宮本輝「血脈の火」の風景(その4)

台風被害と城崎への旅

新たにプロパンガス代理店という事業を始めた熊吾ですが、台風による水害のためテントパッチ工業の主要資材である接着剤を全て失ってしまいます。更に千代麿の将棋仲間の医師から糖尿病の宣告を受けることに!また、城崎温泉(血脈の火の風景その3・参照)を訪問した熊吾は血縁のない浦辺ヨネや麻衣子たちの共同生活に心温まるものを感じます。

プロパンガスの代理店に

免許取り立ての熊吾は警察を退職した杉野を助手席に座らせ、失踪した母(血脈の火の風景その3・参照)のことなどを話していましたが、以下のように話題を変えます。

熊吾「景気のええ話をするか・・・・・・プロパンガスっちゅうのを知っちょるか?」
杉野「ガス?何のガスや?」
熊吾「台所で使うガスよ。戦後、大阪ガスの復旧も進んで、ガス管は、大阪中に張りめぐらされちょるが、それでも全体の四割ほどじゃ。中心部から遠くへ行けば行くほど、ガスの普及率は落ちよる。その代わりを、プロパンガスがやるんじゃ・・・・・・新しい会社の社長はお前。わしは副社長じゃ。・・・・・・」

熊吾は新しい事業として、家庭に流通し始めたプロパンガスの代理店を運営しようとしていました。ちなみに現在の大阪の都市ガスは8割を超えていますが、以下に引用させていただいたように、全国的にはプロパンガスは依然として欠かせないエネルギーです。

プロパンガスは、全国の約4割に相当する2,200万世帯が利用する国民生活に欠かせないエネルギーのひとつです。

出典:日本ガス協会
https://www.gas.or.jp/

熊吾は大手のプロパンガス販売元である大崎産業と代理店の仮契約を交わし、さらに副社長や関西営業総局長の石黒を宴席に招きます。

下に引用したのは現在もプロパンガスの大手販売元である岩谷産業の1964年(昭和39年)の広告です。広告にあるように、マルヰプロパン会(現マルヰ会)という契約会社から各家庭にプロパンガスが運ばれていました。

出典:大蔵省印刷局 編『職員録』昭和40年 下,大蔵省印刷局,1964. 国立国会図書館デジタルコレクション https://dl.ndl.go.jp/pid/3024947 (参照 2024-06-25、一部抜粋)
https://dl.ndl.go.jp/pid/3024947/1/1197

副社長との雑談のなかで、石黒が京都大学出身ということを知ります。
熊吾「そうですか。石黒さんは京都大学ですか。戦後、私の会社に辻堂っちゅう社員がおりまして、彼が京大出身でした。いまは、東京の証券会社に勤めちょりますが」
石黒「辻堂・・・・・・?何という証券会社ですか?」
熊吾「東亜証券です」
石黒「えっ!辻堂忠さんですか?・・・・・・来年の三月に、私の従妹と結婚するんです・・・・・・東亜証券の専務の弟の娘なんです」

熊吾は無事、代理店契約を結びますが、それには辻堂の口添えがあったに違いないと考えました。

昭和29年台風15号の被害

特殊な接着剤を利用して消防用ホースを修繕する「テントパッチ工業」や雀荘の「ジャンクマ」、中華料理の「平華楼」といった熊吾の手がけた事業は順調に伸びていました。加えて、プロパンガスの代理店も開始した熊吾が家の窓辺で一服していると、安治川から土佐堀川へとのぼってきた近江丸の船長が声をかけてきます。

下には安治川沿いにある中央卸売市場周辺の写真を引用させていただきました。こちらのどこかに土佐堀川に向けてのぼっていく近江丸の姿をイメージしておきましょう。

出典:大阪市立図書館デジタルコレクション、(大阪)全市食料の集散する中央市塲の壮観
http://image.oml.city.osaka.lg.jp/archive/detail?cls=ancient&pkey=c1467001

近江丸の船長「でっかい台風が来よりまっせ」
熊吾「こないだは、今世紀最大の台風やと騒ぎよったが、関西のほうは空振りじゃった。こんどは中型やっちゅうから、どうせたいしたことはありゃせんじゃろ」
近江丸船長の女房「いっぺん失くなりかけて息を吹き返した台風は怖いねん。どんな薬にも負けへんようになった黴菌(ばいきん)とおんなじや。ここらへんも、高潮には気ィつけんとあきまへんで」

昭和29年の台風15号を甘く見ていた熊吾でしたが、その日の夜半には
「端建蔵橋も船津橋も、欄干を残して、川のなかにあった」
とのこと。熊吾は
「四トンの接着剤は全滅じゃのお」
とつぶやきます。

上には台風に関する新聞記事などの投稿を引用させていただきました。明け方になると
「気象台がC級台風だと予報した台風15号の、想像を絶する被害を知った。時速八十キロから百キロの速度で、日本列島を縦断する格好で走り抜けた台風は、函館湾内で、千人以上もの乗客を乗せた青函連絡船・洞爺丸を転覆させ、さらに北海道を襲って去ったのだった」
とあります。

宝塚ルナパーク

台風が来る前日、伸仁は熊吾の妹のタネたちと一緒に宝塚の遊園地に連れて行ってくれる予定でした。
房江「きょうは日曜日やから、タネちゃんは、明彦と千佐子をつれて宝塚の遊園地へ行くて言うてたんや。ノブもつれてってくれる予定やってんけど、雨が降ってきたし、台風も来てるから、たぶん中止やろねェ」

出典:中央市場新聞社 編『市場年鑑』昭和15年,中央市場新聞社,昭11至14. 国立国会図書館デジタルコレクション https://dl.ndl.go.jp/pid/1206980 (参照 2024-06-25、一部抜粋)
https://dl.ndl.go.jp/pid/1206980/1/46

伸仁が行くはずだったのは宝塚ファミリーランド(2003年に閉館)の前身・宝塚新温泉にあった遊園地で、「ルナパーク」と呼ばれていました。上に引用した昭和15年の広告によると遊園地以外にも宝塚大劇場や宝塚動物園、植物園などがある大規模なレジャー施設だったことがわかります。

また、下にはルナパークのジェットコースター(ウエーヴコースター)の写真を引用させていただきました。天気がよければ伸仁もこちらのお子さんのような表情で搭乗していたかもしれません。

ダットサンを借りて

台風で接着剤が全滅したことによりホース修繕の納期や資金調達に悩まされます。気分転換をしようと考えた熊吾は、丸尾千代麿が城崎温泉にいる自分の娘に会いに行くタイミングに便乗し、浦辺ヨネや麻衣子の様子を見に行きます。

今回は息子の伸仁も同行し、千代麿は将棋仲間の開業医から新車同然のダットサンを借りていました。下に引用させていただいたのは1953年に発売されたダットサンDB-5型の写真です。

出典:日産公式サイト、HERITAGE COLLECTION
https://www.nissan.co.jp/

乗り物酔いしやすい伸仁ですが
「バスやったら、ときどき頭が痛うなるけど、ダットサンやったら、なんともあらへん」
と平気な様子でした。

ここでは、車の窓から千代麿のいう「絵に描いたような鰯雲、それにこのトンボの群れ」を眺める伸仁の姿をイメージしてみます。

熊吾の病気が発覚

千代麿は城崎に出発する前に、ダットサンを貸してくれた開業医に頼まれて、診察用ベッドを阪大病院から桜橋にある病院まで運ぶとのことです。

下には昭和11年ごろの阪大病院の写真を引用させていただきました。ここでは川沿いの道にベッドを乗せて走る丸尾運送のトラックを置いてみましょう。

出典:大阪大学医学部附属病院公式サイト、【昭和11年ごろの様子】
https://www.hosp.med.osaka-u.ac.jp/

以下は、千代麿と同行した熊吾がその開業医・杉下医師に挨拶したあとの会話です。
杉下医師「疲れやすいとか、喉が渇いて仕方がないっちゅうことはありませんか?」
熊吾「とりたてて疲れは感じませんが、いやに喉が渇くっちゅうことはありますな。どうかしましたか?」
杉下医師「松坂さんの靴に白い黴みたいのが付いてる。そういう場合は、尿を調べたほうがええんです」

診察の結果、熊吾は糖尿病であることが判明します。
杉下医師「糖尿病です。靴に白い粉がふきでるくらいやから、軽症とは言えませんなァ。・・・・・・悪化すると命とりですよ。体のあちこちに支障が出ます・・・・・・」
熊吾はなによりも
「これまでの食事の量を三割から四割がた減らしてください。酒は駄目ですよ」
といわれたことがショックでした。

ヨネたちの生活

熊吾は麻衣子のために円山川の畔に一軒家を借りていましたが、彼女は
「ヨネや、ヨネの息子や、千代麿と米村喜代とのあいだに生まれた二歳の女の子や、九十歳に近い喜代の祖母が暮らす家」
に一緒に住んでいました。

下には昭和初期の城崎温泉の全景を引用しました。ヨネたちの家の場所について詳細は不明ですが、こちらの写真のどちらかの家を
「城崎町の温泉街から少し外れた二階建ての借家」
に見立ててみましょう。

出典:鉄道省 編『景観を尋ねて』,鉄道省,昭和8. 国立国会図書館デジタルコレクション https://dl.ndl.go.jp/pid/1209902 (参照 2024-06-26、一部抜粋)
https://dl.ndl.go.jp/pid/1209902/1/100

「ヨネと喜代の祖母とは、何の血縁もなく、麻衣子もまた二人とは他人であったが、身寄りのない、家庭の縁の薄い三人は、身を寄せ合うようにして、不思議な家を作っていた・・・・・・寡黙な老婆と、働き者で男まさりのヨネと、十八歳で結婚に破れた麻衣子が、ともどもに二人の幼子を育てながら、いたわり合っている姿を見て、ある種の感動にひたった」
とあります。

ヨネの小料理店名は「ちよ熊」

浦辺ヨネのお店は「城崎で最も古い旅館の近く」にありました。この地で現存する最も古い旅館とされているのは奈良時代の養老元年(717年)に創業したとされる「古まん」です。

下には昭和時代の古まんの写真を引用させていただきまました。ここでは、こちらの旅館の前を通って、熊吾や千代麿、麻衣子、伸仁がヨネの店に向かうシーンを想像してみます。

出典:古まん公式サイト、城崎温泉と古まんの歴史
https://www.sennennoyu-koman.com/

以下に、ヨネの店の前で交わされた会話を抜粋します。
熊吾「なんじゃ、この店の名は」
のれんには「ちよ熊」という屋号が染められていました。
ヨネ「千代麿はんと熊吾はんに頂戴した店やから<ちよ熊>やねん。ええ名前やろ?」
熊吾「お前も店の名を知っちょって、なんで黙っちょったんじゃ」
千代麿「怒りはるかもしれんと思て」
熊吾「あほらしゅうて、怒る気にならん」

伸仁は一の湯に

お店で飲み続ける熊吾や千代麿を残して、ヨネは伸仁を「一の湯」に連れていきました。「一の湯」は江戸中期から営業を続ける外湯で、その名前は江戸時代の名医「香川修徳」が天下一の温泉とたたえたことに由来します。下に引用させていただいたのは昭和初期の「一の湯」の写真です。

出典:ヒョーゴアーカイブス、城の崎温泉一の湯
https://web.pref.hyogo.lg.jp/archives/c613.html

ヨネの店で飲んだあと、一の湯の周辺を歩きながら、熊吾と麻衣子は以下のような会話をしていました。
麻衣子「松坂のおじさんの、生きる目的は何?私には、生きる目的ができたよ」
熊吾「・・・・・・わしの目的は、伸仁をおとなにすることじゃ。あいつが、自分の力で生きていけるようになるまで守ってやることじゃ。・・・・・・麻衣子の生きる目的は何じゃ?」
麻衣子「身寄りのない、寂しい人間に、安住の家を作ってあげること。そのためにお金を貯めるねん・・・・・・そんな人たちばっかりが働ける場所を作るねん」

旅行の情報

城崎温泉・古まん

浦辺ヨネのお店の近くの城崎温泉一の老舗旅館として登場していただきました。城崎七湯のうち三湯まんだら湯と御所の湯、鸛の湯の三か所は歩いて3分以内という便利な立地にあります。

出典:千年の湯古まん公式サイト、味絵巻(料理の例,2024年6月時点)
https://www.sennennoyu-koman.com/

客室は30室ほどで内装は数奇屋風木造りの落ち着いた雰囲気です。20人程度が入れる木造りと大理石の大浴場は時間入れ替え制なので双方とも楽しめるでしょう。食事は上に引用させていただいたような松葉蟹や黒毛和牛などのメインに加え、出石そばのような郷土料理が提供されるのも魅力です。

基本情報

【住所】兵庫県豊岡市城崎町湯島481
【アクセス】JR城崎温泉駅から送迎車で約5分
【参考URL】https://www.sennennoyu-koman.com/ryouri/oryouri.html

城崎温泉・ 一の湯

伸仁が浦辺ヨネに連れられて入浴する場面で登場します。江戸時代の中頃に「新湯」という名前で営業を開始し、昭和初期には大阪・歌舞伎座も手がけた岡田信一郎氏の設計で建て替えられました。平成11年度に改築されますが、昭和当時の外観の印象は保たれ、下に引用させていただいたようにライトアップされた景色も見事です。

出典:Flickr、一の湯
https://www.flickr.com/photos/inucara/24919407830/in/photostream/

大浴場や半露天の洞窟風呂があり、2階には広い休憩スペースも準備されています。他にも「まんだら湯」や「鴻の湯」、「御所の湯」などの趣の異なる外湯があるので、のんびりと巡ってみてはいかがでしょうか。

基本情報

【住所】兵庫県豊岡市城崎町湯島415-1
【アクセス】城崎温泉駅から徒歩で約10分
【参考URL】https://kinosaki-spa.gr.jp/about/spa/