司馬遼太郎「空海の風景」の風景(その7)
唐の旅
那ノ津で準備を整えた遣唐使船(空海の風景の風景その6・参照)は7月に唐に向けて出港しますが、天候などの影響により、はるか南方に漂着しました。このとき空海が書いた名文は漂着地周辺を管轄する福州長官に感銘を与え、遣唐使一行を救うことになります。今回は福州から長安に向けて空海たちがたどったルート沿いの風景も含めてストーリーを追って行きましょう。
遣唐使船、漂着する
空海は正使の藤原葛野麻呂の乗る第一船に同乗して唐に向かいます。以下には東京国立博物館が所蔵する「高野大師行状絵巻」から「大師御入唐事」の部分を引用させていただきました。
ここでは司馬さんは「性霊集」の漢文を引用しています。
「賀能(かのう)等、身ヲ忘レテ命ヲ銜ミ、死ヲ冒シテ海二入ル」
出典:国立文化財機構所蔵品統合検索システム、高野大師行状絵巻(模本)
https://colbase.nich.go.jp/collection_items/tnm/A-6912?locale=ja
「ところが順風は、一日だけであった。翌七日戌にはもう逆風が船を翻弄しはじめた。夜八時、九時という刻限である。海上は暗く、雲は低い、波が雲を打ち、風が海をわかせた。やがて『暴雨、帆ヲ穿チ、戕風(しょうふう)、柁ヲ折ル』というすさまじい情景になった」
しばらくすると他の船との連絡が取れなくなってしまいます。
「夜になると、舳に卜部の者が、田のなかの鶴のようにすねをのがして突っ立つ、星や卜筮でうらなってから、―――この方角でよい。吉である。といったふうに決めてゆくのである。」
風雨がおさまってからも、上のような占いまかせの航海方法だったため、34日間大洋を漂流します。
上には遣唐使船が漂着した中国福建省・赤岸鎮付近(現赤岸村)の写真を引用させていただきました。幾人かの村人は彼方に現れた船を海賊と疑って見ていたかもしれません。
到着した場所は上の地図の赤岸村(Chi-An-Cun)で、当初の目標地である長江流域(揚州市周辺)からは大分南に流されてしまいました。命は助かりましたが地方の役所では対処できないといわれ、このあたりを治める長官がいる福州へ船で移動することになります。
「大使の為に福州の観察使に与ふるの書」
福州に船を回しましたが、みすぼらしい姿をした使節たちは唐の役人たちから信用されません。また、「御遺告」によると大使の葛野麻呂が長官に宛てて文書をしたためますが
「葛野麻呂の文章など、二度、三度と提出したが、先方は、ふんというぐあいだったよ」
とのこと。
全員、船から降ろされ、湿った沙洲で待機することを余儀なくされます。
出典:亜東印画協会, Public domain, via Wikimedia Commons
https://commons.wikimedia.org/wiki/File:%E4%BA%9C%E6%9D%B1%E5%8D%B0%E7%94%BB%E8%BC%AF_12_007_%22%E7%A2%BC%E9%A0%AD%E3%81%AE%E6%9C%9D%EF%BC%88%E7%A6%8F%E5%B7%9E%EF%BC%89%22.jpg
上には遣唐使船が停泊した馬尾港周辺の写真(1947年以前)を引用しました。左側に停泊している大型の船のを遣唐使船に見立て、船を封印されて近くの砂洲に待機する空海たちの姿をイメージしてみましょう。この沙洲を舞台にして「空海の風景」では以下のようなシーンが繰り広げられます。
逸勢「このようなことではとてもらちがあきませぬ。たれもかれもこの沙の上で病気になったり死んだりしてしまうでしょう、申すまでもなく唐は文の国でございます、倭臭のつよい文章を幾篇書いたところで相手はいよいよ疑い、いよいよ軽蔑し、ついには鼠族同然の者とみて逮えるかもしれませぬ。閣下、誰かにお書かせ遊ばしますように・・・・・・」
といって空海が名文家であることを伝えます。
葛野麻呂「空海とは、あの大徳(だいとこ)か」
「この沙上が一場の戯曲なら、空海はひとり群れから離れて、舞台の下手にでもうずくまっているほうがいいであろう。」
葛野麻呂「もはや、どうしようもない。大徳(あなた)は文章の達人だから、私にかわって書いてほしい」
出典:出典:国立文化財機構所蔵品統合検索システム、高野大師行状絵巻(模本)
https://colbase.nich.go.jp/collection_item_images/tnm/A-6912?locale=ja#&gid=1&pid=52
上には高野大師行状絵巻から「入唐着福州岸事」の部分を引用させていただきました。中央部では朱色の服を着た唐人に対面していますが、ここでは葛野麻呂(黒色の服を着た人物)を代わりに坐らせて、以下の場面を想像してみましょう。
「空海は、このときとくに沙上の乾いた場所をあたえられたであろう。木箱が据えられ、そのうえに筆硯が置かれた。そのまわりには、夏草が、腰屏風のようにとりまいて、あたかも一室をなしていたにちがいない。ひとびとは遠くにいる。空海の文章には、速力がある。事実、書く場合も、迅かったという。この場合もそうだったかと思われる。・・・・・・空海という、ほんの一年か二年前までは山野を放浪する私度僧にすぎなかった者が、幕を跳ねあげるようにして歴史的空間という舞台に出てくるのは、この瞬間からである」
出典:空海 著『性霊集』巻第5−7,森江佐七,明26.3. 国立国会図書館デジタルコレクション https://dl.ndl.go.jp/pid/819438 (参照 2024-11-05、一部抜粋)
https://dl.ndl.go.jp/pid/819438/1/3
上には空海の漢詩文集・性霊集のなかから、福州の観察(処置)使の閻済美に送った「為大使與福州観察使書(大使福州の観察使に與るがための書)」の冒頭の部分を引用しました。「空海の風景」では以下のように書き下されています。
「賀能、啓(まう)す。・・・・・・禽獣が高い山を慕ってゆき、魚竜が深い水を求めて群れゆくように、西や南の野蛮人たちでさえ、帝徳のさかんな土地にむかって道中の危険をかえりみずしてゆく。徳を慕うのあまり、生命のあぶなさを忘れるのである。・・・・・・」
その結果、
「一篇の文章が、閻済美の気持をまったく変えた。待遇がかわり、『ともかく船上で過ごされよ』と、すぐさま封印が解かれた。」
とあります。
唐都・長安までの道のり
「長安への道は、はなはだ遠い。しかも、一行は旅程をきりつめていそぐ必要があった。かれらは福州での入国騒ぎで日を費いすぎてしまっている。正月の拝賀までに間にあうよう、できれば十二月下旬ごろには唐長安に入りたかった」
長安に行く許可を得た葛野麻呂をはじめとする遣唐使一行は804年11月3日の明け方に福州を出発します。「星に発し、星に宿す」と葛野麻呂が記録しているような急ぎの旅でした。
出典:静慈圓前官の公式サイト、空海ロード
https://shizuka-koyasan.com/road/
上には静慈圓前官(高野山大学名誉教授)の公式サイトから、空海がたどったルートマップを引用させていただきました。川沿いを杭州まで陸行し、そこからは隋の煬帝(ようだい)が造った大運河を船で進みます。現在の開封市付近からは再び陸行し、古都・洛陽などを経由して長安に至るルートです。
白馬寺
開封市から長安までの旅は楽なものではありませんでしたが、「空海の風景」では随所に有名スポットを配し、空海や逸勢などを案内人とした紀行文のような語り口になっています。
「杭州から水行した。大運河に泛んで北上した。・・・・・・―――これこそ大唐なるものだ。と、おそらく、橘逸勢などは、舩(ふなばた)をはげしくたたいてこの雄大な人工におどろいてみせたにちがいない。かれは、知識として隋の煬帝の事歴をくわしく知っていたであろう。煬帝は運河を掘るために数百万人の農民を酷使し、やがて水が通ずると揚州と洛陽のあいだを竜船を浮かべて往来した。船に美女と酒を積み、文字どおり酒池肉林の楽しみにふけって、これがためにほろんだ。・・・・・・」
出典:亜東印画協会, Public domain, via Wikimedia Commons
https://commons.wikimedia.org/wiki/File:%E4%BA%9C%E6%9D%B1%E5%8D%B0%E7%94%BB%E8%BC%AF_02_172_%22%E8%98%87%E5%B7%9E%E3%81%82%E3%81%9F%E3%82%8A%E3%81%AE%E9%81%8B%E6%B2%B3%EF%BC%88%E5%8D%97%E6%94%AF%EF%BC%89%22.jpg
上には昭和時代の蘇州周辺の大運河の写真を引用しました。
「汴州(べんしゅう)からは、陸路である。そこでは、駅馬が用意されている。多くは騎乗せず、馬車に乗る。馬車の乗り心地のわるさは、ほとんど殺人的といっていい。道路が轍のためえぐられ、波状になっている。その上を、弾機(ばね)を持たない車輪が、容赦なく乗りこえ、乗り落ちして進むのである。・・・・・・尾骶骨が悲鳴をあげ、背骨がたえず撓み、内蔵が蕩揺して、食欲はまったくおこらない。・・・・・・」
注)汴州は現在の開封市周辺
以下は洛陽が近づいてきたときのシーンです。
「あれが白馬寺だと、たれかがいったとき、車を降りてさっさと歩きだしたのは、空海ひとりぐらいのものではなかったか。他の者は道端にうずくまって、地面という動かないものに尻をつけて体をすこしでも休めるのが精一杯だったにちがいない。」
出典:A1AA1A, CC0, via Wikimedia Commons
https://commons.wikimedia.org/wiki/File:%E7%99%BD%E9%A9%AC%E5%AF%BA-White_Horse_Temple.jpg
上には「白馬寺」の山門の写真を引用しました。白馬寺は西暦67年に後漢の明帝によって建てられた中国最古の寺です。その寺名は天竺から中国に仏教をもたらした二人の僧が白馬に経書を積んできたことに由来します。
出典:Gisling, CC BY-SA 3.0 https://creativecommons.org/licenses/by-sa/3.0, via Wikimedia Commons
https://commons.wikimedia.org/wiki/File:%E6%B4%9B%E9%98%B3%E7%99%BD%E9%A9%AC%E5%AF%BA%E9%BD%90%E4%BA%91%E5%A1%94.jpg
「空海はひろい境内を一巡したり、十三層の土塔を仰いだりしたであろう。そのうち、一行が出発してしまったかもしれない。空海は駆けるともなく道をいそぎ、やがて追いつくという情景もあったかどうか。・・・・・・」
空海のころからは再建されていますが、1175年再建と洛陽で最古の建物とされる「斉雲塔」の写真を引用しました。
函谷関を通過
洛陽を後にすると函谷関という関所にさしかかります。下には空海も通過したであろう場所に復元された函谷関の写真を引用します。なお、空海より数百年前には130kmほど離れた場所に函谷関・旧関がありましたが漢の劉邦(りゅうほう)と天下を争った楚の項羽により破壊されていました。
出典:Flaumfeder, CC BY-SA 4.0 https://creativecommons.org/licenses/by-sa/4.0, via Wikimedia Commons
https://commons.wikimedia.org/wiki/File:Hangu_Pass.jpg
「旧関ならば、数多い歴史劇の舞台になった。老子がこの関所を通って西方へ去ったという伝説があるし、また居候を養うことが好きだった斉の孟嘗君(もうしょうくん)が、この関所のむこうの秦から逃げ出すとき、あいにく夜が明けておらず、関所の門が閉ざされていた。孟嘗君の食客のひとりが鶏の啼き声がうまかったのでそれに鶏鳴をまねさせると、四方の鶏が啼き、関所役人は門をあけた。一行は、その伝説を思い出したであろう」
玄宗皇帝と楊貴妃の恋愛の舞台・華清宮
一行は函谷関周辺の険しい道をすすみます。
「平地のはじまりは憧関の関所からである。憧関から三日ほど往けば、ようやく長安のハイカラな都市感覚が景色にまでにじんでいるところの驪山(りざん)の温泉にいたる。・・・・・・玄宗皇帝がたてた華清宮もそこにある。」
逸勢「あれを見よ、驪山ぞ」
上には復元された華清宮の写真を引用させていただきました。
「玄宗皇帝とその寵姫楊貴妃との恋によって、驪山温泉は巷説の名所になった。幻想は毎年十月から長安を離れ、この驪山の温泉場に避寒する習慣になっていたのだが、かれはそこではじめて楊家の美女を見た。玄宗五十六歳、貴妃二十三歳である。・・・・・・」
空海がこちらを通った804年は貴妃の死(756年)から50年ほどしかたっていません。
「巷間、賜浴の噂がなまなましく伝えられ、空海は貴妃の肢体まで想像することができた。同時に、かれは欲念を観念に昇華させもした。自己訓練によるものだった。」
唐の都・長安に到着
覇橋を通過し宿場で装束を整えると、世界一の都といわれた長安に入ります。以下には唐時代の長安を再現したCG動画を引用させていただきます。
「歴史の奇跡といえるかもしれない大唐の長安の殷賑を、どう表現していいか。空海の幸運は、生身でこの中にいたことであった。」
また、司馬さんは韋荘(八三六~九一〇)の「長安の春」という詩を参照しながら以下のように記しています。上のCGの中に空海たちの姿を置いてみましょう。
「空海が長安に入ったのは、この詩のような二月ではなく、十二月も押しつまった二十一日である。山野に春草が芽ぶいて風のかおる季節でこそなかったが、『六街の車馬、声、轔々』という街衢(がいく)にかなでる都市そのもののリズム、あるいは華麗な色彩をまじえた喧噪、または人の往来のめまぐるしさといったものに変りがあるはずがない。空海は、この街衢を、紅毛碧眼の西域人が革のコートを着、ひざをおおう革長靴をはいて悠然と歩いている光景におどろいたにちがいない。『胡人。―――』橘逸勢などは、息を詰めて見送ったであろうか。・・・・・・」
旅行などの情報
赤岸鎮・福州開元寺
赤岸鎮は空海たち乗った遣唐使船が漂着した場所です。当時より海岸線が後退していて「空海大師紀念堂」や「空海漂着記念碑」が田園の中に建てられています。
出典:stone wu, CC BY-SA 3.0 https://creativecommons.org/licenses/by-sa/3.0, via Wikimedia Commons
https://commons.wikimedia.org/wiki/File:%E5%BC%80%E5%85%83%E5%AF%BA_-_panoramio_(3).jpg
また、福州開元寺は、上の写真のように福州の街中にあります。約1500年の歴史をもつ福州最古のお寺で、空海たちもしばらく滞在しました。境内には空海の立像や坐像、「空海入唐之地」の記念碑などが建立されているほか、「鉄仏殿」では約6メートルもある中国最古の鋳造仏が金箔をまとって鎮座しています。
基本情報
【住所】福建省福州市鼓楼区開元寺78号(福州開元寺)
【参考URL】https://4travel.jp/os_shisetsu/10266508
函谷関(新・旧)
空海の時代の函谷関(新関)は洛陽市新安県にあり「新安函谷関遺跡」と呼ばれています。漢の武帝の時代には「2層の楼閣と、3重に張り巡らされた高さ66メートルの城壁で構成されていた(ウィキペディアより引用)」とのこと。現在はその城壁部分が復元されています。
また、「鶏鳴狗盗」などの故事で知られる函谷関(旧関)は新関から130kmほど西安市側にあり、大人気マンガ「キングダム」の聖地としても有名です。当時の函谷関は二層の楼閣と3重の城壁があったとされ、その一部が復元されています。こちらは往復3kmの広大な敷地があるため電動カートで巡るのがよいでしょう。
基本情報
【住所】河南省洛陽市新安県城関鎮(新関)、中国河南省三門峡市霊宝市(旧関)
【参考URL】https://www.jtb.co.jp/kaigai_guide/china/people’s_republic_of_china/XNI/120166/index.html(旧関)
華清池
遣唐使一行が通ったと思われる驪山の麓にある温泉地です。玄宗皇帝と楊貴妃の物語だけでなく、周の幽王が傾国の美女・褒似(ほうじ)を伴い、秦の始皇帝もこちらに離宮をつくるなど、歴代の皇帝が足を運びました。
出典:Larry Koester, CC BY 2.0 https://creativecommons.org/licenses/by/2.0, via Wikimedia Commons
https://commons.wikimedia.org/wiki/File:Huaqing_Hot_Springs_-_Emperor_Xuanzong_of_Tang_Dynasty_(22)_(50439875951).jpg
こちらでは玄宗皇帝が入浴した「蓮花湯」や楊貴妃の「海棠湯」、唐の太宗・李世民の専用浴槽だった「星辰湯」など、発掘された本物の浴槽も見どころとなっています。また、「華清池皇家温泉沐浴中心」という日帰り温泉施設も併設されているので、散策の疲れを癒してみてはいかがでしょうか。
【住所】陜西省西安市臨潼区華清路38号
【参考URL】https://www.jtb.co.jp/kaigai_guide/china/people’s_republic_of_china/SIA/119163/index.html
“司馬遼太郎「空海の風景」の風景(その7)” に対して1件のコメントがあります。
コメントは受け付けていません。