宮本輝「満月の道」の風景(その3)

事業の拡大が裏目に?

「中古車のハゴロモ」は事業を拡大しますが、同業者の急増やエアー・ブローカーたちの嫌がらせなどにより売り上げが伸び悩んでいました。そんな時、熊吾は森井博美と再会し、たちの悪い情夫から逃れたがっていることを知ります。また、房江に暴力をふるおうとする熊吾に対し、伸仁が決闘をいどむ場面も今回の見どころです。

資金繰りに奔走

「自動車の板金塗装会社を立ち上げるために使った費用は、とんでもない見込み違いではなかったかと松坂熊吾を後悔させたほどだったが、年が明けて一月が終わり、二月の半ばになると、それらの回収が順調に運び始めた」

ところが、それ以外にも
「『中古車のハゴロモ』の大淀営業所を別の場所に移したり、さらにもう一つ新たに営業所を開設しなければならなくなった」
具体的には「港区弁天町の海に近いところに三百坪の土地を借りた」
あります。

上には熊吾が弁天町店を開設したのと同じころの弁天町駅の写真を引用させていただきました。こちらの写真を見る限りでは大きなビルは見当たらず、広い土地を探しやすかったのではないでしょうか。ここでは、周辺にあった三百坪(50mプール「×20m」)程度の広さの土地を下見する熊吾の姿を置いてみましょう。

資金繰りに困った熊吾は、飲み仲間で熊吾を「大将、大将と慕ってくる」柳田商会の松田茂から八十万円という大金を借りることに。その代償として松田は、「ハゴロモ」の新店舗を自分名義で出店することを求めました。このことが、後になって熊吾一家を苦しめることになりますが・・・・・・

伸仁の誕生日祝いだが

伸仁の16歳の誕生日を祝うために、熊吾は房江・伸仁と道頓堀の戎橋のたもとで待ち合わせをします。遅れてやってきた2人にその理由を聞くと
「モータープールの事務所でエアー・ブローカー同士がケンカを始めて、ひとりが大怪我をした」
ため、その対応に追われたとのこと。
山川というエアー・ブローカーが伸仁にからんだのを、その友人が止めに入ったのが直接の原因でした。

角座の前に来ると、熊吾は漫才でも見ないかと誘います。
「漫才でも観て気分を変えるか?ダイマル・ラケットも出ちょるぞ。秋田Aスケ・Bスケも出ちょる」

以下に引用させていただいたのはダイマル・ラケットのお二人。

また、下には秋田AスケBスケさんを引用させていただきました。こちらの芸人さんたちの表情や立ち姿を見るだけで、こちらの頬もゆるんできそうです。

ところが房江は「そんな気分になれない」と熊吾の誘いを断ります。二人の暗い雰囲気に不愉快になった熊吾は「お前らふたりだけで誕生日の祝いをせぇ。こんな不愉快な気分で、お前の仏頂面を見ちょったら、また夫婦ゲンカになるけんのお。・・・・・・」
といって立ち去りました。

赤井との交渉

エアー・ブローカーの山川が伸仁にからんだのは、その前に事務所にやってきたヤクザにお茶を頭からかけられて気が立っていたからでした。
森井博美は情夫・赤井のもとから逃げ出していて、そのヤクザ(=赤井の兄貴分)は熊吾が匿っていると疑って脅しにきたのではと考えます。熊吾は直接会って話そうと、赤井のアパートに向かいました。

下に引用させていただいたのは昭和30年代のアパートを再現したものです。
こちらの写真に
「足の踏み場もない散らかりようで、インスタント・ラーメンの空袋や一升壜や汚れた丼鉢が、敷いた蒲団の枕元に散乱していた。壁際に(博美が仕事で使う)ミシンがあった。」
という記述を重ねてみます。

以下は博美との手切れ金の交渉の抜粋です。
熊吾「わしは金持ちじゃあらせんのじゃ。シンエー・モータープールの開業の手伝いはしたが、身分は管理人に毛が生えたようなもんで、生活費の足らんぶんは、中古車を仕入れて売っちょる。たいした儲けにはならんが、息子を上の学校に行かせるための貯えがちょっとある。幾ら払うたら、あんたは博美さんときれいに別れてくれるんじゃ。わしが払える金額なら、それで手を打たんか」
赤井「なんぼ払えるねん」
熊吾「そっちから金額を言うてくれ。無い袖は振れんけんのお」
赤井「ここでちょっと飲んでてくれや」
とアパートの外に出て行ったとのこと。電話で兄貴分から赤井が指示された金額は高額でした。

伸仁との決闘

赤井の家を出てから阪神裏のホルモン焼き屋に立ち寄り、家に帰ったのは十二時過ぎ。事務所では房江がこっそりと酒を飲んでいます。
熊吾「もうストーブを消して二階へあがれ。だいぶ飲んだんじゃろう・・・・・・何の当てこすりじゃ。あのまま銀二郎に行っちょたったら、どうせろくなことにはならんと思うて、わしは席を外したんじゃ。・・・・・・」
房江「ノブの誕生日は、大事な大事な日やねん。お父ちゃんと一緒に祝ってやりたいねん。あの子が小さかったとき、誕生日が来るたびに、来年も誕生日を迎えられるやろかと不安やったやろ?やましいことがないんやったら、私から逃げるようにしてタクシーに乗ってしまうことはないやろ?・・・・・・」

熊吾が怒って一升瓶を持ち上げると、事務所の引き戸があいて伸仁が入ってきます。
伸仁「それでお母ちゃんを殴ったら、ぼくは許さんぞ」
熊吾「許さんぞ、じゃとお?それが父親に対して使う言葉か」
「伸仁は熊吾の背広の袖をつかんだまま、うしろへ下がって行き、足元に注意しながら洗車場へと移動した。伸仁の別の手は、熊吾の肩口をつかんでいた。」
とあります。

出典:金光弥一兵衛 著『新式柔道』,隆文館,大正15. 国立国会図書館デジタルコレクション https://dl.ndl.go.jp/pid/1020063 (参照 2024-09-11、一部抜粋)
https://dl.ndl.go.jp/ja/pid/1020063/1/49

上には井上靖氏の「北の海」で洪作たちが参考にした(?)金光弥一兵衛「新式柔道」から、「体落」の写真を引用させていただきました(北の海の風景その8・参照)。

「そうか、こいつが毎晩毎晩、一日も休まずに柔道着の帯を柱に巻きつけて体落としの稽古をつづけてきたのは、この俺をぶん投げるためだったのだ。俺はそれとは知らず、看板屋の作業場に造った柔道場に伸仁を通わせて月謝を払いつづけてきたのだ」

イメージをつかみやすくするため、下には講道館公式チャンネルから「体落」の動画を引用させていただきます。

「組んでいたら負ける。こいつはいつのまにか腕力をつけやがった。熊吾はそう思い、革靴の先端で向こうずねを蹴った。伸仁は予想していたらしく俊敏にかわした。かわされた脚に痛みが走り、膝から先が痺れて、熊吾は立っていられなかった。」

「熊吾はコンクリ―ト敷きの冷たい洗い場に坐ったまま、ケンカに負けた子供のように、近くにある小石を伸仁に投げつづけた。くそっ、くそっと言いながら、もっと大きな石はないかと探しているうちに、熊吾は顔を歪めて泣いてしまった。怒りも悔しさもなかった。あのいまにも死んでしまいそうな赤ん坊が、こんなに大きくなった。こいつはもうひとりで生きていける。俺の役目は終わった。」

伸仁の高校が移転

「東京の山手線と同じようなものを大阪市内にも走らせるという計画が発表されたのがいつだったのか、熊吾には思い出せなかった。・・・・・・昭和三十八年に入ったころから、あちこちに工事中の高架が姿をあらわし始めたとき、日本という国が本物の経済力を得たことを知った。」
とあります。

出典:ふくまる通り公式サイト、福島駅の高架化(1959年)
https://www.hanshin.co.jp/fukumarudori57/sp/about.html

上には昭和34年ごろの大阪・福島駅の高架化工事の写真を引用させていただきました。
この日の朝、熊吾は「茨木市に移転した校舎での初めての授業のために登校する伸仁と福島駅の仮駅舎にいった」
とのこと。昭和三十八年にはほぼ完成していたようです。

このような景色を見ながら、熊吾は以下のような思いにとらわれていました。
「『大阪環状線』としてすべての駅がつながるのがあと一年ほどだと知って、熊吾は妙な焦燥感に襲われた。時代は予想をはるかに超えて進んでいるのに、俺は老いていく・・・・・・」

大村兄弟の趣味

ハゴロモの板金部門(松坂塗装会社)で熊吾が新しく雇った「坊主頭の青年(満月の道その2・参照)」たちは大村信一と孝二という名前の兄弟でした。熊吾が鷺洲店で店番をしていると、松坂塗装会社となった大淀店から玉木がやってきます。
玉木「あの大村の兄弟、三日前から六時半に工場に来て、七時前に仕事を始めるようになりました。小槌で車体を叩きだしたり、グラインダーで削りだしたら、二階で寝てられません。そのうち、近所から苦情が出ますよ」
熊吾「あの兄弟の辞書には夜遊びっちゅう言葉はないんじゃ。どんな家に育ったのかのお。テレビは観ん。ラジオも聴かん。博打には興味なし。趣味は仕事。夜の十時にはもう熟睡しちょるらしい」
玉木「あの兄弟は、仕事を早ように終えたいから早朝に始めよるんです。趣味は仕事だけとちがいますねん。・・・・・・ラジコンです・・・・・・最近は、自分らが世界で初めてヘリコプターを飛ばしてみせようと必死になってます。無線機もヘリコプターも、みんな自分で作るんです。」

上には愛知県の犬山ラインパークで昭和54年に開催された中日新聞社主催の「航空博」の動画を引用させていただきました。後半には博覧会の目玉の一つとしてラジコンヘリの曲芸飛行のシーンが紹介されています。

「航空博」の20年ほど前の昭和37年ごろ、まだラジコンヘリは商品化もされておらず、大村兄弟のように自分でつくるしかありませんでした。

下に引用させていただいたのは60年代から70年代の科学関連の雑誌の写真です。大村兄弟は1961年創刊の「ラジコン技術」などから知識を得ていたかもしれません。

熊吾「そんな小さな、自分らで作ったヘリコプターがちゃんと飛ぶのか?」
玉木「なかなかうまいこといかんそうです。無線電波が弱いのと、模型のヘリコプターが重いそうで。三十センチほど浮かんで、右に旋回したり左に旋回したりはできるんやけど、それが限界やそうです。そやから、どれだけヘリコプターの重量を軽くするかで、しゃかりきになってますねん。ノブちゃんが知ったら、大淀の店に入り浸りになりかねませんよ。勉強どころやないようになって、ラジコン少年の道をまっしぐら・・・・・・」

ビフカツサンドを食べながら

年末に新しく購入した弁天町の支店に玉木が行ってしまうと、入れかわりにハゴロモの中古車仕入担当として働いている黒木博光がやってきます。彼は十日間の九州出張から帰ってきたばかりでした。
黒木「社長、昼飯は?」
熊吾「まだじゃ。腹が減って目がくらんじょるが、この近くにうまい店はないけんのお」
黒木「これを召し上がってください・・・・・・カツサンドです」
熊吾「ビーフカツレツのサンドイッチっちゅうやつか?効いたことはあるが、まだ食べたことはないんじゃ」
黒木「うちの近所の肉屋の次男坊が店の二階で洋食屋を始めまして。こんな貧乏人ばっかり住んでるとこで洋食屋をやっても客なんかないで、と思てたんですけど、うまいという評判を聞いた客で一杯ですねん・・・・・・」

上に引用させていただいたのは昭和36年に開業した大阪を代表する老舗洋食屋・グリル梵本店のビーフヘレカツサンドの写真です。ここではカツサンドをほおばりながら「うまい、これはうまい」と感動する熊吾の顔を想像してみましょう。

以下に食事を終えたあとの熊吾と黒木の会話を抜粋します。
熊吾「二月と三月の不景気がハゴロモの資金繰りを狂わせよった。弁天町に三百坪の土地を借りて事務所を建てた費用もこたえちょるが、商売に限らず物事っちゅうのは、ひとつ目算が狂うと連鎖的につながっていきよる。二月と三月の売り上げがあんなにいっぺんに落ちるとは考えもせんかったけんのお」
黒木「そんなに悪かったんですか?」
黒木は不審そうな表情をみせます。

旅行などの情報

下町風俗資料館

熊吾が博美の情夫・赤井との手切れ金交渉をする場所として引用させていただいた施設です。上野公園のそばにあり、明治から昭和までの東京・下町の生活を再現した資料館となっています。なお、令和5年の4月から令和7年度末まではリニューアルのため閉館中。されに充実した展示が見られることを期待して待ちましょう。

なお、昭和の懐かしい生活風景は名古屋の「昭和日常博物館」や岐阜県の「高山昭和館」などにも再現されています。

基本情報

【住所】東京都台東区上野公園2-1
【アクセス】JR上野駅から徒歩で約5分
【関連URL】https://www.taitogeibun.net/shitamachi/

グリル梵本店

熊吾の昼食用に黒木が差し入れた美味しいカツサンドのお店として登場してもらいました。グリル梵の牛フィレ肉を使用したヘレカツサンドは下に引用させていただいたように、ほどよい焼き目の入った香ばしいパンの下にジューシーなカツがたっぷり詰まっているのが特徴です。

冷めても肉が柔らかく、美味しく食べられるためお土産としても人気があります。新世界の本店では、ヘレステーキやヘレカツカレといった洋食メニューも提供。大阪堂島店や新大阪店、東京銀座店ではカツサンドを扱っているので、お近くの店舗をご利用ください。

基本情報

【住所】大阪府大阪市浪速区恵美須東1-17-17
【アクセス】堺筋線・恵美須町駅から徒歩約2分
【関連URL】https://tabelog.com/osaka/A2701/A270206/27001105