平山三郎「実歴阿房列車先生」の風景(その1)
阿房列車を走らせるまで
阿房列車(第一阿房列車の風景その1など・参照)の「ヒマラヤ山系」のモデルでもある平山三郎氏が、内田百閒の実像を描いたエッセイです。昭和十七年、国鉄で編集の仕事をしていた平山氏が百閒先生に原稿を依頼したのが二人の交流の始まりでした。今回は岡山での学生時代から、師・夏目漱石とのエピソード、戦前・戦後を通じての平山氏とのかかわりなどを追って行きましょう。
用事のない旅のはじまり(昭和25年)
「実歴阿房列車先生」は昭和二十五年、阿房列車の開始直前から書き出されています。場所は先生の自宅・三畳御殿です。
「お膳の上に小皿を十個ほど一列横隊にきちんと並べ終え、盃を取り上げるばかりにしておいてから、もう一度、先生は自分の目の前の御馳走の順序とわたしの前に並べたのと順序が同じかどうかを確認する。いつもと同じ手順で、いつもと同じ皿小鉢が順序正しく、同じ配列で並んでいなければ、気に喰わない。いつもそうだから、目の前のお刺身
の向きや焼魚の尻尾の向きを、カン性にちらくらと動かしている間じゅう、わたしはじっとして待っている。盃は、それが終るまで取り上げてはいけない。口の中に唾が溜まってくるときもある。」
下には東京駅の名誉駅長を務められたときの百閒先生の写真を引用しました。
出典:国立国会図書館ウェブサイト、近代日本人の肖像、内田百閒
https://www.ndl.go.jp/portrait/datas/6240/
先生「貴君は、汽車の旅行が好きかね。」
平山氏「出張旅行やなんかでは、割合い、退屈しない方ですね。」
先生「貴君、僕は大阪へ行って来ようと思う。」
平山氏「なにか、用事でも出来たんですか、大阪に―――。」
先生「いや、なんにも用事なンか有りやしない。」
平山氏「しかし―――」
先生「分からない人だねえ、貴君は。汽車に乗りたいから、大阪へ行くんだよ。そろそろ気候も良くなったことだし、汽車に乗って、大阪へ着いたら、大阪のプラットホームを三十分ほどぶらぶらして、一ぷくしていれば、上り列車が出るじゃァないか。」
出典:Wikimedia Commons、東海道本線京都駅西方を走行する上り特急”つばめ”。牽引機はC62 36。、『鉄道ピクトリアル』1954年12月号 通巻41号 鉄道図書刊行会、1954年、26頁。
https://commons.wikimedia.org/wiki/File:JNR_C62_36_%22Tsubame%22.jpg
「旅行事情、汽車の旅がいくらか楽にできるようにもなって、特別急行、急行列車などが大体戦前の鉄道全盛期並みに復活した時期でもある。―――どうも先生が列車時刻表の新しいのが出たら買っておいてくれとしきりに云うので、おかしいなとは思ったのだが。」
とのこと。
上には特急「つばめ」の写真を引用いたしました。先生お気に入りの「はと」の姉妹列車で、先生が特別阿房列車を走らせた昭和二十五年には東京・大阪間を戦前と同じく8時間でむすぶようになります。
出典:See page for author, Public domain, via Wikimedia Commons、国鉄8850形蒸気機関車8868号機、『日本鉄道史』鉄道省、1921年
https://commons.wikimedia.org/wiki/File:JNR-8868.jpg
「先生の汽車好きは、もともと普通ではない。・・・・・・たとえば、である。
八八五〇、あんなスッキリした、イキな機関車はないね。
などと、いきなり云い出すから面喰らうのである。
・・・・・・八八五〇というのはドイツから輸入した蒸気機関車で、当時、十二台しかなかった、日本にきた当初、東海道線の一番いい急行列車を引っ張る機関車で、天下の嶮の御殿場線を越した、その汽笛の音は癇高く、細いぴいッという調子で、ほかの急行列車なんかの間の抜けた音とちがうから、擦れちがう時にすぐわかった、というのである。まるで知ったものと道で擦れちがったようなことをいう。・・・・・・」
上には国鉄8850形蒸気機関車の写真を引用しました。
「・・・・・・元来私は動悸持ちで結滞屋で、だから長い間一人でゐると胸先が苦しくなり、手の平に一ぱい冷汗が出て来る。気の所為なのだが、原因が気の所為だとしても、現実に不安感を起こし、苦しくなるから、遠い所へ行く一人旅なぞ思いも寄らない。」
という百閒先生。
「いったんこう云いだしたからには、簡単に考え直すような先生ではない。・・・・・・いいでしょう。先生が行くときは、お伴しましょう。」
こちらのような会話から阿房列車が始まります。
先生の生い立ち(明治35年~)
ここからは時代を百閒先生の少年のころに戻して、風景を追ってみましょう。
「明治三十五年、岡山県立岡山中学校の生徒であった先生は、自転車
に乗って、岡山市の町外れから岡山駅の次の駅である西大寺駅(今の東岡山駅)まで、汽車を見るために走って行く。」
下には明治35年頃の岡山中学校の写真を引用します。こちらの中学校は岡山城の本丸跡を利用していて、校舎の奥(中央右側)には戦国時代に建てられた天守閣の姿もあります。
出典:北村長太郎 編『岡山後楽園・備作名勝写真案内』,細謹舎,明35.11. 国立国会図書館デジタルコレクション https://dl.ndl.go.jp/pid/766124 (参照 2024-12-11、一部抜粋)
https://dl.ndl.go.jp/pid/766124/1/16
また、下に引用した東岡山駅は昭和10年に改築された木造建築の駅舎です。ここでは、こちらの駅での以下のような風景を想像してみましょう。
「やがて、遠くから、轟轟という風のひびきのような物音が伝わってくる。地ひびきはだんだん近づいてくる。改札の前の線路が、かたんかたんと鳴り出す。しっかり摑んだ改札の柵が、びりびりと振動して、身体全体も揺すられるような気持のする目前を、巨大な機関車が瞬きをする間に通り過ぎる。」
出典:Saigen Jiro, CC0, via Wikimedia Commons、東岡山駅 駅舎
https://commons.wikimedia.org/wiki/File:Higashi-Okayama_Station,_ekisha.jpg
「第五囘内国勧業博覧会が大阪で開かれたのは三十六年三月で、父母につれられて見物に行った。父は三品取引所に出資していて、その取引所の井上徳三郎の大阪の家が北久太郎町にあったので、その家に滞在して毎日博覧会や大阪名所を見物した。」とのことです。
「西洋人が運転している自動車を始めてみたり、・・・・・・」
下には「第五回内国勧業博覧会紀念写真帖」から自動車の写真を引用しました。
出典:国立国会図書館デジタルコレクション、博覧会―近代技術の展示場、第五回内国勧業博覧会紀念写真帖、自動車
https://www.ndl.go.jp/exposition/data/R/347r.html
「ウォーターシュウトにも乗った。ボートが辷っていって泥水をはねて著水したが、あれが古いいわれのある阿弥陀池だったのか」
以下には同じくウォーターシュウトの写真も引用いたします。ここでは内田栄造少年が水しぶきのなかで喚声を上げている様子をイメージしてみます。
出典:国立国会図書館デジタルコレクション、博覧会―近代技術の展示場、第五回内国勧業博覧会紀念写真帖、ウォーターシュウト
https://www.ndl.go.jp/exposition/data/R/334r.html
「岡山の第六高等学校へ四十年に入学―――。六高は吉京町の町裏の田圃の中に、それより七八年前に新設されたばかりである。」
下には先生の生家の近くにあった第六高等学校の写真を引用しました。
出典:Wikimedia Commons、第六高等学校(岡山高校)、岡山市役所発行「岡山市写真帖」(大正15年5月)
https://commons.wikimedia.org/wiki/File:T15-okayama-si-syasintyo013.jpg
「俳諧一夜会から、はじめて、百閒と号した。百閒というのは、岡山市の東北郊に山陽本線の旭川の鉄橋があって、その少し東に百間川の鉄橋がある。空川で、堤と堤の間が百間あるから百間川という。中学生のころ、国文典の教科書を持ってその土手にねころんで、草いきれの中で動詞の活用などを暗記したりした。・・・・・・」
上には百間川の近くの橋のストリートビューを引用させていただきました。周辺の土手で勉強をしながら、汽車が通るのを眺める先生の姿を置いてみましょう。
夏目漱石に師事
ここでは、「実歴阿房列車先生」から、百閒先生の師匠でもあった文豪・夏目漱石とのエピソードを抜粋してみましょう。
「明治三十八年一月号の『ホトトギス』に、漱石の『吾輩は猫である』の第一が掲載された。以後『猫』は同誌に飛びとびに掲載された。その頃、岡山の中之町にある本屋、森博文堂で新刊雑誌を買いつけていたのだが、たちまち漱石の文章にひきつけられた」
とのこと(吾輩は猫であるの風景・その1参照)
下には「吾輩は猫である」初版の画像を引用しました。森博文堂で入手した「猫」の初版上・中・下三冊は先生の愛蔵品として大切に保管していたとのことです。
出典: Wikimedia Commons、『吾輩ハ猫デアル 上編』ジャケット下絵、明治38年出版
https://commons.wikimedia.org/wiki/File:Ich_der_Kater.jpg
「明治四十四年、二月、内幸町の胃腸病院に入院している夏目漱石を訪ねた。・・・・・・漱石先生の病室は二階の日本間であった。郷里にいる頃から手紙を差上げ、また御返事もいただいているが、顔を見るのは初めてなので、固くなって畏まり、お話を色色承った。」
下には当時の胃腸病院の写真を引用いたしました。ことでは緊張しながら門の前に立つ百閒先生の姿を想像してみましょう。なお、こちらの病院は現在でも新宿区大京町において「平山胃腸クリニック」として営業を続けています。
出典:瀬川光行 編『日本之名勝』,史伝編纂所,明33.12. 国立国会図書館デジタルコレクション https://dl.ndl.go.jp/pid/762809 (参照 2024-12-12、一部抜粋)、長與胃腸病院
https://dl.ndl.go.jp/pid/762809/1/55
百閒先生はこちらの二階の畳に正座をして漱石先生のお話を聞いていましたが・・・・・・
「あんまり固くなっているので漱石の方から気を使って色色と話題をかえて話しかけてくれる。しかし、田舎から出てきたばかりで、ろくろく受け答えもできない。・・・・・・そのうち、足がしびれて来て、感覚がなくなってきた。・・・・・・急に挨拶して、ふらふらしながら間境の襖を開けて、控室の方へ一歩足を踏み入れたら、膝を突いて前にのめってしまった。・・・・・・うしろから漱石先生が、『痺れたかね』と云って立っていた。」
とのことです。
また、漱石山房(夏目漱石晩年の住居、早稲田南町)での以下のようなエピソードもあります。
「漱石が書きつぶして反故にした原稿を机辺に積み重ねてあるのを、二三人で許しを得て貰ってきた。書き汚した原稿は、漱石先生の文章の推敲のあとが辿れる貴重なものである。『道草』を執筆していた自分の原稿だった。」
出典:See page for author, Public domain, via Wikimedia Commons、夏目漱石『道草』の原稿の一部。、漱石全集刊行会『漱石全集 第八巻』漱石全集刊行会、1935年12月5日。
https://commons.wikimedia.org/wiki/File:Manuscripts_of_%22Grass_on_the_Wayside%22.jpg
上にはその道草の原稿の画像を引用しました。
「一枚ずつめくって推敲のあとを見てゆくと、中には書きかけの余白に直線だけ丹念に引いたのや、幾何の図形のようなのもあって、筆が渋って先に進まない苦しみが目に見えるような気がする。・・・・・・」
平山氏と百閒先生との出会い
平山三郎氏が初めて百閒先生と出会ったのは、平山氏が務める鉄道省機関誌に執筆依頼をしたときです。そのころ百閒先生は日本郵船の嘱託として「文書、書類の文章添刪」を行っていました。
「内田百閒という作家は、非常に気むずかしくて、原稿をかんたんに引きうけないどころか、初対面のものには気に喰わなければ口も利かないという噂はかねがね聞いていた。・・・・・・とにかく当って砕けろというような、重ッくるしい気持ちで、わたしは東京駅前の広場をつっきって日本郵政ビルへ這入っていった。・・・・・」
出典:明治大正建築写真聚覧(日本建築学会デジタルアーカイブス内)より。, Public domain, via Wikimedia Commons、郵船ビルヂング。1923年(大正12年)築、1976年(昭和51年)解体。曽禰中條建築事務所設計。フラー建築施工。
https://commons.wikimedia.org/wiki/File:Yusen_building.jpeg
上には百閒先生が勤務した日本郵船ビルの写真を引用します。
「初めて先生にお目に掛って、どんな風に原稿執筆のおねがいを切り出したのか、さっぱりおぼえがない。こちんこちんに気持ちが固くなっていた。・・・・・・原稿は、その場ですぐ承知して下さった。それも、どうせ書くなら、毎月連載の方がいいと云われる。・・・・・・」
鉄道省機関誌の発行が終了した後も、平山氏自らが百閒先生の書籍を出版するなど交流を続けていきました。
なお、当時の百閒先生は日本郵船の豪華客船・新田丸(下に画像を引用)について、わかりやすく説明するために「新田丸問答」という冊子も作成しています。
出典:三菱長崎造船所撮影 (Mitsubishi Nagasaki Shipyard Photography), Public domain, via Wikimedia Commons、長崎港外で撮影された新田丸、海軍艦艇史3航空母艦p161、三菱長崎造船所撮影
https://commons.wikimedia.org/wiki/File:Nitta-maru_1940.jpg
「実歴阿房列車先生」では以下のように内容を抜粋しています。
「新田丸は一万七千二百噸だ」
「随分大きいのだね。鎌倉丸はそれよりまだでかいのか」
「鎌倉丸は一万七千五百噸だ」
「それ位しか違はないのか」
「船の長さは新田丸の方が長いよ。百八十米ある。鎌倉丸よりニ米長い。こんな長い船は二本にはないんだ」
戦中・戦後
「二十三年六月というのは、麹町五番町にあった先生の家が終戦の年の五月二十五日の空襲で全焼し、同じ町内の松木さんの邸の塀の、三角にとがった隅の、椎の木陰の小屋に丸三年居て、ようやく現在の六番町の三畳三間の家が出来上がったのが、二十三年五月二十三日。その松木さんの三畳の小屋というのは、内一畳は低い棚になっていて、ふだん坐ったり寝たりするのは二畳だけで、天井も壁もない。トタン屋根の裏側に葦簾が張ってあり、壁の部分は四方みんなゴザが打ちつけてある。それまで松木邸の爺やが寝泊まりしていた掘立小屋で―――塀を出ると直ぐ前は四谷見附の土手である。」
以下は「贋作吾輩は猫である」の風景(贋作吾輩は猫であるの風景・その5参照)でも引用させていただいた麹町五番町(現・千代田区五番町)付近の空中写真です。地元の公式サイト(麹町界隈わがまち人物館・内田百閒)などによると「松木さんの三畳の小屋」は十字マークの部分にあったとされています。空襲の被害が大きく、周辺には建物が少ないことが分かります。
出典:国土地理院、千代田区五番町12付近(1945年~1950年)
https://maps.gsi.go.jp/
「昭和二十一年の春匇々、先生の罹災している小屋をお訪ねした。・・・・・・先生は、志那服の上っ張りのようなものを着て、たいへん痩せて見えた。・・・・・・座敷に上がって、先生が坐っている机の右どなりのわずかな隙間に身体を入れ、坐ると、身動きができないのである。・・・・・・」
また、以下は1961年~1969年の間の同エリア(少し東側にスライド)の空中写真を引用しました。こちらでは松木邸のあった場所が学校(東京中華学校)になり「三畳の小屋」も姿を消しています。また、十字マークは現在「内田百閒三畳御殿跡地(旧住居跡)」の記念碑の建つ場所です。どの建物かまでは不明ですが、マークの下(南)の辺りに三畳御殿がありました。
出典:国土地理院、千代田区六番町6付近(1961年~1969年)
https://maps.gsi.go.jp/
そして
「昭和二十四年、六十歳、還暦をむかえた。・・・・・・二十五年、五月二十九日、第一囘の摩阿陀会を催した。まあだかい、先生、改暦をすぎまして、まあだかいという、余りよろしくないシャレである。」
「まあだかい(まだ成仏しないのかい)」という質問に対し「まあだだよ」と先生が応えて長寿を祝うという趣向で、先生が亡くなるまで20年以上も続きました。こちらの内容は内田百閒「まあだかい」、黒澤明監督が映画化した「まあだだよ」などに詳しく描かれています。
旅行などの情報
岡山城
百閒先生が通った岡山中学校は岡山城の本丸跡にありました。岡山城は豊臣家五大老の宇喜多秀家が築いたお城で、天守は織田信長の安土城を模して造られたとのことです。
戦災で天守は焼失しますが昭和41年に再建、不等辺五角形の天守台など旧天守を思わせる姿になりました。天守閣内には戦国・江戸時代を中心とした岡山に関する資料が展示され、最上階からは殿様気分で市街地を眺められます。
また、春、夏、秋には上に引用させていただいたような「烏城灯源郷」というライトアップイベントを開催します。隣接する後楽園の「幻想庭園」も同時開催されるので併せてお楽しみください。
基本情報
【住所】岡山県岡山市北区丸の内2-3-1
【アクセス】JR岡山駅から路面電車に乗りかえ城下で下車(約5分)、徒歩で約10分
【参考URL】https://okayama-castle.jp/
“平山三郎「実歴阿房列車先生」の風景(その1)” に対して1件のコメントがあります。
コメントは受け付けていません。