宮本輝「長流の畔」の風景(その2)
熊吾の浮気が発覚!
熊吾は「松坂板金塗装」を元パブリカ大阪北・専務の東尾修造に売り、松田への借金を完済します。「大阪中古車センター」は軌道に乗ってきますが、愛人との関係を房江に知られ私生活の面では破綻をきたすことに・・・・・・。熊吾たちの姿を追いつつ、キング牧師の有名な演説や、建設ラッシュだった「文化住宅」についても触れていきましょう。
伸仁は伊豆旅行へ
高校2年の夏、伸仁はアルバイトでためたお金で、友人と二人で一週間ほどの伊豆旅行に出かけます。伸仁の残していった旅程は以下のようなアバウトなものでした。
「一日目、朝、三島着、大仁へ。大仁ユースホステル泊。
二日目、大仁から修善寺へ。修善寺のユースホステルは満員で予約出来ず。どこかで寝るか、バスで湯ヶ島へ行くかも。
三日目、修善寺か湯ヶ島からバスで天城峠へ。どこかで野宿。
四日目、湯ヶ野のユースホステルも満員。どこかで野宿。
五日目、蓮台寺へ。宿泊OK。
六日目:下田へ。宿泊予約出来ず。
七日目:バスで城ケ崎へ。気分次第で熱海まで行くかも。七日間か八日間の予定。以上。」
「ユースホステル」は相部屋というのが基本で消灯時間などの制限はありますが、安く泊まれるため人気が高く、夏休みともなると宿泊予約が難しい状況だったようです。
上に引用させていただいたのは伸仁が旅行した時代のガイドブックの写真です。伸仁もこちらのようなガイドブックを持参しスタンプラリーを楽しんでいたかもしれません。
連絡もせずに旅程より三日遅れて帰宅した伸仁は熊吾たちに叱責されますが、疲れのため早々に寝てしまいました。
熊吾「なにが以上じゃ。野宿ばかりやないか。野宿なんかしちょったら交番所に引っ張っていかれるぞ」
房江「いまごろなにを言うてるのん。もう帰って来てるのに。ノブが出て行く前に読めへんかったん?」
佐竹の子供たち
佐竹善国の子・理沙子と清太(長流の畔の風景その1・参照)は熊吾になつき、大阪中古車センターに遊びにくるようになっていました。8月下旬のある日、大阪中古車センターの門柱に隠れるようにして顔だけ見せている子供たちに対し
熊吾「そこに隠れちょることはわかっちょるぞ。クマさんはなんでもお見通しじゃ。こっちへ来い。アイスクリームを買うちゃるけん。」
そして、子供たちにアイスクリームを買うためのお金(100円札)を渡します。
熊吾「アイスクリームを三つじゃ。帰り道に歩きながら食べちゃあいけんぞ。ここに戻ってから食べるんじゃ。車に気をつけるんじゃぞ。信号を見て交差点を渡るんじゃぞ。わかったな?」
上には昭和時代のアイスクリームの写真を引用させていただきました。理沙子が「小さな木の匙を清太のシャツの胸ポケットから出した」とありますので、子供たちが買ってきたのは「バニラブルー」のようなカップアイスだったと思われます。ここでは、子供たちがカップアイスのふたについたアイスを舐めてから食べ始める様子をイメージしてみましょう。
また、熊吾から連絡を受けた房江がやってきて、松田の母への借金の残りを受け取ります。
「熊吾は、これは東尾に松坂板金塗装を売った金だと言いながら、封筒から十万円を抜き、四十万円を房江に渡した」
房江「会社を売ったん?」
熊吾「ああ、松坂板金塗装は東尾修造のもんじゃ。しかし、会社の定款上では、一年間はわしが社長っちゅうことになる」
房江「責任は全部社長にかかってくるんやろ?」
熊吾「まさか一年で松坂板金塗装をつぶしゃせんじゃろ。東尾の第二の人生が懸かっちょる。わしがその条件を飲んだから、この五十万円があるんじゃ。あの松田のばばあの顔に叩きつけちゃれ」
借金を返しにいった房江は松田の母から熊吾の浮気の噂を聞かされることに!また、後々、熊吾には松坂板金塗装の社長としての責任が重くのしかかります。
東尾社長への不信感
房江が心配したように松坂板金塗装の社長となった東尾修造には、経営者として不安な部分が多々ありました。
一つは女性問題です。「パブリカ大阪北」を東尾と同時期に辞めた島本奈緒子という若い社員を「松坂板金塗装」の経理として雇ったことを耳にした熊吾は、以下のような推測をします。
熊吾「家庭のある専務が若い女子社員とねんごろになって、それが会社中に知られて、辞めるしかなくなったんじゃ。柳田元雄も引導を渡すしかなかったんじゃろう・・・・・・愛人を自分の会社で雇うて給料を払うような経営者を信用できるか?」
出典:松下モータース公式サイト、1979年11月3日の折込チラシ-いい色いろいろ
https://www.ecar.co.jp/sizuoka1979-11-03.html
また、東尾の仕事のやり方についても熊吾は危うさを感じていました。熊吾は自社の「ハゴロモ」では良質な中古車を扱うことを心がけていました。上には中古車広告の例として1979年の松下モータース様の広告を引用させていただきました。こちらは車両やアフターの保証もあると明記されているので安心して購入ができそうです。
ところが、東尾は「島田ユーズドカー」という安さが売りの中古車屋から事故車の板金塗装も請け負います。
「気に入らんのお。売るのは確かにその島田ユーズドカーじゃが、松坂板金塗装が、死人がでるほどの事故を起こした車の板金塗装を引き受けるのは気に入らん」
「素人には区別がつかなくても、乗ってみればわかる。・・・・・・買い手は『安物買いの銭失い』だったと気づくのだ。・・・・・・松坂板金塗装の信用はたちまち失墜する」
キング牧師の演説
熊吾は市電のなかで忙しくて二十日間ほど読めなかった新聞や週刊誌をまとめ読みします。新聞で目にとまったのは「マーティン・ルーサー・キング・ジュニアという黒人牧師の名、ワシントン大行進という見出し」でした。
「人種差別撤廃と雇用拡大を求めて十万人以上が参加」という小見出しが付けられています。
下には新聞などに掲載されたと思われるキング牧師の演説中の写真を引用しました。
出典:David Erickson, CC BY 2.0 https://creativecommons.org/licenses/by/2.0, via Wikimedia Commons
https://commons.wikimedia.org/wiki/File:Martin_Luther_King_Jr._-_I_Have_A_Dream_Speech.jpg
興味をもった熊吾が週刊誌を開くと、以下のような演説の骨子が記されていました。
「私には夢がある。ある日、ジョージアの赤土の丘の上で、以前の奴隷の息子たちと以前の奴隷所有者の息子たちが、兄妹愛というテーブルにともに着き得ることを。私には夢がある。ある日、不正と抑圧という熱で苦しんでいる不毛の州、ミシシッピーでさえ、自由と正義というオアシスに変わることを。私には夢がある。私の四人の子供たちがある日、肌の色ではなく人物の内容によって判断される国に住むことを。」
ここでは演説の内容に深い共感を抱き、何度も記事を読み返す熊吾の姿を想像してみます。
サクラ会・丹下甲治
熊吾はある日、野犬を追い出してくれたサクラ会・丹下甲治から食事の誘いを受けます。「サクラ会」をヤクザの組織と憶測した熊吾が、初めて丹下と対面したときの印象は以下のようでした。
「テキ屋か沖仲仕の元締めのような男で、背中一面から二の腕にかけて刺青を掘り込んでいるかもしれないと覚悟していたので、熊吾は丹下甲治の、いなかの小学校の校長に似た穏やかな笑顔に拍子抜けしてしまった」
丹下は「食用油の卸し問屋」の本業の傍ら、「サクラ会」という貧しい家の子供に教育を受けさせ就職を斡旋することを目的とした互助会の責任者もしているとのこと。
彼は熊吾のために人気の天麩羅屋を予約してくれていました。
「天つゆの皿と大根おろしの入った中鉢がカウンターに置かれた。『おまかせコース』というのが出てくるらしかった。」
お店の主人は海老や玉葱、キス、しし唐、穴子と食べる速度に合わせて揚げてくれました。
下には大阪で人気の天ぷら店「廣長」さんの料理の写真を引用させていただきます。
以下には、天麩羅屋での丹下と熊吾の会話を抜粋してみましょう。
丹下「(佐竹善国は)二十歳を過ぎたころまで軽い吃音でして、軍隊では底意地の悪い上官にいじめられたんです」
熊吾「自分には一生縁がないと思うちょった権力を与えられると、弱い者をいじめとうなるんですな。軍隊は、そういう人間をぎょうさん作りました。・・・・・・」
丹下「自分がえらそうにできる相手は家族だけやったんです。肩を聳やかせられる相手は女房と子供だけ。・・・・・・えらくなろうとしても、えらくなれなかった男どもは、ちょっとしたことで女房に暴力を振るうんです」
房江に対しての暴力を思い出し、熊吾は以下のような考えをめぐらしていました。
「戦前の全盛期に松坂商会の社長として多くの社員や商売仲間から大将と慕われ、関西経済界の重鎮と親交を深めていても、俺はいつも所詮は成り上がり者と思われているだろうという意識を捨てられなかった。・・・・・・学閥、財閥、軍閥、派閥、門閥。これらの壁は大きく立ちはだかって、俺はそのどれとも縁がなかった。これまでそんなことを考えたこともなかったが、意識下では、劣等感がつねにくすぶっていたのかもしれない」
文化住宅を内見
熊吾のシンエー・モータープール管理人としての契約期限が迫ってきました。房江は新しい引っ越し先を探し、気に入ったところを内見させてもらいます。
周旋屋「いまはやりの文化住宅っちゅう物件です」
下には「文化住宅」についての説明文を引用しました。
近畿地方における集合住宅の呼称[2]。分家住宅とも書いたりする。
1950年 – 60年代の高度経済成長期に使われ始めた用語で[2]、主として当時に建てられた瓦葺きの木造モルタル2階建てで、1 – 2階の繋がったメゾネット、あるいは各階に長屋状に住戸が並んだ風呂なしアパートを指す[3]。
出典:ウィキペディア、近畿地方の集合住宅としての文化住宅
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%96%87%E5%8C%96%E4%BD%8F%E5%AE%85#%E8%84%9A%E6%B3%A8
「文化住宅」を内見した房江は、風呂のスペースがあるにもかかわらず、借りた人が風呂を取り付けることに納得がいかない様子です。「文化住宅とはどういう住宅なのか」と周旋人に問いただします。
周旋屋「二階建てで、水洗便所で、台所にテーブルを置くと、そこで飯が食えるという広さで・・・・・・」
房江「お風呂が付いてる?」
周旋屋「風呂が付いてるとこもあれば、ついてないとこもおます」
房江「お風呂がない家を文化的とは言われへんと思うんですけど・・・・・・」
強気に出る房江ですが・・・・・・。交渉の結果はどうなったでしょうか。下には文化住宅の例を引用させていただきました。
出典:Akiyoshi’s Room, Public domain, via Wikimedia Commons
https://commons.wikimedia.org/wiki/File:%E6%96%87%E5%8C%96%E4%BD%8F%E5%AE%85PA211864.jpg
フライはアジの定番料理ではない?
文化住宅を内見したあと、房江は佐竹善国の妻が働いているという鮮魚店を訪問します。佐竹の妻・ノリコに自己紹介をした後に「テレビの料理番組で習ったままでいちども作っていないあじのフライを今夜のおかずにしてみよう」と考えた房江は「あじをフライにしたいのだが」といいます。
「フライですか?天麩羅やのうて?」と返す佐竹の妻。現在でこそアジ料理の定番となっていますが、当時は天麩羅が主流だったようです。
当時放送していた料理番組はNHKが昭和32年放送開始の「今日の料理」や昭和37年開始の「キユーピー3分クッキング」などでした。上には「キユーピー3分クッキング」の写真を引用させていただきます。ここでは、このような番組を見ながらアジフライのレシピをメモする房江の姿をイメージしてみましょう。
熊吾を尾行
十月二十七日の日曜日、房江がモータープールの掃除をしていると、熊吾が背広を着て階段を降りてきます。
房江「えっ?でかけるのん?」
熊吾「ああ、昼から京都のディーラーと逢う。その前に病院に寄って行くけん」
房江は
「日曜日なのに病院に行くと嘘をついた夫の行先がどこなのか、あとをつけてみたくなった」
とあります。
熊吾の愛人・森井博美は玉川町にあるアパートの二階に住んでいました。上には昭和の風情が残る玉川西公園付近のストリートビューを引用させていただき、こちらの並びのどちらかの家を博美のアパートに見立ててみましょう。
熊吾はアパートの2階に上がって行きます。
熊吾「わしじゃ」
博美「お父ちゃん、おかえり」
近くの電柱に隠れて見ていた房江はアパートの階段をのぼり、ドアを叩きます。
房江「松坂の家内です。ドアをあけてください。・・・・・・あけてくれへんねんやったら、ずっとドアを叩きつづけます」
すると、熊吾がドアを開けます。
熊吾「ふたりだけで話そう。そこに公園があるけん」
修羅場は続きますが・・・・・・
旅行などの情報
天ぷら・廣長
熊吾がサクラ会・丹下甲治の会食の場面で天麩羅料理を引用させていただいたお店です。創業は昭和26年ですので「長流の畔」の時代には既に営業をしていました。天ぷらは注文を受けてから揚げるスタイルで、まろやかな旨味や贅沢な味わいを堪能できる綿実サラダ油を使用するなどのこだわりがあります。
昼夜二部制で昼は上に引用させていただいた「びっくり天丼」が名物になっています。夜は熊吾と丹下のように、お酒を飲みながらゆったりと天ぷらコースを味わってみてはいかがでしょうか。
基本情報
【住所】大阪府大阪市中央区本町橋6-12
【アクセス】堺筋本町駅から徒歩約5分
【参考URL】https://kana0max.wixsite.com/hirochou
森永エンゼルミュージアム・MORIUM
熊吾が佐竹の娘たちにアイスクリームをおごる場面ではレトロなアイスクリームの写真を引用させていただきました。他にも懐かしいお菓子が見たい方には2022年にオープンした森永エンゼルミュージアムがおすすめです。見学は予約制で料金は無料となっています。
ヒストリーエリアでは懐かしい森永商品のパッケージや広告などを展示、上に引用させていただいたように歴代の「おもちゃのカンヅメ」コーナーも人気です。見学ツアーでは「小枝」などの製造ラインのある森永・鶴見工場にも立ち入ることができます。ミュージアムショップもあるのでお好みのオリジナルグッズを探してみてください。
基本情報
【住所】神奈川県横浜市鶴見区下末吉2-2-1
【アクセス】JR鶴見駅からバスに乗りかえ「森永工場前」で下車
【参考URL】https://www.morinaga.co.jp/factory/tsurumi/