司馬遼太郎「空海の風景」の風景(その1)

幼・少年時代

司馬遼太郎氏は井上靖氏(しろばんばの風景その1など・参照)と同じく新聞記者から作家に転身という経歴を持ちます。「空海の風景」は膨大な史実をもとにしながらも、空海を肉眼で見るために、司馬さんの想像する人間的な姿を描いた小説です。今回は、遣唐使に随行して中国にも渡ったスケールの大きな人物の少年時代までを追っていきましょう。

幼少時代

「空海の故地へは、たとえば高松を出て予讃線沿いの国道を西へゆけばよい。この国道が、空海のうまれた奈良朝末期の官道であったろうということは、沿道に讃岐国の国分尼寺や国分寺跡がそれぞれ低い丘陵を背にし、南面して遺っていることでもわかる。」

下には司馬さんのたどったと思われる道のりをグーグルマップの航空写真で表示しました。

「空海の故地はさらに西へゆかねばならない。府中から国道を離れ、左へ折れてせまい県道をとると、道は古街道めかしくなり、丘陵のあいだを心もとなげに通っている。あちこちに饅頭を置いたような丘陵と丘陵のあいだの窪みにはたいてい青い水が潜んでいて、そのつどの空の色をたたえている。」

上には「空海の故地」善通寺に到る県道18号のストリートビューを引用させていただきました。司馬さんの頃と比べると道路などのインフラは変化していますが、当時の雰囲気は残っているのではないでしょうか。ここでは、空海もこのような景色を見ていたとイメージしてみましょう。

「いまさらあらためていうようだが、この稿は小説である。ところで、こうも想像を抑制していては小説というものは成立しがたいが、しかし空海は実在した人物であり、かれの時代のどの人物よりも著作物が多く、さらには同時代と後世にあたえた影響の大きさということでいえばかれほどの人物は絶無であるかもしれない。かれのような歴史的実在に対しては想像を抑制するほうが後世の節度であるようにおもわれ、むしろそのほうが早やばやと空海のそばに到達できるということもまれにありうる。しかしながら抑制のみしていては空海を肉眼でみたいという筆者の願望は遂げられないかもしれず、このためわずかずつながらも抑制をゆるめてゆきたい」

生まれは讃岐の国

空海の晩年の談話をもとにした『御遺告』によると
「私は両親から貴物といわれていたよ」
と門人たちに漏らしていたとのこと。
「かれの少年期は幸福でありすぎるようであり、むろん幸福であることはすこしもわるくはない」

下には空海の幼少時代の姿を刻んだ「稚児大師像」の写真を引用させていただきました。

出典:善通寺市観光協会オフィシャルサイト,空海NAVI、稚児大師立像
https://www.kukainavi.com/spot/watch/entry-483.html

「空海の生誕の地は、いまの善通寺の境内である。」
空海が生まれたのは香川県・善通寺の境内とされています(諸説あり)。現在は四国八十八箇所の第七十五番札所となっていて、境内の大クスは空海が生まれた時には既に生い茂っていたとのこと。この木の近くで幼名を真魚といった空海が「まいおさま」または「まおさま」と呼ばれながら遊ぶシーンを想像してみましょう。

出典:663highland, CC BY-SA 3.0 http://creativecommons.org/licenses/by-sa/3.0/, via Wikimedia Commons
https://commons.wikimedia.org/wiki/File:Zentsu-ji_in_Zentsu-ji_City_Kagawa_pref45n4592.jpg

空海の一族

空海という天才が生まれた要因の一つとして司馬氏は世界性を感じられる環境を挙げています。当時佐伯氏の本家の長であった佐伯今毛人(いまえみし)は東大寺建立の長として活躍し、遣唐使にも任じられたほどの高級官僚でした。

下には佐伯今毛人が深くかかわった東大寺・大仏殿の写真を引用しました。

出典:Gilles Desjardins, CC BY-SA 4.0 https://creativecommons.org/licenses/by-sa/4.0, via Wikimedia Commons
https://commons.wikimedia.org/wiki/File:Daibutsu_Grand_bouddha_-_T%C5%8Ddai-ji_-_Nara.jpg

また、叔父の阿刀大足(あとのおおたり)は空海の父・田君の実弟で讃岐佐伯家と婚姻関係を結ぶ阿刀家を継いでいました。大足はすでに都で働いていて、後には桓武天皇の子・伊予親王の侍講になります。このような中央で活躍する佐伯家の人々を通じて、幼い空海も唐をはじめとした異国についての知識を得ることができました。

空海の学問はじめ

空海が学問を始めたのは13歳の時で、讃岐国府にあった定員30人ばかりの「聖堂」で学んでいたとしています。讃岐の「聖堂」は当時としてはモダンな瓦屋根が葺かれた中国風の建物でした。

出典:Saigen Jiro, CC0, via Wikimedia Commons
https://commons.wikimedia.org/wiki/File:Sanuki-kokufu-ato,_sekihi.jpg

上に引用したのは司馬さんも取材を兼ねて立ち寄ったと思われる「讃岐国府跡」の写真です。今は畑に囲まれた静かな場所ですが空海の時代には広大な土居で囲まれ立派な建物が並ぶ街でした。

「国府あとは、小さな盆地のなかにある。『讃岐国庁地碑』という碑のみが立ち、いまは一望ことごとく田畑になっている。空海のころは、国府は四方八丁という土居にかこまれたなかにあり、ちいさな規模ながらも都城のまねごとのような形態はとっていた。」

「この時代に、地方に国学という教育機関があり、中央に大学があったということは、平安末期以降の歴史感覚からすれば夢のようである。・・・・・・国学は国々にあった。・・・・・・国学は、国府のなかにおかれている。讃岐国では、『聖堂』と、俗によばれていた。・・・・・・江戸期の湯島の聖堂のような大規模なものではないにしても唐風に孔子を祀る廟があり、廟のそばに講義場や寄宿舎があった。学生の定員は国々でちがうが、讃岐のばあいの定員は三十人であった。・・・・・・」

上に引用させていただいた平野周辺に讃岐国府関連の建物があり、そのなかの「国学」で空海は学問に励んでいたようです。以下のように国学の一般的な修行期間は9年でしたが、空海は2年で退学し都に向かいます。

「国学生は、空海がそうであるように資格は郡司の子弟でなければならなかった。この点でも貴族主義の色彩の濃い唐制が導入されていることがわかる。・・・・・・空海自身の自伝的文章ではこの時期については沈黙しているが、かれは当然ここで学んだであろう。しかし学んだとすれば、かれはすぐ退学したことになる。国学はふつう十三歳から入って修行期間は九ヵ年であった。ところが空海の場合、かれが都にのぼって大学に入るべく受験勉強をはじめたのは十五歳なのである。この時間関係から仮定がゆるされるとすれば、空海の父兄は空海をして二ヵ年で国学を退学させ、中央の大学を志向せしめたことになる。」

「『この児をしてぜひ中央の高官たらしめねば』というねがいが、すで二、三の中央の官僚を出した経験をもつ讃岐佐伯の一族としては、氏族こぞってのねがいでもあったのだろう。」

都へ

「中央の大学へむかうための身分的資格は、五位以上の者の子弟でなければならない。もっとも特例がある。六位から八位までのさほどでもない身分の子弟でもとくに志願すれば受験を許される。しかし空海の場合は志願というより、すでに中央にあって伊予親王の侍講をつとめている叔父の阿刀大足が従五位であるため、あるいはその係累ことで大足が運動してとくにゆるされたのかもしれない。」

下には海岸寺が所蔵する「阿刀大足」像の写真を引用させていただきました。

出典:屏風ヶ浦海岸寺公式サイト、海岸寺寺宝、阿刀大足
https://kaiganji.jp/guide/treasure1/

空海の気質については以下のように記されています。
「讃岐あたりの佐伯氏程度の土豪で郡司をつとめるという中途はんぱな階級ならばむしろ他の階級などにすくない身分上昇の熱気というものがあり、一族のその熱気に追いあげられるという緊張感が、少年のころの空海には濃厚にあったにちがいない。空海はこの中間階級出身者にふさわしい山っ気と覇気を生涯持続した。」

長岡京への小旅行

空海は叔父の阿刀大足に従って平城京(奈良)の旧居に一旦立ち寄り、そこから長岡京の新居に向かいます。
「平城宮を出てすぐ佐紀の村に入らねばならない。・・・・・・村の東側に、ひろやかに空の蒼さを映した池があり、池の面が絶えずさざなみ立っているほどに大きい。」

阿刀大足「狭城の池よ」
「この時期から六十数年前、まだ平城京があざやかな青丹の色でかがやいていたころ、聖武天皇がこの池畔に百官をあつめ、曲水の宴を催した」
とのこと。

下には佐紀町の東側にある水上池の写真を引用しました。こちらの湖畔から優雅な歌の音が聴こえていたでしょうか。

出典:写真AC、
https://www.photo-ac.com/main/detail/24438156&title=%E5%A5%88%E8%89%AF%E3%83%BB%E5%B9%B3%E5%9F%8E%E5%AE%AE%E8%B7%A1%E5%8C%97%E9%83%A8%E3%81%AB%E3%81%82%E3%82%8B%E6%B0%B4%E4%B8%8A%E6%B1%A0%EF%BC%88%E5%A4%8F%EF%BC%89

「佐紀をすぎ、歌姫にいたれば、平城京を去ってからはじめての登り道である。」
阿刀大足「ここは手向(たむけ)である」
ここでは、下に引用したような歌姫峠の森のなかで幣(ぬさ)をささげ、旅の無事を祈る空海たちの姿をイメージしてみます。

出典:金子元臣 著『万葉集評釈』第二册,明治書院,1942. 国立国会図書館デジタルコレクション https://dl.ndl.go.jp/pid/1882737 (参照 2024-10-16、一部抜粋)
https://dl.ndl.go.jp/pid/1882737/1/76?keyword=歌姫越 手向

道が木津川に沿うころ、松林のそばに土器を焼く煙が、風に散ってはまた騰っている。山城の土師氏の村であった。かれらは農もし、土も焼く。泥をひねっただけで焼くこの素焼きの器はスエというあたらしい焼物の渡来ですたれつつあったが、しかし祭具や庶人の雑器を焼くことで余喘をたもっているのであろう。土師氏は土俗の精霊をあくまでも信ずるという頑質な保守思想の集団としても知られていた。空海はこの村なかの小径を通った。『わが家はめでたく』と、叔父はいった。一族に死者が出ていないというのである。土師の村は死を穢として忌むことがはなはだしく、通行の者といえども死者のけがれを持った者を入れないという。」

下には土師氏が得意とした土器(土師器)の写真を引用させていただきました。

出典:Gary Todd from Xinzheng, China, CC0, via Wikimedia Commons
https://commons.wikimedia.org/wiki/File:Kofun_Era_Pottery_(29435630593).jpg

村を通りすぎるとき、
阿刀大足「私は儒者だからそういうことを信じない」
「阿刀大足は、猜疑ぶかそうにこの一行を見送っている丈のひくい村びとたちを、やや嘲るようにして、高声でいった。」
とあります。

長岡京で受験勉強

空海は長岡京にて15歳から3年の間、叔父の阿刀大足について論語や孝経、史伝などを学びます。下には長岡京の大極殿跡と、そこに復元されたのぼり旗の支柱の写真を引用させていただきました。

出典:Nankou Oronain (as36…, CC BY-SA 3.0 https://creativecommons.org/licenses/by-sa/3.0, via Wikimedia Commons
https://commons.wikimedia.org/wiki/File:%E5%8F%B2%E8%B7%A1%E9%95%B7%E5%B2%A1%E5%AE%AE%E

更にイメージしやすくするために、以下には長岡宮復元体験アプリ「AR長岡宮」の画像を引用させていただきました。公的な儀式の際は多くの貴族や役人たちが控え、のぼり旗がはためく後方の大極殿の御簾の中には桓武天皇が着座していたことでしょう。

出典:向日市公式サイト、史跡長岡宮跡保存活用計画、(AR長岡宮の画像)
http://www.city.muko.kyoto.jp

大足は空海の進むべきコースについて以下のように言います。
阿刀大足「明経科がいいだろう」
「大足がすすめた明経科は行政科といっていい。・・・・・・かれらこの少年の保護者は空海をして佐伯今毛人のような官僚として栄達せしめることを期待したのがこの一事でもわかる」

大学へ入学

空海は18歳の時に大学へ入学します。司馬さんはこの時期の大学寮はまだ奈良にあったと推測しています。空海は長岡京から奈良に移動し、周礼や春秋左氏伝、論語などの難しい書物を暗記するレベルまで叩き込まれました。

出典:写真AC、平城京 朱雀門
https://www.photo-ac.com/main/detail/29464284&title=%E5%B9%B3%E5%9F%8E%E4%BA%AC+%E6%9C%B1%E9%9B%80%E9%96%80

普通の人ならパンクしてしまいそうな量の教課内容がありましたが、空海は何食わぬ顔でこなし、余ったエネルギーで中国語や書も学んでいたのではと司馬さんは想像します。

上には復元された平城宮・朱雀門の写真を引用しました。以下のような空海の姿を置いてみましょう。
「この丸顔のやや小柄な少年は、終生の性格がそうであったように、ときには挑むように、ときにはふてぶてしく無視するように、そして外貌からみればなにやら毅然として都大路を歩いていたにちがいない」

旅行などの情報

善通寺

空海誕生の地と伝えられるお寺です。当時はこの地に空海の一族・佐伯家の邸宅がありました。特に西院御影堂の奥殿は空海の母・玉寄御前の部屋があった場所とされ空海誕生の聖地とされています。こちらの地下空間に儲けられた「戒壇巡り」は弘法大師・空海と縁が結べる修行の場です。

また、空海が近くで遊んだとされる大楠は南大門と五社明神社周辺の2株あるのでお見逃しなく。ほかにも御誕生の際に用いられたとされる「産湯井」や、上に引用させていただいた国重要文化財の五重塔も見どころです。

基本情報

【住所】香川県善通寺市善通寺町3-3-1
【アクセス】善通寺駅から徒歩約15分
【公式URL】https://www.zentsuji.com/

国営平城宮跡歴史公園

空海が大学生活を送った奈良の都の中心地です。大学寮はこの周辺にあったと考えられ、正門に当たる朱雀門前では空海も足を停めて眺めていたかもしれません。現在は平城宮跡に入って復元された第一次大極殿を観光することもできます。殿内には天皇が座る高御座(たかみくら)も再現され、優雅な雰囲気に浸れるでしょう。

上に引用させていただいたような季節ごとの景色も見事です。また、展望デッキやVRシアター、レンタサイクルなどのある「天平みはらし館」やレストラン・カフェ、お土産処を備える「天平うまし館」といった設備も充実し、ゆったりと過ごせます。

基本情報

【住所】奈良県奈良市佐紀町
【アクセス】近鉄大和西大寺駅南口からぐるっとバスで約10分(朱雀門ひろば停留所)
【公式URL】https://www.heijo-park.jp/