宮本輝「慈雨の音」の風景(その1)
伸仁は中学生に!
「流転の海」第六部「慈雨の音」は山陰本線の列車の中から始まります。「真新しい、少し大きめの中学校の制服を着た伸仁」と熊吾は、浦辺ヨネが亡くなったという知らせを受け、城崎温泉へ向かっていました。また、一大イベントであったご成婚パレードや、モータープールで出会った特徴のある人たちについても触れていきます。
浦辺ヨネのお通夜
城崎温泉では熊吾が親代わりになっている谷山麻衣子と、熊吾と同郷でタネの同級生の浦辺ヨネ、その息子の正澄(上道の伊佐男との子)、丸尾千代麿の愛人(喜代)の母・ムメが共同生活をしていました(血脈の火の風景その4・参照)。なお、喜代(地の星の風景その4・参照)は既に故人となっていて、娘の美恵は千代麿の妻・ヨネの希望で丸尾家に引き取られています。
そして昭和34年4月、浦辺ヨネが亡くなったと麻衣子から熊吾に連絡がありました。
「慈雨の音」の最初のシーンは、熊吾たちが城崎温泉に向かう列車内での以下の記述から始まっています。
「速度の遅い列車が山陰本線の豊岡駅を過ぎて日本海のほうへと少し北上すると、車窓の右側に、豊かな水量の円山川の澄んだ流れと、川畔に桜と柳の木々が不ぞろいな間隔でどこまでもつづく光景が展ける。・・・・・・松坂熊吾は、その景色の始まる瞬間が好きで、城崎温泉に行くときは、列車が豊岡駅を出たときから車窓に顔をすりつけるようにして見入る」
上には豊岡駅周辺のストリートビューを引用させていただきました。手前に見えるのが山陰本線の線路、その先には円山川が写っています。熊吾が気に入っていたのはこちらのような風景だったかもしれません。
また
「『きょうは、いばってはいけない日だ』と国語の教科書を朗読するような口調で伸仁に言って、和田山駅で買った駅弁をさっさと食べてしまうように促した。」
とのこと。
下には明治42年に創業した「和田山駅福廼家」の復刻弁当「昭和の牛べん」の写真を引用させていただきました。伸仁たちが購入したのもこちらのようなお弁当だったかもしれません。
城崎温泉に皆が集まった目的の一つは正澄を誰が育てるかについてでした。ヨネのお通夜の日、丸尾千代麿の妻・ミヨは、正澄のことを自分たちが養子にすることを宣言します。
ミヨ「あした、このお棺に蓋をした瞬間から、この私がお母ちゃんになるねんで。正澄は、丸尾正澄という名前に変わって、美恵と一緒に大阪で暮らすんや。そやから、正澄を生んでくれはったお母ちゃんの顔をよう見ときなさい」
麻衣子「美恵とまた一緒に暮らせるなァ。ときどき城崎に遊びにおいでな」
ご成婚パレード
熊吾たちが城崎温泉から戻ると、街は四月十日に皇室のご成婚パレードが行われるという話題で持ち切りでした。パレードを自宅で見るためテレビの普及率が格段に上がったとのこと。熊吾や千代麿の家でもテレビを購入していました。
伸仁に呼ばれてモータープール二階の熊吾一家の部屋に行ってみると、
「すでにパレードは始まっていた。結婚の儀を終えた皇太子夫妻の乗った四頭立ての儀装馬車は、皇居の正門を出て、皇居前広場に差しかかっていた。」
とのこと。
引用させていただいたパレードのダイジェスト動画を見ながら、下の描写をイメージしてみましょう、
「沿道には人々が詰めかけて日の丸の小旗を振りながら、若い夫妻に歓声をあげている。・・・・・・ここから馬車は桜田門から三宅坂へと向かい、皇居の外を半周したあと半蔵門を左折して麹町大通りを四谷三丁目まで進み、神宮外苑から青山通りを通過して渋谷の東宮仮御所へ入るとアナウンサーは語った。パレードの距離はわずか八・八キロだが、その沿道には五十万人を超えると推定される人々でひしめき合っているという。」
パレードを見ながら・・・・・・
熊吾は
「敗戦後、こんなに華やかな祝典がこの国で行われることを庶民の誰が予想したであろうかと思いながら、同時に熊吾は、テレビ中継の技術に感嘆の念を抱いた」
あります。
下に引用させていただいたのは、愛知県の昭和日常博物館に再現されている昭和時代のお茶の間の写真です。
出典:先従隗始, CC0, via Wikimedia Commons
https://commons.wikimedia.org/wiki/File:Kitanagoya_City_Museum_of_History_and_Folklore(The_Showa_Era_Lifestyle_Museum)_20230310_52.jpg
こちらの写真のなかに熊吾を置き、以下のような風景を想像してみます。
「熊吾は、台所から一升瓶を持って来てテレビの前にあぐらをかいて坐り、酒をコップに注ぐと、戦地で死んだ数百万人の若者たちに捧げる思いでそれを飲んだ。涙が溢れてきて、熊吾はそれを伸仁に気づかれないように親指の先でぬぐった・・・・・・」
能「井筒」を観賞
熊吾は蘭月ビルで知り合った「ホンギ」という在日朝鮮人(花の回廊の風景その5・参照)に、一緒に能を観てくれないかと誘いを受けました。ホンギは熊吾が紹介した会社に就職していて、その社長がチケットをくれたといいます。
能のことはさっぱりわからないというホンギに対し、熊吾は子供のころ叔父から教えてもらった記憶をもとに、演目の「井筒」について説明をしました。
「井筒っちゅうのは、井戸のことじゃが、この井戸にはゆかりがある・・・・・・在原業平と紀有常の娘との清らかで激しい恋がかつてあったということを、まず頭に入れておくんじゃ。・・・・・・井筒っちゅうのは、在原業平と紀有常の娘が将来を誓い合ったのが五歳のときじゃったということに掛けてある。五歳、つまり五つじゃ・・・・・・」
下には狩野探幽作の三十六歌仙額から「在原業平朝臣」の写真を引用しました。熊吾のいうには
「業平は美男子で、天皇の皇子の五男坊で、母親は桓武天皇の皇女じゃった。まあとにかく、ええとこの子で、男前で、和歌に才がある。女がほっとかんじゃろう」
出典:English: Kanō Tan’yū日本語:狩野探幽, Public domain, via Wikimedia Commons
https://commons.wikimedia.org/wiki/File:Sanj%C5%ABrokkasen-gaku_-_7_-_Kan%C5%8D_Tan%E2%80%99y%C5%AB_-_Ariwara_no_Narihira_Ason.jpg
「それから随分時を経て、いまは亡き在原業平と娘が夫婦として暮らした在原寺を弔うために訪れたひとりの僧の前に女があらわれて、ふたりの純愛物語を語って聞かせたあと、実は自分はその有常の娘の亡霊だと打ち明けて姿を消す。そしてその夜・・・・・・」
実際に「井筒」が始まり、旅の僧の前に女があらわれると
「ホンギのそれまで伸ばしていた背筋が鞭で打たれたように反った」
とのこと。
「亡き業平の直衣を身にまとった紀有常の娘の亡霊が、地謡の『生ひにけらしな』につづいて『老いにけるぞや』と謡った瞬間、熊吾はホンギの腕を摑み、『ここじゃ』と言った」
出典:能画刊行会 編『能楽画譜』第5集,能画刊行会,大正7-9. 国立国会図書館デジタルコレクション https://dl.ndl.go.jp/pid/1088678 (参照 2024-08-27、一部抜粋)
https://dl.ndl.go.jp/pid/1088678/1/4
熊吾がホンギに合図をしたのは上に引用させていただいた能画のシーンと思われます。
「亡霊は井筒のなかを覗き込み、水に映ったものを見て、『見ればなつかしや』と謡い、左の袖と扇で面を隔して膝をついた。」
また、叔父に能についての知識を叩き込まれたのが十二歳のときだったことを思い出した熊吾は、
「同じ十二歳になった伸仁にまず能を観せよう」
と決めました。
ミックスジュースは大阪発祥
ある日、シンエー・モータープールの事務所では「伸仁が陰で『タンクさん』と呼ぶエアー・ブローカーの関京三」と「デンチュウさんこと黒木博光」というデコボコ・コンビが将棋を打っていました。
熊吾はエアー・ブローカーが事務所に居座るのを嫌っていましたが、シンエー・モータープールの仕事を手伝うことと仲間を増やさないことを条件に、常駐することを黙認していました。
関は近くの喫茶店にミックスジュースの出前を註文します。関によると
「このミックスジュースというのは、どうも大阪を中心とした関西圏の喫茶店だけにしかない代物らしい」
とのことです。
房江「へえ、私、アメリカから来たもんやて思てました」
関「わしもそう思てたんですけど、どうもそうやなさそうですねや。日本人が、それも関西のどこかの人間が考案しよったジュースらしいでっせ。」
上に引用させていただいたのはミックスジュース発祥の店として有名な「千成屋珈琲」のミックスジュースの写真です。関のいうとおり、初代店主の恒川一郎さんが千成屋珈琲の前身の果物店を創業した際(昭和23年・大阪新世界)、完熟果物をミキサーにかけて店頭販売したのがミックスジュースの始まりとされています。
ここでは黒木が
「ミックスジュースを舌の上で転がすようにしてうまそうに飲んだ」
というシーンを想像してみましょう。
柳田商会・佐古田支店
「きょうからモータープールの裏門から事務所にかけての通路と、その横の、かつての教室のひとつを柳田商会の作業場として使うと電話があって十五分もたたないうちに、トラックに牽引された旧型のフォードがやって来た。」
下には、現時点(昭和34年)からは6年ほど前の1953(昭和28年)年式のフォード・アングリア(E494A)の写真を引用しました。
出典:Vauxford, CC BY-SA 4.0 https://creativecommons.org/licenses/by-sa/4.0, via Wikimedia Commons
https://commons.wikimedia.org/wiki/File:1953_Ford_Anglia_E494A_930cc_Front.jpg
柳田商会で最も古参の社員が「赤ら顔のきつい目つきの男」を房江の前につれてきて、こう言います。
「佐古田っていいまんねん。きょうから、ここで仕事をしよりますよってに、よろしゅうお願いします」
房江は佐古田に向かって挨拶をしますが
「佐古田はひとことも喋らず、会釈もせず、すぐに自分の仕事道具を置いてあるところへ戻って行った」
とあります。
以下に、その後モータープールに帰って来た熊吾との会話を抜粋します。
房江「あんな恐ろしい目つきの人、私、初めて見たような気がする・・・・・・」
熊吾「うん、恐ろしいぞ。あんまり近寄らんようにせえ。しかし、車をばらさせたら日本一の腕じゃ。どんな車でも、三日で丸裸に解体して、必要とあらばそれを三日で完璧に元に戻しよる。・・・・・・柳田商会であいつが笑うた顔を見たことがある人間は、ひとりもおらんらしい。とにかく人間と接するのが嫌いなんじゃ。会社の忘年会にも新年会にも、年に一度の慰安旅行にも、あいつはいっぺんも参加したことがないんじゃ。・・・・・・」
上には吉乃川公式チャンネルから昭和時代の社員旅行のシーンを引用させていただきました。
当時は社員旅行に全員参加し、旅先では団体行動をすることが当たり前の時代。団体行動が苦手な佐古田に対し
「柳田商会の番頭が考えたのが、このモータープールに佐古田専用の仕事場を与える」
ことでした。
丸尾家周辺の風景(ウィスキー・ボンボン工場)
房江はある日、梅田の阪神百貨店で伸仁たちのパジャマを購入した後、丸尾家の子供たち(美恵と正澄)の顔を見たくなり、淀川沿いにある千代麿の家に向かいます。
梅田の繁華街を通り抜けて「十分ほど北へ歩くと、大阪駅から緩やかなカーブを描きながら京都のほうへと伸びる国鉄の東海道本線に沿った道となる。民家の建ち並ぶところを過ぎると町工場が多くなり、はるか前方に淀川の堤が見え始め、甘い香りが漂ってくる。鉄工所や自動車板金工場や溶接工場に混じって、ウィスキー・ボンボンだけを作っている製菓工場があって、そこからバニラの香りがたちこめているからだ。」
下には、現在の阪神百貨店から淀川までの東海道本線(京都線)に沿ったルート(グーグルマップ)を引用させていただきました。
「房江がこれまでその製菓工場の前を通る際に、工場と道とを隔てるブロック塀の上に子供姿をみなかったことはいちどもないのだ・・・・・・『この塀にのぼること禁止』と赤いペンキで書かれた立て看板を足場にして、子供たちはブロック塀にのぼり、そこに坐ってウィスキー・ボンボンが出来あがって行くのを飽きずに眺めているのだ。・・・・・・」
上に引用させていただいたのは大正15年に大阪市東淀川区で創業したウィスキー・ボンボンの専門メーカー・丸赤製菓糸田川商店の公式youtube動画です。伝統的な製造方法を守り続けているとのことですので、当時の子供たちが見ていたのもこちらのような風景だったのではないでしょうか。
塀の上には偶然にも美恵と正澄がいて、塀の向こうからは伸仁が顔を出します。
伸仁によると、小学校の同級生の親が経営するウィスキー・ボンボン工場に立ち寄ったが同級生は不在で、そのお父さんから「ウィスキーボンボンを両の掌に余るほど載せて」もらったといいます。下には丸赤製菓のウィスキー・ボンボンの写真を引用させていただきました。
同級生が部活で不在と知りながら、訪問しておやつをせしめたと見抜いた房江は、伸仁を以下のように叱りました。
「人の善意を弄ぶようなことをしたらあかん・・・・・・そんなやり方は、こそ泥よりももっと恥ずかしいことや。・・・・・・」
丸尾家周辺の風景(淀川河川敷)
房江は淀川に面した丸尾家の二階の部屋で千代麿の妻・ミヨとお土産のドラ焼きを食べながら会話をしています。
「(西日はきついが)その代わり、夜は夏でも寒いくらいの風が入って来ますねん。東海道本線を走る汽車とか電車とか貨物列車とかが、いちにちにこんなに多いとは思えへんかったから、引っ越したころは、うるそうて寝られへんかったけど、慣れると不思議なもんで、レールを走っていくゴトンゴトンという音がないと寝られへんようになりました」
下には1979年(昭和54年)ごろの東海道線上淀川橋梁の写真を引用させていただきました。こちらの写真からゴトンゴトンという電車の音を想像してみましょう。
出典:Gohachiyasu1214, CC BY-SA 4.0 https://creativecommons.org/licenses/by-sa/4.0, via Wikimedia Commons
https://commons.wikimedia.org/wiki/File:%E6%9D%B1%E6%B5%B7%E9%81%93%E6%9C%AC%E7%B7%9A_%E4%B8%8A%E6%B7%80%E5%B7%9D%E6%A9%8B%E6%A2%81-79-01.jpg
「ノブちゃんと正澄がハゼ釣りをしているところに行きたい」
とねだる美恵を連れて、房江は淀川に向かいます。
「東海道本線の高架から少し右へ入った土手のところをのぼり、丈の高い雑草のなかに入る・・・・・・雑草の繁茂のなかを抜けた。せり上がって襲いかかってきそうなほどの淀川の水流がふいに目の前にあらわれ、伸仁が釣った五センチほどの土色の魚を追って、前後左右に大きく揺れ動く釣り糸をつかまえようと走り廻っている正澄とぶつかりそうになった」
上には房江の表現した場所に近いと思われる淀川付近のストリートビューを引用させていただきました。こちらに、釣ったハゼを針につけたまま得意気に歩く伸仁と、はしゃいで彼を追いかける正澄の姿を置いてみましょう。
旅行などの情報
昭和日常博物館(北名古屋市歴史民俗資料館)
熊吾たちの部屋をイメージするために登場してもらった昭和時代の体験ができる博物館です。こちらには昭和のお茶の間以外にもホーロー看板のある街並みや、なつかしい玩具などが展示されています。
出典:Evelyn-rose, CC0, via Wikimedia Commons
https://commons.wikimedia.org/wiki/File:The-Showa-Era-Lifestyle-Museum-5.jpg
また、上に引用したような昭和の自動車やバイクも多数の展示があり、無料の施設とは思えない充実ぶりです。企画展などのイベントもありますので、公式サイトをチェックしてからお出かけください。
基本情報
【住所】愛知県北名古屋市熊之庄御榊53
【アクセス】名鉄西春駅から徒歩約25分
【関連URL】https://www.city.kitanagoya.lg.jp/rekimin
千成屋珈琲
房江がミックスジュースを飲む場面で引用させてもらった有名店です。「慈雨の音」ではモータープールの近くに「マルコポーロ」という人気店が登場していますが、こちらでは「この喫茶店はバナナを入れよるで」というのが美味しさの秘訣とのこと。千成屋珈琲のミックスジュースにもバナナやミカン、黄桃、リンゴなどがバランスよく入っています。
上に引用させていただいた本格的なドリップコーヒーのほか、「冷コ―(アイスコーヒー)」も昭和35年以来の看板メニューです。なお、2020年には関東(ラゾーナ川崎プラザ内)にも二号店が出店し、同様のメニューを楽しめるようになりました。
基本情報
【住所】大阪府大阪市浪速区恵美須東3-4-15
【アクセス】地下鉄堺筋線・動物園前駅から徒歩約2分
【関連URL】https://sennariya-coffee.jp/
丸赤製菓糸田川商店
伸仁が悪知恵を働かせてウィスキー・ボンボンを手に入れるシーンで登場してもらいました。当時は40社ものボンボン専業メーカーがあったとのことですが、今ではこちら1社のみとなり、国内シェアの70%を担っています。
シャリジャリ食感の砂糖シェルとビターチョコレート、大人の香りのするウィスキーの相性は抜群です。また、中身はウィスキーだけでなくワインや日本酒、梅酒といったフレーバーのバリエーションもあります。チョコレートコーティングに適さない夏を中心にさわやかな味の「サマーボンボン(上に引用させていただきました)」も発売されているので、こちらもお試しください。
基本情報
【住所】大阪府大阪市東淀川区大桐5-1-20
【アクセス】今里筋線・瑞光4丁目駅から徒歩約10分
【関連URL】https://maruakaseika.co.jp/