司馬遼太郎「空海の風景」の風景(その9)
正統な密教の伝法者は?
最澄が密教を持ち帰ったことを喜んだ桓武天皇は彼に日本初の灌頂を行わせます。この時点で最澄は密教の第一人者になりました。ところが、帰国した空海が「御請来目録」を提出すると、朝廷は二人の密教の内容を調べさせ、結局正嫡と判定されたのは空海でした。空海はさまざまな情勢を考えて入京を避け、密教の体系づくりに励みます。
最澄の「将来目録」
空海は遣唐使船の出航の地である明州に向かう途中、越州に入ります。そこで恵果とも交流があり長安の宮廷の「内供奉十禅師」の席をもつ順暁(じゅんぎょう)を訪ねました。そのとき空海は以下のような重大な話をききます。
「空海は順暁から『最澄に密教をゆずった』ときかされたとき、よほどおどろいたであろうことは、まちがいない。ただみずから慰めるところは、順暁の密教が全体系の一部にすぎず、ごく偏頗なものだということだけだが、それでも密教は密教である。それを最澄がすばやく(と空海は思ったであろう)持ち帰り、日本で披露してしまえば、あとから帰国する空海がいかに自分の密教が正統であり、全体系であると呼号しても、後の祭りというべきではないか。最澄は、天皇の師である。」
出典:天台宗宗典刊行会 編『伝教大師全集』第4 ,天台宗宗典刊行会,明45-大1. 国立国会図書館デジタルコレクション https://dl.ndl.go.jp/pid/819610 (参照 2024-11-14、一部抜粋)、伝教大師将来目録
https://dl.ndl.go.jp/pid/819610/1/362
「順暁から相承をうけ、さらに典籍百二部・百十五巻」も筆写した。また順暁から法具七点を譲りうけた。この法具七点という数字は『伝教大師将来越州録』にある」
上には「伝教大師将来目録・越州録(写し)」から、法具七点の部分を抜粋して引用しました。
「越州へ志したときの最澄は、『経典をもらいにゆこう』という程度の気持だったし、かならずしも密教をめざしたのではなかった。最澄にとって密教は、拾いものだったといえる。」
とのこと。ところが
「最澄の『将来目録』のなかに密教が入っていることを知った桓武天皇のよろこびようは、やや常軌を逸していたかとおもえるほどで、すぐさま和気広世に勅し、・・・・・・最澄のもたらした天台については触れず、密教にのみ昂奮し、密教をもたらしたがゆえに最澄を国師であるとし、しかも、旧仏教の長老たちに灌頂を受けさせよ、と命じているのである。」
とあります。
出典:Saicho, Public domain, via Wikimedia Commons
https://commons.wikimedia.org/wiki/File:Catalogue_of_imported_items.jpg
なお、「伝教大師将来越州録」は最澄直筆のものが残っていて国宝に指定されています(上に最終頁を引用)。こちらの左下には遣唐使正使の藤原葛野麻呂などの署名や遣唐使印、最澄の直筆の上には明州史の印が押されています(以下に概要説明を引用)。公文書に署名を記す葛野麻呂などの緊張感が伝わってきそうな文書です。
最後に805年(唐貞元21)5月13日付で明州刺史(明州の長官)にたいして証明を請い、最澄と義真、および侍者が署名する。これにたいして明州史鄭審則(ていしんそく)が誤りなきことを証し、署判をくわえており、最末尾には遺唐大使藤原葛野麿らの署名し、遣唐使印5顆を捺押している。
出典:レファレンス協同データベース、延暦寺伝教大師将来(請来)目録の概要を知りたい。
https://crd.ndl.go.jp/reference/entry/index.php?id=1000102484&page=ref_view
最澄が密教の専門家に!
桓武天皇の命により、高雄山寺で灌頂を行ったのは空海が帰国する一年以上前のことでした。
「ともかくも最澄の密教の独壇場の時代であった。この最澄の高雄山寺における勅命灌頂が、日本の密教史上、最初の灌頂になった。この行事のあと、数日して、天皇は自分のために灌頂をおこなえ、と命じ、九月十六日、それがとりおこなわれた。これによって最澄は、日本密教の総指揮者になったといっていい。」
高雄山寺での灌頂には最澄が唐に渡る前に開催された天台三大部の講演会(空海の風景の風景その5・参照)と同じように、旧(奈良)仏教の高僧たちも呼び出されました。
「かれらは内心不愉快だったであろう。しかし勅命にさからうわけにもゆかず、後年それが事件となって露われるように、最澄へのつよい憎しみになった。」
下には鎌倉時代につくられた日本最古の伝教大師最澄の坐像の写真を引用させていただきました。
また、次の年(八〇六年)、最澄は
「天台宗も、他の六宗と同様、年分度者(僧になることについての官許の人数)を出す資格を許してほしい」
と申し出て、二人分の国家試験で枠を得ることが許されました。これにより天台宗が公認されたことになります。また課程についての以下のような取り決めについても許可を得ています。
「二人のうち一人は、天台課程とし、他の一人は密教課程とする・・・・・・最澄は天台課程を止観業と名づけ、密教課程を遮那業とよぶことにした。」
「これらについての最澄の心事は、よくわからない。時の勢いにうかうかと乗ってしまったという後ろめたさは、あるいはあったかもしれないが、異常な行動力をもった天皇に最澄としては巻きこまれざるを得なかったともいえるかもしれない。しかし、ひるがえって思えば、この時期、最澄は幸福であった。かれは、空海という二十年期間の留学生が、早々に帰ってくるとは夢にもおもわなかった。さらにその空海が、密教の全体系を伝承しているなどということは、最澄は気配にも感じていない。最澄は、宮廷の密教流行のなかで弾みきっていればよかった。」
那ノ津に到着
その年(八〇六年)の秋ごろ、那ノ津に到着した遣唐使一行は鴻臚館に入ります。空海の耳には既に最澄が密教の最高者と認可されているという情報が入ってきます。密教の正嫡であることを自認する空海ですが、
「『あなたが、密教をもたらした?』大宰府の官人のなかで、空海をいぶかしく思う者もいたかもしれない。『密教は最澄どのが、もうもたらしている。都では勅命灌頂などもあって、大変なさわぎですよ。』」
「その最澄を、筑紫にいる空海は、おそらくよほどの虚喝漢だと思ったにちがいない。・・・・・・」
出典:福岡市の文化財公式FACEBOOK、平成30年度市民講座「鴻臚館学」入門 開催のお知らせ
https://www.facebook.com/bunkazai.city.fukuoka.page
上には復元された鴻臚館周辺のCGを再度引用させていただきます(空海の風景の風景その6・参照)。ここではどこかの宿舎から以下のような逸勢の怒声が響いているシーンを想像してみます。
「逸勢は空海のためにわが事のように身をふるわせて悲憤したであろう。高階判官にも最澄の虚喝ぶりを訴え、大宰府の官人や観世音寺の官職たちにも掻きくどき、最澄のような男がまかり通るならば世の中は闇であるといわんばかりに咆えることもあったであろう。」
空しく往きて満ちて帰る
ほどなく遣唐使一行は上京しますが、空海は一人だけ九州に残ります。理由として二十年間の滞在を命じられた留学生であるにもかかわらず二年で帰国したこともありますが、
「いまひとつ考えられるのは、最澄の密教をめぐってあらたに興りつつある情勢である。朝廷では密教の伝法者が二人も出現したことに、当惑したに相違ない。これについて、当然、朝廷は、先例にもあるように、僧綱所に調査させたであろう。・・・・・・僧綱所の僧官たちは、まず空海の上提目録を見、その内容の豊富さをみて、圧倒されたにちがいない。」
下には江戸時代に写された「御請来目録」の初頁の写真を引用しました。左端にある「金剛頂瑜伽般若理趣経」はのちに最澄が借用を依頼し空海が断り、二人の仲を裂くきっかけになる経典です。
出典:空海 [編]『[新請來經等目録]』,[慶長年間]. 国立国会図書館デジタルコレクション https://dl.ndl.go.jp/pid/2532136 (参照 2024-11-15、一部抜粋)
https://dl.ndl.go.jp/pid/2532136/1/4
「また、僧綱所では、それが専門であるだけに、中国における師承の系譜にあかるかったであろうと思われる。不空の嫡系が恵果であることも知っていたはずだし、空海が恵果からすべてを譲られたということは、空海が日本のみならず三国における不空密教の正嫡であることは、十分想像できたにちがいない。」
関連して、大宰府からおくられた命令書では空海の業績が高く評価されています。
「右件の僧は、笈を遠藩に負ひ、大道を耽嗜し、空しく往きて満ちて帰る。優学称すべし。今、帰朝に及んで暫く彼の寺(観世音寺)に住し、宜しく入京の日を待つべし。借住の例に準じて供養せよ」
「一方、僧綱所では、最澄についても、調査したに違いない。その結果、最澄の伝えた密教の評価を低くしたであろう。最澄に密教を譲ったという越州の順暁についても、順暁ほどの人物なら、僧綱所で十分わかるはずであった。さらには最澄がその越州において、一ヵ月足らずしか滞留しなかったということも、最澄密教の評価を安っぽくしたかと思える。」
僧綱所には奈良仏教の関係者が多いこともあり、、最澄に対しての評価は以下のような厳しいものでした。
「最澄、未ダ唐都ヲ見ズシテ、只辺州ノミニ在ツテ即便還リ来ル」
空海の計画
空海は結局一年という長期間、筑紫周辺に滞在しました。僧綱所の調査などで待たされたこともありますが「空海の風景」では以下のような姿が描かれています。
「察するに、空海は、みずからの思索とみずからの意思によってすぐには上京せず、一年ちかくも筑紫にいたのであろう。・・・・・・おそらく筑紫での空海は、都で評判が高くなるのを、待っていたのであろう。でなければ、恵果の門をたたくまでの空海もそうであったように、帰国早々のかれは無名の僧であるにすぎない。・・・・・・空海がもし、いきなり京にのりこめば、やがては『目録』などで評価されるにちがいないにせよ、当座は世間の目は冷たかったであろう。」
出典:Jakub Hałun, CC BY-SA 4.0 https://creativecommons.org/licenses/by-sa/4.0, via Wikimedia Commons
https://commons.wikimedia.org/wiki/File:20100719_Dazaifu_Kanzeonji_Belfry_3421.jpg
上には空海が滞在したとされる観世音寺の鐘楼の写真を引用しました。鐘は7世紀末につくられたものです。空海はこちらのお寺で、鐘の音を聴きながら経典類の整理などをしていたでしょうか。
空海の目論見通り、都での彼の評判は徐々に上がり「上京してその教えを流布せよ」との勅命が下ります。
「空海がなお請来物を抱いたまま筑紫にいるという宙ぶらりんな状態に、朝廷のほうが耐えられなくなったにちがいない。空海は、そういう宮廷の心理を、筑紫にあって操作していた。・・・・・・このあたりの進退の姿は、二十前後のころに『三教指帰』を書いたという男らしく、いかにも戯曲的構成をおもわせるようである。」
槇尾山寺(施福寺)へ
勅命を受けた空海は筑紫を離れますが、直接京にはいかず、師であった勤操(空海の風景の風景その4・参照)が管理する槙尾山寺(現在の施福寺)に入りました。この時の人事や空海の考えなどについては以下のよう記されています。
「経典の整理もさることながら、請来した密教を、どういう攻撃にも堪えられるだけの堅牢な組織に組みあげてから敵地ともいうべき京に入りたかったのではないか。『・・・・・・まだ整理し足らぬというのか。それでは、和泉のわしの寺でしばらく駐(とど)まっていればどうか・・・・・・』勤操が言い、それを官に働きかけ、結局、槙尾山寺に仮住ということになったのであろうか。」
難波ノ津から空海は南へ向かいます。「空海の風景」では槙尾山までの道のりを詳細に描いていますので、その景色を追ってみましょう。
「和泉の野は、どこかかれの故郷の讃岐の野と似ている。海明かりが映えるせいか、あかるい。はやく開けた土地だけに田園の条理が整然としていて、空よりも碧い水をたたえた用水池も多い。この土地は、土師器や須恵器を焼く窯が多く、野のあちこちで煙をあげていた。」
下には大阪府南部にあった須恵器の一大生産地「陶邑窯」の想像復元図を引用させていただきました。画面上側には須恵器を焼く煙が上がっています。空海の見たのもこちらのような景色だったでしょうか。
出典:堺市公式サイト、陶邑窯跡群、古墳時代の陶邑想像復元図(陶器南遺跡付近)
https://www.city.sakai.lg.jp/kanko/rekishi/bunkazai/bunkazai/isekishokai/suemurakamaato.html
「讃岐の野には野のなかにまんじゅうを置いたような丘が多いが、南河内から和泉にかけては古墳(つか)とよばれる築山が野に臥せている風景が多く、やがて古い聚楽の信太村になる。」
下には大阪南部にある百舌鳥古墳群の空中写真(昭和初期)を引用させていただきます。なお、十字マークの左上にある巨大な古墳は日本最大の大仙陵古墳(伝仁徳天皇陵)です。空海のころは周辺にさえぎる建物は少なく、地上からでもこちらの古墳群を見渡すことができたと思われます。
出典:国土地理院公式サイト、大仙陵古墳周辺(1936年~1942年頃)
https://maps.gsi.go.jp/#14/34.559387/135.488434/&ls=ort%7Cgazo4%7Cgazo3%7Cort_riku10&blend=000&disp=0001&vs=c1g1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f1&d=m
「その村内を走る道を南にさしてむかうと、道はすこしずつのぼり坂になり、一時間もゆくうちに、和泉のようにひらけた国にこれほどの深山があったのかと思えるほどの山林に入ってしまう。登りがけわしくなり、足もとの渓流を落ちてゆく水がはやくなるうち、やがて槙尾山に入りこんでしまう。」
下には槙尾山寺(現・施福寺)の古写真を引用させていただきました。
出典:出典:岸和田市立図書館公式サイト、泉州槙尾山施福寺遠景
http://www.city.kishiwada.osaka.jp/
「このような人界から離れた山中に寺を開いた最初の人物はたれであったかということが疑わしくなるほどの場所だが、伝承されるところは、空海のこの時代より百数十年前に大和あたりの山中を駆けまわっていたという役小角(えんのおずぬ)であるという。後世、役小角は雑密に憑かれた山林遊行者の草分けの人物のように説かれるが、その点はおそらく後世の行者たちがつくった伝説であろう。むしろ土俗の巫人のようでもあるが、ともかくも峰々を飛ぶように駆けたといわれ、諸方で、霊気のある山をさがしては、ひらいた。」
下には鎌倉時代ごろの作品とされる役行者像(キンベル美術館蔵)を引用しました。
出典:Wmpearl, CC0, via Wikimedia Commons
https://commons.wikimedia.org/wiki/File:En_no_Gy%C5%8Dja,_Kamakura_period,_polychromed_wood.JPG
「空海は、経机の前にすわりっきりという男ではなかった。かれは物を考えるとき、歩きながら考えるというふうな男で、その歩くことも、ぶらぶら平地を散策する人ではなく、草をつかんで崖をよじのぼったり、岩を抱いてつま先立ちにむこう側に身を移してゆくという作業を必要とするようだった。かといって筋肉質の偉丈夫ではなく、早い時期の木像や絵像から想像して、およそ峻嶮をよじのぼるというふさわしい骨格、人相ではない。脂肪のうっすらとまわったまるい顔、高張提灯のような胴、それにふとくみじかい脚がついているという感じで、背も低い。」
下に引用した弘法大師像(鎌倉時代)の写真から、山から山へと歩きまわる空海の姿をイメージしてみましょう。
出典:国立文化財機構所蔵品統合検索システム、真言八祖像のうち 空海
https://colbase.nich.go.jp/collection_items/narahaku/797-8?locale=ja
「憂い顔でもないまる顔の小男が、丈ほどの草の中からひょいと出てきては木の枝をつかんで崖をすこしずつ登ってゆくという姿は、むしろ屈強の男でないだけに異様の感じがただよう。」
下に引用させていただいたのは槇尾山の山頂部付近(捨身嶽)の写真です。こちらの崖に空海の姿を置き
「両部は不治である」
などとつぶやきながらよじのぼってゆくシーンを想像してみます。
出典:岸和田市立図書館公式サイト、泉州槇尾山捨身嶽
http://www.city.kishiwada.osaka.jp/
両部不二について「空海の風景」では以下のように記されています。
「このころ空海が達したかれの密教の理論は、おそらく両部不二ということであったであろう。両部とは、精神の原理を説く金剛頂経系の密教<金剛界>と、物質の原理をとく大日経系<胎蔵界>の密教をさす。この二つは、二にして一である、と空海はインドにおいてべつべつの発展をしてきたこの二つの密教思想を、一つの体系のなかに論理化してしまうのである。」
旅行などの情報
施福寺
施福寺(槇尾山寺)は6世紀に創建された山岳寺院で、唐から帰国した空海はしばらくこちらに滞在したとされます。槙尾山の山腹にあり、駐車場から本堂までの道のりは徒歩1時間弱ほどの所要時間です。きつい坂道もあるので動きやすい服装でお出かけください。
駐車場から少し歩くと豊臣秀頼の寄進とされる仁王門に到着します。「弘法大師姿見の井戸」や「弘法大師剃髪所跡(愛染堂)」といった空海にかかわる史跡を通って本堂へ。本堂ではご本尊の弥勒菩薩像や十一面千手観音像、市内最大の木造仏・方違観音坐像(上に引用させていただきました)などを拝観できます。桜や紅葉の名所にもなっているので、時期をあわせて訪れてみてはいかがでしょうか。
基本情報
【住所】大阪府和泉市槙尾山町136
【アクセス】南海バス槙尾山口バス停で下車(徒歩約1時間)
【参考URL】https://www.city.kawachinagano.lg.jp/