村上春樹「1973年のピンボール」の風景(その5)
配電盤のお葬式&ピンボールの捜索
今回からはこちらの小説のタイトルにある「ピンボール」が本格的に登場します。1970年ごろ「僕」は渋谷のゲームセンターで「スペース・シップ」というピンボールに夢中になりますが、翌年撤去されてしまいました。1973年のある日、急にそのピンボールと再会したくなり、伝手を頼って探索を開始します。また、前回(1973年のピンボールの風景その4・参照)工事人が置いていった配電盤については、貯水池で立派なお葬式が開かれることに!
配電盤が弱っている!
ある日、「僕」が家に帰ると「ゴルフ場に遊びにいきます」という双子のメモがありました。心配になって探しに出かけ、バックギャモンで遊んでいる二人を見つけます。
僕「二人だけで来ちゃ危ないって言ったろ?」
双子「夕焼けがとても綺麗だったの」
「僕」は双子と三人でゴルフ場の夕焼けを眺め、すすきの穂が風に揺らされる音を聴いた後、家に帰ります。
そして「僕が風呂に入ってビールを一本飲み終える頃に三匹の鱒が焼き上げられた」とのこと。下には美味しそうな鱒の塩焼きの写真を引用しました。ここでは「そのわきに缶詰のアスパラガスと巨大なクレソンが添えられた」御馳走を食べる三人の姿を想像してみましょう。
出典:写真AC
https://www.photo-ac.com/main/detail/24826658&title=%E3%83%9E%E3%82%B9%E3%81%AE%E5%A1%A9%E7%84%BC%E3%81%8D
食事が終わると、「僕」は気になっている配電盤の話をします。以下はその抜粋です。
僕「配電盤の話をしよう・・・・・・何故死にかけてるんだろう」
双子「いろんなものを詰め込みすぎたのね、きっと」
双子「パンクしちゃったのよ」
僕「どうすればいいと思う?」
双子「土に還るのよ」
僕「死なせたくない」
双子「気持ちはわかるわ」
双子「でもきっと、あなたには荷が重すぎたのよ」
双子が配電盤のお葬式を計画
木曜日の朝、双子がいつもより十五分早く「僕」を起こし、以下に抜粋したような会話をします。
双子「お願いがあるの」
双子「日曜日に車を借りられるかしら?」
僕「多分ね・・・・・・でも何処に行きたいんだ?」
双子「貯水池」
僕「貯水池に何しに行くんだ?」
双子「お葬式」
僕「誰の?」
双子「配電盤よ」
出典:Vauxford, CC BY-SA 4.0 https://creativecommons.org/licenses/by-sa/4.0, via Wikimedia Commons
https://commons.wikimedia.org/wiki/File:1970_Volkswagen_Beetle_1200_Front.jpg
「僕は土曜日の夜に共同経営者から空色のフォルクス・ワーゲンを借りた」。そして、その車の「後部座席には彼の息子がこすりつけたらしいミルク・チョコレートのしみが、まるで銃撃戦のあとの血痕のように一面にしみこんでいた」とのことです。
上にはビートルの愛称で知られるフォルクスワーゲン・タイプ1の写真を引用しました。以下のようなシーンも想像してみましょう。
「双子の一人は助手席に座り、もう一人はショッピング・バッグに入れた配電盤と魔法瓶を抱えたまま後部座席に座っていた。彼女たちは葬儀の日にふさわしく厳粛だった。」
貯水池にて
「日曜日はあいにく朝から細かい雨が降り続いていた」。貯水池のわきに車を停めると、「車の中に座ったまま魔法瓶に入れたコーヒーを飲み、双子が買ってきたクッキーを食べた」とあります。
「雨は休みなく貯水池の上に降り注いでいた。雨はひどく静かに降っていた。新聞紙を細かく引き裂いて厚いカーペットの上にまいたほどの音しかしなかった。クロード・ルルーシュの映画でよく降っている雨だ。」とのこと。
下にはフランスの映画監督クロード・ルルーシュの代表作「男と女」の予告編動画を引用させていただきました。予告編も雨のシーンが多く、貯水池の雨をイメージできるのではないでしょうか。
下には「1973年のピンボール」の貯水池のモデルともされる村山貯水池(多摩湖)の写真を引用しました。
双子「何かお祈りの文句を言って」
僕「お祈り?」
双子「お葬式だもの、お祈りは要るわ」
僕「気がつかなかった・・・・・・実は手持ちのものがひとつもないんだ」
双子「なんだっていいの」
双子「形式だけよ」
僕「哲学の義務は・・・・・・誤解によって生じた幻想を除去することにある。・・・・・・配電盤よ貯水池の底に安らかに眠れ」
と、愛読書のカントの言葉を引用しました。
出典:写真AC
https://www.photo-ac.com/main/detail/25475399&title=%E6%9D%91%E5%B1%B1%E4%B8%8B%E8%B2%AF%E6%B0%B4%E6%B1%A0%E3%81%AE%E5%8F%96%E6%B0%B4%E5%A1%94%EF%BC%88%E5%A4%9A%E6%91%A9%E6%B9%96%EF%BC%89
双子「投げて」
僕「ん?」
双子「配電盤よ」
「僕は右腕を思い切りバックスイングさせてから、配電盤を四十五度の角度で力いっぱい放り投げた。配電盤は雨の中を見事な弧を描いて飛び、水面を打った。そして波紋がゆっくりと広がり、僕たちの足元にまでやってきた」とあります。
ピンボールが心を捉える
「ある日、何かが僕たちの心を捉える。なんでもいい、些細なことだ。バラの蕾、失くした帽子。子供の頃に気に入っていたセーター・・・・・・その秋の日曜日の夕暮時に僕の心を捉えたのは実にピンボールだった」とあります。
その時、「僕は双子と一緒にゴルフ・コースの八番ホールのグリーンの上で夕焼けを眺めて」いました。
「八番ホールはパー5のロングホールで障害物も坂もない。小学校の廊下みたいなフェアウェイがまっすぐに続いているだけだった。七番ホールでは近所に住む学生がフルートの練習をしていた。」とのことです。ここでは下に引用したゴルフコースに夕焼けを追加し、隣のコースのフルート演奏にも耳を傾けてみましょう。
出典:David Anstiss / 7th Tee Chestfield Golf Course
https://commons.wikimedia.org/wiki/File:7th_Tee_Chestfield_Golf_Course_-_geograph.org.uk_-_1524113.jpg
「何故そんな瞬間にピンボール台が僕の心を捉えたのか、僕にはわからない。」といいます。
「そしてそればかりか時を追うごとにピンボールのイメージは僕の中でどんどん膨らんでいった。目を閉じるとバンパーがボールを弾く音や、スコアが数字を叩き出す音が耳もとで鳴った」とも。
下にはバンパーがボールに当たる音が聞こえてきそうなピンボール台の写真を引用しました。
出典:The Consumerist, CC BY 2.0 https://creativecommons.org/licenses/by/2.0, via Wikimedia Commons
https://commons.wikimedia.org/wiki/File:German_KISS_Pinball_machine_3.jpg
1970年のピンボールは?
僕が初めてピンボールに出会ったのは1970年の夏頃でした。
「ちょうど僕と鼠がジェイズ・バーでビールを飲み続けていた頃、僕は決して熱心なピンボール・プレーヤーではなかった」とあります。
最初にピンボールに魅せられたのは鼠で「92500という彼のベスト・スコアを記念すべく、鼠とピンボール台の記念写真を撮らされたことがある。・・・・・・鼠はまるで第二次世界大戦の撃墜王のようにみえた」とあります。
下に引用させていただいたのは第二次世界大戦時の撃墜王の写真です。鼠の姿もこのような感じだったでしょうか。
「92500という数字が鼠とピンボール台を結びつけ、そこはかとない親密な雰囲気をかもしだしていた」
出典:United States Army Air Forces, Public domain, via Wikimedia Commons
https://commons.wikimedia.org/wiki/File:Captain_Harry_A._Parker_a_pilot_of_the_318th_Fighter_Squadron_325th_Fighter_Group.jpg
ピンボールの世界に入り込む
「僕が本当にピンボールの呪術の世界に入り込んだのは1970年の冬のことだった。冬の半年ばかりを僕は暗い穴の中で過ごしたような気がする。」と回顧します。関連して、「1973年のピンボール」の前作「風の歌を聴け(・・・の風景その1・参照)」には1970年冬の悲しい出来事がエピローグとして添えられています。帰省時に「僕」が「小指のない女の子」を訪ねますが、彼女は既にアパートを引き払っていて二度と会えませんでした。
渋谷のゲームセンターの「機械はやっとみつけた3フリッパーの『スペース・シップ』、ジェイズ・バーと全く同じモデルだった。」とのことです。下に引用させていただいた投稿のように「1973年のピンボール」に登場するスペース・シップは架空のピンボールですが、大手メーカーのウイリアムズから同名のピンボールが発売されていました。
その後、ピンボールにはまった「僕」は「大学に殆ど顔も出さず、アルバイトの給料の大半をピンボールに注ぎ込んだ」といいます。
「彼女は素晴らしかった。3フリッパーの『スペース・シップ』・・・・・・僕だけが彼女を理解し、彼女だけが僕を理解した。」。そしてゲームをする過程で「様々な思いが僕の頭に脈略もなく浮かんでは消えて行った」とのこと。
「スペース‣シップ(彼女)」と以下のような会話をします。
彼女「あなたのせいじゃない、・・・・・・あなたは悪くなんかないのよ、精いっぱいやったじゃない。」
僕「・・・・・・違うんだ。僕は何一つ出来なかった。指一本動かせなかった。でも、やろうと思えばできたんだ。」
彼女「人にできることはとても限られたことなのよ、」
このような会話ができるまで親密な関係になったスペース・シップでしたが「年が明けた二月、彼女は消えた」とのことです。
探索開始
時代は1973年に戻ります。ピンボール台・スペース・シップを探し続ける「僕」は紹介してもらったピンボール・マニアに電話してみます。
僕「ピンボールのある台についてお話をうかがいたいのですが」
ピンボール・マニア「どのような台でしょうか?」
僕「3フリッパーの『スペース・シップ』という台です・・・・・・ボードに惑星と宇宙船の絵が描かれた・・・・・・」
ピンボール・マニア「よく知っています・・・・・・シカゴのギルバート&サンズの一九六八年のモデルです。悲運の台として少々知られたものでしてね・・・・・・お会いして話すわけにはいかんでしょうか?」
「背後では七時のNHKニュースと赤ん坊の声が聞こえる」とのこと。下にはNHKニュース開始の報時に使われた時計の写真を引用しました。「僕」も「プ・プ・プ・ピーン」という七時の時報を聴いていたかもしれません。
出典:t.ohashi, CC BY 2.0 https://creativecommons.org/licenses/by/2.0, via Wikimedia Commons
https://commons.wikimedia.org/wiki/File:%E3%83%86%E3%83%AC%E3%83%93%E7%94%BB%E9%9D%A2%E6%99%82%E8%A8%88_NHK_(4403864006).jpg
そのピンボール・マニアとは次の日の夕方、喫茶店で会うことになりました。彼は大学でスペイン語を教えているとのこと、「年は三十を幾つか出たあたり、髪はすでに薄くなりはじめていたが体は日焼けして頑丈そうだった。」とのこと。彼は言います。
「ピンボール業界は四つばかりの企業による寡占状態にあります。ゴッドリーブ、バリー、シカゴ・コイン、ウイリアムズ・・・・・・いわゆるビッグ・フォーですな。そこにギルバート社が殴り込んできた。・・・・・・」
上の会話の中でギルバート(ギルバート&サン)社以外は実在のメーカーです。下には1966年に撮影されたゴッドリーブ社「セントラル・パーク」というピンボールの写真を引用しました。
出典:Picture taken by Jill WeissPinball machine manufactured by D. Gottlieb & Co., Public domain, via Wikimedia Commons
https://commons.wikimedia.org/wiki/File:Gottlieb%27s_Central_Park.jpeg
スペイン語の講師によると、ギルバート社は一旦、一九五七年にピンボール業界から一度撤退しますが、一九六四年に「ビッグ・ウェイヴ」という名機を引っ提げて復帰します。そして「スペース・シップ」は「恐ろしくオーソドックスでシンプルなもの」でしたが、「麻薬のように人をひきつけた」とのこと。ギルバート社の最後の台となったとのことです。
出典:Autopilot, CC BY-SA 3.0 https://creativecommons.org/licenses/by-sa/3.0, via Wikimedia Commons
https://commons.wikimedia.org/wiki/File:Beat_Time.jpg
ここでは参考のためビッグ・フォーの他のピンボールマシンの写真を掲載しましょう。上はウイリアムから1967年にリリースされたビートルズをテーマにした「ビートル・タイム」です。この年、ビートルズはテレビ映画「マジカル・ミステリー・ツアー」を手がけるなど新しい表現方法に挑戦している時期でした。
また、下の写真はバリー社の「Four Million B.C.(紀元前400万年)」というピンボール・マシン(1971年) です。当時のアメリカでは恐竜が流行っていたのかもしれません。
出典:Marius Vassnes, CC BY-SA 4.0 https://creativecommons.org/licenses/by-sa/4.0, via Wikimedia Commons
https://commons.wikimedia.org/wiki/File:Four_Million_B.C._pinball_machine_from_May_1971,_manufactured_by_Bally_Manufacturing_Co.jpg
スペイン語教師によると「悲運の台」といわれる理由は二つあるといいます。
「第一にその素晴らしさが人々に十全に理解されなかったこと。彼らがやっと理解し始めた頃はもう遅すぎた。第二に会社が倒産してしまったこと。あまりにも良心的にやりすぎたんですな。」
また、スペース・シップが日本には三台しか輸入されなかった貴重なマシンであることや、放出された台はスクラップ処分だけでなく、マニアが引き取る場合もあることが分かりました。
そして、見つかる可能性は低いですが
「でもまあやってみましょう。私自身『スペース・シップ』には幾らか興味がある」
と、スペイン語講師も探索に協力してくれることになりました。
旅行の情報
アミューズメントフィールド・バイヨン
「1973年のピンボール」を読むとピンボールがしたくなる方も多いのではないでしょうか。「1973年のピンボールの風景その1」では大阪の「ザ・シルバーボールプラネット」をご紹介しましたが、関東エリアで多数のピンボールをプレイしたい方におすすめなのがこちらのゲームセンターです。
埼玉県ふじみ野駅近と公共交通でもアクセスしやすい場所にあり、カンボジアのバイヨン遺跡をモチーフにした建物が非現実の世界に引き込んでくれます。下に引用させていただいた写真のようにウィリアムス社やバリー社などの多数のピンボール台がそろい、ポーカーやスロットなどのメダルマシンも楽しめるのが魅力です。
基本情報
【住所】埼玉県ふじみ野市うれし野2-16-1LCモールうれし野2F
【アクセス】東武東上線・ふじみ野駅から徒歩6分
【公式URL】http://bayon-game.com/