宮本輝「野の春」の風景(その5最終回)

昭和43年の春を迎えて

熊吾は中古車販売店「ハゴロモ」の運営だけでなく、木俣の高級チョココートとフランス料理店とのコラボを成功させ、森井博美の遺産相続に手を貸すなど精力的に活動していました。また、挨拶に行った伸仁を門前払いした辻堂との再会のシーンも見どころです。そんな熊吾も糖尿病の悪化により入院し、房江と伸仁は不安な日々を送ります。

伸仁は東京へお使い

伸仁は柳田元雄からゴルフ場に関する書類を届けるために、東京に行くことを依頼されます。
「今夜の東京行きの寝台車に乗って、建設省のなんとかという課に行き、大森という担当者に書類を渡して、確かに受け取ったという証明書を貰うのだ」

出典:Nkensei, CC BY-SA 3.0 http://creativecommons.org/licenses/by-sa/3.0/, via Wikimedia Commons
https://commons.wikimedia.org/wiki/File:A-s-IMG_6520.jpg

上に引用させていただいたのは伸仁の時代にも運行されていた寝台急行「銀河」の寝台の写真です。こちらのベッドの上に
「アルバイトで稼いだ金で買った濃紺の丸首セーターと同色のジャケットに、明るいグレーのズボン」
という服装の伸仁を置いてみましょう。

辻堂忠を訪問

建設省(現・国土交通省)で用件を済ませた後に、伸仁は同栄証券へと向かいます。若くして同栄証券の社長となっていた辻堂忠を訪ねるためでした。熊吾は松坂商会を閉める時、辻堂と以下のような約束をしていました(流転の海の風景その7・参照)。
熊吾「わしが死んだら、伸仁を助けてやってくれ」
辻堂「私は、約束をきっと守ります。きっとです」

出典:NHKクリエイティブ・ライブラリー、幕ひらく超高層ビル時代
https://www2.nhk.or.jp/archives/movies/?id=D0002160132_00000

伸仁が東京に行く直前、辻堂への手紙をしたためながら下のように言います。
熊吾「辻堂忠さんは、赤ん坊のときのお前をよう知っちょるお方じゃ。二十歳の大学生になったお前が訪ねて来たら、喜んでくれるじゃろう」

上には伸仁が東京に行ったころに建築中だった霞が関ビルの写真を引用させていただきました。ここでは日本初の超高層ビルを眺めながら辻堂のところへ向かう伸仁の姿を想像してみます。

ところが、伸仁が持ち帰った辻堂宛の手紙は封もあけられていませんでした。
房江「この手紙を同栄証券の人は辻堂社長に取り次いでくれへんかったか?」
伸仁「いや、秘書課の人が渡すだけは渡してくれたらしいけど、そのあと応接室で長いこと待たされて、またおんなじ秘書課の人が手紙を持って戻って来て、こう言いはった。『社長は、松坂熊吾という人には覚えがないので、その息子さんのことも知っているはずがないと申しております。なにかの間違いか勘違いであろうから、今後、訪ねて来られてもお逢いしないし、お手紙を頂戴しても読む気はないとお伝えしてくれとのことでした』・・・・・・」

辻堂と再会

「宗右衛門町筋を歩くのは数年振りだった。熊吾は富山から帰ったころに房江が賄いとして働いた『お染』という店はまだあるだろうかと道頓堀川沿いに居並ぶ店舗や雑居ビルの看板を見ながら歩いた。店を閉めたらしく『お染』はなかった。・・・・・・もう一筋向こうだったかなと思って雑踏のなかを歩くうちに堺筋を渡り、島之内とよばれる地へと入った」

出典:宗右衛門町商店街公式サイト、宗右衛門町の歴史
https://soemon-cho.com/active/history/

上には熊吾が歩いていたと同じころの宗右衛門町筋の写真を引用させていただきました。ここでは写真の奥の方から「お染」を探して歩いてくる熊吾の姿を想像してみましょう。

「辻堂社長のお帰りでございます」
「大和屋という有名な料亭の玄関番の声が聞こえ、黒塗りの高級車が玄関に停まった」

下には多くの文豪や財界人が通った老舗料亭「南地大和屋」の写真を引用させていただきました。2003年に惜しまれつつ閉店しますが、昭和40年に竣工したばかりの数寄屋造りの建物は目を引くものだったと思われます。

出典:松本直高・建築設計事務所公式サイト、建築家 彦谷邦一(1917-1990)、主な作品 南地大和屋・・・・・・(現代の数寄屋 淡交社)
http://www.n-matsumoto.sakura.ne.jp/about_profile.html

「熊吾は、辻堂社長と聞こえたので歩を止めた。あの辻堂忠だろうか。房江の言い方をすれば、二十年前の固い約束を屑籠に捨てて、わしの息子に恥をかかせた男だ。・・・・・・女将や仲居たちに送られて大和屋の玄関から出て来たのは、髪に白いものがかなり混じっていても、まぎれもなく辻堂忠だった。そして、辻堂はひとりではなかった。襟に大きな毛皮の付いたぶ厚いコートを着た女と一緒で、熊吾はそれが岩井亜矢子であることを疑わなかった」

「ここで逢ったが百年目」と、熊吾は伸仁の仇をとるため以下のような言葉をかけました。
熊吾「こんなところでお会いするとは。お久しぶりです。大変なご栄達、おめでとうございます。・・・・・・先日、息子を東京に挨拶に行かせました。成人した息子を辻堂社長に見てもらいたいと思いまして」
辻堂「ああ、あのときは・・・・・・」
辻堂の言葉を無視して、辻堂とダブル不倫関係を続ける亜矢子の近くに行き
熊吾「・・・・・・お若いころと変わらずお美しい・・・・・・化け猫面になっちょりますぞ」

KIMATA&ラ・フィエットのチョコ

熊吾は北浜の大阪証券取引所の近くにあるフランス料理店「ラ・フィエット」でキマタ製菓の高級チョコレートを販売してもらう話を仲介していました。
熊吾「食後のデザートにコーヒーと一緒に出したら、えらい好評で、これを十個ほどきれいな箱に入れてくれんかという客が多いので、もっと大量に、一日に百個ほど作ってくれんかという註文があったんじゃ」
房江「へえ、木俣さんは喜んだやろねえ」
熊吾「ところがのお、木俣は自分のチョコレートが『ラ・フィエット』の箱と包装紙で売られることが気にいらんのじゃ。KIMATAという名を入れたいそうじゃ。頑としてそう言い張る。・・・・・・『ラ・フィエット』の主人は、それでは売るわけにいかんと、これもまた頑固なんじゃ。・・・・・・」

下には証券会社が並ぶ北浜周辺の昭和時代の写真を引用させていただきました。ラ・フィエットの経営者・小郷征二郎と木俣との仲介のためにこちらの通りを何度も通う熊吾の姿を想像してみましょう。

出典:アーバンツーリズム大阪・船場・観光まちづくり、大阪経済の要「船場」北浜・淀屋橋
https://semba-osaka.com/%E5%A4%A7%E9%98%AA%E7%B5%8C%E6%B8%88%E3%81%AE%E8%A6%81%E3%80%8C%E8%88%B9%E5%A0%B4%E3%80%8D%E5%8C%97%E6%B5%9C%E3%83%BB%E6%B7%80%E5%B1%8B%E6%A9%8B/

二人の間に入った熊吾は「チョコレートに『ラ・フィエット』と『KIMATA』のふたつを入れる」という折衷案でやっと二人を合意させました。

契約の日、木俣が小郷がデザインしたチョコレートの箱を褒めると、
小郷「リボンはフランスの国旗の三色にしました。なかなかの出来やと自画自賛してるんです。ベルギーの国旗にせえと木俣さんに叱られるんやないかと心配したんですが、お褒めにあずかって安心しました」
木俣「私はチョコレートの本体にKIMATAと刻印されてたらそれで充分満足ですねん」

「交渉決裂でお互いそっぽを向きつづけたのはつい一週間前ではないかと熊吾は笑いそうになった」
とあります。

熊吾の最後の仕事

「御堂筋を東に渡り、少し歩いて心斎橋筋に入ると、高級料理店のような店構えなのに『お好み焼き』という看板が出ている店があった」

その店おお好み焼きとは
「ホットケーキの倍ほどの厚さで、載っている具も、タネの営んでいたお好み焼き屋とはまったく異なる贅沢なものだった」
とのことです。

出典:農林水産省Webサイト、お好み焼き 大阪府
https://www.maff.go.jp/j/keikaku/syokubunka/k_ryouri/search_menu/menu/39_20_osaka.html

上には美味しそうなお好み焼きの写真を引用させていただきました。
「これなら博美にも作れるのではないだろうか」
そう考えた熊吾は店員からお好み焼きのレシピを聞き出し、ソースの味を覚えて帰ります。

次の日、博美とお好み焼きを試作し、博美にこう言いました。
「お前の新しい店の名は『ぜいたくお好み焼き もりい』じゃ。ぜいたくを漢字で書いたら読めんやつもおるかもしれんけん、平仮名で『ぜいたく』じゃぞ。・・・・・・」

博美にしてやれる「大将」の仕事を終えた熊吾は、前日にひどいことを言ってしまった伸仁に謝るためモータープールに行きますが・・・・・・

ラ・フィエットのポタージュ

モータープールで倒れて入院した熊吾はラ・フィエットのポタージュが食べたいといいます。ポタージュは歯が悪く硬いものを食べられない熊吾にぴったりの食べ物でした。房江はラ・フィエットに行き、スープを魔法瓶に入れてもらいます。

出典:写真AC、人参ポタージュ
https://premium.photo-ac.com/main/detail/25377005&title=%E4%BA%BA%E5%8F%82%E3%83%9D%E3%82%BF%E3%83%BC%E3%82%B8%E3%83%A5

ラ・フィエットの経営者・小郷によると
「うちはコンソメスープが売りですけど、私は個人的にはニンジンのポタージュが得意です」
とのこと。上に引用させていただいたようなニンジンポタージュだったかもしれません。

ここでは、房江がベッドに横たわる熊吾に対し
「ベッドの脇のテーブルに置いてある大きなコーヒーカップに『ラ・フィエット』のポタージュスープをいれて、スプーンでそれを夫の口に運んだ」
というシーンをイメージしてみます。

桜に癒される

病院通いを続ける房江に、同僚の藤木美代子が
「大阪造幣局の桜の通り抜けにいけへん?花見客で人、人、人やけど、きょうからあすが花は見ごろやて新聞に書いてあったわ」
と誘います。

「回復しない病人をかかえている私への思いやり」と考え、一緒に行くことにしました。

上に引用させていただいたのは現在も続く桜の通り抜けの風景です。ここでは、こちらの写真のなかに房江の姿を置き、熊吾のことを気にかけながらも桜に癒される様子をイメージしてみましょう。

タネのお気に入り番組

房江は一緒に働くタネのことも造幣局の花見に誘いますが「きょうは土曜日やで。あの連続ドラマだけはなにがあっても見逃されへんねん」と断られます。ちなみに、昭和43年の土曜の夜は「平四郎危機一発」(~3月、石坂浩二さんや宝田明さんなどが出演)や、「キーハンター」(4月~、丹波哲郎さんや野際陽子さん、千葉真一さんなどが出演)が話題になっていました。

タネが花見に誘われるのは昭和43年4月6日(土)の設定です。上には当日から放送が始まった「キイハンター」の番宣動画を引用させていただきました。

エンディングの風景

熊吾の病状は悪化し徐々に意識がなくなっていきますが、ある日、見舞いに来た房江が帰ったあと「房江、房江」と呼びながら暴れだしたとのこと。他の患者に迷惑がかかるため河内の狭山町にある精神病院に転院させられます。

下には昭和時代の狭山駅周辺の写真を引用させていただきました。
病院から緊急の呼び出しを受けた房江は伸仁とともにこちらの駅に降ります。ここでは、駅舎内に病院までの道のりを駅員に尋ねる房江たちの姿を置いてみましょう。

出典:大阪狭山市公式サイト、大阪狭山市の歴史、1962(昭和37)年の狭山駅
https://www.city.osakasayama.osaka.jp/gyutto/wakuwaku/6449.html

エンディングは熊吾に会うために知人や友人たちが集まってくるシーンです。
「近づいてくる隊列といってもいい十四人は・・・・・・懐かしい人に久闊を叙するというようなある種の歓びのようなものを表情の裡に隠しているかに見えた」「私は、これと似たような光景をどこかで見たことがあると房江は思った。新たな旅へと向かう人々がどこかの原野を楽しげに出発する光景だ」

出典:写真AC、新緑と満開の桜
https://www.photo-ac.com/main/detail/4557912&title=%E6%96%B0%E7%B7%91%E3%81%A8%E6%BA%80%E9%96%8B%E3%81%AE%E6%A1%9C

ここでは上に引用させていただいた写真の桜並木の向こうに、熊吾を慕ってやってくる人たちを置いてみましょう。

旅行などの情報

造幣局・桜の通り抜け

房江が藤木美代子とともに行った造幣局の「桜の通り抜け」は明治16年から続く歴史のあるイベントです。華やかな八重桜をメインとした300本以上の並木道があり、造幣局の南門から北門までのルートを一方通行で進みます。

周辺には出店も並び、上に引用させていただいたようなライトアップされた景色もきれいです。例年、開花状況などに応じて開催時期は変わりますので、詳細は公式サイトにてご確認ください。

基本情報

【住所】大阪市北区天満1-1-79
【アクセス】谷町線・天満橋から徒歩で約15分
【参考URL】https://www.mint.go.jp/enjoy/toorinuke/sakura_osaka_news_r5.html

宮本輝ミュージアム

流転の海の風景その1」でもご紹介した宮本輝ミュージアムでは、2023年の4月から9月にかけて「宮本輝文学 四季のいろどり」という企画展が開催されました。「野の春」の場面をイメージした桜並木のタペストリーも展示されていましたので以下に引用させていただきます。

出典:宮本輝ミュージアム公式サイト、過去の企画展、「宮本輝文学 四季のいろどり」展
https://library.otemon.ac.jp/teru/exhibition_list/season.html

こちらの絵の上に以下の十四人の姿を置いてみましょう。
「先頭には喪服を着たホンギがいる。そのうしろに千代麿とミヨがいる。学生服姿の美恵と正澄もいる。・・・・・・少し遅れて佐竹善国とノリコ夫妻がいる。理沙子と清太の姉弟がいる。・・・・・・木俣敬二と神田三郎が並んで歩いている。・・・・・・麻衣子が栄子と一緒に手を振っている。・・・・・・かなり遅れて、喪服の男が歩いて来ていた。中村音吉だった。・・・・・・」

基本情報

【住所】大阪府茨木市西安威2-1-15
【アクセス】JR茨木駅から無料直通バスや路線バスを利用
【公式URL】http://www.oullib.otemon.ac.jp/teru/index.html