宮本輝「天の夜曲」の風景(その6最終回)
関西中古車業連合会の立ち上げと挫折
富山で伸仁は夏休みを満喫しますが、妻の房江のほうは不安の多い間借り生活のストレスで喘息を発症します。一方、長崎から戻った(天の夜曲の風景その5・参照)熊吾はなんとか「関西中古車業連合会」の立ち上げにこぎつけますが、片腕と信じていた久保に不審な動きが・・・・・・。人手不足を補うため、熊吾は房江を大阪に呼び戻し、伸仁と離れて過ごす決心をします。
夏休みは毎日魚釣り
小学四年の春休みに富山の八人町小学校に転校した伸仁は、夏休みを迎えます。
「夏休みにおける理科の宿題として、昆虫か植物の標本作りがあったが、伸仁はそのどちらにもとりかかろうとせず、高瀬家の長男と魚釣りばかりしてすごしたのだった。」
とのことです。
出典:パブリックドメインR、帰り路 [三木亨, 日本カメラ 1955年4月号より]
https://publicdomainr.net/nippon-camera-april-1955-issue-0002386/
上には釣りから帰る少年たちの写真を引用させていただきました。
高瀬家の長男・ボブが
「たくさん釣れたっちゃ。明日も行こまいか」
と伸仁に言っているところを想像してみましょう。
伸仁の毎日の日記は、天気は違えど、ほぼ
「きょうも魚釣りに行きました。夜の十時に寝ました」
でした。
明日から新学期だが・・・・・・
房江「あしたから学校やのに、夏休みの宿題、こんなにぎょうさん貯めて・・・・・・」
「八月一日からの日記を書くために、その日の天気はどうだったろうと考えるだけで、いっこうに鉛筆を握ろうとはしない伸仁を叱り」ます。
さらに
伸仁「あとは算数のドリルと、国語の漢字の書き取りや」
とのこと、
新学期に間に合わせるのは難しそうです。
上には夏休みの宿題として昭和の定番だった「夏休みの友」の写真を引用させていただきました。エリアによっては「夏の友」や「夏の生活」などのタイトルでしたが、いずれもボリュームがあったようです。
夏休みの小銭稼ぎ
また、夏休みに伸仁は親に無断で柔道場に通い、月謝を払うために高瀬家の長男のボブや次男のミッキーに落ちている釘とか針金とかを集めろと命じていました。
「地面のあちこちに目を凝らして鉄でできていると思われるものを集めに集め、だいたい二円分」
になるとのこと。そうして夏休み一杯で屑鉄屋から得た報酬は五十二円ほどでした。
そのなかで、
「三十円は伸仁が取り、残りの二十円をボブとミッキーで分けた。」
とあるように、伸仁は上前をはねていました。
出典:パブリックドメインR、ビルをめぐる部落 [木下欽一, 日本カメラ 1956年4月号より]
https://publicdomainr.net/nippon-camera-april-1956-issue-0002190/
上に引用させていただいたのは、昭和31年ころの街中で子供たちが遊んでいる写真です。ここでは手前にいる子供たちを、釘を探しているボブやミッキーに見立ててみましょう。
観音寺ケンの愛人を預かるも!
話は少しさかのぼって「観音寺のケン」に関する出来事についても触れておきます。
「観音寺のケンと五年間一緒に暮らしてきた倉田百合は、熊吾たち一家が富山へと発つ二日前に妊娠しているのを知ったが、観音寺のケンこと姫田健蔵は、自分の子が生まれることに逡巡していた」
ケンは百合の将来について、富山にいる熊吾に相談しにきます。以下はその時の会話の抜粋です。
ケン「百合のやつ、どうしても産みたいし、産まれてくる子を父なし子にするのもいややて言いよる。それがどうしてもあかんのなら、この私を殺してくれって」
熊吾「産まれてくる子のために、きれいさっぱり、いまの世界から縁を切るっちゅうことはできんのか?」
ケン「でけへん。そんな甘い世界やあらへん」
ケンは熊吾たちに三年間、百合と子供を預かってくれと頼みます。
熊吾「三年ちゅうのは、どういう意味じゃ」
ケン「俺が・・・・・・、つまり観音寺のケンちゅうならず者が、この世から消えてしまうための時間やな」
熊吾はケンが本気で足を洗おうとしているのか疑いますが、百合と子供のことを考え、預かることにしました。
出典:高井進監修、『目で見る富山市の100年』、1993年(平成5年)10月、郷土出版社, Public domain, via Wikimedia Commons
https://commons.wikimedia.org/wiki/File:Sogawa_shopping_arcade_in_1953.jpg
百合は熊吾が捜し出した「清辰橋」近くの一軒家で静かに暮らしていました。
ところが、ほとんど知り合いのいない生活に退屈を覚えてきた百合は、房江との約束をすっぽかして、以下のような一日を送るようになってきます。
房江「きのうは西町で映画を観て、そのあとで別の映画館で三本立ての古い洋画を観たんやて言うてた・・・・・・。家に帰って来たのは夜の九時くらいやろか」
上には富山市の繁華街・総曲輪通の昭和28年ごろの写真を引用しました。映画を観たあとでショッピングをしながら少し寂しそうに歩く百合の姿を置いてみましょう。後日、百合は単調な富山での生活に耐えきれず、ある行動にでます。
関西中古車業連合会
「『関西中古車業会』の名称を『関西中古車業連合会』に変えたという電話を夫から貰ったのは一週間前で、松坂熊吾の事業計画に二の足を踏んでいた二軒の中古車業者がやっとその気になり、秋に開催するはずだった中古車展示会を急遽、九月の十日から五日間大国町で大々的にやる」
とのことです。
出典:至誠書院編集部 編『大東京写真帖』,至誠書院,1952. 国立国会図書館デジタルコレクション https://dl.ndl.go.jp/pid/3025446 (参照 2024-07-29、一部抜粋)
https://dl.ndl.go.jp/pid/3025446/1/34
上には昭和27年ごろの東京を走る車の写真を引用させていただきました。熊吾たちが展示した中古車のなかにはこちらのようなタイプがあったかもしれません。ちなみに、千代麿が久保敏松から購入したシボレーは「ニッサンの新車よりもはるかに安かった」とのことです。外車も多く展示されていたのではないでしょうか。
展示会は無事に成功し、熊吾からは以下のような連絡が来ました。
「展示した五十台の中古車が全部売れんでも、これで『関西中古車業連合会』の旗上げは大成功じゃ。売れた車の利益の、わしの取り分は、全部の売買契約が終わってからじゃが、連合会への月々の会費のなかから、わしの給料が出る。年に四回展示会をやれば、その分もわしの報酬に加算される。もう六軒の別の中古車業者が入会を申し込んできたぞ」
通天閣の再建
一方大阪にいる熊吾は、事業の立ち上げのため忙しく働いていました。ある日、いつも久保敏松と打ち合わせる喫茶店に行ってみると彼は来ていませんでした。中古車業者との打ち合わせが長引いているのだろうと考えた熊吾は、
「喫茶店から出て、新世界と呼ばれる一帯の、食堂や飲み屋が並ぶ路地を歩き、ほぼその全形をあらわした通天閣の再建工事に見入った」
とあります。
上に引用させていただいたのは、完成を目前にした通天閣の写真です。こちらの写真のどこかに、パナマ帽をかぶり、汗を拭きながら歩く熊吾の姿を置いてみます。熊吾の関西中古車業連合会もこちらのように順調に行けばよかったのですが・・・・・・
久保の裏切り
順調に事業のスタートを切った矢先、熊吾は事務所の金庫から「関西中古車業連合会」名義の預金通帳や小切手が無くなっていることに気づきます。取引先の銀行に連絡すると、少し前に久保がやってきて、ほとんどのお金を引き出していったとのこと、熊吾は慌てて警察に被害届を提出しました。
「かつて、これほどうろたえたことが俺の人生にあっただろうか・・・・・・。」
出典:熱海市インフォメーションセンター公式サイト、熱海市街:昭和30年代
http://www.atami-info.jp/
数日後、久保は熱海駅で逮捕されます。上には昭和30年代の熱海の写真を引用させていただきました。当時の熱海は新婚旅行ブームに沸き、団体旅行に向いた大型ホテルも増えていました。久保は将棋の合間に、南国ムード漂う熱海の街を散策していたかもしれません。
なお、警察が語る久保の動機は以下のようでした。
「九月二十二日に、賭け将棋で負けつづけたっちゅうて本人は供述しとります。熱海の旅館に日本全国から裏街道の棋士が集まって、大がかりな賭け将棋が行われたらしいです。久保はその賭博将棋に参加するために、どうしても規定の賭け金が欲しかったんですな」
富山ともお別れ
熊吾は精神的なストレスのため喘息にかかった房江を大阪に連れ帰り、事業を手伝ってもらうことにしました。また、伸仁は約半年の期限付きで富山の高瀬家に預けようとします。
伸仁は夏休みが終わってから先生に作文を誉められ、勉強に興味を持ったとのこと。ただ、いたずらが目に余るとも注意されます。
房江「女の子のスカートをめくったり・・・・・・授業中におもしろいことを言うてクラス中の子を笑わせて先生を困らせたり・・・・・・水村くんと山根くんとはガキ大将争いをしてたのに、夏前にはその二人が伸仁に従うようになって、伸仁がクラスの大将になってしもたんやけど、九月に入ってすぐに水村君と山根君が結託して、伸仁をボスの座からひきずりおろしたらしいねん。それでいまは松坂派、水村派、山根派に分かれて、クラス中が険悪になってるって先生が言うてはった・・・・・・」
出典:パブリックドメインR、群童 [中島三郎, 世界写真年鑑傑作集 第9回国際写真サロン集より]
https://publicdomainr.net/the-worlds-photographic-masterpieces-1939-0012142/
上には昭和時代のものと思われる少年たちの写真を引用しました。ここでは中央部の笑顔の少年を伸仁、右側の背の高い少年を水村くんか山根くんに見立ててみましょう。
熊吾親子は初めて富山に来た時と同じ商人宿に宿泊し、鳥すき鍋でささやかなお別れ会をしました。来た時には「鴻池の犬」を途中で止められました伸仁でしたが(天の夜曲の風景その1・参照)、今度は「二階ぞめき」という落語を最後まで聞かせようとします。
伸仁「えー、一席うかがいます」
熊吾が途中で話しかけたりして、落語が長引くと、
熊吾「あっ、あかん。伸仁、のぼせてしもた。・・・・・・わしも、のぼせた。酒がえらい廻ってきよった」
「天の夜曲」は家族団らんの温かい雰囲気で終了しています。
旅行などの情報
通天閣
通天閣の初代は大正元年に完成しますが、火災にあって戦前に姿を消します。熊吾が関西中古車業連合会の立ち上げをしている昭和31年頃は二代目通天閣の再建中でした。
今では大阪のシンボルとなっていて、上に引用させていただいたような床がシースルー構造の「跳ね出し展望台」や「通天閣庭苑」、ビリケン像が鎮座する「光の展望台」などの見どころがあります。また、江崎グリコや森永製菓、日清食品 ・チキンラーメンのアンテナショップなどもあるので、ファミリーでも楽しめるでしょう。
基本情報
【住所】大阪市浪速区恵美須東1-18-6
【アクセス】堺筋線の恵美須町駅から徒歩3分
【参考URL】https://www.tsutenkaku.co.jp/index.html
いたち川公園・ドンドコ公園
伸仁の遊び場であった「いたち川」周辺を散策する場合は、「いたち川公園」や「ドンドコ公園」を目印にするのがおすすめです。「いたち川公園」は、「天の夜曲」の冒頭で熊吾たちが市電で降り立った「雪見橋」の近くにあり、万病に効く霊水・延命地蔵の水をいただくことができます。「いたち川公園」から徒歩で20分ほど上流の「ドンドコ公園」は、町内の老人が「いたち川の『どんどこ』と呼ばれる深みで子供たちが泳がないように見張っている」場所でした。
出典:富山県庁公式サイト、いたち川のドンドコ
https://www.pref.toyama.jp/1706/kurashi/kankyoushizen/kankyou/mizuhozen/1shirou/meisui/02/62.html
ほかにも百合の家があった「清辰橋」や房江と伸仁が下宿した嶋田家の近くにある「見龍橋」などもあるので、散策しながら「天の夜曲」の世界に浸ってみてはいかがでしょうか。
基本情報
【住所】富山県富山市向川原町4-22(いたち川公園)
【アクセス】市内電鉄富山地方鉄道・荒町駅から徒歩約6分
【参考URL】https://www.pref.toyama.jp/1603/kurashi/sportsleisure/leisure/kj00011575/kj00011575-024-01.html