臥龍梅
更に八代まで行き常宿の「松浜軒」に宿泊した先生は、山系君に誘われて八代城跡に観光に向かいます。散策の途中、松井神社の境内で細川忠興公が自ら植えたとされる臥龍梅を見ました。「樹齢三百余年と云う。黒くなった幹が地面を舐める様に這い廻って、うねくねして、梅の木とは思えない。大輪の花が咲くそうで、満開したら奇観だろうと思う」とあります。
下にはその臥龍梅の最近の写真を引用させていただきました。先生の執筆当時から100年近く経ってもまだ健在です。先生が想像したのはこのような景色だったでしょうか。
旅行などの情報
史跡料亭・花月
百閒先生がお酒を飲みにいった有名な料亭です。こちらのお店は吉原(東京)や島原(京都)とならんで三大遊郭として栄えた丸山遊郭の老舗で幕末には政治や外交の場所としても使われました。大広間の柱には坂本龍馬が酒に酔ってつくったとされる刀傷も残っています。
看板メニューは長崎伝統の卓袱(しっぽく)料理のコースで、日本の刺身と中国の豚角煮、「パスティー」というオランダ人が伝えた英国風ミートパイなどが大皿で提供されます。下には立派な外観の写真を引用させていただきました。
基本情報
【住所】長崎県長崎市丸山町2-1
【アクセス】路面電車思案橋より徒歩で3分
【関連サイト】http://www.ryoutei-kagetsu.co.jp/
松井神社
百閒先生が臥龍梅を見る場面で登場する神社です。八代城内にあり隠居した細川忠興公余生を過ごしたところです。後に細川家家臣・松井家の居館となり、明治時代に松井神社として整備されました。
臥龍梅以外にも八代市指定史跡の池泉回遊式庭園も備えているので、こちらもお見逃しなく。下に引用させていただいたように季節ごとに美しい景色を楽しめます。
基本情報
【住所】熊本県八代市北の丸町2-18
【アクセス】八代駅からバスを利用。松井神社前バス停で下車。
【関連サイト】https://kumamoto.guide/spots/detail/12695