宮本輝「長流の畔」の風景(その1)
「ハゴロモ」の立て直し
「長流の畔」は昭和38年の6月から始まります。「中古車のハゴロモ」の運転資金を横領されて事業規模の縮小を余儀なくされた熊吾は、複数の中古車店で共同の土地を借り、その借地料を得るという新しい商売を思いつきます。また、閉業しようとしていた「松坂板金塗装」には「パブリカ大阪北」の東尾修造が興味を示しますが・・・・・・
昭和38年6月12日の新聞から
「長流の畔」の冒頭は熊吾が新聞に通しているシーンです。
「ひとりの坊主頭の男が路上に坐ったまま火炎に包まれている写真があったので、松坂熊吾はハゴロモの鷺洲店の破れかけているソファに腰を降ろしながら見出しと記事を読むために老眼鏡を捜した。」
その記事のタイトルは「サイゴン市で僧侶が焼身自殺」というショッキングなものでした。
「南ベトナムのゴ・ディン・ジエム政権による宗教弾圧に抗議して、ひとりの仏僧がガソリンをかぶりみずから火をつけた」
出典:Malcolm Browne for the Associated Press, Public domain, via Wikimedia Commons
https://commons.wikimedia.org/wiki/File:Th%C3%ADch_Qu%E1%BA%A3ng_%C4%90%E1%BB%A9c_self-immolation.jpg
上に引用させていただいたのは、チック・クアン・ドック僧侶が炎の中に座る写真です。熊吾は新聞に掲載された師の写真をみながら、自分が部隊長として行軍していたときの無惨な情景を思い出していました。
東尾専務からの提案
「黒塗りのクラウンがハゴロモの前に停まり、後部座席から『パブリカ大阪北』の専務・東尾修造が降りてきた」
東尾がハゴロモに熊吾を訪ねてくるのは初めてのことで、相談したいことがあるといいます。
熊吾「どんな相談事ですかのお」
東尾「私の今後の身の振り方です」
熊吾「それなら、いまの私はお役には立てませんなァ。恥ずかしい事情があって、ハゴロモはいささか不如意な状況に陥っちょります。・・・・・・」
東尾「ハゴロモの噂はちょっと耳に入ってます・・・・・・手ぶらでお世話になろうなんて図々しいことは考えてません。私が松坂板金塗装をお預かりすれば、工場をいまよりも大きくして、職人も二、三人増やせます。その資金は、私からの手みやげです。・・・・・・」
熊吾「京都には、ちりめん山椒だけを売っちょる店があります。・・・・・・従業員もせいぜい三人か四人。そんな店が二百年も三百年も暖簾を守りつづけてきたんです。わしは、このハゴロモの鷺洲店に中古車を五、六台並べて、小商いに徹しておればよかったと後悔しちょります」
熊吾は暗に申し出を断りますが、東尾は近いうちに時間をつくって欲しいといって、専務専用車で立ち去りました。
下には昭和37年に発売された2代目クラウンの写真を引用させていただきました。こちらの後部座席にスーツ姿の東尾を置いてみましょう。
出典:群馬トヨタ公式サイト、CROWN、2代目(1962~)
https://www.gtoyota.co.jp/information/crown-special2022
閉業するつもりだった「松坂板金塗装」を東尾に任せることに、熊吾は乗り気ではありませんでしたが、「ハゴロモ」で熊吾の片腕として働いている黒木は興味を示します。
黒木「中古車を仕入れるために、私がえっちらおっちら歩きつづけられるのも、あと二、三年ほどじゃないかっちゅう気がしてきまして・・・・・・私が汗水垂らして仕入れてきた中古車が、玉木の馬券にごっそりと使われていたってわかったとき、私のなかから何かが抜けていってしまいよりまして・・・・・・」
「関西中古車業連合会」を再び
熊吾は中古車販売店「ハゴロモ」を立て直すために賃貸料の高い弁天町店を閉めようと考えました。閉める替わりに中古車を移動する場所が必要となります。ところが
「福島区、大淀区、此花区で開いている土地はないかと探し廻ってみたが、どれも狭すぎるか広すぎるか」
でした。
その広すぎる土地を中古車販売店や部品店の複数の会社で借り、まとめ役の熊吾が手数料を得るという案を思いつきます。そして、以前(「天の夜曲」の風景参照)、久保敏松の資金持ち逃げによって果たせなかった「関西中古車業連合会」のメンバーに誘いをかけました。
最初に訪問した河内モーター社長の河内佳男(懇意だった河内善助の甥)は「熊吾の持ちかけた話にすぐ乗った」とのこと。
熊吾「ヨシさんらが本気で動き出したら、あと十五社くらいが便乗してくるじゃろう。その時に関西中古車業連合会の法人登録をして旗揚げじゃ」
出店:写真AC、焼き餃子
https://www.photo-ac.com/main/detail/29688899&title=%E7%84%BC%E3%81%8D%E9%A4%83%E5%AD%90
河内佳男は中華料理屋に焼き餃子とチャーハンの出前を頼みます。
熊吾「ギョーザ?日本の中華料理屋でもギョウザを作るようになったのか?中国じゃああれは何かの祝い事のとき、夜に食うもんじゃぞ。・・・・・・白菜、ニラ、鶏肉と豚肉を刻んだのを、ぶ厚いギョーザの皮で包んで蒸すんじゃ。・・・・・・」
河内「へえ、油で焼くんやおまへんのか?そこの中華料理屋のは、皮を狐色に焼いたのを、ゴマ油と醤油を合わせたタレで食うんです」
熊吾「焼いたギョーザなんて、わしは上海におったころ一回も見たことはないがのお」
上には美味しそうな焼き餃子の写真を引用させていただきました。
土地の下見に
熊吾は「関西中古車業連合会」の同志とともに、借りる予定の土地の下見に行きます。その場所については
「玉川町の手前で国道二号線から外れて、市電のレールに沿って進んだ。西九条を過ぎて千鳥橋の交差点に来ると・・・・・・」「交差点を右折して橋を渡ってまた右に曲がった」ところとあります(新潮文庫版、P140)。
出典:国土地理院地図公式サイト、千鳥橋付近、1961年~69年
https://maps.gsi.go.jp/#17/34.686115/135.458618/&base=std&ls=std%7Cgazo3%7Cgazo2%7Cgazo1%7Cort_old10&blend=0000&disp=11111&lcd=ort_old10&vs=c1g1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f1&d=m
上には昭和36年から44年の間に撮影された千鳥橋(中央の十字マーク)付近の空中写真を引用させていただきました。西九条方面(東)から四貫島大通のルートを進むと、千鳥橋交差点を右折してすぐの橋は千鳥橋です。さらに右折するとあるので、予定地のモデルは写真右上の川の北岸あたりでしょうか。
また、下には昭和39年ごろに撮影された千鳥橋の写真を引用させていただきました。ここでは写真奥側の倉庫群の周辺に熊吾たちの姿を置いてみましょう。
出典:大阪市ホームページ、正蓮寺川にかかる千鳥橋の写真(昭和39年撮影)
https://www.city.osaka.lg.jp/konohana/page/0000434816.html
なお、昭和42年には写真に写っている正連寺川は埋め立てられ、現在は阪神高速2号線などが走っています。正連寺川が埋め立てられた理由の一つに高度成長期の公害による川の汚染が挙げられていました。「長流の畔(新潮文庫版・P41)」にも以下のような記述があります。
「自動車は市電の千鳥橋の停留所から小さな橋を渡ってすぐの川沿いの道に入った。地図を見ても川の名前はなく、どっちに流れているのかも見分けられない汚水のたまり場としか思えなくて、まだ六月中旬というのに川面にはメタンガスが大量の泡となって浮かんでいた」
敷地の整備
熊吾たちが借りる「大阪中古車センター」の予定地には川の汚染以外にも問題がありました。
「かつての門柱だけ残っていて、門扉も、それに代わる柵もない入口から工場跡地へと入ると、割れたコンクリート敷きの敷地に寝そべっていた十数匹の野良犬は、廃屋と化した工場の建物の向こうに逃げていった」
とあります。
ダテ自動車販売・伊達恭二「松坂さん、いまの野良犬は何ですねん?どれもこれも狂犬でっせ。ここはほんまに大阪の市内でっか?・・・・・・」
熊吾「狂犬かどうかはわからんが、野良犬を捕る専門家に頼んで始末せんことには、誰もここに近づけんのお。川沿いの道を誰も歩かんのは、あの野良犬に襲われるのが怖いんじゃろう。・・・・・・」
上には昭和38年ごろの野良犬捕獲作戦の様子を撮影した動画を引用させていただきました。野良犬に鶏が襲われたり農作物が荒らされたりする被害が全国各地で起き、睡眠薬入り肉団子などを使用して捕獲していたようです。
工場跡地の所有者によると「丹下甲治」という人物に頼めば犬の始末をしてくれるとのことでした。
佐竹善国
野犬のことで丹下甲治を訪ねると「大阪中古車センター」の管理人として佐竹善国という42歳の男を雇ってくれと頼まれます。丹下によれば「戦地で右腕をなくした」とのこと。工場跡の下見をした熊吾が、電気と水道、便所がないのであきらめるしかないと考えていると、彼が子供を連れてやってきます。
佐竹「松坂さんでしょうか」
熊吾「丹下さんが紹介してくださったかたですかな?」
佐竹「はい、佐竹といます。工場の様子を見てくるようにと丹下さんに頼まれまして」
佐竹の子供たちに向かって
熊吾「おふたりは、名前はなんちゅうのかの?わしは松坂熊吾じゃ。クマさんじゃ」
女の子の名前はリサコ、男の子はセイタと答えます。
熊吾「せっかく来てくれたんじゃが、ここに中古車センターを造るのは無理じゃっちゅうことがわかりましてお。・・・・・・」
そして、熊吾が佐竹にその理由を説明すると、電気は来ているし、便所も使えるようにできる、水道も隣のパルプ工場の水を使わせてもらえるとのこと。佐竹に任せればこの場所で営業ができると判断します。
熊吾「よし、クマさんの自動車に乗れ。かき氷を食べにいくぞ」
「熊吾は商店街の手前の古い長屋が並ぶ一角に自動車を止め、リサコとセイタの手をひいて、かき氷屋へと歩いた」
出典:大阪市公式サイト、大阪市此花区役所 まちづくり推進課総合企画グループ、四貫島商店街には日本劇場と四貫島ブラザーズ劇場があった(昭和33年ごろ)
https://www.city.osaka.lg.jp/konohana/page/0000001397.html
千鳥橋駅周辺には複数の商店街がありますが、上には四貫島商店街の昭和33年ごろの写真を引用させていただきました。以下、商店街の様子を抜粋してみます。
「水道工事屋、電気工事屋、履物屋、質屋、ホルモン焼き屋、酒屋と立ち飲み屋、駄菓子屋、荒物屋、金物屋、うどん屋、八百屋、肉屋・・・・・・。それら小さな店の並び方には、どこか懐かしいものがあって、熊吾は戦後すぐの闇市を思い出した」
上に引用させていただいたのは昭和21年ごろの梅田の写真です。小さなお店が軒を並べ、買い物をする多くの人で賑わっています。熊吾の頭の中に浮かんでいたのはこちらのような風景だったでしょうか。
誕生日祝いは油絵道具?
高校2年生になった伸仁の趣味は絵画でした。田岡と佐古田の会話に「ノブちゃん」という言葉が聞こえたので、気になって話に割り込みます。
佐古田「・・・・・・いまは画家をめざして修行中らしいで」
房江「そうですねん。ことしの誕生日に油絵の道具を買うてくれって。絵なんか描いてる場合やあらへん、受験勉強はどうなってんのんて言うたんですけど・・・・・・」
佐古田「さっき、田岡がノブちゃんの描いた絵を見せてくれたんや。・・・・・・あれは何や?ただの土の道に石ころが転がってて、雑草がしょぼしょぼっと生えてるだけだがな。絵描きになるのはあきらめさせたほうがええで」
上に引用させていただいたのはその「道路と土手と塀」という絵です。大正時代の東京・代々木の日常風景とのことですが、土の盛り上がりや周辺の雑草などに生命力が感じられます。
房江「岸田劉生っていう画家の絵を模写したそうですねん」
佐古田「モシャ?何やそれは」
房江「絵をそのまま真似して描くらしいんです。三ヵ月かかって完成させたのが、あれ。『道路と土手と塀』っていう題の絵らしいんです」
田岡「塀?ああ、あの左側のいびつな三角定規みたいなんが塀ですか。塀には見えへんなァ」
佐古田「だいたいやなァ、道路と土手と塀なんか描いてどなんすんねん。ノブちゃんの絵を見て、わしは久しぶりに笑たで。・・・・・・」
松田の母
房江がシンエー・モータープールで掃除をしていると
「茶色のレースのツーピースを着て、日傘をさした六十歳くらいの女が、さっきから正門の前を行ったり来たりしながらモータープールの事務所のなかを見ている・・・・・・女は房江が近くに来るのを待っていたかのように少し吊り上がった目を注いで、あなたは松坂さんかと訊いた」
その女は熊吾が借金の返済を延滞している松田茂の母でした(満月の道の風景その3・参照)。房江とともにモータープールの事務所に行くとこう切り出します。
松田の母「みなさん、くつろいでられるのにすまんことですが、私をえげつない金貸しやと誤解せんでつかあさい・・・・・・岡山のちっさな港町から来ましたで。私は松田です。松坂さんの口車に乗せられて、こんな母親の老後の命金を用立てした松田茂は、私の長男じゃがなァ・・・・・・みなさんも、松坂熊吾っちゅう人の非道ぶりを聞いてつかあさい・・・・・・私がどんなに苦労して、ふたりの子をそだてたがとなァ。女がリアカーを曳いて二十五年間も魚の行商をやりつづけたら、どんなに体がぼろぼろになるかをなァ」
出典:海と日本プロジェクト公式サイト、庄内浜の歴史と食文化を支えてきた「アバ」ちゃん
https://terroir-shonaihama.jp/202312011516/
上には山形・庄内浜の魚行商人の写真を引用させていただきます。リアカーでの販売だけでなく、魚の仕入れから処理、加工までをひとりでこなしていたとのことで、早朝から深夜までの重労働でした。
松田の母は「熊吾の非道ぶり」を事務所にいた佐古田や田岡などに訴えようとしますが、彼らは房江に気を遣って早々に去って行きます。張り合いをなくした松田の母は
「あんたと話してもおえんことじゃ。また来ますけェ・・・・・・」
といって帰っていきました。
旅行などの情報
餃子舗珉珉(南千日前本店)
河内モーターの社長が焼きギョウザの出前をとる場面がありますが、こちらのお店も焼餃子を日本に広めたお店の一つです。当時高価だったニラの代わりにニンニクを入れているのも創業者の発想とのこと。「長流の畔」でも
「ニラは高いんです。そやから、こないだからニラを使うのをやめて、ニンニクにしはったんです」
と河内社長にいわせる場面があります。
上には、熊吾たちが注文していたチャーハンと餃子の写真を引用させていただきました。
基本情報
【住所】大阪府大阪市中央区千日前2-11-25
【アクセス】南海・難波駅から徒歩約5分
【関連URL】https://www.minminhonten.com/
千鳥橋駅前の商店街
熊吾が佐竹の子供たちにかき氷をふるまうシーンで登場した商店街です。当時の千鳥橋駅には尼崎との間をむすぶ「伝法線」という路面電車が走り、発着駅でもあったため賑わいを見せていました。
現在でも駅周辺には「四貫島商店街本通り」や「四貫島森巣橋筋商店街」、「千鳥橋筋商店街」などがあり昭和の雰囲気を残す建物も数多く残っています。下には「四貫島商店街本通り」の人気店・魚庭さん周辺のストリートビューを引用させていただきました。
なお、同じ此花区にはユニバーサル・スタジオ・ジャパンや2025年の日本国際博覧会会場が予定されている「夢洲」もあるなど、新旧のスポットが混在しているのも面白いところです。
基本情報
【住所】大阪府大阪市此花区四貫島1丁目8(四貫島商店街本通り)
【アクセス】阪神なんば線・千鳥橋駅から徒歩約1分
【関連URL】http://www.konohanavi.net/